第22話 『告白』
茜色に輝く大空の下で佇んでいたのは、女の子だった。梅雨時特有の湿気を孕んだそよ風が、彼女のツインテイルを優しく撫でる。それにしても可愛らしい女の子だ。本当に可愛らしい。もちろん水野の美貌に敵うはずもないが、それとはまた違う良さがある。
なんというか、小さいのだ。小学生に交じっても何ら違和感もない童顔に、身長もまたそれ相応の高さしかない。本当に高校生なのか、疑わしいところだ。
疑問を含んだ無意味な独白は横へさておき、実はこの少女を何度か見たことがあった。一目見て、これだけの感想を抱く、もといこれだけはっきりとした特徴を持つ同級生はそうそう忘れるはずがない。名前は知らないし他クラスではあるが、同い年であることは間違いないだろう。
屋上の扉を後ろ手で閉め、僕は小さな少女と対面した。
キーンコーンカーンコーン……。
最終下校を知らせる鐘が盛大に鳴り響いた。ここからほとんど離れていない場所にスピーカーがあるため、校内中に知らせねばならないその轟音は、微小なるすべての囁きをかき消してくれる。
口を開いて、何かを言いかけていた女の子は、鐘の音に遮られて口を噤み、顔を赤らめて眼を逸らした。鐘の音が鳴り終わるまで、僕と女の子は無言で向かい合う。
しかし女の子……か。他に人影は見当たらないし、まさかこの子一人で死体を隠ぺいするなどという偉業を成し遂げたのか? 土屋も小柄な部類に入るとはいえ、さらに小さなこの女の子が人一人を運ぶなど、至難の業じゃないか?
僕は待つ。鐘の音の余韻も徐々に消え、再び校庭からは運動部の怒声が届き、ゆっくりと吹き抜ける風の音も聞き取れるようになった。
「あ、あの……」
初っ端に声が裏返ってしまい、少女は慌てて咳払いをした。そして頬を空と同じくらいの朱に染めて、さらに俯く。
「ご、ごめんなさい! わざわざこんな所に呼び出してしまって……」
「別に気にしなくたっていいよ。用があったんだろ? それなら僕は素直に応じるだけさ」
ここは穏便に。緊張している相手を落ち着かせる話し方が正解だろう。そして優しい話し方、いつの間にか身についていた得意の笑顔が功を奏したのか、彼女は幾分か冷静になったように呼吸を整える。大きく息を吸って、身体全体で深呼吸を済ませた。
「あたしは火口香奈枝っていいます。一年二組だから、日村君のクラスとは二つ隣の……」
だんだんと自信なさげに声が萎んでいった。たぶん下らないことばかり話して、僕が怒らないか懸念してるんだろう。挙動不審なその姿は、まるで愛くるしい小動物のようで可愛いけれど、生憎今は気を遣う心の余裕はないんだ。
「なるほど、二組か。二組っていったら友達がいないから、行ったことないんだよな」
と、前置きはこのくらいにしておこう。早く、早く本題へ。
「それで、僕に何の用かな?」
その一言で、火口さんがぐっと息を飲み、一気に緊張が高まったのが手に取るようにわかった。酔っているのではないかと疑うほど、耳先まで顔中が真っ朱に染まり、視線が空へ飛んだり床へ落ちたり。
「え、えっと……」
急にそわそわし始めた。所在気のなかった両手は合掌され、意味不明な踊りを晒す。
なんなんだ、この女。と思う反面、さすがに火口さんの意図を汲み取れないほど、僕は空気の読めない男ではない。これがそういうことなら……。
肺の中の空気を一通り入れ替えた後、火口さんは急に改まってこちらへ頭を下げた。
