第1章 暴力の中にのみ、真実は宿る
ガシャアアアンッッ!!
高級なガラス窓が爆散し、無数の破片が水晶の豪雨となって降り注ぐ。
鮮血に濡れた**天裂**は、地獄の底から這い上がってきた悪鬼のごとく、その開口部から飛び込んだ。
そこは、選ばれし者だけの天国と、薄汚い下界とを隔てる最後の結界だった。
手にした薪割り用の鉈には、すでに粘り気のある血糊がこびりついている。刃はボロボロに欠けていたが、その切れ味はいささかも衰えていない。
今まさに、慈善家を気取る男の、その脂ぎった首筋へと深く突き立てられていた。
「ぐっ……うぅぅ……ッ」
慈善家のふっくらとした顔が、瞬く間に赤黒く鬱血していく。
金縁の眼鏡は歪み、高級シルクのパジャマは、噴き出す鮮血によってどす黒く染め上げられていた。
雪のように純白なテーブルクロスが敷かれた長机の上。慈善家は、屠殺を待つ豚のように、天裂の圧倒的な腕力によって押さえつけられていた。
ガシャンッ、ガララ……!
値の張る銀食器が床に落ち、耳障りな音を立てて砕け散る。
「旦那様っ!!」
「確保しろ! 撃てっ!!」
驚愕の叫び、怒号、そして重苦しい金属音が交錯する。
一瞬にして、黒服のボディガードたちが銃口を一斉に向けた。その数、十数人。無数の殺意が、侵入者一点に集中する。
だが、天裂は彼らを見向きもしなかった。
充血したその双眸は、ただ一点。
恐怖と窒息で醜く歪んだ、慈善家の顔だけに釘付けになっていた。
骨の髄まで刻み込んだ憎悪の対象。例え灰になろうとも見間違えるはずのない、その顔だ。
「……クソ野郎が」
天裂の声は、喉の奥から絞り出すような、しわがれた唸り声だった。
「テメェの汚ぇ高利貸しで、死に追いやった男のことを覚えてるか?」
グジュッ。
天裂は手首を無慈悲に捻る。
鉈の刃が、肉と骨の狭間で嫌な音を立てて蠢いた。
「ゴボッ……!」
慈善家の喉から、空気が漏れるような異音が漏れる。
両目は飛び出し、肥え太った体が激しく痙攣した。
「俺の親父だッ!!」
シャンデリアが震えるほどの咆哮。
「親父はな、あと数日待ってくれって、土下座して頼んだんだよ! それをテメェは何て言った! あぁ!?」
天裂はさらに身を乗り出し、慈善家の耳元で低く唸った。その声は、死に絶えた広間に冷たく響き渡る。
「『貧乏人の膝なんざ一文の価値もねぇ! 借金のカタに娘をよこしな!』……そう言いやがったなァ!!」
ボディガードたちの指は引き金にかかっていたが、誰も撃つことができない。
慈善家が、完璧な肉の盾となっていたからだ。
「俺の妹はなぁッ!!」
天裂の声が、悲痛な叫びへと変わる。
「まだ16だったんだぞ! テメェの手下どもが、あのふざけた『会員制クラブ』に三日三晩監禁しやがって! ……戻ってきた妹はな、そのまま川に身を投げたんだよ!!」
脳裏に焼き付いて離れない光景。
水ぶくれした青白い顔。色褪せた白いセーラー服。
「それに、母さんもだッ!!」
ギリリッ、と奥歯が砕けそうなほど噛みしめる。
「警察に駆け込もうとした母さんは、帰り道で『偶然』無免許の車に撥ねられた! その遺体は……原形すら留めてなかったんだぞッ!!」
泥にまみれ、砕けた骨が突き出した足。
藁のむしろから覗いていた、あの足だけが鮮明に思い出される。
「三人の命だ! この外道が! 生きて、息をしていた人間が三人だぞッ!!」
激情が血液すらも焼き尽くし、残ったのは氷のように冷徹な殺意だけだった。
天裂は、鉈を引き抜くために腕に力を込めた。
「三年間だ……ドブネズミみてぇに下水道で隠れ住んで、今日この日のためだけに耐え抜いてきたんだよッ!!」
ズリュッ!!
