プロローグ
――――思うがままに生きる。例えそれがどれほど難しくとも――――
『遅れる……』
それは実に彼女らしい単刀直入な言い方だった。
余計な装飾が一切なく必要最低限の言葉で事実だけを伝えるその在り方が。
『五分…』
続けられた言葉もまた、簡単すぎるものだった。一周回って会話を拒んでいるようにも感じられる程言葉の切り口が鋭かった。そしてその考えは半分くらいは当たっているだろうと思われた。
「退屈だ」
『気持ちよくしてあげようか……』
『天国の前で……』
洒落にならない誘いだった。物理的な天国の面前で精神的な天国に旅立つなど冗談ではない。
「魅力的だな……」
しかし同時にその蠱惑的な誘いに乗ってみようとも考える。彼女の冷たくも心地いい撫でるような声がそう思わせたのかもしれなかった。
『”蜂”が来る……』
『後で……』
耳元に付いたデバイス越しの会話が突然切れる。あまりの唐突さと声の温度の低さに会話があったことが幻のように感じられた。
衛星経由の電波のやり取りが自立制御の”蜂”に感知されることはない。だというのに彼女の用心深さはいつもと変りなく徹底されていて思わず苦笑いしてしまう。
これが数年という長い期間彼女を生かしてきた本能。その一端を垣間見ることができたというわけだった。
月明かりが主張を最も強くするはずの夜。乾いたアスファルトを同じく乾ききった硬質な何かが叩く音が響く。一つだけ灯された吊るされた明かり。旧時代的なたった一つの街灯が頼りなく辺りを照らしている。周囲を見渡せば一様に生気を失ったどこか埃っぽい建物ばかり。例えどれほど地価が安かろうとこの一帯を購入する輩はいないに違いない。
なんとなく道なりの家に手を当ててみる。細かな亀裂が入ったコンクリートの壁が、予想通り土埃を化粧のように張り付けていた。高さは三メートル程だろう。二階部分に相当する空間には無残にも朽ちた支柱だけが突き刺さっていた。これと言って見るべきところのない、何の変哲もない廃墟。
俺は数十年前の過去を眺めるのを止め振り返る。そこには背後に何も言わずに佇む瓦礫達と違い見る者を圧倒する現在があった。
見上げるばかりに天高く聳える、どこか蟻塚を彷彿とさせる艶やかに輝く鉄塔の群れ。逆転した満点の星空のような広大な中心街。
疑いようもなく絶景だった。
真下の《ヘブンストレート》とその遥か上空には《楽園》が見え、中央に一際高く天に刺さる《ヒンメル》。
弱者と強者と異常者と、亜人類が複雑怪奇な物語を描く世界が、この世界を構成する全てが、《シャンゼリア》の全てが今や目の前にあった。
近いようで遠い、空高く浮かぶ円盤の向こうを思う。空の上から見る空はどんな色をしているのだろうかと。この不毛の大地と化した地上からでは燻ぶった鈍色しか見えないが、きっとそこから見る景色はこことは違うものに違いない。見下ろす大地の色は、一体どう見えているのだろうか。ここで生まれ、ここに生きる俺には想像すらできやしない。
《ヘブンストレート》を一望する廃墟となって新しい家々が残る丘の上。未だ命を貫通するだけの核の遺産が残る生と死の境界線上。
《レミング》を求めてこんな場所に来ている俺には、到底縁のない話だ。
先方は頭のネジが十本単位で抜けてしまったその筋のエリート。この世界ではそれなりに有名で俺との付き合いも比較的長い部類に入る同類の人間。改良型を買ってほしいというから態々住人さえ近づかない《ヘブンストレート》までやってきたのがこの日の顛末だった。
こういった影の仕事をしている奴にしては信じがたいほど律儀な性格で、俺はこの数年で奴が待ち合わせ場所に遅れてきたのを見たことがなかった。いつも突飛な場所を指定してきては静かにそこに佇む女性。
それが奴に対する一番のイメージだった。
仕事に対するポリシーなのかは分からないが数年来の付き合いであるにも関わらず俺は彼女の名前すら聞いたことがない。用心に用心を重ね、慎重に慎重を重ねる極め付きの潔癖主義者。
そんな彼女が、この日初めて遅れた。
いつもなら間違いなく先に待機しているはずの人影はなく、剰え時計の針はもう刻限に迫っていた。来訪を告げる足音もなく、デバイスからの電子音もない。
この界隈で生きている奴なら誰もが理解する。もう、彼女が来ることはないだろう、と。本人の意思だったにせよ何か事情があったにせよこの取引はもう終わった、と。
冷たく生きなければならない。それがこの世界のルールだ。たった一つの掟と言ってもいい。命を安売りしたいのなら話は別だが。
俺はその掟に従って足を動かそうとした。煌びやかに輝く中心街と《ヒンメル》に別れを告げ次の《レミング》の調達先について思考を走らせ始めた。知らない内に握り締めていた掌を解いた。