「ず、ずっと前から好きでした! 付き合ってください!!!」
直角。前方へ九十度折られた体躯は、まるで僕の答えを待っているかのように不動。身体を折りさらに低くなった彼女を見下ろしながら、僕は溜め息を吐いた。
「僕に彼女がいることは知っているかな?」
「もちろん知っています! あたしごときがあの水野さんに勝てるとはこれっぽっちも思っていません! でも、どうしても自分の気持ちをぶつけられずにはいられませんでした!」
この手の告白は、過去に何度も受けてきた。しかし僕が水野と付き合うことになってから来たのは初めてだ。その意気込みだけは評価しよう。
ただしこの少女は、土屋の死体を隠した探偵なのかもしれないのだ。もしかしたらその理由とは……。
「僕が屋上へ赴いたのは、下駄箱に手紙があったからだけど。昨日入れたのも、君が書いたものなんだよね?」
「……そうです」
理解した。すべて飲み込めた。
死体の隠し場所よりも、どうして死体を隠ぺいする必要があったのかが、一番の気がかりだった。いや、『自首するべからず』の手紙からして、僕を庇うためだというのは瞬時に理解できた。だからどうして僕を庇うのか。最悪、共犯者と扱われる危険まで冒して、殺人が無かったことにしなければならなかったのか。それが最大の難問だった。
だけどこんな単純な理由だったとはね。
僕が土屋を殺したあの日あの場所で、たぶんこの火口さんとやらは隅から目撃していたのだろう。そして僕があの場を去った直後、今度は自分が誰かに目撃されるかもしれない危険を冒して、一人単独で死体を隠ぺいする作業へと移った。
何故か? ただ僕のことが好きだったから。たったそれだけのこと。
ふふふ、あはは。
あれだけ欲しかった『愛』が、こんな形で手に入るとはね! 重い、重すぎるよ。君の『愛』は、僕が背負うにはあまりにも重量がありすぎる!
テンションが一気に足元へ流れ落ちていくのを感じた。正直、すでに興味を失ってしまったのだ。目の前が真っ白になっていく。真相が明らかになってしまい、僕はもう、火口香奈枝という人物に興味がなくなった。
火口さんは、床と平行を描いていた上半身を、ゆっくり起こす。
「あの……どうかされましたか?」
僕の返事があまりにも遅かったので、心配になったのだろう。期待の孕まない不安だらけの表情が、最初から振られる覚悟をしていたことが窺える。
「あぁ、そうだね……」
覇気の宿らない声で、僕は呟いた。
「えっとね、僕は……」
突然、視界が揺れた。眼前の少女を中心として、その背景が右へ左へ下へ上へと渦巻く。
軽度な眩暈のようだが、これと似た症状は前にも体験している。これは紛れもなく、あいつが表に出てくる前兆。
……油断した。こちらの意識に乱れがなければ、身体の占有権を奪われることはないと思っていたのに。たとえ鍵が掛っている扉であっても、全身全霊を込めて体当たりでもすれば、壊れなくもない。さらに目の前の少女に興味を失ったばかりの僕は、脳内でも呆然と手持無沙汰にし、奴を抑えつけることを忘れてしまっていた。だから油断。
結果、扉の前に佇んでいた僕は、内側から伸びてきたあいつの手によって、脳内の奥深くへと引きずり込まれる。最奥の壁に叩きつけられ、あいつは怒りの笑みを浮かべながら、扉の外へと出ていった。
『ひゃはっ! 今度の獲物はこの女か!?』
本当に楽しそうに笑うもう一人の僕。人格が代わり、火口さんの目には今の僕はどのように映っているのだろう?
