誰にも信じてもらえなかった公爵令嬢は、もう誰も信じません。
「私のことを誰も信じてくれなかったのに、どうして私が誰かを信じられるのでしょう」
冷めた瞳で微笑みながら、彼女はそう言った。
離れた手のぬくもりが、消えていくことに絶望しながら、俺は深い後悔の念に襲われる。
願うなら、
叶うなら、
君との再会をやり直したいと祈った。
*
彼女を初めて見たのは、幼い頃。
王都で暮らしていた時の事だ。
「もし、落とされましたよ」
そう言って、母の形見のペンダントを拾ってくれた彼女の美しさに、俺は一目で心奪われた。
故郷の東の辺境地、ディオグーン領にあるオアシスと同じ色をした澄み渡る水色の髪に、甘くて神秘的な、桃色の瞳。
警戒心など、一片も感じさせない、無垢な笑顔を向けてくれた彼女に、恥ずかしながら俺は、「ありがとう」と一言返すのが精一杯だった。
彼女の名前はエリフィアナ・バートレット。12公爵家の一つ実りの牡牛を先祖に持つ、公爵家の末娘であった。
正直に言って一目惚れだった。
4つ年の下の、当時まだ8歳だった少女に、12歳の俺は恋に落ちた。
屋敷に帰って早々、父に彼女を娶りたいと願うほどに、その恋の力は絶大だった。
けれども、その願いが叶うことは無かった。
エリフィアナ嬢はその日、私と同じ年に生まれた第二王子と婚約を結んだからだ。
相手が王族では、辺境伯家の息子など太刀打ちができるわけもなく、初恋に落ちたと同時に失恋した俺は、情勢の悪化も原因ではあったがすごすごと辺境の地に戻ることになった。
14になって、王立学院に通うために王都に戻り、第二王子と親交を深めながら、初恋の少女とその婚約者である第二王子が仲睦まじいことを知り、もやもやとした気持ちを抱えていく。
そうして、デビュタントを迎えた彼女が第二王子の隣で、あの優しい微笑みを浮かべて立つ姿を見て、すっぱりと諦めがついた俺は、19での王立学院の卒業を待たずに、辺境の地へと舞い戻った。
だから、どうしてそうなったのか、俺にはほんの少しも分からない。
ただ、気が付いたら、初恋の少女は王都では有名な悪女となっていた。
はじまりは、治癒の聖女として才覚があるという少女を一人、分家筋の子爵家から養女としてバートレット公爵家に迎え入れたことからだった。
ピンクブロンドに、幼い顔立ち。
田舎の生まれで、王都の淑女からすれば拙い淑女の礼。
奔放で懐っこい性格の、新たな公爵令嬢に、王都の若者は色めき立った。
希有な治癒の力を、貴賤に問わず惜しみなく使い、癒しの聖女と謳われる義妹。
その存在を許せなかった彼女は、下級貴族の出であることを理由に、義妹を虐げた。
人前で叱責し、恥をかかせ、家では些細なことで打っては怪我をさせ、使用人の真似事までさせて、ついには階段から突き落とす。
「私はやっていません」と繰り返すだけの彼女に、愛想が尽きた第二王子は夜会の席で彼女との婚約破棄を宣言すると、新たに義妹との婚約を発表した。
事態を重く見た王家は、彼女と第二王子の婚約を破棄すると、流刑の地として東の辺境地である我がディオグーン領を選び、王命として俺との婚姻を強制した。
その頃の俺はもう、彼女への想いを封じ込んだ後だった。
第二王子とは友情を築いていたので、事のあらましと彼女が犯した罪の数々を記し、俺に飛び火した現状に対して謝罪する手紙を読んで、彼女の変わりように憤ったことを思い出す。
俺の美しい初恋の思い出を踏みにじった彼女に、怒りがこみ上げた。
嫉妬に狂った女ほど、醜いものはないと、10の時に死んだ実母を思い出す。
