核戦争が起こったようです
(`・ω・´) えらいこっちゃ
夜明け前、ハウスの外はしんと静まり返っていた。
薄いビニール越しに、空がほんのりと白み始める。まだ寒さの残る空気の中、左馬助は手袋をはめてハウスの入口を開けた。
「よし、今日も大丈夫そうだな」
中に広がるのは、規則正しく並ぶトマトの苗たち。朝露の代わりに、加湿器がうっすらと湿り気を与えている。ヒーターの熱がビニールの内側に残っていて、外よりいくぶん暖かい。
左馬助の家は、北関東の小さな町で祖父の代から続く農家だった。代々、米や野菜を育ててきたが、左馬助の代からはトマトのハウス栽培に絞っている。
収益性と手間のバランスが良かった。それに、朝早くから一人で黙々と作業するのが左馬助にはちょうど良かった。
スマートフォンを確認すると、天気予報は「晴れ時々曇り、降水確率20%」。ここ数日は気温が高めで、トマトにとっては悪くない環境が続いている。
水やり、葉かき、実のチェック、害虫確認──毎朝のルーチンは決まっている。今日もいつもと同じ作業をこなす。
その最中、スマホからニュースの通知がいくつか届いていた。ちらりと画面を見ると、「インドとパキスタンの国境付近で衝突、数百人規模の被害」とある。
「ふーん……」
通知をスワイプで消す。正直、あまり関心はなかった。世界のどこかで誰かが争っていても、ここでトマトが赤くなることに変わりはない。
ラジオからは、パーソナリティの陽気な声と、トマトの保存方法についてのミニ特集が流れてきた。
「冷蔵庫に入れると味が落ちるって、本当ですかねー?」
「ほんとだよ」と左馬助は独りごちる。
ふと、遠くの空が不自然な色をしているような気がした。グレーとオレンジの境目がぼやけていて、どこか絵の具を溶かしたような不気味さがある。
──それでも、トマトは育っている。
午後、出荷の準備を終えて軽トラで集荷所まで向かう道すがら、ラジオの音が急に変わった。
「……えー、続報が入りました。先ほどインドが、パキスタンに対して核兵器を使用したとの未確認情報が──」
軽トラのハンドルを握る手に、ぐっと力が入る。
それは、映画や漫画の中だけの話だと思っていた。
けれど、ラジオの声は真剣だった。続いて流れたのは、政府の緊急会見の予定と外務省からの渡航注意勧告だった。
左馬助は軽トラを路肩に停めて、しばらく動けなかった。エンジン音だけが耳に残る。
──核が、使われた? 本当に?
考えがうまくまとまらない。
それでも、荷台には今朝収穫したトマトが箱詰めされている。真っ赤に熟した、つややかな実たち。
「……ま、どうせ売れねえとなったら、漬物でも作ってやるか」
わざとらしく独り言をつぶやいて、エンジンをかけ直す。
夕暮れ、家に戻った左馬助は、ニュースを一通り見てからテレビを消した。
世界は騒がしい。けれど、ハウスの中はまだ静かだった。
数日後、空はおかしかった。
いつもなら東の山の向こうから差し込むはずの光が、今日はどこにもなかった。
曇っている、というより──「ぼやけている」。
左馬助は玄関を出て、空を見上げた。灰色の膜を張ったような空。朝日が透けて見えるどころか、全体的に、うす黒い絵の具を溶かしたような色になっていた。
「黄砂か……? にしても変だな」
だが、気象庁の発表では黄砂は観測されていないと出ていた。スマホでSNSを開くと、「空 色」「不気味な朝」などのワードがトレンドに並んでいた。
──“インドとパキスタンがマジでやったっぽい”
──“放射能の雲が拡がってるって海外の大学の人が言ってた”
──“福島の時よりヤバいかも。日本も風下だから注意だってよ”
憶測と不安が入り混じった言葉がタイムラインを流れていく。
「バカ言え。そんなにすぐ来るわけないだろ……」
呟いてはみたが、不安は胸の奥にこびりついて離れなかった。
ビニールハウスに入ると、内側の空気はどこか湿っぽく、重たかった。温度はギリギリ許容範囲内だったが、葉の先が少し丸まっている株がいくつかあった。
温度と湿度のログを見ると、夜間に外気が急激に冷えた影響で内部の結露が強く出ていたようだった。
「うーん、やっぱヒーター回しとくべきだったか……」
燃料は今月分までは確保してある。しかし、来月の契約分はまだ届いていない。
給油業者に電話をかけると、「配送は未定」と言われた。どうやら物流の混乱で配送ルートが一時的に停止しているという。
「止まったの? 群馬から栃木に運ぶだけでも?」
「ええ、念のためってことで広域的に動きを抑えてるみたいです。すみません」