『てめぇなんかと付き合うわけねえだろ、バーカ。反吐が出るぜ、このドブスが!』
火口さんは、僕の口から唐突に飛び出した罵詈雑言に一瞬驚いたものの、すぐに顔を伏せる。
「……そうですよね。あたしのようなブスと、日村君が釣り合うわけありませんもんね」
落ち込んではいるが、悲しんでいる様子はない。やはり最初からダメ元と割り切っていたのだろう。
黙りこんでしまった火口さんと対面しながら、そのまま動かないもう一人の僕。いや、この時こいつは、自分だけに聞こえる小さな声で呟いていた。
『さーて、どうやって殺す? 金本は撲殺で土屋は絞殺だったよなあ。……お前はどうやって殺したい?』
僕に訊くなよ。
『あー、そうだ。その前に……』
と、もう一人の僕は火口さんに歩み寄った。そして何を思ったか、指の先で顔を伏せる火口さんの顎を、ついっと持ち上げる。
背の高い僕の方が屈み、鼻先が触れそうなほどの間隔。
火口さんが、驚きとともに頬に熱を溜めるのが見て取れた。
僕は目を細めた無表情であることが、反射した火口さんの瞳を介してわかった。
何者をも屈服させる圧力を持った低い声で、もう一人の僕は呟いた。
『一つ訊きたい。お前、俺が殺した土屋の死体をどこへやった?』
答えがわからないのではなく、質問自体を聞いていなかった生徒のように、キョトンと目を見開く火口さん。僕からしても、それほど的の外れた問いではなかったはずだ。なのにどうして意味が理解できないといった表情を浮かべたのか、それは次に火口さんが笑みを見せたことですぐに理解できた。
「あぁ、あの女子生徒のことですか」
火口さんは土屋の名前を知らなかっただけ。すぐさま『殺した』と『死体』の単語で、もう一人の僕が言いたいことを連想できたのだろう。
そして、宣言する。土屋の居場所を。
「あの女子生徒の居場所なら――」
言いかけて、火口さんの薄桃色の唇が閉じた。僕の眼をしっかりと見据えたまま、彼女の右手がゆっくりと動き、死体のある場所を指さす。
「――ここです」
『ここ?』
触れる寸前まで顔を近付けているので、少し離れなければ火口さんの指の先が見えない。
彼女の指先を確認するため、もう一人の僕は即座に距離をとった。さも当然のように笑いかける火口さんが指した先は、ほぼ真下だった。それに合わせて、もう一人の僕も顎を下げて視線を足元へ向ける。当然ながらそこは、日中の熱が溜まった無機質なコンクリートが存在するだけだった。
『ふざけんなよ、てめぇ。どこに隠そうが、間違いなく屋上より下じゃねぇか。口で言えよ!』
それには同意。学校で一番高い場所であるこの屋上で下を指せば、ほぼすべての場所が該当してしまう。
続いて火口さんは、下をさしていた指を唇に当て、まるで内緒話でもするかのような小声で、しかしぎりぎり僕の耳には届くように囁いた。
「えっと、あの子なら私のお腹の中にいます」
………………。
『……は?』
今思えば、示していた指は、少しだけ火口さん自身の方に向いていたような気がする。
『何、言ってんだ? お前』
「だからあの女の子、えっと土屋さん……でしたっけ? あの子の居場所は私のお腹の中です」
真っ白になった頭の中は、一本の黒く細い糸を浮き彫りにしていた。ありとあらゆる情報が詰まった本来の脳なら、絶対に見つけることのできないほど細い糸でも、今ならば掴むことさえも簡単にできる。
もう一人の僕はその糸を引いた。引いてしまった。
ピンと張りつめた糸の先、釣り針には何が引っかかっているのか。その答えはもう、釣り上げる前からわかっている。
『お前、まさか……』
釣り上げた答えは、信じることのできない大物だった。
『まさか……人間を喰ったのか?』
「はい、その通りです」
後ろめたさどころか、日常で起こりうる、ちょっとした善いことを成し遂げたような笑みを浮かべるので始末が悪い。いや、その笑顔のせいで、もう一人の僕の恐怖心が増長されていっているので、ある意味僥倖か。