大好きな母は、父に愛人ができたと誤解してから嫉妬に狂って、我が辺境伯地を守護する水蜥蜴が住まうオアシスに身を投げて死んだ。
そのため、水蜥蜴様の怒りを買い、オアシスが一時干上がってしまうという事態を引き起こしたのだ。
嫉妬にさえ狂わなければ、母は自分の大好きな優しい母であったはずなのにと、未だに負の想いが燻ぶる自分にとって、嫉妬に狂って義妹を虐げた彼女という存在は、俺の心を逆撫でするに十分だった。
「君のような悪女を愛するつもりはない」
嫁いできたその日、久方ぶりに見るやつれた様子の彼女に、俺はそう言った。
美しかった水色の髪は傷み、罪人であるからゆえに短く切りそろえられ、甘い砂糖菓子のような桃色の瞳は疑心暗鬼で冷めていた。
こうも落ちぶれた、初恋を見ることに嫌悪する。
あの眩い笑顔を持った少女には二度と会えないのだと、ため息を隠せなかった。
ひどい言葉を投げかけた俺に、彼女は抑揚のない声でたった一言、「私は何もしていません」と言ったが、とても信じられなかった。
その言葉に答えることなく、夫婦の寝室を後にした俺に、彼女が何を思っていたのか、今はもう分からない。
ただ、あの時背中に感じた気配は、静かに涙を流す幼子の気配だった気がしてならない。
嫁いできた彼女は、何もしなかった。
流刑として、自分に嫁いできたからには女主人の役目を任せることもできないので、全ての権限を取り上げて軟禁していたからもあるが、彼女は文句の一つも言わなかった。
使用人の誰もが、彼女の世話をするのを嫌がったので、最低限の身の回りの世話をさせる以外は誰も寄り付かせない。
そのせいで、彼女は与えた私室に引きこもってばかりいた。
正直に言えば、お飾りにもならない妻である彼女を、持て余していたのは事実だ。
彼女を忘れたように仕事に没頭し、3日・10日、1ヵ月と日々が過ぎたころに、第二王子から様子伺いの手紙が届き、そういえばどうしているだろうかと彼女の様子を見に行って、絶句する。
荒れた部屋の中、ガリガリに瘦せ衰えた彼女がそこにいた。
最低限の世話だけはとさせたつもりであったが、使用人たちはその最低限の世話も放棄していた。
極端な栄養失調を起こしていた彼女は、ベッドの上で虫の息で、俺は慌てて医者を手配した。
食事が3日に1回になっていたことも知らない。
その食事が、使用人の残飯だったことも知らない。
生きる意志が重要な治癒の魔法が、ほとんど抜けていくほど、彼女が絶望していることも知らなかった。
それでも懸命な治療の甲斐あってか、彼女は起き上れるほどに回復したが、筋力が衰えたせいで立ち上がることは叶わず、そして心を閉ざしたのか誰とも口を利くことは無かった。
俺の監督不行きが原因だったせいもあって、罪悪感から時間があけば彼女の看病を手伝った。
食事の介助をしても、彼女は冷めた目のまま俺が差し出した匙を口に食むばかりで、そこには感謝も嫌悪も、何もない。
そうして、彼女が来てから3ヵ月経つ頃、ずっと口を閉ざしていた彼女が、匙を食みながら呟くようにこう言った。
「どく、はいってないんですね」
愕然とした。
俺が彼女に毒を盛るような人間に見えたのだろうかと。
反射的に抗議する俺に、彼女は無感情の淡々とした声で、ゆっくり言葉をつむぐ。
「だって、あなたのしようにんは、わたしにどくをあたえてましたもの」
3日に一度、与えられる食事。
それにはほんの少し、死に至るほどではないけれど体調を崩す毒を、使用人たちは冗談半分で盛っていた。
飢えに耐えられず、ようやくの思いで口にした残飯のような食事に、毒が含まれてると知った時の絶望を、どうしたら理解ができるだろうか。
東の辺境地、ディオグーンは他の辺境地に比べて恵まれてるとは言えない。
