『舞姫』(原作:森鴎外 )翻案版
森鴎外の『舞姫』をAIであるGrokを使用して色々と弄って翻案。(それから細かい作業は自分がしましたが・・・)
『舞姫』
森鴎外
(翻案作業 穂上龍とGrok、参考イメージ アニメ『日本名作文学』)
或る日の夕暮なり、余はモンビシユウ街の僑居に帰らんと、クロステル巷に差し掛かりし時、鎖したる寺門の扉に倚りて、声を呑みつゝ泣くひとりの少女あるを見たり。
(原文より抜粋)
†
石炭の積み込みはすでに終わり、中等室のテーブル周辺は静寂に包まれている。
電球の光が華々しく輝いているが、人がいない以上、無意味なものだ。
今夜は毎夜ここに集うトランプ仲間もホテルに宿泊しており、船に残るのは私一人。寂しさが身に染みる。
†
5年前のことだが、私が長年抱いてきた海外への憧れが叶い、派遣の命を受けてこのサイゴンの港に辿り着いた時、全てが新鮮だった。
目にするもの、耳にするもの、何一つとして既知のものはなく、筆を手に紀行文を書き綴ったものだ。
新聞に掲載され、世間から称賛されたが、今にして思えば、幼稚な思想と身の程知らぬ放言、ありふれた動植物や風俗を珍しがって記したものを、見識ある者はどう見たか。
今回の旅では日記を記そうとノートを用意したが、まだ白紙のままだ。ドイツでの勉学を通じて、「何事にも驚かぬ」という冷静さを身につけたのか。それとも、別の理由があるのか。
さて、今東へ帰る私は、かつて西へ航した私ではない。
学問には未だ満たされない部分も多いが、世の浮き沈み、人の心の頼りなさ、そして己の心が移ろいやすいことも理解した。
昨日肯定したことが今日否定される、この刹那的な感覚を、誰に示す必要があろうか。
日記を書かない理由はそこにあるのかもしれない。いや、実はもっと深い理由があるのだ。
ブリンディジ港を出てすでに20日以上が経過した。
通常なら見知らぬ客とも交わり、旅の憂さを紛らわすのが航海の常だというのに、私は体調不良を理由に部屋に閉じこもり、同乗者ともほとんど言葉を交わさぬ。
誰にも明かせぬ恨みが私の頭を苛んでいるからだ。
この恨みは当初、薄い雲の如く心をかすめ、スイスの山々やイタリアの遺跡にも目を向けさせず、次第に世を厭い、己を責め、腸を締め付けるような苦痛を私に負わせ、今では心の奥に凝り固まり、一つの影と化した。
だが、書物を開くたび、物事を見るたび、鏡に映る影や音に反応する響きのように、過去への果てなき郷愁が呼び起こされ、何度も私の心を苦しめる。
この恨みをどうやって消し去ればいいのか。
凡庸な恨みなら詩や歌に詠んで心を軽くできようが、これはあまりに深く私の魂に刻れすぎて、そんな手段では済まされない。
今夜は誰もおらず、船員が電気を消しに来るまでまだ時間がある。ならば、この話を概略だけでも記しておこう。
†
私は幼少時より厳格な父の教育を受け、その恩恵か父を早く亡くしても学問を怠らず、旧藩の学館、東京の予備校、大学法学部と、太田豊太郎の名は常に一級の筆頭にあった。
母は一人っ子の私を頼りにしていたようだ。
19歳で学士の称号を授かり、大学創立以来稀な名誉と称され、某省に仕官し、田舎の母を東京に呼び寄せ、楽しい3年ほどを過ごした。
上司にも目をかけられ、海外へ出て一課の事務を調査せよとの命を受けた時、私の名を成し、家を興す好機が到来したと心が奮い立った。50を過ぎた母との別れもさほど悲しまず、遠路はるばるベルリンの都にやってきたのだ。
私には漠然とした功名心と、習慣となった勤勉さがあった。
それゆえ、このヨーロッパの大都市の中心に忽ち立ったのだ。
なんという輝きが私の目を射るのか、なんという魅力が私の心を惑わそうとするのか。
菩提樹下と訳せば静かな場所に思えるが、ウンター・デン・リンデンの大通りを見てみたまえ。
両側の石畳に列をなす紳士淑女を。
胸を張り肩を聳やかす士官、まだウィルヘルム1世の時代に窓辺で気取っていた頃の風情で、色とりどりの礼装に身を包んだ麗しい少女がパリ風の化粧を施し、どれもこれも目を驚かせぬものはない。
アスファルトの車道を静かに走る多彩な馬車、雲にそびえる楼閣が途切れた場所では、晴れた空に夕立の音を響かせて落ちる噴水、遠くを望めばブランデンブルク門を隔てて緑樹が枝を交わし、空に浮かぶ凱旋塔の女神像、これら多くの景物が一瞬にして目に集まる。
初めてここに来た者が茫然とするのも無理はない。