「あの時はどうやって死体を隠そうか、本当に悩みましたよ。どこに隠そうとしても、いつかは人目に触れると思いました。外に連れ出すわけにはいかないし、あたしの力じゃ引きずるのが精一杯ですもの。そこで閃きました。死体を隠すことができ、なおかつ外へ運び出す方法は、食べるしかないと」
『……』
その発想は驚嘆に値するよ。むしろ狂譚だ。
視界が振動しながら、徐々に火口さんの姿が遠のいていく。あいつが一歩一歩と後ずさっているのだろう。
『嘘だろ?』
「嘘ではありませんよ。あの後、大変だったんですから。まず死体を引きずって近くのトイレに運び込みました。服を脱がせて、まずは細い所から……できるだけ返り血は浴びないように気をつけます。髪の毛や爪なんかは短く切って、トイレに流します。証拠隠滅のためには骨も残さず食べようかと思ったんですけど、最初の一本で喉に詰まったのでやめました。細かく砕いて、それもトイレへ流しました。ちょっと大きな骨……たとえば頭蓋骨なんかは、彼女の制服で包んで持ち帰りましたよ。家で砕いて……ほら、胡麻をすり潰す鉢みたいなやつあるじゃないですか。あれで粉々にして、今頃は公園の鳩の餌になっているはずです。それにしても噂には聞いていましたが、人間の肉って筋張ってて本当に美味しくないですね。特にあの子はあんまり肉付きもよくなかったし、胸もなかったから、本当に食べにくかったですよ」
『正気の沙汰じゃねぇ……』
込み上げる嘔吐感。人格が交代している今、身体的な気持ち悪さは一切ない。しかし目の前の少女があまりにも普通に、まるで一昨日の献立を発表するかのように淡々と述べるので、脳内に引き籠っている僕の耳も不快感を覚えていた。
僕の身体を乗っ取ったあいつは身を屈め、コンクリートへ向かって唾液を吐きつけた。
『狂ってやがる!』
叫びながら、もう二三歩後ずさる。
しかし火口さんはその場に佇み、「でも――」と言葉を続けた。
「日村君はきっと、どこを食べても美味しいよね?」
ビクン。自分の身体が、大きく上下に震えたのがわかった。
『なんつった……今?』
「あたし、日村君のこと、食べたい」
憤怒で覆われていた恐怖心が、みるみるうちに膨らんでいく。
憤怒という殻を破った恐怖の触手は、僕の内部のあらゆる場所を蝕んでいった。
「あたしね、思ったの。あの女の子を食べてから、『あぁ、自分は愛の為なら人間をも食べれるんだなぁ』って。でもやっぱり違うわ。愛する為に食べるんじゃなくて、愛してるから食べるんだって気づいたの! だから日村君のことも食べたい! 勝手な言い分だってことはよくわかってる。でもこんなにも好きなの、もうどうしようもなく日村君のことを愛しちゃってるの! だからね、お願い。……あたしに食べられて」
一歩。身長に見合った小股で、火口さんが踏み出した。
同じく一歩。火口さんの二倍はあろう歩幅で僕は後退する。
『狂ってやがる! てめぇは人間としてどうかしてる!!』
「あら、そうでもないですよ。愛する人を食べたいと思う。これって純粋な人食主義だとは思いませんか?」
さらに一歩ずつの進退。結果的に、距離は離れてはいるが。
「あ、このセリフって、こういう場面で言うのかもしれないな……」
と呟く、火口さんの意味不明な言葉が聞こえた。そして一言。
「あなたと、合体したい」
遂に弾けた。肥大し続けた恐怖心が憤怒と混じり合い、自己防衛を促す。
焦りの足取りで、もう一人の僕は火口さんとの距離を一気に縮める。そして過去二度そうしてきたように、殺害対象へと手が伸びた。ただし今回だけは、殺すための快楽ではなく、逃走の意思を伴って。
『殺す! お前は死ななきゃダメだ!』
「ぐっ……がっ……」
僕の右手が、火口さんの首元へ食い込んだ。彼女の細い首は柔らかく、右手の握力だけでぽっきり逝ってしまいそう。
もう一人の僕は恐怖心に塗れていた。人を喰った目の前の怪物を恐怖し、消し去ることを望んでいる。
『死ね! 死ね!』
しかし焦りが思わぬ失態を招いた。右手だけでも十分に窒息させられる勢いだったが、さらに追い討ちをかけようと、もう一人の僕は左手をも彼女の首へと伸ばした。そして指先が触れる瞬間、
――ガチリッ!