勢いよく引き抜かれた刃先から、熱い血飛沫が弧を描く。
天裂の頭から顔へと、赤い雨が降り注ぐ。
慈善家は喉を押さえ、陸に上げられた魚のようにペルシャ絨毯の上でのたうち回った。
「地獄へ落ちろォオオオオオッ!!」
天裂は絶叫し、渾身の力で鉈を振り下ろした。
「これは親父の分だッ!!」
ドスッ!
刃が、肥満した肩の肉に深々と食い込む。
「これは妹の分ッ!!」
ザシュッ!
胸板を切り裂き、皮膚と脂肪がめくれ上がる。
「そしてこれは……母さんの分だァッ!!」
風を切り裂く音と共に、頭を守ろうと掲げた腕に鉈が直撃する。
ゴシャッ、という生々しい骨の破砕音が響いた。
その瞬間。
ボディガードたちが、ついに射線を通した。
「撃てッ! 殺せ!!」
薄暗い部屋の隅で、マズルフラッシュが明滅する。
無慈悲な鉛の弾丸が空気を引き裂いた。
ドシュッ! バシュッ!
天裂の体が大きく跳ねる。
左肩、脇腹、太腿……次々と赤い花が咲き乱れる。
激痛が走り、一瞬だけ動きが止まる。
だが、天裂はよろめいただけだった。
その紅蓮に燃える瞳は、床でもがき苦しむ仇敵から決して逸らされない。
「まだだ……まだ足りねぇッ!!」
野生の獣のように咆え猛り、感覚のなくなった足を引きずって、再び躍りかかる。
「バラバラに切り刻んでやるッ!!」
死兵の如き覚悟で、鉈を高く振り上げる。
さらに多くの銃弾が彼に襲いかかった。
ドッドッドッ!!
まるで壊れた人形のように、天裂の体が衝撃で揺さぶられる。
全身に穿たれた十数箇所の穴から、どろりとした血が溢れ出し、磨かれた床へと広がっていく。
力が、抜けていく。
視界が霞み、端から黒く塗りつぶされていく。
痛みと恐怖で歪んだ慈善家の醜い顔が、視界の中で揺らめいた。
「ごふっ……」
口から血の泡を吐き出し、天裂の体が前のめりに崩れ落ちる。
手から滑り落ちた鉈が、血の海にカランと音を立てた。
冷たいタイルの感触が、燃えるような頬に伝わる。
「ひゅ……ひゅー……」
慈善家はまだ死んでいなかった。
壊れた鞴のような呼吸音をさせながら、至近距離に倒れた天裂を、憎悪に満ちた目で見下ろしている。
天裂は残された僅かな力を振り絞り、唇を歪めて笑った。
血まみれの手を伸ばし、慈善家の髪を力任せに掴む。
「……畜生、め」
それは掠れた囁きだったが、その言葉は呪いのように鮮明だった。
「地獄で……待ってるぞ……」
ガクリ。
慈善家の首が力なく傾ぐ。
最期の命の灯火が、フッと消え失せた。
闇が、すべてを飲み込んでいく。
浮遊感。
そして、骨まで凍りつくような冷気が彼を包み込んだ。
魂が、ボロボロになった肉体から剥がされていく感覚。
落ちていく。
終わりのない、恐怖の落下。
見えない圧力が手足を縛り、身動きすら取れない。肺が鉛で満たされたように重く、もがけばもがくほど窒息していく。
怒り、絶望、そして底なしの憎悪が、冷たい闇の中で激しく燃え上がる。だが、死にゆく器から抜け出すことはできない。
これが死か? 絶対的な虚無の海か?
俺の未練も、未完の復讐も、ここで終わるのか?
(いやだ!)
(俺は認めない!)
(三年間、ウジ虫のように地べたを這いずり回って……あいつはまだ息をしているんだぞッ!)
『来い……我は、汝を求む……』
その囁きは、どこからともなく響いてきた。
それは十億もの苦悶の呻きが融合したような、消えゆく意識に直接突き刺さる声だった。
背中に感じる感触は、もはや水ではない。
ぬるりとした、粘着質の、吐き気を催すほど冷たい何か。
何かが、俺に巻き付いている。
最後の気力を振り絞り、天裂は片目を見開いた。
光?
いや、違う。それはもっと薄暗く、冒涜的な燐光だった。
眼前に広がる光景に、麻痺していたはずの神経が悲鳴を上げる。
闇の底から伸びる無数の切断された手足。それらはまるで生きている腐敗の森のように絡み合い、蠢き、貪欲に彼へと手を伸ばしていた!