だが、私の胸には、いかなる場所に遊ぼうとも、虚飾の美に心を動かさぬ誓いがあり、常に外からの誘惑を遮っていた。
私が鈴を鳴らして訪問し、政府の紹介状を提出し、東からの来意を告げたプロイセンの官吏たちは、皆快く私を迎え、公使館の手続きさえ滞りなく済めば、何事でも教示しようと約束してくれた。
喜ばしいことに、地元でドイツ語とフランス語を学んでいたのが功を奏した。
彼らは初対面の折、「君はいったいどこでこれほどの語学を修めたのか」と驚かずにはいられなかったようだ。
さて、職務の合間に大学へ通う許可を得ていたので、政治学を修めようと登録した。
1ヶ月、2ヶ月と経つうちに、公務の打ち合わせも終わり、調査も順調に進み、急ぎの報告書を送り、その他のものは写しを残して、いく巻かを成した。
大学では、幼い頃に考えたような政治家への特別な教程などなく、どれを選ぶか迷ったが、2、3の法学者の講義に出席することに決め、学費を納めて聴講した。
かくして3年ほどは夢のように過ぎたが、時が来れば隠しきれぬのが人の嗜好というものだ。
私は父の遺言を守り、母の教えに従い、「神童だ」と褒められる喜びに怠らず学び、上司に「有能な部下だ」と奨励される嬉しさに倦まず働いたが、ただ機械的な人物となり、自覚せずにいた。
今25歳となり、この自由な大学の風に長く当たったせいか、心に何か落ち着かぬものがあり、奥底に潜んでいた真の私がようやく表に出て、昨日までの私を責め立てる。
私は政治家として世に雄飛するにも、法律を熟知して裁判を下す法律家になるにも適さぬと悟ったのだ。
私の見立てでは、母は私を生きる辞書に、上司は私を生きる法律にしたかったのだろう。辞書ならまだ耐えられようが、法律は耐え難い。
今までは些細な問題にも丁寧に答えた私だが、最近は上司への書類で
「法制の細部に拘泥するのは愚かだ。法の精神を把握すれば万事は容易に解決する」と大言壮語した。
また大学では法学を脇に置き、歴史や文学に傾倒し、徐々に深い境地に入った。
上司は私を自在に操る道具にしようとしたのだろう。
独立した思想を抱き、凡人と異なる顔を持つ私を喜ぶはずがない。
危うかったのは当時の私の立場だ。
だがそれだけでは私の地位を覆すには足りなかった。
日本人留学生の中で有力な一派と私の間に不愉快な関係が生じ、彼らは私を疑い、ついに讒訴するに至った。
だがその原因も確かにあったのだ。
彼らは私が共にビールを飲まず、ビリヤードのキューも手にしないのを、頑なな心と欲望を抑える力に帰し、嘲りつつ妬んだのだろう。
だが彼らは私を理解していない。
この理由は私自身も知らなかったのだから、他人が知るはずもない。
私の心は合歓の葉のようで、触れられれば縮こまり避けようとする。私の心は未だ汚れを知らぬものだ。
幼少より長者の教えを守り、学問や仕官の道を歩んだのも、勇気あってのことではなく、忍耐と努力の賜物に見えたが、実は自らを欺き、人をも欺いて、ただ与えられた道を歩んだに過ぎない。
心が乱れなかったのは、外界を捨てる勇気があったからではなく、外界を恐れて自らを縛っただけだ。
地元を離れる前も、有為な人物であることを疑わず、心が耐え得ると信じていた。
あの頃は。
船が横浜を離れるまでは豪傑と思い込んでいたが、涙が溢れてハンカチを濡らし、自分でも驚いたが、これが私の本質だった。
この心は生まれつきか、早く父を失い母に育てられた故か。
彼らが嘲るのは理解できる。
だが妬むとは愚かではないか。この弱く哀れな心を。
顔を赤や白に塗り、派手な服でカフェに座り客を誘う女を見ても近づく勇気はなく、高い帽子に眼鏡をかけ、プロイセン風の鼻声で語る「遊び人」を見ても共に遊ぶ勇気はない。
この勇気がなければ、活発な同郷の者たちと交わる術もない。
この交際の希薄さが、彼らが私を嘲り、妬み、さらには疑う原因となった。
これが私が冤罪を負い、一瞬にして無量の艱難を味わうきっかけとなったのだ。
ある日の夕暮れ、私は動物園を散策し、ウンター・デン・リンデンを過ぎ、モンビジュー街の宿舎へ帰ろうとクロスター小路の古寺前に来た。
灯りの海を抜けてこの狭く薄暗い路地に入り、2階の手すりに干されたシーツや下着が未だ取り込まれぬ家々、頬髭の長いユダヤ人の老人が立つ居酒屋、一つの階段は2階へ、もう一つは地下の鍛冶屋の住まいへ通じる貸家などを眺め、凹型に引っ込んだ300年前の遺跡を見るたびに、恍惚としてしばし佇んだことが幾度あったか。