何か固い物を噛み切る音がした。
『……?』
彼女の首筋に伸びていた左手を、反射的に引いた。右手で首を絞めたまま、もう一人の僕は不思議そうに、違和感の抱いた左手を見る。見てしまう。
左手の中指が、根こそぎ消失しているのを。
『…………は?』
理解が追い付かない。未だに痛みが巡ってこない。ただ呆然と、もう一人の僕は四本指になってしまった左手を見つめるばかり。
中指はどこへ行ってしまったのか。どうして消失してしまったのか。
噴水のように鮮血が押し上げる中指の根元から、ゆっくりと視線を移す。その先は目の前、自分が片手で首を絞めている少女。彼女の口には、一本の長い指が銜えられていた。
自然と右手の握力が緩む。すると火口さんは息を整えるのと同時に、唇からはみ出していた中指を丸々口内へと含んだ。
バリバリバリ。ボリボリボリ。
人間の骨や爪を咀嚼する音が、盛んに動く彼女の口から聞こえてきた。
「あ。やっぱり、日村君のお肉、美味しいですね」
そこまでの光景を目にし、ようやく思考の糸が紡がれる。土屋を喰った話と、人の中指を噛み砕く彼女を目の当たりにしている現実を、今の彼女の言葉ではっきりと理解する。
『う……』
一度だけ、生唾が食道を落ちた。
『うあああああぁぁぁぁ!!』
発狂した。極限まで肥大を続けた恐怖心が、外の膜も破って溢れ出る。もう一人の僕は駆け出した。身体を反転させ、火口さんに背を向けて、屋上から出る扉へと一目散に向かう。そしてドアノブに手を掛けた。
しかし――。
『あ、開かない!?』
ノブは回るのだが、何かに引っかかっているように扉は隙間を開けることはない。
『何で開かない!』
尚も鉄戸をガチャガチャと叩くが、一向に開く気配はない。屋上に上る前は、普通に開いたはずなのに。
『開けろ! 頼む、ここから出せ!』
残念ながら、恐怖を爆発させたもう一人の僕が、『扉』を開けることは不可能だ。
何故ならもう一人の僕の存在とは、僕のあの時のトラウマそのものなのだから。
押入れに監禁され、外に出たくても出れない状況。そんな中で恐怖とストレスを爆発させ、切り離した存在が奴なのだ。僕のトラウマである彼が、あの時と同様、もしくはそれ以上の恐怖とストレスを抱え込んでいる今、『扉』を開けて逃走することはできない。
『代われ、人格交代だ! てめぇなら、この扉を開けて逃げられる!』
内側に眠る僕に語りかけてくるが、悪いけど断る。
『な……なんだと?』
断ると言ったんだよ。聞こえなかったのか?
『ふざけんな! このままだと俺たち殺される、喰われちまうぞ!』
知ってるよ。けど僕は人格を交代する気は毛頭ない。もう疲れたんだよ、僕は。だから火口さんへの抵抗は、君に任せる。
『何故だ!? 死にたいのか!! 俺に抵抗なんかできるわけがねぇ!』
そうだね、僕はもう死にたいよ。
『馬鹿な……。そう簡単に死ぬなどと、お前の悪魔が許すわけ……。……?』
おや、やっと気づいたのかな?
『お前……どこに行った?』
もう一人の僕は扉の取っ手を回す作業を止め、僕の内なる心を覗きこんだ。
その結果の驚愕。ようやく僕の体内で起こっている異変に気づいたようだ。
『お前の悪魔……強欲の悪魔はどこへ消えた!?』
遅いよ、遅すぎる。僕に取り憑いていた悪魔が消え去ったのは、もう二日も前のことだというのに。
『な……に?』
消え去ったというよりは、僕に見切りをつけてさっさと他の宿主を探しに行った、と表現した方が正しいかもね。
それは同然の結果だよ。僕は親友を二人も殺してしまった。強欲なる僕が、かけがえのない親友を二人も! 二度と手に入れることのできない大切な人を、二人もこの手で殺してしまった! そんな僕に、強欲の悪魔がいつまでも宿っていると思うかい? 自らの手で大切なものを捨ててしまう僕を、強欲の悪魔が許してくれると思うかい?
