第2章 獲物と捕食者
刃のような寒風が、天裂の全裸の肌を切り裂き、痙攣にも似た戦慄を走らせる。
だが、こんなものは痛みですらない。
記憶の中で触れた、家族の遺体の冷たさに比べれば。
指先から心臓まで凍りつくような、あの死の感触が、今も彼の魂を繰り返し刺し貫いていた。
瞼の裏に、あの肥え太った偽善者の顔が浮かぶ。
いや、死の恐怖に歪んだ顔ではない。
今この瞬間、あの生き残った畜生は、暖炉のある部屋で美酒に酔いしれ、世間からの同情と称賛を浴びているのだろう。
あるいは、身の程知らずのネズミだった自分を嘲笑っているかもしれない。
「生きてる……テメェはまだ、のうのうと生きてやがる……ッ」
天裂は奥歯が砕けるほど噛みしめた。喉から絞り出される言葉は、まるで血塊のようだった。
灼熱の憎悪が胸の奥から噴き出し、極寒の冷気に対抗する。
彼は視線を落とし、自身の胸を見た。
そこには、暗赤色に捻じれた醜悪な傷跡が這っている。
これが代償だ。
魂、人間性、そして「人」としての未来。
その全てを、あの名状しがたき邪神に差し出し、この怪物じみた肉体と、蜘蛛の糸ほどの復讐の機会を手に入れたのだ。
この身を焦がす飢餓感は、復讐のための燃料。
この身を苛む苦痛は、復讐のための警鐘。
生きねばならない。
いや、「生きる」などという生温い言葉ではない。
この人外の皮を被ってでも、この異界の地で力を蓄え、必ず這い戻るのだ!
あの元の世界へ這い上がり、あの畜生が自分と家族に与えた全ての絶望を、千倍、万倍にして叩き返してやる!
その妄執だけが、寒さと茫然自失を押し殺す。
生存本能と復讐の炎が、今にも崩れ落ちそうな彼の体を支えていた。
視線の先に、鬱蒼とした雪の森が見えた。
あそこなら、生きるための糧があるかもしれない。
食料、衣服、水。
天裂は体内で暴れ回る異常な血液の奔流を無視し、雪を踏みしめて歩き出した。
彼は無謀にも、希望だけを頼りに樹海の迷宮へと飛び込んだ。
だが現実は非情だ。
厳冬の森は死に絶えており、動植物の気配など皆無に等しい。
あてもなく彷徨い、目を皿にして探したが、得られるものは何もなかった。
腹の底から湧き上がる、あの深淵由来の飢餓感が、刻一刻と強まっていく。
――その時だった。
餌を求めて徘徊していた一頭の虎と、鉢合わせになったのは。
天裂の背筋に冷たいものが走る。
四肢が凍りついたように動かない。全身の筋肉が強張り、目の前の猛獣と対峙する。
血走った眼をした虎が、低く喉を鳴らす。
腹の底に響くような唸り声。
それは間違いなく飢えており、目の前の獲物を見逃すつもりなど毛頭なかった。
天裂は虎を凝視しながら、視界の端で武器になりそうなものを探す。
格闘技の心得などない。彼が知っているのは、深淵で学んだ「野蛮に引き裂き、貪り食う」ことだけだ。
だが、ただでは死なない。少なくとも、惨めな死に方だけは御免だ。
睨み合いが続く。互いに隙を窺う、張り詰めた時間。
だが、理性を凌駕する飢餓本能が勝った。
我慢の限界を迎えた猛虎が、先に動く。
「ガアアッ!!」
先手必勝。虎が天裂へと飛びかかる。
天裂は反射的に横へ転がり、雪の中から手頃な枯れ木を掴み取った。
ドスッ!
先ほどまで彼がいた場所に、虎の巨体が着地し、凍土を浅く抉る。
一撃を外した虎だが、その動きは驚くほどしなやかだった。即座に体勢を立て直し、天裂へ再突撃をかける。
速い!
体勢を整えたばかりの天裂に、回避の余裕はない。
とっさに両腕を交差させ、頭部をガードする。
ドォォォン!!
凄まじい衝撃。天裂の骨が悲鳴を上げる。
枯れ木のように吹き飛ばされ、背後の松の木に激突した。
ドササッ、と枝から雪が舞い落ちる。
「ぐっ……ぅ……」
喉元までせり上がった鮮血を、無理やり飲み込む。
息つく暇もない。虎はすでに追撃の体勢に入っていた。
視界いっぱいに広がる、血に飢えた大口。
避けられない!
その瞬間、天裂の瞳に凶暴な光が宿った。
彼は引かなかった。
代わりに、握りしめた拳を、渾身の力で虎の鼻先へと叩き込んだのだ!
肉を切らせて骨を断つ。
命を賭けたカウンターだ!