今ここを通ろうとした時、閉ざされた寺の門に寄りかかり、声を呑んで泣く少女がいた。
16か17歳ほどか。
頭巾からこぼれた髪は薄い金色で、着衣も汚れているようには見えない。
私の足音に驚いて振り返った顔は、詩人でなければ描けぬ美しさだ。
この青く澄んだ、問いかけるような悲しみを湛えた目、涙に濡れた長い睫毛に隠された瞳は、なぜ一瞥しただけで用心深い私の心の底まで貫いたのか。
彼女は深い悲嘆に遭い、前後を顧みる余裕もなくここで泣いているのだろう。
臆病な私の心が憐憫に打ち勝たれ、思わず近づいて、
「君、何故泣いているんだね?」
「私のような知らぬ外国人の方が、力を貸しやすいこともあるさ」
と声をかけたが、我ながらその大胆さに驚く。
彼女は驚いて私の黄色い顔を見据えたが、私の真摯な気持ちが顔に表れていたのか。
「ああ、貴方って本当にいい人ですね」
「あのような酷い人とも、母さんとも違います」
とエリスが穏やかに語った。
涸れていた涙が再び溢れ、愛らしい頬を流れ落ちた。
「ああ、どうか助けてください」
「恥のない自分でいたいんです」
「母さんがあの方の言葉に従わないからと、私を叩きました」
「父さんが亡くなって、明日が葬儀の日なのに、お金が全くありません」
とエリスが続けた。
後は泣き声だけだ。
私の目はうつむく少女の震える首に注がれた。
「君を家まで送ろう。まず心を落ち着けるんだ。声が人に聞こえぬように」
と私が言うと、彼女は話すうちに無意識に私の肩に寄りかかっていたが、急に顔を上げ、初めて私を見たかのように恥じらい、飛び退いた。
人目が嫌で早足に歩く少女の後を追い、寺の向かいの大きな門を入ると、欠けた石の階段があった。4階まで登り、腰を折って潜るような扉があった。
少女が錆びた針金を捻った部分に手をかけて引くと、中から咳き込む老女の声がして、「何方かね」と問うた。
エリスが「私です」と答える前に、乱暴に扉を開けたのは、白髪交じりの髪で、悪相ではないが貧苦の跡を額に刻んだ老女で、古い毛皮の服を着て汚れたスリッパを履いていた。
エリスが私に会釈して入るのを、彼女は待ちかねたように扉を勢いよく閉めた。
私はしばし呆然としていたが、油灯の光で扉を見ると、「エルンスト・ヴァイゲルト、仕立て屋」とペンキで記されていた。これが少女の父親の名だろう。
家の中から言い争うような声が聞こえたが、また静かになり扉が再び開いた。
先ほどの老女が丁寧に無礼を詫び、私を招き入れた。
扉の内は台所で、右の低い窓に真っ白な麻布が掛けられ、左には粗末に積まれたレンガの竈があった。正面の部屋の扉は半開きで、中に白布をかけた寝台があり、死者が横たわっているようだ。竈の横の扉を開けて私を導いた。
ここはいわゆる「マンサード」(翻案者注:腰折れ屋根・・・フランス式の屋根)、街に面した一室で天井はない。
隅の屋根裏から窓へ斜めに下がる梁の下に寝台があり、中央の机には美しい布が掛けられ、本が2、3冊と写真立てが並び、高価そうな花束が陶器に活けてあった。
その傍に少女が恥じらいを帯びて立っていた。
彼女は抜群に美しい。
乳のような色の顔が灯りに映えて微かに紅を帯び、手足の細やかさは貧家の娘とは思えぬ。
先ほどの老女の部屋を出た後、エリスが少し訛った言葉で言う。
「ごめんなさい、貴方をこんな場所に連れてきてしまって」
「私、ちょっと失敗してしまいました」
「でも、貴方って本当にいい人ですね。私を嫌いにならないでください」
「明日が父さんの葬儀なんですけど、頼りにしていたシャウムベルクという方がいて、貴方はご存じないかもしれませんが、『ヴィクトリア』座の座長なんです」
「私をこの道に引き入れて2年経ちますから、きっと助けてくれると信じていたんですけど、他の方の不幸につけこんで我が儘(妾になること)を押し通そうとしています」
「ねえ、貴方、私を助けてくださいませんか」
「お金は少ないお給料から少しずつお返しします」
「私は食事を我慢しても大丈夫ですから」
「それも難しいなら、母さんの言う通りにするしかありません」
と涙ぐみ、体を震わせていた。
その見上げる目には、抗えぬ魅力があった。
この目の動きは意図的なのか、自然なのか、私には判断できぬ。
私の懐中に2、3マルクの銀貨があったが、それでは足りぬので、時計を外して机に置いた。
「これで当座を凌ぐんだ」
「質屋の使いがモンビジュー街3番地で太田と尋ねて来れば、代金を取り戻せるようにしよう」と告げた。