その瞬間に通話が来た。
先の無愛想も極みに達した連絡だ。しかし俺はその素っ気なさに寧ろ好感を覚えた。
安心しなかったといえば噓になる。
何せ彼女の初めての遅刻。数年来の実績がある以上動揺しない訳がない。裏切りが即座に危機につながるということは辞書に載っていることくらい常識的なもの。
確かに、この連絡自体が嘘である可能性が無い訳じゃない。実際にその手の話は一日では語り尽せないほどあるし、俺の脳内でもその可能性についての議論が現在進行形で行われている。
僅かでも可能性があるなら、避けるべきだ。それは誰が当事者になっても下すだろう決断に違いない。
テーブルの上に乗っているのは自分の命。これ以上レイズのしようがない正真正銘の全財産。ならば間違いなく勝てる勝負でしかベットできないだろう。それが模範的な解答だ。命を賭け金に出来る人間は少ないが、それを粗末に扱える人間はもっと少ない。表裏一対のコインでもない限り、その勝負は絶望と隣り合わせのものとなるだろう。
そしてその頭のおかしい少数派の一人が、俺だった。
この瞬間に俺の脳内がどのような電気信号のやり取りをしたのかを説明するのは難しい。計算して弾きだされた理性的な答えより、笑ってしまうくらい笑えない状況が魅力的に映る瞬間が俺にはある。
だから俺は、彼女が言った五分に、賭けてみようと思った。
裏切られても構わなかったとまでは言わないが、それに近いものがあった。いずれにしても俺の頭の中では既に賽が振られてしまっていたし、どんな論拠を並べ立てたところで意味はなかった。
そしてこの選択が、俺にとって忘れられない選択となる。
結論から書こう。彼女は来なかった。
俺は五分という約束の期限を超過して更に四分程待った。さながらいつまでも来ない恋人を待ち続ける映画のワンシーンのように。雪の代わりに時折吹く風に乗った土埃を感じながら。
それでも彼女は来なかった。
厳然たる事実として俺は裏切られた。もう彼女との関係は終わったと直感した。何か俺と彼女を繋げていた糸のようなものが切れた気がしたからだ。デバイスからの通知も一つだってなかった。
だから時計の針が十周目に入った時俺は足早に歩き始めた。
十分という時間のロスは正直痛かった。”蜂”の飛行ルートを計算した上での時間設定だったために離脱計画にかなりのずれが生じていた。今からこの近辺を飛び回る全て”蜂”のルートを把握するのは困難を極めた。その上もしかすれば彼女を捕まえた機動警察の連中が近くを警邏しているかもしれないというおまけまであった。
律儀な奴だからこそあり得る話であり最も考えたくはない可能性。
空と陸からの人海戦術。かといって動かないことは最大の悪手だった。
《ヘブンストレート》。
その中心部は一分の滞在で人が死ぬ天国に一番近い空間。当然その周囲にも尋常じゃない有害物質が絶えず飛んでいる。もちろん、この場所にも。
機動隊の方は政府が金をかけて増産した防護スーツに身を包んでいる。対するこちらはほぼ生身。長居すれば冗談抜きで命に関わる。初めから脱出以外の選択肢が俺にはなかった。
薄暗く月にさえ見放された道を歩く。ヘカテーの微笑みを失った地上は暗く、アスファルトは己以上に冷たい空気を放っていた。重たく沈むような静けさの中、僅かな衣擦れと呼吸の音だけが微かに伝わっていく。
思い返せば、俺は運がよかった。
十分という致命的なロスがありながらまだ捕まっていなかったこと。その日に限って中心街で事故が起こったこと。幸い彼女には裏切られていなかったこと。
それら全ては後になって分かったことではあったが、やはり俺は運がよかった。本来なら”蜂”の予定ルート上で間違いなく補足されていただろうし、そうでなくともジョーカーを引きつつあったことは間違いなかった。何せこの後、俺は今言ったこと以上の出来事に遭遇したのだから。
月の女神は大地を見捨ててはいなかった。正確には一人の人間を見捨ててはいなかった。
いや、訂正が必要だろうか。
”少なくとも一人は”、といった方がいいかもしれない。
何故なら彼女はそこにいたのだから。
冷たい大地を抱きしめるように彼女はそこにいた。
《ヘブンストレート》の入り口。爆風によって頽れた過去には栄華を誇っていただろう鉄塔の残骸。山のように積み重なるその迷宮じみた廃墟に彼女はいた。
天国への架け橋のその始まりで、眠るように倒れるその体。いつも目深に被っていたフードは脱げ、俺でさえ見たことのない全貌を地面に惜しげもなく見せつけている。
少しだけ、残念だと思った。
出来るなら生きているうちに素顔を見てみたかった。止まってしまったままでは、その素顔も味気なく感じるだろうから。
