第3章 暴食
極寒の風が吹き荒れる中、白竜は空に盤踞していた。
それは単なる野獣ではない。
氷のように冷たい青色の縦瞳には、下等生物を見下す知性と蔑みが宿り、全身には肉眼で見えるほどの火の輪が揺らめいている。
舞い落ちる雪は、その熱に触れる前に蒸発し、雨粒となって降り注いでいた。
天裂は理解していた。
これは圧倒的な格上との死闘だ。
唯一の勝機は、深淵由来の、自分自身ですら恐怖を感じるこの奇怪な体質のみ。
戦端を開いたのは白竜だった。
ゴオオオオオッ!!
普通の火炎ではない。
胸腔を大きく膨らませた竜が吐き出したのは、全てを灰燼に帰す破滅のブレスだ。
周囲の空気が瞬時に焼き払われ、地面は一瞬にして焦土と化した。
天裂はその衝撃を正面から受け止めた。
血管の中で血液が沸騰し、魂さえも焼き尽くす業火に抗う。
皮膚が瞬く間に炭化し、骨を削るような激痛が突き抜ける。
(近づかなければ……!)
天裂は自ら掌の肉を引き裂き、煮えたぎる血液を溢れさせた。
だが、闇雲に空へ投げつけることはしない。
第二波のブレスを紙一重で回避しながら、その沸騰する血を周囲の岩や枯れ木に塗りたくったのだ。
ジュワァアアア!!
地面に触れた血液は冷却されるどころか、強酸のように激しく発煙し、空間を歪めるほどの黒煙を昇らせた。
竜の目に、微かな困惑と警戒の色が走る。
その一瞬の隙を見逃さず、天裂は黒煙を煙幕にし、狭い氷の谷へと疾走した。
「ギャオオオオオッ!!」
意図を見抜いた白竜が、怒りの咆哮を上げる。
巨大な翼が一振りされると、その巨体は矢のように急降下し、剃刀のような爪が天裂の背中へと迫る。
死の淵で、天裂は急反転した。
自身の血に塗れた両手を、渾身の力で竜へと振り払う!
咄嗟に回避行動を取る白竜。攻撃の足が止まる。
好機!
天裂は退くどころか、滑空してくる巨体へと自ら飛び込んだ。狙うは、強固な鱗に覆われていない、翼の関節部だ!
だが、腐っても竜。その戦闘本能は凄まじい。
白竜は強引に身体を捻り、その分厚い鱗で天裂に体当たりをかました。
ドゴォォォン!!
「ぐはっ……!」
巨岩にぶつかったような衝撃。
天裂の体は氷の上を無様に転がり、鋭利な鱗によって全身を切り刻まれた。
骨が見えるほどの深い傷。ただの切り傷とは訳が違う。
だが、その激痛こそが神経を研ぎ澄ませた。
彼は痛みをねじ伏せ、巨大な体躯ゆえに体勢を崩した白竜の懐へ潜り込む。
そして、その掌を、翼の付け根へと死に物狂いで押し当てた!
「燃えろォオオオオオッ!!」
沸騰する血液が掌から奔流となって溢れ出し、焼きごてのように竜の肉へと食い込む。
「ギョオオオオオオオオオッ!!」
天地を揺るがす絶叫。
それはもはや威厳ある咆哮ではなく、ただの悲鳴だった。
血肉を腐食し焼かれる激痛に平衡感覚を失い、巨体が地面に叩きつけられる。
ズズーンッ!!
翼を焼かれ、空の王者は地に堕ちた。
チャンスは一度きりだ。
天裂は迷わず竜の背へとよじ登った。
自分の血が焼き焦がした、深紅の溝を足場にして。
白竜は狂ったようにのたうち回り、背中の蟻を振り落とそうとする。
だが天裂は、骨に食らいつく蛆のように、鱗の隙間に指を突き立ててしがみついた。
一番硬い鎧の下には、必ず一番柔らかい急所があることを知っているからだ。
ついに、彼は竜の頭上へと辿り着いた。
白竜と目が合う。
かつての傲慢さは消え失せ、そこには底知れぬ恐怖だけがあった。
こんなにも狂気じみた、殺しても死なない生物など見たことがないのだ。
天裂は、二度と空を飛ばせないよう、その両手を白竜の巨大な眼窩へと突き刺した。
ブチュウゥゥゥッ!!