東の砂漠と隣接する我が領は、ディシャール国の中でも土地柄異質で、領民の性質も王都とは違う。
それでも、オアシスがあるから、砂漠地帯の街の中では作物もよく育つし、少なくとも貴族が飢える領地ではない。
その地で、次期辺境伯となる俺の妻が、餓死寸前まで……他ならぬ身内である使用人達に虐げられたという事実。
その責任が、全部自分にあるのかと思うと、何も言葉が出なかった。
すぐさま謝罪したらまだよかったのに、その言葉が出なくて絶句したままの俺に、彼女は冷めた瞳のまま「きにしないでください」という。
「もうわたしは、だれもしんじませんので」
淡々と、無感情なその声が、今の彼女の全てに思えた。
その日、俺は初恋の少女が、壊れてしまったことを知った。
*
「もうわたしは、だれもしんじませんので」
「……それならなぜ、俺が与える食事を食すのですか」と、かろうじて問いかける。
毒が入っているのではと疑いながら、どうして彼女が食むのかがわからなかった。
動揺する俺に、彼女は「だって、どくがはいっていたらしねるでしょう」などと言う。
「しにたいんです、わたし。もうずっと
わたしは、うそなんてひとつもついてないのに、だれもしんじてくれないんです。
しんじてほしいとうったえても、
わたしはそんなことしてないといっても、
とうさまも、かあさまも、にいさまも、でんかも……
だれもだれも、なにひとつしんじてくれない。
いつかわかってくれるとおもっていたけれど、しんじつづけることにつかれてしまった。
だからもう、だれもしんじませんので、あなたさまはわたしにきをつかうこともしなくていいのです」
「だってあなたも、わたしをしんじないでしょう?」と、冷めた目で、けれども疑うことのないその瞳でつむぐ彼女の言葉が、心をえぐる。
そうして俺ははじめて、王都で何が起こっていたのか、どうしてそうなったのかを調べ始めた。
あまりにも遅すぎたのに、それでも王都がおかしいことがわかってくる。
その頃、王都は本当におかしなことになっていた。
義妹が婚約者のいる貴族子息を侍らせて、好き勝手散財しては王都を練り歩き、貴族令嬢が断罪されては修道院に飛ばされる。
明らかにおかしいのに、誰もそれに異を唱えない異常な状況。
その状況に、一石を投じたものの、どうなるかは分からない。
だから、彼女にも何も伝えない。
彼女にそれを伝えたところで、彼女が何も信じないのは明らかだったからだ。
彼女は何も信じない。
生きる希望もなく、何も信じないまま、毎日を淡々と過ごす彼女と、時間さえあれば一緒にいた。
誰にも信じてもらえないことに心が摩耗しすぎて、
誰も信じないことで自分を保つ、自身の死を望む公爵令嬢。
信頼を勝ち取りたいと思ったのは最初だけ。
彼女がここに来た時に、彼女を信じずに愛するつもりはないと告げた俺に、そんな資格がないと気が付いてからは、ずっと……彼女に献身を捧げるだけ。
見返りもなくていい。
ただ、心を壊した彼女に寄り添いたかった。
心を壊してしまった、初恋の少女に、せめてもの安寧を捧げたかっただけの話。
ただ、できることなら、
俺に向けてくれなくていいから、初めて会った時のあの愛しい笑顔を、彼女が取り戻してくれればと祈っていた。
*
半年が過ぎ、1年が過ぎたある日、
その頃には、彼女はだいぶ回復していて、けれども自力で歩くことができないから車椅子で、
日常的な介助を俺が手伝ってはいたけれど、そこにはやはり俺に対する信頼は無くて、
抱き上げようとしても、彼女は俺に縋ることもなかった。