エリスは驚きと感動の表情を見せ、
「え、本当ですか!?ありがとうございます…」
と静かに囁き、私が別れに差し出した手に唇を当て、熱い涙が私の手の甲に落ちた。
なんという因縁か。
この恩を感謝しようとエリスが私の宿舎に来て、ショーペンハウエルを右に、シラーを左に置き終日座する私の読書スペースに、一輪の花を咲かせてしまった。
この時から私とエリスの交際が徐々に深まり、同郷の者たちにも知れ渡り、彼らは即座に
「こいつは舞姫と戯れている」
と決めつけた。
まだ我々2人の間には、愚かな歓楽しか存在せぬというの
に。
名を明かすのは憚られるが、同郷の者たちに好事家がおり、私が頻繁に劇場に出入りし女優と交わっていると上司に報告した。
すでに私が学問の岐路に走るのを嫌っていた上司は、公使館にその旨を伝え、ついに私を免職とし任務を解いた。
公使がこの命令を伝えた時、「君が即刻帰国するなら旅費を支給しよう。だがここに留まるなら公の援助は得られぬよ」と告げた。
私は1週間の猶予を願い、思い悩むうちに、生涯で最も悲痛な2通の手紙を受け取った。
ほぼ同時に届いたが、1通は母の自筆、もう1通は親戚からのもので、私が深く慕う母の死を報せていた。
母の手紙の言葉をここで繰り返すのは耐え難く、涙が溢れて筆を止める。
†
私とエリスとの交際は、この時までは他人から見ても清廉だった。
エリスは父親が貧しく充分な教育を受けられず、15歳で舞踊の師に誘われこの恥ずべき業を学び、クルズス(稽古会)を終えて「ヴィクトリア」座に出演し、今では2番手の地位を占める。
だが詩人が「現代の奴隷」と呼んだように、舞姫の身の上は儚い。
薄給に縛られ、昼は稽古、夜は舞台と酷使され、楽屋で化粧し美しい衣装を纏うも、外では自らの衣食さえ足りない。両親を養う苦労は如何ばかりか。
ゆえに仲間内で卑しい業(売春)に堕ちぬ者は稀だと聞く。
エリスが堕落しなかったのは穏やかな性質と頑強な父親の庇護による。
幼少より読書を好んだが、手に入るのは粗末な貸本屋の小説のみだった。
私と知り合ってからは私が貸した書物を読み、趣味を解し、言葉の訛りも正し、私に送る手紙の誤字も減った。
こうして我々の間にはまず師弟の交わりが生じた。
私は不意に免職となったと聞いた時、エリスは顔色を失った。
私は関与を隠したが、「ねえ、どうか母さんには内緒にしてください」と彼女は頼んだ。
母親が私の学資が途絶えたと知り疎むのを恐れたのだ。
詳述は不要だが、私がエリスを愛する気持ちが急に強くなり、離れ難い仲となったのはこの時だ。
人生の大事が目前に迫り、まさに危急存亡の時であるのにこの行動を奇異とし非難する者もあるだろうが、私がエリスを愛する情は初対面から浅くはない。
今私の不幸を憐れみ、別離を悲しんで俯く顔に乱れた髪がかかり、その美しく愛らしい姿は、悲痛に過敏となった私の脳を射ち、恍惚の内にここに至ったのだから如何ともし難い。
公使との約束の日が近づき、私の命運が迫った。
このまま帰国すれば、学問半ばで汚名を負った身に浮かぶ瀬はない。だが留まるにも学資を得る術がない。
†
この時私を助けたのは、今同行する相沢謙吉だ。
彼は東京で天方伯の秘書官を務めていたが、私の免職が官報に掲載されたのを見て、ある新聞社の編集長に説き、私を通信員とし、ベルリンに留まって政治や芸術の報道をさせることにしてくれた。
社の報酬は僅かだが、住まいを移し、昼食の店を変えれば細々とした暮らしは立つ。
逡巡するうちに、真心を顕わして救いの綱を投げてくれたのがエリスだ。
彼女がどう母親を説得したのかは知らないが、私が彼女と母親との家に寄寓することとなり、いつの間にか僅かな収入を合わせて、憂き中にも楽しい日々を送った。
朝のコーヒーを飲み終えれば、エリスは稽古に出かけ、空いた日は家に留まり、私はキョーニヒ街の狭く奥深い休息所へ赴き、あらゆる新聞を読み、鉛筆で材料を収集した。
窓から光を取り入れるこの部屋で、定職のない若者や、少額を貸して遊び暮らす老人、取引所の合間に休息する商人と肩を並べ、冷たい石の卓で忙しく筆を走らせ、女が運ぶ冷めたコーヒーも顧みず、新聞を細長い板に挟み壁に掛けたものを何度も見に行く私を、知らぬ者はどう見ただろうか。
また1時近くになると、稽古に行った日は帰路に寄り、私と共に店を出るこの軽やかな、手のひらで踊れそうな少女を、不思議そうに見送る者もいただろう。