土屋を殺した時点で、僕の中の強欲の悪魔は、完全に姿を消していたよ。
それに……僕はこれで良かったんだと思う。
『どういうことだ?』
君が個として成長してしまった原因として、僕が強欲だったというのがある。
僕が一番欲しかったものは、平穏な日常だ。もちろんちょっとした冒険や現実では起こりえない体験もしてみたかったけど、それらは二の次。平穏と同時に非日常を手に入れられればそれに越したことはないけれど、非日常を手に入れた瞬間に平穏が崩れ落ちるなら、僕は奇体験など望まない、いらないとも思ってた。そう……金本が死ぬまではね。
『……』
金本を殺してからは、もう日常には戻れないと諦めていたけれど、君は知っていたんだろ? 僕が何よりも日常を求めていることを。
だから君は我が儘のやりたい放題だった。君がどんな悪事を行ったとしても、日常を求める僕が必ずそれらを隠し通すだろうと確信してね。
いわば僕の強欲は、君の逃げ道だったわけさ。僕と人格を交代すれば、きっちりと後処理をやってくれる。下手なことをやってしまえば、身代わりになってくれる。そして現状、恐怖心に塗れれば、助けてくれる。とね。
面白いじゃないか。僕の逃げ道であったはずのお前が、いつの間にか逆転していたなんてね。
『う……』
さぁ、僕という逃げ道を失った気分はどうだい?
『うわああああああああぁぁぁぁぁぁ!!!』
鉄戸を叩くのを止め、その場で尻もちをついたもう一人の僕は、再び大声で叫ぶ。しかし目の前の怪物は、歩を止めようとはしない。
『来るなぁ! 来るなああぁぁ!! 助けてえぇぇ!!』
「大丈夫ですよ、日村君。痛いのは最初だけですから」
まるで子供をあやす看護師だ。その表情も、卑屈でもなく悲哀でもなく苦痛でもない、相手を安心させるような笑顔なのも恐怖心の拍車を回す。
「さて、どこからいただきましょうか」
『助けて助けて助けて助けて……』
呪詛のように吐き出される懇願と同時に、火口さんを見ている視界がぼやけた。もう一人の僕が、涙を浮かべているのがわかった。
「さぁ、あたしと一つになりましょう。あたしの愛する人」
――ソウ、愛ト食ハ紙一重。
火口さんが、震える僕の手を取った。
しかし抵抗はしない。というかできない。恐怖に埋もれたあいつは、目の前の出来事、人物を現実のものとして理解しようとしていないから。現実から逃げるために、現状のすべてを否定しているから。もしここで火口さんの差し伸べる手を払ってしまったら、迫り来る怪物を認めてしまうことになるから。
ゆっくりとした動作で、火口さんは僕の手を引き、そして視界の左隅へとフェードアウトする。
そして座り込む僕の身体を抱くようにして、耳元で囁いた。
「×××××」
『××××××××××××!!!!』
左耳の下、火口さんの歯が、生肉を抉り取る音がした。
脳内の僕は奮闘する。もう一人の僕が、人格を交代しろと五月蠅いのだ。
けど嫌だね。今代わったら、痛覚まで引き継いで、絶対に痛いじゃん。もうすでに、片腕片足は食いちぎられてるわけだし。
だから脳内の扉を断固として開け放たれないように内側から押さえ、僕は引きこもりへと退化する。
『×××××!』
これほど恐怖に埋もれた世界を目の当たりにすれば、通訳も要らないな。
悪魔の言葉を吐くもう一人の僕は、これが本当に自分の顔なのかと疑ってしまうほどに醜く歪んでいた。
……これが悪魔に憑かれた人間の末路か。
他には水野や木原純也がこの言葉を使っていたようだけど、果たして彼らはどんな悪魔に憑かれ、どんな最期を遂げるんだろうね。ま、興味はあっても、今じゃどうにもならないけど。
『やだぁ、死に×××いぃ。×いよぉ、助××よぉ……』
最近になって僕がこの言葉をよく耳にするようになった理由は、僕の中の強欲の悪魔が姿を消してしまったせいだ。