彼女を虐げていた使用人たちは全員解雇し、彼女につけた使用人たちが心を砕いても、彼女は誰も信用しない。
それにめげない、心の強い侍女幾人かと俺だけが彼女の介護をしている現状で、少しだけ、疲弊していたのかもしれない。
そんな頃。
ディオグーン領のオアシスを、大きな砂嵐が襲った。
時折発生する、大型の砂嵐。
通常であるなら、風魔法をぶつけて早いうちに相殺させるのだが、その砂嵐はうちにいる風魔法の使い手では太刀打ちできないほどの巨大なもので、数10年ぶりの災害と言って差し支えないほどだった。
事態の収拾に、父や臣下が懸命に働き、俺も次期当主として民を守るために奔走していた。
けれども砂嵐をおさめることはできなくて、
ディオグーンの街を砂嵐が襲うことを止めることができず、
無力感に苛まれ、膝をつく俺の前で、
彼女は無表情のまま立ち上がった。
呆気にとられる俺の前で、彼女は初めて会った時のように微笑むと、拙い足取りでバルコニーから飛び立った。
その手を、俺は慌てて掴む。
小さくて細い手だった。
大きな砂嵐の気配が濃くなる中、彼女は何とも言えない顔で俺を見つめていた。
「てをはなしてください」
「嫌だ、嫌だ」
「なぜ、はなしてくださらないのですか」
「離したら君は行ってしまう!!!」
「いかせてください。わたしならこのあらしをとめられます」
知っていた。
彼女が風魔法の使い手であることを。
彼女の魔力の量なら、この砂嵐を止められる可能性があることを。
けれども、弱った彼女がそれをすれば、命を落としてしまうであろうことも。
「あなたが……、あなたを、これ以上犠牲にするわけにはいかない」
もう、彼女は誰も信じられなくなるほど傷ついた。
これ以上、犠牲にするわけにはいかないと思った。
けれども、彼女は冷めた瞳のままあの日の笑顔で微笑む。
「わたしのことをだれもしんじてくれなかったのに、どうしてわたしがだれかをしんじられるのでしょう。
だからわたしはもうだれもしんじません。
しんじることも、しんらいすることもつかれました。
けれども、
だれもしんじないけれども、
アルバスさまはわたしにやさしくしてくださいました。
わたしにつかえてくれたじじょのこも、
みんなみんな、あんなおめいをきたわたしにやさしくしてくださいました。
わたしはだれもしんじてはいけないけれど、そのやさしさにはこたえたいのです。
わたしは、このまちをすくいたいとねがう、わたしのこころにうそをつきたくないのです」
「アルバス様、アルバス・フェイドリンド小辺境伯様。これまで私に優しくしてくださって、ありがとうございました」と、彼女は微笑むと、繋いだ手がするりとほどけて砂嵐の中に消えていった。
砂嵐の音が、俺の絶叫を覆い隠す。
やがて、一陣の風が吹くと、砂嵐はきれいさっぱり消え果て、そうして青い空が広がった。
彼女は帰ってこなかった。
遺骸が見つかることもなく、行方は知れない。
懸命の捜索もむなしく、その事件から2ヵ月たった頃、王都で偽の聖女として義妹の首が飛んだという話を聞かされた。
希有な治癒の魔法の使い手であった義妹は、同じく希有な魅了魔法の持ち主で、魅了魔法を使って王都を混乱に陥れていたそうだ。
俺が投じた一石をきっかけに、義妹の悪事は表に広がり、魅了魔法では補えないほどになった結果、義妹は極刑となったらしい。
その魅了魔法の一番の被害者である第二王子から、彼女に対する謝罪と一目会いたいという手紙を受け取って、今さらかと吐き捨てたくなった。
もう、全部遅い。
誰も信じられなくなった公爵令嬢は、
誰も信じないまま風に乗って消え去ったのだから。
見つからなかった遺骸についてはお察しください。