私の学問は荒んだ。
屋根裏で微かに燃える一灯の下、エリスが劇場から帰り、椅子に寄って裁縫する傍の机で、私は新聞原稿を書いた。
かつての法令条文の枯葉を紙上に集めるのとは異なり、今は活発な政界の動きや文学美術の新現象を結びつけ、ビョルンよりはハイネを学び、力の及ぶ限り多様な文章を綴った。
中でもウィルヘルム1世とフリードリヒ3世の連続した崩御、新帝の即位、ビスマルク侯の進退に関する事柄には、殊更詳細な報告を成した。
この頃より予想以上に忙しくなり、蔵書を紐解き旧業を尋ねるのも難しく、大学の籍は残るが学費を納めるのが困難で、ただ一つの講義にすら通うことは稀だった。
私の学問は荒んだ。
だが別に一種の見識を得た。
民間学の流布は、欧州諸国の中でドイツに勝るものはないだろう。
何百種の新聞雑誌に散見する議論には高尚なものが多い。
私は通信員となり、大学に通った折に培った観察眼で読み、書き写し続けた結果、一本道だった知識が総合的となり、同郷の留学生らが夢にも知らぬ境地に至った。
彼らの中にはドイツ新聞の社説すら満足に読めぬ者もいるというのに。
†
明治21年の冬が来た。
表通りの歩道には砂を撒きシャベルを振るうが、クロスター街付近は凸凹で窪みが見えるものの、表面は一面に氷り、朝に戸を開ければ凍え死んだ雀が落ちていて哀れだ。
部屋を暖め、竈に火を焚いても、壁の石や衣の綿を貫く北欧の寒さは耐え難い。
エリスは2、3日前の夜、舞台で卒倒し、人に支えられて帰ったが、それ以降体調が悪く休み、食事を摂るたびに吐くのを、母親がつわりではないかと気づいた。
もとより私の将来が不確かなのに、もし真ならばどうしたものか。
今朝は日曜ゆえ家にいるが、心は楽しくはない。
エリスは寝込むほどではないが、小さな鉄炉の傍に椅子を寄せて言葉少なだ。この時 戸口に人の声がし、エリスの母親が郵便を持ってきて私に渡した。
見覚えのある相沢の手紙で、切手はプロイセン、消印はベルリンだ。
不審に思いながら開くと、
「急なことで事前に知らせる暇がなかったが、昨夜ここに到着した天方大臣に随行して私も来た。伯が君に会いたがっている。急いで来てくれ。君の名誉を回復する好機が今にある」とあった。
読み終えて茫然としていると、エリスが
「ねえ、地元からの手紙ですか?悪いお知らせではないですよね?」と言った。
いつもの新聞社の報酬の手紙と思ったのだろう。
「心配はいらないよ。君も知る相沢が、大臣と共にここに来て私を呼んでいるんだ。急ぎと言われれば今行くしかないさ」と私が答えた。
我が子を送り出す母でさえこれほど心を砕かぬだろう。
私が大臣に会えるかもしれないと思えば、エリスは病を押して起き、真っ白なシャツを選び、丁寧に仕舞っていたダブルボタンの服を出し、私に着せ、襟飾りまで手ずから結んでくれた。
「ねえ、これなら誰もみっともないとは言いません。鏡を見てくださいな。
どうしてそんなお顔をするんですか?私も一緒に行きたいですけど…」
少し表情を変え、「いいえ、お召し物を替えたあなたを見ると、どこか豊太郎らしくない気がします。」
また少し考えて、「たとえ立派になっても、私を捨てませんよね?私の体調が、母さんの言うほどではなくても…」
「立派だって?」
私は微かに笑い、
「政治や社会に身を投じる気などとうに捨てたよ。大臣に会う気もないさ。ただ久しく会わぬ友に会いに行くだけだよ」と答えた。
エリスの母親が呼んだ馬車が、雪道を軋ませて窓下まで来た。
私は手袋をはめ、やや汚れた外套を羽織り、帽子を取ってエリスに接吻し、階段を下りた。エリスは凍えた窓を開け、乱れた髪を北風に吹かせ、私の乗った馬車を見送った。
私が馬車を降りたのは「カイザーホフ」の入口だ。
門番に相沢の部屋番号を尋ね、久しく踏み慣れぬ大理石の階段を登り、中央の柱にプロイセン風のソファを据え、正面に鏡を立てた前室に入った。
外套を脱ぎ、廊下を伝って部屋の前まで行ったが、少し躊躇した。大学時代、私の品行方正を絶賛した相沢が、今日はどのような顔で迎えるだろうか。
部屋に入り対面すると、容貌は以前よりふくよかに逞しくなっていたが、依然として快活な気性で、私の失行をさほど意に介さぬようだ。別後の事情を詳しく語る暇もなく、引かれて大臣に謁し、委托されたのはドイツ語の文書を急ぎ翻訳せよとのことだった。
文書を受け取り大臣の部屋を出ると、相沢が後から来て、「君、一緒に昼食を取らぬかね」と誘った。
