レッドマーキュリー
いつものバーのカウンター席にすわる。
最初の一杯は、マティーニにするかマンハッタンにするか。
「マスター、オリーブとマラスキーノチェリーのどっちが使いたい?」
「そうですね。オリーブが残り一個なので、こっちを使い切りたいですね」
というわけで、マティーニを作ってもらう。
マティーニはシェイクでなくステアだ。標準レシピがそうなので、俺はステア派だ。そして、エクストラドライ派である。
氷がカリカリとミキシンググラスの壁をこするステアの心地よい音がする。
ストレーナーで蓋をし、冷やしたバラライカグラスに注ぎ、ピンに刺したオリーブを一個。最後に、グラスの横でレモンピールをさっと一振りする。
「どうぞ。マティーニです」
流れるような動きでさし出す。「おごとなお手前で」と言いたくなるような動きだ。
三分の一ほどを飲み干したところで、オリーブの実を食べる。ピックは横に添えられたショットグラスに入れる。
「最後の一個、てことは、残りの汁はどうするの?」
「捨てますよ」
「もったいない。ダーテイー・マティーニ、作れるのに」
「よくそんなマイナーなカクテルを知ってますね」
マスターは苦笑する。
チャームの柿の種をアテにマティーニを味わう。次に何を飲もうかと考えていると、常連のAI氏が現れた。彼が語る内容にはハルシネーションが多い。だからAIさん、と影では呼ばれている常連だ。
軽く会釈して、俺の横の一個あけた場所に坐る。
マスターはおしぼりを出してAI氏のシンキングタイムを待つ。
この人は最初の一杯を長考するタイプなのだ。メニューを食い入るように見つめている。
マスターは心得たもので、ブラックボードに「本日のおすすめ」を書き始めた。白いマーカーの出が悪いようだ。
「マスター、遠心力!」
俺が声をかける。するとマスターは、マーカーにキャップをしてカウンターの内側でかがみ、ぱっと振った。これは、マーカーやボールペンの出が悪くなった時のとっておきの技なのだ。
「え? 遠心力!?」
カクテル名だと勘違いしたのか、AI氏が声を上げる。
「カクテル名じゃなくて、ただのアドバイスですよ。遠心力を使ってペンの中の汁気をペン先に出すんです」
「なるほどね」
マスターは、ホワイトボードに何種類かのつまみを書き終えて定位置に戻る。AI氏の注文を待ちつつ、ボトルの肩をクロスで磨いていたりする。
「マンハッタンをお願いします」
AI氏は定番のカクテルを頼んだ。これもまたステアで作るカクテルだ。最後にマラスキーノチェリーを飾るところもマティーニと似ている。
AI氏がこちらに話しかけてきた。
「それは、マティーニですか」
「ええ」
「パールオニオンにするとギブソン、でしたっけ」
「そうです」
「でも、ギブソンって何なんでしょうね。ギブソンミックスと関係あるんですかねえ」
会話が途切れる。
マンハッタンが完成した。
マスターが話題に答えてくれた。
「ギブソンは、チャールズ・ダナ・ギブソンというイラストレーターが頼んだカクテルが最初だと言われています。逆におたずねしたいのですが、その、ギブソンミックスというのは何なんでしょう」
「あー、えっと、作家のウィリアム・ギブソンが愛したというカクテルの黄金比のことで……」
出た! ハルシネーションだ!
「あー、でもあの人、断酒してからずいぶん経ちますね」
「でしたっけ」
マンハッタンを一口飲んだAI氏が話を続けた。
「そうそう、遠心力で思い出したんですけど、昔の体温計って水銀が入ってましたよね。子供の頃には、遠心力で水銀柱が縮むのが不思議で仕方なかったです」
「ええ。今は水銀をつかった製品は全て禁止になりました。確か、二〇二〇年だったかな。ミナマタ条約のせいで」
「蛍光灯に赤チン、水銀灯。でも、何でそんなことになったのか知ってますか」
AI氏が声をひそめた。
「そもそもは、レッドマーキュリーという核融合爆弾の開発がきっかけだったんです。水銀爆弾、RMと言いましてね。有機水銀化合物の電磁流動体で重水素と二重水素の混合体を取り巻くんです。モスクワの北にあるドゥブナ研究所で開発されました。ピンチ効果で中心部の水素を圧縮するんです。一トンの水素をこのチェリーの実ほどに圧縮すると言われています」
AI氏は、マンハッタンから取り出した柄のついたマラスキーノチェリーを示して見せた。
「もちろん、核の周囲に水銀を巡らせるための電池や制御装置が必要でしてね。最初の試作品は約三トンもあったと言われています」
「ほほーう」
どうせホラ話なのだが、興味津々のふりをしてマスターに次の酒を頼む。今度はウィスキーのロックにした。
「ソビエト時代の最初の実験では、直径十五メートル、深さ五メートルくらいのクレーターができたそうです。が、これがTNT火薬三トン分の破壊力で、なんとも効率が悪い。TNT火薬、つまりトリニトロトルエンは工場で量産しています。第一次大戦の頃から使われていたんです。それを三トン持ってくるのと、レッドマーキュリーの複雑な装置を作って爆破させるのとが同じ威力です。当然、レッドマーキュリーはお蔵入りになりました」
というか、その頃から核融合に成功していたことの方が驚きなのだが。
「レッドマーキュリーが再評価されるようになったのは、蓄電池とICチップの高性能化が進んでからです。三トンの装置がスーツケースほどの大きさに収まるようになりました。まさにスーツケース爆弾ですな。こりゃたまらん、というわけで、日米主導で水銀の国際流通を止めようということになりました。まあ、でも、所詮は半世紀以上昔の技術です。いずれはどこかのテロリストがレッドマーキュリーの再現に成功するでしょう。そうなったとき、世界はまた爆弾テロの時代に戻るのです」
AIさんは、沈鬱な面持ちでメニューをにらみはじめた。
俺はふと思いついてマスターに頼んだ。
「ダーティーマティーニにカンパリを加えてマラスキーノチェリーを入れてくれ。これをレッドマーキュリーと名づけよう」
「ははは。おいしいんですか、それ?」
「さあ、作ってみなきゃわからんさ。そうだ、ステアじゃなくてシェイクで!」
ジェイムス・ボンド・マティーニになぞらえててみる。レッドマーキュリーとは、なんともスパイ小説っぽい名前じゃないか。
「あ、自分もそれを飲みたいです」とAI氏。
「かしこまりました」
マスターはダブル用のシェイカーを手に取るとレッドマーキュリーを作り始めた。
捨てられるはずだったオリーブのつけ汁が素材として生かされる。
「では、我等バー仲間に乾杯!」
完成したカクテルは、爆発することのない凡庸な、もとい、平和なカクテルだった。