電話を切ったあと、左馬助はしばらくハウスの中に立ち尽くしていた。
「世界が壊れてる音って、案外静かなもんだな」
午後になると、役場から防災無線が鳴った。
「現在、南西アジア地域において核兵器使用の報道が続いています。今後、日本国内への影響について……」と、抑揚のない声が淡々と話していた。
テレビでも官房長官の記者会見が流れていた。「ただちに影響はない」と、どこかで聞いたことのあるフレーズ。
「……なあ、トマト。お前らも“ただちに影響はない”んだろ?」
左馬助は、赤くなり始めた果実をひとつ手に取った。指で軽く弾くと、くっと張りのある音が返ってくる。良い実だ。
それでも、このまま出荷できなければ意味がない。
町の農協に連絡を取ると、担当者の声はどこか落ち着かなかった。
「今のところ、出荷は通常通り受け付けてます。ただ……ちょっと、東京の市場の方で“今後の消費動向が読めない”って話が出てまして」
「今後って……ここは日本だぞ。放射線も降ってねえし、影響なんか──」
「ええ、わかってます。だからこそ“今は”大丈夫なんです。ただ、ニュースやSNSで“空に乗って放射性物質が来る”とか“雨が危ない”なんて話が出始めると……どうなるかは、正直、誰にも読めません」
左馬助は黙って電話を切った。
ハウスに戻ると、まるで何もなかったかのように、トマトたちは光を求めて上へ上へと葉を伸ばしていた。
──この中だけ、まだ普通の世界だ。
その夜、風が強まった。
ビニールハウスの端に当たる枝が、ガサガサと音を立てる。
外の空気は、どこか金属の匂いが混じっている気がした。
左馬助は寝る前に再びスマホで空を検索した。
“成層圏に浮遊する黒い粒子が、太陽光を遮る可能性”という海外研究者の投稿。
“核の冬の初期兆候かもしれない”と添えられた文章が、不気味に胸に残った。
──光が、消える?
枕元に置いたスマホの画面は真っ暗になり、やがて眠気がゆっくりと左馬助を飲み込んでいった。
トマトの赤が、暗闇の中に滲む夢を見た。
朝、目を覚ました左馬助は、毛布の中でしばらく動けなかった。
寒い。5月も近いというのに、空気が真冬のように冷たい。
時計の温度表示は「6℃」。
ハウスが気になり、急いでジャンバーを着て外へ出た。
空は、もはや「曇り」とも言えなかった。
灰色と墨の混じった空。太陽はどこにも見えない。光はあるのに、熱がない。
手袋越しでも指先が冷えるほどの空気の中、左馬助は慌ててハウスの入口を開けた。
「……うわ……」
内部の温度計は9℃を示していた。本来なら15℃は欲しい。
葉の先が黒ずんで垂れている株がいくつもあった。水滴がついたまま冷やされ、細胞が弱っている。
「マジかよ……。こんなに急に……」
夜中にヒーターを切ったのがまずかった。燃料を節約するために最低限の運転にしたのだが、それが裏目に出た。
急いでヒーターをフル稼働にするが、熱はすぐには回らない。太陽の助けがないと温度を保つのも難しい。
スーパーで食料を買おうとすると、棚は空っぽだった。
「買い占め防止のため、おひとり様1点まで」の紙があちこちに貼られている。
パン、レトルト、電池、カップ麺。何もない。
普段は見かけない顔ぶれが、次々と店を訪れては無言で商品を探している。
「どうなってんだ、これ……」
レジのおばちゃんが小声で言う。
「物流が止まりかけてるらしいですよ。高速が通行制限入るとか」
街の音も、人の声も、どこか薄くなったような気がする。
世界が徐々に摩耗していく音が、耳の奥で鳴っている。
午後、農協の担当から電話がかかってきた。
声には明らかに焦りがにじんでいた。
「……すみません。今月分の集荷、すべて停止になりました。政府からの要請がありまして」
「……政府?」
「はい。今日の午前中、要請がありまして、“民間農産物の長距離輸送を一時停止。地域内流通に限る”とのことです」
「出荷先、全部都市部なんだけど……それは無理ってこと?」
「わかってます。でも、“核戦争の影響による物流統制”の一環らしいです。都市部への青果輸送は**“非常時優先物資以外、後回し”**にするって」
「買う相手がいても?」
「……はい。買い手はいるんです。でも輸送許可が下りない。ガソリンも軽油も制限が始まって……」
受話器の向こうで何か紙をめくる音がしたあと、ため息のような声が漏れた。
「今のところ、“2週間後を目処に再検討”って書いてます。すみません……」
電話の向こうの声は申し訳なさそうで、それ以上何も言えなかった。
夕方、左馬助は収穫したばかりのトマトを見つめていた。