メキャッ!
拳と肉がぶつかる鈍い音。
急所である鼻を強打され、虎が怒りと痛みの咆哮を上げる。その攻勢が一瞬だけ鈍った。
だが同時に、虎の爪も天裂の胸を深々と引き裂いていた。
バリバリッ!
皮肉がめくれ、骨が見えるほどの惨状。
鮮血が噴き出し、天裂の半身を瞬時に赤く染め上げる。
電流のような激痛が全身を駆け巡った。
天裂はよろめき、片膝をついた。
肋骨が数本イカれたのがわかる。生暖かい血がドクドクと流れ出し、体温と活力を奪っていく。
「クソッたれが……」
天裂は虚しく毒づいた。
また、死ぬのか?
父さんや母さんのように、あっけなく?
妹のように、誰にも知られず?
(嫌だ!)
(なんでだ!? なんで俺ばっかりこんな目に遭う!?)
あの慈善家の、へらへらとした偽善ヅラが脳裏をよぎる。
あの畜生は今どこだ? どの高級娼婦の懐で笑ってやがる?
なんであいつが人間様の顔をして生きてて、俺がこんなところで野垂れ死ぬんだ!?
(善人は死に絶えろってのか!?)
(恨めしい! 畜生、恨めしいぞッ!!)
そして、邪神との契約を思い出す。
(駄目だ!)
(俺はまだ死ねない!)
(復讐してない!)
(俺は絶対に戻るんだ!)
(この世のすべてを焼き尽くす業火となって!)
(人の皮を被った狼どもに、本当の恐怖を教えてやる! 皮を剥ぎ、筋を引き抜き、永劫の責め苦を与えてやる!)
ドクンッ!!
灼熱の感情が体内で爆発した。
それと同時に、彼の血液が沸騰する。
悔恨と怒りを燃料に、彼の肉体が急激に変貌を始める。
深淵で貪った血肉が活性化し、飛び散る血が溶岩のように熱を帯びる。
ジュウウウゥゥッ!!
めくれた皮肉が自動的に縫合され、折れた骨が強引に元の位置へと戻る。
傷口を這う傷跡は、まるで醜悪な百足のように蠢き、急速に馴染んで暗赤色の紋様へと変わっていく!
天裂の「脱皮」が始まった。
皮膚は鋼のように硬質化し、瞳は炎に飲み込まれて紅蓮に輝く。
歯は鋼鉄を噛み砕くほど鋭利に研ぎ澄まされていく。
飢えた。どうしようもなく飢えている。
肉だ。新鮮な肉がいる。
血だ。新鮮な血を寄越せ。
彼は口の端を吊り上げ、ギザギザの牙を剥き出しにした。
顔にこびりついた返り血が、その笑みをこの上なく獰猛に彩る。
傷が癒えた――否、さらなる進化を遂げた天裂は、自身の血の炎で腹を焼かれ、弱った虎の前に立った。
その瞳にあるのは、もはや怯えではない。
純粋な残虐性と、食欲だけだ。
「次は……俺の番だ」
野生の勘が警鐘を鳴らしたのだろう。
虎は目の前の異様な生物から、かつてない死の匂いを感じ取った。
百獣の王が、初めて「恐怖」を覚えたのだ。
だが、逃げる隙など与えない。
ドンッ!
足元の雪が爆発する。
天裂は砲弾のように飛び出した。その速度は、先ほどとは次元が違う!
回避? 必要ない。
彼は正面から、虎の爪へと突っ込んだ!
ザシュッ!
再び爪が身体を切り裂く。だが、今の天裂は眉一つ動かさない。
肉を断たせ、その代償に虎の前足を鉄の如き握力で掴み取った!
噴き出した血の中で、傷口はすでに再生を始めている。
虎が苦痛に吠え、大口を開けて天裂の肩に噛み付く。
ガリッ!
鋭い牙が肩甲骨を砕く。
だが天裂は痛みを感じない。むしろその激痛が、脳内の狂気を加速させる薪となる!
「グルルルアアッ!!」
獣の咆哮を上げ、天裂はもう片方の手を「鉤爪」の形にした。
そして、人外の馬鹿力で、虎の眼球へと突き立てる!
ブチュッ!!
技巧も何もない。あるのは原始的で、野蛮な暴力のみ!
生温かい液体が顔に飛び散る。
「ギャオオオオオオッ!!!」
虎が絶叫する。
想像を絶する激痛に狂い、首を振り回して天裂を振り払おうとする。
だが天裂は離れない。前足をへし折らんばかりに握りしめ、自らの牙で虎の耳に食らいつき、どれだけ振り回されようともしがみつく!
片目を潰された王者は発狂した。
もはやなりふり構わず、雪原を転げ回り、木々に体当たりし、背中の寄生虫を殺そうと暴れ回る。
ズドン! バキバキッ!