あのぬめりとした感触は、飛び出した腸に巻き付いた、氷のように冷たく、棘の生えた「腕」だったのだ!
引っ張られている! 喰われている!
だが、痛みと死への恐怖は、より原始的で凶暴な本能によって粉砕された。
(死んでたまるか! 化け物どもがッ!)
魂の奥底から、野獣の如き獰猛さが爆発する。
天裂は顎が外れるほど口を開けると、残された唯一の武器である「牙」を、腸に絡みつく触手に突き立てた。
噛み砕く。引き裂く。飲み込む。
名状しがたき、汚らわしい粘液が口の中で弾ける。
構うものか。天裂は狂ったように咀嚼し、そのおぞましい肉塊を喉の奥へと押し込んだ。
ゴクリ。
飲み込むたびに、微かだが確かな熱流が胃から四肢へと駆け巡る。
千切れかけた肉体の激痛が一瞬和らぎ、傷口の筋肉がピクリと脈動する。
(喰らえ! 喰えば生きられる! 力が湧いてくる!)
その発見が、天裂の瞳に最後の希望の火を灯した。
(殺す! 喰い尽くす!)
もはや人間ではない。
彼は深淵に放たれた、飢えた捕食者へと変貌していた。
近くで蠢く手足に飛びかかり、歯で食いちぎり、爪で抉り、掴めるだけの黒い肉を口に詰め込み、丸呑みにしていく。
腐った血、吐き気を催す肉片、砕けた骨……。
すべてが腹の中で灼熱の燃料となる。
彼の体は破壊と再生の戦場だった。
新たな傷が生まれるそばから、古い傷が目に見える速度で癒え、赤黒くねじれた傷跡を残していく。
混沌とした、しかし確かな力が、暴力的な勢いで膨れ上がっていく。
どれほどの時間が過ぎたのか。一瞬か、あるいは永遠か。
天裂は、砕けた手足と血の海でできた「大地」の上に立っていた。
全身血まみれで傷だらけだが、その背筋は伸び、瞳には消えることのない憎悪の炎が燃えている。
足元には、彼自身の歯によって原形を留めぬほど引き裂かれた、数千もの「名状しがたきモノ」の残骸が転がっていた。
周囲の闇の肉塊はまだ蠢いているが、彼から放たれる暴力的なオーラ――自身の生命力と深淵の精髄が混じり合った気配――に怯え、遠巻きに震えていた。
その時、深淵全体が震えた。
血の海が沸騰し、手足の波が引いていく。まるで平伏するかのように。
想像を絶する重圧が頭上から降り注いだ。世界そのものの重量が天裂の背骨を軋ませ、膝を屈させようとする。
だが彼は歯を食いしばり、充血した目を剥いてその圧力に抗い、不敵に頭をもたげた。
深淵の中心で、粘つく闇がゆっくりと裂けていく。
それは光の裂け目ではない。闇よりもさらに深く、絶対的な「虚無」だった。
その虚無から、ある「存在」が降臨した。
定まった形はない。
それは十億もの蠢く眼球の集合体だった。それぞれの目が開閉し、膿や溶岩を垂れ流している。一つ一つの瞳が、異なる地獄の光景を映し出していた。
眼球の間では、ぬらぬらと濡れた触手がのたうち回り、その先端は無数の口となって割れ、針のような牙を覗かせている。
それら全てが、十億もの重なり合った囁き、呪詛、そして冒涜的な賛美を奏でていた。
その「体」は、引き伸ばされ、ねじり合わされた無数の亡者の魂で構成された抽象的なトーテムのようだ。
恒星すらも消し去るほどの悪意と、太古の力がそこにあった。
(こいつが、深淵の主か? 俺をここに引きずり込んだ邪神か?)
『定命の者よ……汝の憎悪……その「食欲」……実に愉快だ……』
十億の囁きが、耳ではなく魂に直接響く。
その一音節ごとに、精神を汚染するような力が込められていた。
天裂はただ睨みつけた。その視線は、眼球の塊の核へと突き刺さる。
喉の奥から獣のような唸り声が漏れる。全身の筋肉が収縮し、今にもその冒涜的な恐怖へ飛びかからんとしていた。
復讐!
その二文字だけが脳裏を焼き尽くしている。
何だこれは? 邪神だと?