赤く、つやつやとした実。甘みも、酸味も、形も、申し分ない。
でも、売れない。買ってくれる場所がない。
「……だったら、食うしかねえか」
トマトを一つ手に取って、かじる。
甘さが口いっぱいに広がる。どこにも“異常”などない。
あるのは、正しく育った命の味。
「やっぱ、うめぇな……」
その晩、左馬助はトマトを煮込み、スープを作った。
にんにくと玉ねぎと、塩だけのシンプルな味付け。
温かさが体に染み込む。外の世界とは別の時間が流れているようだった。
夜、テレビでは「長期的な天候の変化に注意」と、気象庁の会見が流れていた。
「今後、日照時間が減少する傾向にあり……」
「異常気象との因果関係については……」
はっきりと“核の影響”とは言わない。
ネットでは、「チェルノブイリの時よりも広域に粒子が拡がっている」といった記事が増えていた。
“核の冬”、という言葉が現実に迫ってくる。
それでも、左馬助は翌朝もハウスへ向かう。
ビニールをめくると、冷気が一気に流れ込む。
葉は萎れ、実は熟す前に固まっている。
トマトたちは、光を欲しがっている。
けれど、空には太陽がない。
──それでも、水をやるしかない。
左馬助は、給水ホースのバルブを回した。
冷たい水が根元に注がれていく。
「意味なんて、たぶんない。でも、やるしかねえんだよ」
つぶやく声だけが、静かな温室に吸い込まれていった。
5月に入った。
それなのに、気温はほとんど上がらず、冷えた朝が続いた。
空は相変わらず灰色のままだった。テレビでは「太陽光の減少が農作物に与える影響」を特集し始めていたが、具体的な対策は何一つ示されなかった。
それでも、左馬助はハウスに通い続けた。
作物が売れないのなら、自分で食うしかない。
幸い、保存は効く。トマトはスープに、ソースに、乾燥させてストックに──
だが、人間ひとりが食える量など、たかが知れている。
「配ればいいか」
そう思い立って、左馬助は箱にトマトを詰めて近所の家を回った。
顔見知りのばあちゃんたちに、「あんたのとこのトマトは一番甘いね」と言われて、少し笑った。
「ありがとう」──その言葉が、こんなに沁みるとは思わなかった。
ある日、役場から連絡があった。
「農家の方にお話があります。協力をお願いできませんか」
説明されたのは、地元の学校や福祉施設などに向けて、地域の農産物を無償提供する取り組みだった。
「物資が滞っている中で、地産地消の仕組みを動かせないかと……」
営利にはならない。でも、作物が無駄にならず、食べてくれる人がいる。
左馬助は、静かにうなずいた。「……うちでよければ、やりますよ」
その週末、保育園の園児たちが先生に連れられてハウスを訪れた。
みんなマスク越しにキャッキャと声を上げて、赤いトマトを見て目を輝かせていた。
中には、両親が仕事を失い、十分に食事がとれなくなっている家庭もあると聞いた。
「これ、どうやって育ててるのー?」
ひとりの女の子が訊いた。左馬助はしゃがんで、できるだけ簡単な言葉で答えた。
「土に水と栄養をあげて、光をいっぱい浴びさせてやるんだ。そうすっと、こうやって赤くなってくる」
「おひさま、ないのに?」
女の子の言葉に、左馬助は一瞬つまった。
そうだった。太陽はもう、しばらく見えていない。
なのに、このトマトは、それでも育った。
「……そうだな。ちょっとしか光がなくても、ちゃんと頑張ってくれるんだよ」
園児たちが帰ったあと、左馬助は少しだけ泣いた。
自分が育てていたのは、食べ物だけじゃなかった。
希望とか、安心とか、当たり前の生活とか──
そのほんの一部を、たまたま誰かに届けることができたのだ。
5月の終わり、少しだけ空が明るくなった日があった。
気温は低いままだが、雲の切れ間から、ぼんやりとした陽が差した。
「……久しぶりだな」
左馬助はハウスの中で、収穫したトマトを並べていた。
規格外のものばかりだ。色が薄かったり、形がいびつだったり。
だが、それでも左馬助にとっては、どれも同じだけ大切な「実」だった。
それを手に、今日も配達に出かける。
帰り道。空にはまだ、灰色のベールがかかっていた。
だがその向こうに、かすかに光るものが見えた。
「春……なんだよな、今」
そう呟いて、左馬助は空を見上げた。
光が少なくても、熱が足りなくても、春は来る。
命は、それでも根を張り、葉を広げ、実をつけようとする。
トマトたちが教えてくれた。生きるとは、そういうことだ。
(たぶん)パキスタンに対しインドが24〜36時間以内に軍事行動を計画との報を聞き、思いついただけのお話。