人間には悪魔の言葉は理解できない。悪魔を失った僕は、悪魔の憑いた人間たちがしゃべる言葉を、未知のものとして捉えてしまっていたのだろう。
『代われ、俺と代われ!』
「はは、ざまーないね。これが君の犯した罪の結果さ」
『うるせぇ! そんなことはどうでもいい! 痛いんだ、怖いんだよぉ! ここを開けて、誰か、誰か助けてよぅ!』
無様だ。あの頃と、虐待されていた頃とまったく変わりのない自分がそこにいた。
もう一人の僕が死への痛みと恐怖を罰として受けているように、その姿から目を逸らせないことが僕への罰か。本当に、情けない……。
『痛いよぉ! 暗いよぉ! 助けてぇ……』
思い出したくもない光景が、まぶたの裏で浮かび上がる。
全身の痛みを伴いながら、動けないまま暗く狭い押入れの中に横たわる自分。張り裂けそうなほどの恐怖は引き離し、僕は安楽へと逃亡した。
はは。結局、あらゆるものから逃げたことが僕の罪か。あの時、逃げずに現実へと立ち向かっていたとしたら、今の僕はどうなっていたんだろうねぇ。
『ああああああぁぁぁぁぁ! 出してえええぇぇぇぇ!』
脳内の扉をガウンガウンと勢いよく叩く。しかしその腕に力強さは皆無だった。
背後から迫りくる『死』という崩落に恐怖し、全身が竦み上がってしまっているのだろう。事実、最期はもうすぐ手前まで来ている。
僕はもう一人の僕の顔を鷲掴みし、リンゴが割れてしまうくらいの握力を込めて言ってやった。
「お前なんか死んでしまえ!」
『いやだぁぁぁぁぁぁーーー。死にたくないぃぃぃいいいーーー!!』
行キスギタ暴力ハ身ヲ滅ボス――。
顔を掴んでいたその手をそのまま前へ突き放し、もう一人の僕は足場の崩落とともに奈落へと落ちていった。耳を劈く断末魔も、地獄のマグマへと吸い込まれていく。
さて、僕が立っている最奥のこの場所も、そろそろ形を失うだろうな。周りの壁という壁がすべて崩壊し、すでに部屋と呼べなくなっていた。
僕は一歩ずつ下がる。目の前で崩壊を続ける足元を眺めながら。
怖い、死ぬことが恐ろしいよ。それに何故僕がこんな目に遭わなきゃいけないかという、理不尽に対しての憤りも蘇ってきた。
けど、僕はそれらすべてを受け入れよう。いや、すべてを許容しよう。
だってそうだろ? お前たち。
「ふふ」
目の前に、ぼんやりと金本と土屋の顔が浮かぶ。僕が抱えていた二人の魂が具現化したということは、僕ももうすぐ君たちと同じ運命を辿ることになるんだろうね。
「本当に、悪いことをしたと思ってるよ」
君たちはなんの罪もなかったのに、僕に殺されたんだ。理不尽な怒りも、死に臨む恐怖も僕以上だっただろうに。
「君たちは、僕と幼馴染だったことを後悔しているだろうね?」
恩を仇で返すような真似して、本当にごめん。君たち二人がいたからこそ、幼少期の僕は通常の生活へと戻ることができたというのにね。
「あの時、僕が現実を受け入れていたのなら、僕の精神は崩壊していたかもしれないけど、君たちは今も健全に生きられたというのにね」
すべての罪は僕にある。僕が君たちの運命を変えてしまった。
「当然、僕のことを憎んでいるんだろう? それなら構わない。存分に憎んでくれ」
君たちが憎んでくれないと、僕も罪を償うことができない。
「僕は君たちの憎しみを、真正面から受け止めようと思う」
でも、あわよくば――、
「僕はそれだけのことをした自覚はある」
あわよくば――、一つだけお願いしたいことがある。
「僕はもう何もいらない。君たちの憎しみさえあれば」
そう、何もいらない――。だから、僕の願いを聴くだけ聴いてくれ。
「かなり自分勝手な願いだけど……」
万が一、もう一度君たちと出会うことがあったのなら――、
「その時は、また仲良くしてくれないかな?」