食卓では彼が多く問い、私が多く答えた。彼の人生は概ね平坦で、波乱に満ちたのは私の方だったからだ。
私が胸襟を開いて不幸な経歴を語ると、彼は何度も驚いたが、私を咎める気はなく、むしろ凡庸な他の留学生を罵った。
だが話が終わる時、彼は表情を正し、
「この一件は君が生来の弱い心から生じたものゆえ、今さら申してもどうしようも無い」
「だが、学識と才能ある者がいつまでも一少女の情に縛られ、目的なき生活を送るべきではない」
「今は天方伯も君のドイツ語を活用したいだけだ」
「私も伯が当時君を免職した理由を知るゆえ、無理にその意を翻そうとは思わぬが、伯に曲者と思われれば友として益なく、君にも損だ」
「人を推挙するにはまずその能力を示すのが最善だ」
「それで伯の信用を得なさい」
「またその少女との関係は、たとえ彼女に真心があろうと、情交が深まろうと、人材を見込んだ縁ではなく、慣習という惰性から生じたものだ」
「決意して断ち切るべきだよ」
と諭した。
大洋で舵を失った船人が遠くの山を望むように、相沢が示したのは私の前途の方針だ。
だがその山はなお濃霧の中にあり、いつ辿り着けるか、いや辿り着いても私の心を満足させるか定かではない。
貧しさの中にも楽しい今の生活、エリスの愛は捨て難い。
弱い私の心では決断できなかったが、とりあえず友の言葉に従い、この縁を断とうと約した。
守るものを失いたくないと思い、敵には抗うが、友に「否」とは言えぬのが私の常だ。
別れて出ると、風が顔を打つ。二重窓を閉め、大きな暖炉に火を焚くホテルの食堂を出たので、薄い外套を貫く午後4時の寒さは格別耐え難く、鳥肌が立つと共に、心に一種の冷たさを感じた。
†
翻訳は一夜で仕上げた。
「カイザーホフ」への通いは次第に増え、最初は伯の言葉も用件のみだったが、次第に近頃地元であった事柄を挙げて私の意見を求め、折に触れて旅中の失態を語り笑いものとした。
1ヶ月ほど経ち、ある日伯が突然私に、
「私は明日、ロシアへ発つ。共に来るかね」と問うた。
数日忙しく相沢に会っていなかったので、この問いかけに驚いた。
「貴方の命令に背くわけにはいきません」と答えた。
恥を晒したくなかったのだ。
この返答は即断したものではなく、信頼する者に急に問われた時、咄嗟に範囲を考えず諾と答え、後でその困難さに気づいても、当時の軽率さを隠し耐えて実行することが屡々ある。
この日は翻訳の報酬に旅費まで添えて賜り、帰宅して翻訳代をエリスに預けた。
これでロシアから帰るまでの費用が賄える。
彼女は医者に見せたところ異常な体だと言われた。
貧血が原因で、数ヶ月気にかかっていたらしい。座長から休みすぎと籍を外されたと。
一ヶ月ほどで厳しいのは理由があるのだろう。旅立ちにはさほど悩む様子はなかった。
私の真心を厚く信じていたからだ。
鉄道で行く短い旅だから、用意も大したものではない。
借り物の黒礼服、新たに購入したロシア貴族の家系譜と2、3種の辞書を小さなカバンに入れたのみだ。
心細いことばかりで、出た後に残るのも憂鬱だし、駅で泣かれれば困ると思い、朝早くエリスを母親に預け知人の許へ行かせた。
私は旅装を整え戸を閉ざし、鍵を入口の靴屋の主人に預けて出た。
†
ロシア行について何を語ろうか。
通訳の任務が私を急に連れ去り、雲の上に落とした。
ペテルブルクで大臣一行に随行中、私を囲んだのは、パリの奢りを氷雪に移した王宮の装飾、無数の蝋燭に映る勲章や肩章の光、精緻な暖炉の火に寒さを忘れて扇を動かす宮女の姿だった。フランス語を最も流暢に操る私が賓主の間を周旋し事を弁じた。
その間、エリスを忘れなかった、いや、毎日手紙を寄越すので忘れられなかった。
私が出た日、
「ねえ、貴方がいなくて一人で灯りを見ていると、とても寂しくて。
お友達の家でお話しして疲れるまで過ごして、家に帰ってすぐ眠りました。
朝目覚めた時、一人置いていかれたのが夢ではないかと思いました。
その時の心細さは、生活が苦しくて食事がいただけない時も感じませんでした」
との手紙が来た。
また後日の手紙は、
「ねえ、貴方への想いがどれほど深いか、今ようやく分かりました。
貴方が故郷に頼れる親戚がいないとおっしゃっていたから、こちらで素敵なお仕事があれば残りますよね。
私が愛で引き留められなくても、東へ戻るなら母親と一緒に行くのは簡単ですけど、こんな大金はどこからいただけるのでしょう?
