第8章 商いと誘惑
朝日が昇り始める。
まだ霧の深い街の上空に、淡い光が差し込んでいた。立ち昇る水蒸気が木造家屋の屋根を伝い、軒先で氷柱となって垂れ下がっている。
領地の朝は早い。住民たちに寝坊の習慣はない。少しでも早く働き始めれば、それだけ収入が増えるからだ。
錬金工房『ガジュマルの洞穴』も例に漏れず、早朝から看板を掲げ、ポーションを求める冒険者や商人たちを迎えていた。
「あの虎の皮……」
昨晩は聖カ村の廃屋で一夜を明かし、約束通り店を訪れた天裂。
彼が店に入るなり目にしたのは、壁のショーケースに飾られた見覚えのある虎の毛皮だった。
「あ、それ? 兄さんが竜の腹から引っ張り出したって言ってたわ」
命の恩人の来店に、エリーは機嫌よく解説を始めた。
「兄さんったら、ここ数日で貯金を使い果たしちゃったから、少しでも足しにしようと思って飾ってるの。物好きな金持ちが買ってくれるのを待ってるってわけ」
「……高く売れるといいな」
レドの貯金が消えた理由(=天裂の保釈金と指輪)を知っているだけに、天裂は気まずそうに視線を逸らし、話題を変えた。
「で、あんたには『手ぶらで来い』って言ったのに、その大荷物は何?」
エリーは天裂が肩に担いだ重そうな麻袋を指差した。
「昨日の帰り、死体から剥ぎ取ってきた」
天裂はドサリと麻袋をカウンターに置いた。袋の口が開き、中から雑多な戦利品が覗く。
「どうせ持ち主はもういねぇんだ。捨てとくのも勿体ないだろ。金になりそうなモンを選んでくれ」
天裂にとって、死人の所持品と野生の木苺は同義だ。死体は文句を言わない。これは窃盗ではなく、資源のリサイクルである。
「防具に、武器……」
検品しながら、エリーは呆れたように笑った。
「あなた、墓荒らしよりも稼ぐのが早いわね」
一通り査定を終えると、エリーは電卓(のような魔道具)を弾き、提案した。
「ウチじゃこんなに買い取れないけど、市場に流せばそれなりの値になるわ。私が捌いてあげる。……手数料として二割もらうけど、いい?」
「二割?」
「世の中にタダのランチはないわよ。でも、命の恩人だから特別割引価格にしてあげる」
「妥当だな。頼む」
金策に困っていた天裂にとっては渡りに船だ。エリーの手腕に任せることで、当面の生活費は確保できそうだ。
「で、俺にくれる『防犯グッズ』ってのは?」
商談という名の小休止を終え、天裂は単刀直入に切り出した。
「父の遺品よ。ちょっとしたガラクタだけど」
エリーはカウンターの下から、埃を被った木箱を取り出し、慎重に天裂の前に置いた。
「気に入ってくれるといいんだけど。……あと、これもおまけ」
彼女は棚から数本の小瓶を取り出し、木箱の横に並べた。
「回復ポーション、体力ポーション、魔力ポーション。それと……この青いのは雪原蜘蛛の毒腺から抽出した『氷結毒』よ」
天裂は木箱の埃を払い、蓋を開けた。
中には、幽玄な青い光を反射する、金糸で刺繍された上質な黒の法衣が収められていた。
「……高級品じゃねぇか」
天裂は箱を閉じて突き返した。
「受け取れねぇよ。高すぎる」
「父は昔、オリ教区の神官だったの。残念ながら私と兄には魔法の才能がなかったけどね」
エリーは寂しげに、しかしはっきりと言った。
「母の形見は渡せないけど、このローブはあなたに使ってほしいの。安心して、父は収集癖があったから、似たようなのが家に山ほどあるのよ。一着くらい減ってもバチは当たらないわ」
「そういうことなら……」
これ以上断るのは野暮というものだ。天裂はありがたく受け取ることにした。
「あ、言い忘れてたけど」エリーが付け加えた。「その氷結毒は武器に塗って使うのよ。間違っても飲まないでね」
「言われなきゃ晩飯の調味料にするところだったよ」
天裂が冗談を返すと、エリーはコロコロと笑った。
「そういえば、兄貴はどうした? 姿が見えねぇが」
店内を見回してもレドの姿がない。
「ハメ領の領主様が、国王陛下に白竜討伐の件を報告したでしょ? そのせいで国中が大騒ぎよ。『厳戒態勢を敷け』って王命が下ったの」
エリーはカウンター越しに身を乗り出し、物資を整理していた天裂の手に、自らの手をそっと重ねた。
「兄さんは他の兵士たちと偵察に出かけたわ。……夜遅くまで帰ってこないそうよ?」
彼女の声色が、甘く、艶めかしいものに変わる。
「ねえ、私たち……」
「あー、そうか。大変だな」
天裂はサッと手を引っ込め、何事もなかったかのように荷物をまとめ始めた。
「俺もそろそろ行くわ」
英雄、色を好むとは言うが、生憎と自分は英雄でもなければ、そんな気分でもない。ただの悪鬼だ。
エリーの誘いは魅力的だが、前世であまりに酷い目に遭いすぎた。今の彼には、色恋沙汰を楽しむ余裕も性欲も湧いてこないのだ。
(もしかしたら、将来は……?)
世の中に絶対はない。
いつかこの心の傷が癒え、ハーレムを作るような日が来るかもしれないが……
ま、今は御免だ。復讐という特大のしこりが残っている以上、どんな誘惑も響かない。
「……つまんないの」
エリーは頬を膨らませた。
だが、完全に諦めたわけではない。彼女の人生で初めて現れた「白馬の王子様」なのだ。そう簡単に逃がすつもりはなかった。
これからは盗品の売買という接点もある。チャンスはいくらでもあるはずだ。一度でダメなら二度、二度でダメなら三度。いつか必ず陥落させてみせる。
背を向けて去っていく天裂に、エリーは投げキッスを送った。
それは求愛であり、戦場へ向かう彼への祝福でもあった。
店を出た天裂は、地図を広げて次の目的地を確認した。
「裏道を使ったほうが早そうだな……」
レドから貰った地図を片手に、脳内で侵入ルートを構築する。
死ぬことは怖くないが、服が破れるのは怖い。
戦闘のたびに全裸になるのは御免だし、何よりこの新品のローブを台無しにしたくない。貧乏性の悲しい性だ。
「この道具も全部は使わねぇな。一旦戻って整理するか……」
エリーから貰ったローブを小脇に抱え、天裂は城門の外へと歩き出した。
その時だった。
脳内に直接、あの粘着質な声が響いてきたのは。
『来い、我が戦士よ……祭壇にて待つ……』