華麗な勝利などない。あるのは野蛮な略奪のみ。
天裂は視神経を乱暴に引きちぎり、巨大な眼球をえぐり出した。
味わう暇などない。彼は大口を開け、それを丸ごと貪り食った。
一口、また一口。
生きたまま、竜を食らう。
ドクンッ!!
瞬間、混沌とした情報の奔流が脳内に雪崩れ込む。
巨竜の生涯の記憶。空を駆ける孤高。弱者への蔑み。そして、死に際しての無限の恐怖と怨念。
「う、ぐあああああっ!!」
頭が割れるような精神衝撃。魂が引き裂かれる感覚。
万物には代価がある。
この力の吸収は、精神を削り合う残酷な儀式だった。
竜の死体の横で、天裂は苦痛に身を縮こまらせた。
皮膚の下で無数の蛇が這い回るような感覚。体温は業火のように熱く、次の瞬間には絶対零度のように冷え込む。
ピキッ、ピキキッ……。
皮膚を突き破り、金属光沢を帯びた細密な鱗が生え始める。
瞳孔は縦に裂け、爬虫類のような冷たい光を宿していく。
脱胎換骨の激痛に耐えながら、意識は正気と狂気の狭間を揺れ動く。
この力が、自分をさらに深い「人外の深淵」へと押し流していくのがわかった。
――その時。
プォオオオオオオ……
遠くから微かだが鮮明な角笛の音が、雪原の静寂を破った。
ヒュンッ!
雲を切り裂き、一本の矢が天裂の足元に突き刺さる。
ハッと我に返り、天裂はよろめきながら立ち上がった。
状態は最悪だ。力は安定せず、異形の姿に変貌しつつある体は極度に衰弱している。
彼は足元の矢を引き抜き、鏃をへし折って握りしめると、とっさに巨竜の腹の中へと身を隠した。
偽装のためではない。野生の直感、警鐘を鳴らす本能に従ったのだ。
やがて、地平線に一支隊が現れた。
整然とした隊列、洗練された装備。烏合の衆ではない。正規軍だ。
彼らは領主の命を受け、悪竜を他領へと誘導する囮部隊だった。
人と竜の戦力差は歴然。これは事実上の特攻任務だ。
誰もが死を覚悟していたが、領主の命令には逆らえず、せめて行軍速度を落として死期を先延ばしにしていたのだ。
だが、彼らが恐る恐る近づいた先にあったのは――
腹を食い破られ、無残な死骸と化した巨竜の姿だった。
「な、なんだこれは……」
恐怖が軍全体に伝染する。
あの最強の生物が、これほど残虐な方法で虐殺されているなど、誰が想像できただろうか。
現場を確認していた目ざとい弓兵が、折れた矢の残骸を見つけた。
それは先ほど、彼が威嚇のために放った矢だった。
彼は眉をひそめる。自分たちが到着する直前に、ここで理解不能な何かが起きていたのだ。
「おい! あそこを見ろ!」
突然、一人の兵士が竜の腹の大穴を指差して叫んだ。
全員の視線が集中する。槍と盾が一斉に、その暗黒の穴へと向けられる。
数十の警戒と恐怖の視線の中。
天裂は変異を必死に抑え込み、血まみれの体で、最後の力を振り絞って竜の死骸から這い出した。
言葉はわからない。
見えるのは、恐怖に引きつった兵士たちの顔と、自分の喉元に向けられた無数の冷たい刃だけ。
隠蔽工作など無意味だった。
圧倒的な数の暴力と、意思疎通不能な現実の前では、あまりに無力だった。