どんなお仕事をしてもこちらに留まって、貴方が活躍する日を待ちたいとずっと願っていました。
でも、短い旅行で出てから20日ほど、別れの想いが日に日に募るばかりです。
一瞬の辛さだと思っていたのは間違いでした。
私の体調が少しおかしいと気づいて、何があっても私を捨てないでください。
母とは大喧嘩しましたけど、昔の私と違って決意を見せたら折れてくれました。
私が東へ行くなら、シュテッティン近くの農家に遠い親戚がいて、そこへ身を寄せようかと。
貴方が書いたように、大臣に重んじられれば旅のお金はどうにかなりますよね。
今はただ、貴方がベルリンに戻る日を待つばかりです」
と切実だった。
この手紙を見て初めて私の立場を明視できた。
恥ずべきは私の鈍い心だ。
己の進退や他人の事にも決断力があると自負していたが、それは順境にのみで、逆境にはない。
自分と人の関係を照らそうとすれば、心の鏡は曇っている。
大臣はすでに私に厚い。
だが近視眼の私は職務を果たしたことしか見ていなかった。
未来の望みを繋ぐなど、神のみぞ知るが、全く考えなかった。
今気づいても心は冷然としたか。
相沢が以前勧めた時、大臣の信用は屋上の鳥のようだったが、今やや得たか。
相沢が近頃、「帰国後も共にこうできれば」と語ったのは、大臣がそう言ったのを友として明言せぬものか。
今思えば、私が軽率にエリスとの関係を断つと言ったのを、大臣に早々に告げたのか。
ドイツに来た当初、本質を悟り機械的人間にはならぬと誓ったが、それは足を縛られ解かれた鳥が一時羽ばたき自由を得たと誇ったに過ぎぬのか。
…足の糸は解けぬ。
†
私の運命はかつては某省の上司が操り、今は天方伯の手中にある。
私が大臣一行とベルリンに帰ったのは新年の元旦だ。駅で別れ、家へ車を飛ばした。
ここでは大晦日に寝ず元旦に眠る習慣ゆえ、万戸は静寂だ。
寒さは厳しく、路上の雪は角張った氷となり、晴れた日にキラキラ輝く。
車はクロスター街を曲がり、家入口に停まった。
窓が開く音がしたが、車からは見えぬ。御者にカバンを持たせ階段を登ろうとすると、エリスが駆け下りてきた。
叫び声を上げ私の首を抱いたのを見て、御者は驚いた顔で髭の中で何か呟いたが聞こえぬ。
「ああ、よく帰ってきてくれたわ!帰ってこなかったら、私、どうにかなってた!」とエリスが穏やかに語った。
私の心はこの時まで定まらず、地元への思いと栄達への欲が時に愛情を圧そうとしたが、この一瞬、逡巡する思いは消え、私は彼女を抱き、彼女の頭が私の肩に寄り、喜びの涙が肩に落ちた。
「何階までお運びしましょうかぁ!?」と大きな声で叫んだ御者が、先に登り階段の上に立っていた。
外で迎えたエリスの母親に、
「御者を労ってやってください」
と銀貨を渡し、エリスに手を引かれ急いで部屋に入った。
一瞥して驚いた。机の上に白い綿布やレースが積まれていた。
エリスは穏やかに笑いながら指さし、
「ねえ、どう思う?この用意を見てちょうだい」
と言い、綿布を取るとおむつだった。
「私はね、こんなにときめいているの。
生まれる子が、貴方に似て黒い瞳だったら素敵よね。
この瞳。
ああ、夢に見たのは貴方の瞳だった。
赤ちゃんが生まれたら貴方の優しい御心で愛して、変な名前なんか付けませんよね?」
エリスは頭を下げ、
「幼稚と思われるかもしれませんけど、教会へ行く日は本当に楽しみなんです」と涙を湛えた目で見上げた。
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2、3日は大臣も旅の疲れがあるだろうと訪ねず、家に籠っていたが、ある夕暮れに大臣に招かれた。
待遇は殊の外良く、天方伯はロシア行の労をねぎらい、
「私と共に東へ帰る気はないか。君の学問は私の知る限りではないが、語学だけで世の用に足りぬ」
「滞在が長すぎれば様々なしがらみもあるだろう」
「相沢に問うたところそのようなことはないと聞き安堵したよ」
と仰った。
その態度は断り難い。
危ういと思ったが、相沢の言を偽とも言えず、この手に縋らねば祖国を失い、名誉を挽回する道も絶たれ、この広大な欧州の大都の人海に葬られるかとの念が心を衝いた。
なんという信念なき心だろうか、「了解した」と応えた。
鉄(くろがね)の兜の無神経があったとしても、帰ってエリスに何と言おうか。