あの慈善家はまだ死んでいない!
俺の復讐は終わっていないんだ!
俺の邪魔をするなら、神だろうが何だろうが餌にしてやる!
『復讐を望むか……だが、汝の世界には……もはや汝の居場所はない……』
邪神は囁く。その声には、天裂から放たれる殺意を完全に無視した、愉悦の色が混じっていた。
『我に仕えよ……行くがいい……我らが構築せし盤上へ……
我らが遊戯に参加し……我が「刃」となれ……』
十億の眼球がゆっくりと瞬く。
『我を楽しませるならば……その復讐の炎、我が手ずから薪をくべてやろう……』
取引だと?
盤上?
「奴ら」のゲーム?
その言葉は、天裂の燃え盛る意識の上を塵のように滑り落ちた。
彼の目には、ただ眼前の巨大で忌まわしい肉塊しか映っていない。
慈善家の顔が、まだ生きているあの憎き顔が、邪神の無数の瞳に重なって見えた。
憎悪が、沸点を超えた。
「ガァアアアアアアッ!!」
もはや人間のものではない咆哮が、深淵の静寂を引き裂いた。
天裂は燃える隕石と化した。
深淵の肉から奪い取ったばかりの、荒削りで混沌とした力を爆発させ、弾丸のように飛び出した。
その身を顧みず、名状しがたき存在へと特攻する。
引き裂いてやる!
食らい尽くしてやる!
他の有象無象と同じようにッ!
『真の恐怖を知らぬか……だが……それこそが我が望み……』
邪神は囁いた。その声には、微かだが確かな称賛の響きがあった。
天裂が、蠢く眼球と触手の塊に激突しようとしたその瞬間。
見えざる力が作用した。
彼から溢れ出した血――深淵の肉と混じり合い、さらには邪神自身の原初的な暗黒の体液が極微量混入した血――が宙に浮き上がる。
それは収束し、捻じれ合い、あり得ないほど複雑で冒涜的なルーン文字を形成したかと思うと、一瞬だけ激しく明滅し、消滅した。
血の契約が、成立したのだ。
(なにっ!?)
邪神の巨体から、ぬらりとした一本の小さな触手が、まるで埃を払うかのように無造作に弾き出された。
存在の法則そのもので編まれた、抗いようのない絶対的な力が天裂を襲う。
「ガハッ――!!」
燃え盛る山脈に激突されたような衝撃。
全身の骨が一瞬で砕け散り、喰らって得たばかりの力が無惨にも粉砕される。
痛みを認識する間もなく、彼の意識はその力によって鷲掴みにされ、囁きと粘液と血に満ちた深淵から、大砲のように射出された。
深淵のねっとりとした空気は、刺すような冷気へと変わった。
目も眩むような光が視界を奪う。
ドッパァアアンッ!!
重い水音。
唐突で衝撃的な冷たさが全身を包み込み、毛穴という毛穴が悲鳴を上げる。
彼は反射的に、折れた腕を必死に動かして水面を目指した。
プハッ!
氷点下の空気が肺に雪崩れ込む。
呼吸をするたびに、凍った剃刀を飲み込んでいるようだ。
彼は激しく咳き込み、深淵の胆汁と冷たい水の混じったものを吐き出した。
天裂は、氷の上に全裸で転がっていた。
下には硬く、残酷なほど冷たい凍結した湖。
周囲には、どこまでも続く分厚い雪の毛布。
蒼白な太陽が雪原を照らし、目を焼くような反射光を放っている。
彼は生まれたばかりの獣のように弱々しく体を丸めた。
赤黒い乾いた血のかさぶた――彼自身の血と深淵の汚物が混ざったもの――がパラパラと剥がれ落ち、その下から、ねじれた暗赤色の傷跡に覆われた新しい皮膚が露わになる。
その下では、人間離れした再生能力を証明するように、筋肉がピクリと脈動していた。
冷たさと痛みが、あまりにもリアルだった。
俺は……生きているのか?
天裂は震える腕で上半身を起こした。
吹き付ける寒風に、裸の肌がたちまち粟立つ。
彼は困惑して周囲を見回した。
静寂。
そこには、雪原を吹き抜ける風の悲しげな音だけがあった。
銀色に覆われたこの世界は、恐ろしいほどに異質だった。
「どこだ……」
その声は、乾いて荒れた音だった。
「ここは……どこだ?」