一人と一頭が、雪の森で暴風雨となる。
巨木がへし折れ、雪煙が舞い上がる。
天裂の骨は砕け、深淵の力で即座に繋ぎ直される。
衝撃のたびに、彼は「人」から遠ざかり、「怪物」へと近づいていく。
だが、そんなことはどうでもいい!
頭にあるのは一つだけ。
(引き裂かせろ!)
激しい衝突の直後、一瞬の隙が生まれた。
天裂は両足で虎の胴体を締め上げ、空いた手で再び鉤爪を作る。
狙うは、残されたもう一つの眼球!
虎が死を予感して暴れるが、もう遅い。
ブシュッ!!
再び、肉を穿つ濡れた音が響く。
世界が、闇に閉ざされた。
両目を失った虎は、絶望的な悲鳴を上げてのたうち回る。
方向感覚を失い、その場で回転し、闇雲に頭を打ち付ける。
天裂は虎の背から飛び降り、冷たい目でその最後を見届けた。
やがて虎の動きは鈍り、最後にどさりと倒れ伏した。
痙攣と、荒い呼吸だけが残る。
戦闘終了。
天裂は血の海の中に立っていた。自分の血か、虎の血か、もはや判別できない。
肩で息をするたび、胸の傷が高速で塞がっていく。
瀕死の虎を見下ろす彼の瞳から、最後の一滴の「人間らしさ」が消え失せた。
代わりに満ちていくのは、「飢餓」という名の原罪。
彼は跪き、血にまみれた手を伸ばす。
指先はすでに硬質化し、ナイフのように鋭くなっている。
その指を、虎の柔らかい腹部へと突き立てた。
躊躇いはない。
ビリビリッ、という筋膜の裂ける不気味な音と共に、彼は素手で腹を切り裂いた。
濃厚な血の匂いと、湯気を立てる内臓が露わになる。
天裂は、まだピクピクと動く温かい肉塊を引きちぎり、ゆっくりと口元へ運んだ。
(食え……)
ふと、天裂の手が止まる。
(……食わないのか?)
怪物になりたくない。
復讐のために、僅かに残った良心と人間性まで捨てたくはない。
だが……神はなぜ、こうも残酷なのか?
なぜ自分がこんな目に? なぜ? なぜだ!?
虐げられた日々。嘲笑された家族。
高みから自分たちを見下し、踏みにじった罪人たち。
なんでだ。なんであいつらが……
「クソがッ! 神様なんてクソ食らえだッ!!」
食欲と理性が混ざり合い、怒りという名の種が弾けた。
天裂は誰よりも冷静に、一口、また一口と肉を貪った。
己の惨めさを飲み込み、弱さを噛み砕き、不条理を喉へ流し込む。
かつての脆い皮を脱ぎ捨て、進化し、昇華し、恐怖の化身へと変貌していく。
「邪神の代行者? 上等だ……」
口元を鮮血で染めた天裂は、自嘲気味に笑った。
「その代理人……この俺がやってやるよッ!」
彼は綺麗に剥ぎ取った虎の毛皮を腰に巻いた。
防寒のためではない。これは誓いだ。
過去は死んだ。だが忘却は裏切りだ。骨髄に刻み込め。さすれば未来はひれ伏すだろう。
自ら因果を飲み込み、心は鏡のように澄み渡っていた。一点の曇りもない、修羅の心だ。
森の火災は、雪解け水によって鎮火していた。
感情を平らげた天裂は、ただ空を見上げていた。
この世界に、未練などあるだろうか?
立ち昇る黒煙が風に流され、形を失っていく。だが、そこに在ったという痕跡だけは消えない。
――その時。
ドォォォッ!!
突如として暴風が巻き起こり、周囲の雪と骸を吹き飛ばした。
煙に誘われたのか、一頭の巨大な白竜が空から舞い降りたのだ。
だが、満腹になった天裂は興味を示さなかった。
せっかくの食後の余韻を邪魔されたことに辟易し、背を向けて立ち去ろうとする。
白竜は驚いた。
ちっぽけな人間が、自分を無視した?
プライドを傷つけられた竜は、背を向けた天裂に向け、容赦なく極寒のブレスを吐きかけた。
ゴオオオオッ!!
直撃。
だが――
「ハハッ、クソが」
黒焦げになったはずの皮膚が、異常な速度で再生し、剥がれ落ちていく。
無傷の姿で振り返った天裂は、驚愕に目を見開く白竜を前に、ニヤリと笑った。
その瞳にあるのは、剥き出しの殺意と食欲のみ。
「ドラゴンの肉ってのはどんな味がするんだ? あぁ? ……まだ食ったことがねぇんだよ」