「ホテル」を出た時の私の心の錯乱はたとえようもない。
道の東西も分からず考えに沈み歩くと、馬車の御者に幾度も叱られ、驚いて飛び退いた。
しばらくして周囲を見れば、動物園の傍に出ていた。
倒れるように道端のベンチに寄り、熱く響く頭を背もたれに預け、死人のようにどれほど時を過ごしたか。
激しい寒さが骨に徹して目覚めると、夜に入り雪が降り積もり、帽子の庇や外套の肩に2.3cmほど積もっていた。
すでに11時を過ぎただろうか、モアビットやカール街を行く鉄道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルク門の瓦斯灯が寂しい光を放つ。立ち上がろうとすると足が凍え、両手で擦ってようやく歩けるようになった。
足が進まず、クロスター街に至った時は深夜を過ぎていたか。どう歩いて来たか覚えていない。
1月上旬の夜ゆえ、ウンター・デン・リンデンの酒肆や茶肆は賑わっていたはずだが記憶にない。
私の脳裏にはただ「私は許されぬ罪人(とがびと)だ」との思いが満ちていた。
4階の屋根裏では、エリスがまだ寝ていないらしく、明るい一星の火が暗空に透けて見えるが、降り続く雪片に隠れ現れ、風に弄ばれているようだ。
入口に入ると疲れを覚え、体の痛みが耐え難く、這うように階段を登った。
台所を過ぎ、部屋の扉を開けて入ると、机に寄り おむつを縫っていたエリスが振り返り、
「えっ!?」と叫んだ。
「ねえ、どうしたんですか!?貴方、その姿…!」
驚くのも当然だ。
死人のように青白い私の顔、帽子はいつの間にか失い、髪は乱れ、幾度も道で転んだため服は泥混じりの雪に濡れ、所々が裂けていた。
私は答えようとしたが声が出ず、膝が震えて立てず、椅子を掴もうとしたまでは覚えているが、そのまま倒れた。
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意識が戻ったのは数週間後だ。
高熱で譫語ばかり言っていたのをエリスが懸命に看病してくれた。
ある日 相沢が訪ねて来て、私が隠していた顛末を詳しく知り、大臣には病とだけ告げて上手く取り繕ってくれた。
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初めて病床のエリスを見て、その変わり様に驚いた。
この数週間でひどく痩せ、血走った目は窪み、灰色の頬が落ちていた。
相沢の助けで日々の生計は困らなかったが、この恩人が彼女を精神的に壊してしまった。
後で聞けば、エリスが相沢に会った時、私が彼に約束したことや あの夕べ大臣に申し上げた諾を聞き、突然立ち上がり、顔が土気色になり、
「ああ!私の豊太郎、こんな形で私を欺き騙していたの!?」と叫び、その場に倒れた。
相沢が母親を呼び共に床に臥せたが、エリスは目覚めた時は目が一点を凝視し傍の者も見知らず、私の名を呼び罵り、髪をむしり布団を噛み、また急に気づいたように物を探した。
エリスは母親が渡すものは全て投げたが、机の おむつを渡すと顔に押し当て泣いた。
それからは騒がなくなったが、エリスの精神は ほぼ停止し、赤子のように呆けた。
医者に見せると、過労で急発した「精神分裂症」(統合失調症)で治癒の見込みはないと言う。
我々はエリスをダルドルフの精神病棟に入れようとしたが、彼女は泣き叫び、後には おむつだけを持ち、何度も見ては泣いた。
エリスは私の病床を離れぬが、心ある行動ではないようだ。
ただ時折「薬をください、薬をください」と言うのみだった。
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私の魂は完治しない。
エリスという生ける屍を抱き、涙を流したのは幾度だったか。
大臣に随い東へ帰る際、相沢と話し合ってエリスの母親に僅かな生計を営む資本を与え、発狂したエリスの胎内に遺した子供が生まれる時のことも頼んだ。
相沢謙吉のような良友は世に得難い。
だが私の脳裏に、彼を少し恨む心が今日まで残っている。
終
(明治23年1月)
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翻案者:原文は サイト「青空文庫」より引用した。