それと同時に、俺は彼女に対して少なくない同情を持っていたのだと知った。
だからこそ、これはいつか訪れる運命だったのだろう。
この世界に生きるのなら、最後の結末は二つしか選べない。鉄格子の中で死ぬか、誰かに最後を看取られるか。全ての自由を剝奪され、何一つ成せないまま終わるよりかはこの死に方は上等だ。
だから彼女もきっと、運がよかった。
こんな光景はありふれている。特に珍しくもない日常の一コマといってもよかった。知り合いが突然居なくなるなど日常茶飯事。街中で友人に声を掛けるくらいの気安さでその場面はやってくる。当然、その場面の主人公が自分であることもある。今日のように。
取り乱すには、少し経験が多すぎた。
他人の死に慣れ切ってしまった体と精神は条件反射のように動き彼女に近づいていく。恐らくはアスファルトと同じように冷え切っているだろう彼女の体から《レミング》のメモリを探そうとしたときーー
何かが潰れる音が微かに聞こえた。
咄嗟に振り向き懐に差していた得物を抜き放つまでは一瞬だった。そしてそのまま構え撃つのもまた、一瞬だったーー
形だけは旧時代の遺物、それもかなり古い物。かつてコルト・パイソンと呼ばれ人気を博した拳銃そのもの。芸術的とも言えるレトロチックなデザインとアンティークならではの古ぼけた光沢。
違うのはその中身。芸術の外面で覆い隠した現代の狂気。
そのうちに込められた誰かが作り出した純粋な悪意を俺は打ち出した。
ーー引き金を引いた直後の記憶はない。
俺に知覚できたのは引き金を引き切った後のとてつもない衝撃だけだった。
上手く前が見えない。目の前は赤く染まり、自分がどのような状況にいるのかも分からなかった。体の感覚はほとんど消失してしまっており、背中に感じる鈍い圧迫感だけが自分が倒れているということを教えていた。
どうやら背中から叩きつけられたようだった。
そのままどれくらいの時間が経っただろうか、時間が経つにつれ徐々に感覚と痛みが戻り、頭も回転を始めだすのが自分でも分かった。どれくらいの時間倒れていて、どれくらいの時間そうしていたのか知りたかった。まだ本調子とは掛け離れた頭でそれだけが思考の端を掠めた。
何分、或いは何十分止まってしまったのか。まず気にかかったのはそれ。衝撃音を聞きつけて何者かが駆けつけてくるかもしれない以上すぐにでも立ち去るべきだった。
そこでふと音が全くしないことに気づいた。
そればかりでなく左腕も全く動かなかった。
無意識のうちに口の中で舌を弾く。本来なら小さな破裂音を齎すはずのそれはこの時の俺にはただの振動にしか感じられなかった。
両耳の鼓膜は破れ左腕は動かない、両足と右手はかろうじて動くもののダメージは大きい。
舌打ちくらいしたくなる。
このざまじゃどう頑張っても逃げ切れない。機動隊さえいなければまだ可能性はあるが、鼓膜を破るほどの爆音を響かせたのだからその望みも薄かった。
端的に言って非常事態だった。
いっそのことそうコールしてみるのも良いかもしれない。そうすれば心優しい誰かが親切心を引っ提げて助けに来てくれるだろう。
俺は治療センターに送られ神の御業に等しい最先端の科学でもって奇跡を体験する。
そんな筋書きなら素晴らしい。
実際は問答無用の拘留と尋問の後に無条件の極刑が下されるだけだ。そこには髪の毛一本分の慈悲すらありはしない。
(そういえば、俺の後ろにいた奴はーー)
一瞬で馬鹿げた考えが吹き飛んだ。この時、俺は完全に忘れてしまっていた。コルト・パイソンを打つ寸前、間違いなく俺の後ろにいたはずの誰かの存在を。
俺は絶えず流れ落ちる血によって赤く染まった視界の中そいつを探した。あの一撃を正面から食らって形を保てる生物は存在しない。機動隊の防護スーツすら容易く貫く威力なのだから。
俺は証拠が欲しかった。誰かがそこにいたという確かな証拠が。服の断片だろうが血だろうがなんでもいい。とにかくその何者かを消滅させたという確信が欲しかった。
赤くにじむ視界ではその何かを探すのも簡単ではなかった。簡単ではなかったが、俺はすぐにその解答を手にした。
つまり、ヘカテーの慈悲を受けたのはやはり一人ではないということだった。
迷宮となった廃墟の入り口目掛け一直線にできた一メートルほどの風穴の真横ーー
ーー赤い目をした幼い少女が、涙を流しながら震えていた。
閲覧ありがとうございます。
当方これが処女作であり、色々と試行錯誤しながら書いております。
こうした方が面白い、ここは駄目だ、そのようにご指摘頂ければとても嬉しく思います。
完結までのストーリーは出来ているので絶対に描ききる所存です。
拙い作品ですが、最後までお付き合い頂けたらと思います。




