第2話 『経緯』
「金本! 犯人はお前だ!」
唐突かつ脈絡のない話の流れに、僕は妄想への逃避行からようやく帰還した。もちろん妄想とは一人で行うものなので、直前に誰かと言葉を交わしていたわけではない。つまり脈絡のない話の流れ、というよりは、不意に自分の名前を呼ばれた、と表現する方が正しい。
「お……おぅ」
箸が手の中から滑り落ち、半分残っていた白米の上にぶっ刺さった。不吉この上ない。
顔をそちらに向ければ、まだ友達という因果を得てから日の浅い友人が得意顔で僕を指さしているが、はて、何故自分は名前を呼ばれたのだろう。そして犯人とは何なのだろう。疑問に満ち溢れた顔をするも、その友人からは一向に説明がない。
軽く首を傾げると、そいつの隣から弁明のような説明が飛んできた。
「今、誰がジョーカーを持ってるかって、犯人当てのトランプゲームをやってるんだよ。各人が周りに質問して、最初にジョーカーを持ってる奴を言い当てたら勝ちってゲームなんだけど……」
なんだか某大人気同人ゲームの冒頭部分でやってそうな遊びだな。確かにゲーム性はあるだろうけど、高校生にもなった僕たちが楽しむような遊びではないと思う。
「それで、何で僕が犯人?」
当然ながら、僕は彼らの隣に座っているだけでゲームには参加していない。というか、まだダラダラと弁当を広げている始末だ。隣の奴らは早々に弁当を食い終え、昼食後の一時でゲームを嗜んでいるのである。
説明をした幼馴染は、両手を広げて「さぁ?」と欧米人並みに大げさなジェスチャー。
「っていうか、金本。早く弁当食って仲間に入れよ。いつまで食ってるつもりだよ」
「あ……あぁ」
生返事をして白米の箸を引き抜くが、食べる気なんてまったくなかった。そしてゲームの仲間に加わる気もない。そんな気分じゃない。
ちらりと横に視線を送る。トランプを持つ幼馴染は、僕に見えるように露骨に溜め息を吐いて首を横に振った。こいつだけは、僕が落ち込んでいる理由を知っている。
***
幼馴染の名前は日村秋月。完璧な男である。
眉目秀麗。才学非凡。その他ありとあらゆる褒め言葉が当てはまる男だ。どうして人間はこうも不平等で生まれてくるのか、まったく妬ましく思う。
そんな完璧な幼馴染に対して常に劣等感に悩まされながらも、僕たちの幼馴染かつ親友という絆は決して断たれることはなかった。日村はいい奴だし、何よりお互いの趣味が合うことが主な理由だろう。趣味といっても、テレビゲームやカードゲーム等、現代の高校生のほとんどが嗜むようなものではあるが。
だから僕は日村に悩みを打ち明けた。一人で抱え込んでいては胸が苦しくなる一方なので打ち明けた。最も信頼できる親友だからこそ打ち明けた。
日村も僕の悩みを聞いた時は驚いていたけれど、すぐに真摯になって聞いてくれた。進んで僕の悩みの捌け口になってくれた。
僕と日村が幼馴染だということを差し引いても、こいつの人当たりの良さは男女分け隔てなく人気がある。属に言うイケメンに分類されるであろう日村の顔は、特に女子からの注目の的だった。それについては、本当に妬ましいことである。
***
「まだ落ち込んでるのか?」
いつの間にか放課後になっていた。当然のことながら机の上には弁当ではなく、六限目の教科書が閉じたまま放置されていた。昼休みから今まで自分がどうやって過ごしたのか、ほとんど記憶にない。
「そりゃ……回復にはあと数日か必要かも」
がやがやと教室内が授業から解放された喧騒に埋もれているが、室内人口はすでに半分以下になっていた。帰りのホームルームが終わってから、けっこうな時間が経っていたらしい。
「あれ、あいつらは?」
日村の周りを見ても、昼休みに一緒にゲームをしていた友人たちの姿はなかった。日村一人が、意識がどこか別世界へ飛んでいた僕の肩を叩いて声を掛けてきたのだ。
「先に帰ってもらったよ。今日はお前と二人で帰りたかったからね」
あぁ、本当にこいつは妬ましいくらいにいい奴だ。このままだと、たぶん僕が本調子になるまで気を遣ってくれるに違いない。大きな感謝と小さな罪悪感が、僕の腹の中で渦巻く。
首を横に振る。残っている生徒の中に、彼女は……いない。
「帰ろう。いつまでもここにいても仕方ないでしょ」
「……それもそうだな」
大きな溜め息を吐いて、教室の二酸化炭素濃度増加に貢献しながら教材を鞄にしまう。もちろん日村の親切が鬱陶しいとかは全然ない。むしろありがたいくらい。吐き出された溜め息は、自分自身に対してだった。
はあ。まさか失恋しただけで、こんなにも落ち込むとは思わなかったよ。
***
「『返事はもう少し待ってください』。とかもなかったのか?」
「即答だったよ。少し戸惑った素振りをしてから、二秒で『ごめんなさい』だ。ま、ぐだぐだとダメな理由を並べられるよりかはあっさりしてて、そこは僕も良かったと思ってる」
帰り道。通学路を日村と並んで歩く。しかしこうして並んで歩くだけでも、僕としてはコンプレックスだ。僕は身長があまり高くない上に、日村は百八十越えときている。その顔でその身長は反則だろうと、何度思ったことか。あぁ、妬ましい。
「……言っちゃ悪いけどさ、水野さんって絶対振り慣れてるよな」
「……」
それは同感だ。僕を振ったのも、告白してきた数多くの中の一人としてしか認識してない可能性は非常に高い。
僕が告白した同じクラスの彼女、水野華憐は、この上なく美人だった。我が校のアイドル的存在、どころか、現役高校生の中では、日本中のどこを探しても水野さんの上を行く女の子は存在しない。……と、僕が勝手に思っているだけだけど。
しかし彼女は誰が見てもそう思えるほどには美しかった。僕が女子だったら、嫉妬を通り越して純粋に憧れる存在になっていたと思う。
だから日村の意見には概ね賛成。たぶん事実だろう。返事に窮したのは、『振り慣れてるのは、お前も同じだろう?』と言ってやろうかどうか迷ったからだ。
「あー、ごめん。怒った?」
「怒ってねーよ。そんなことで怒るほど、僕の心は狭くない」
妬ましいけど。すごく妬ましいけど。もし僕が日村の顔と身長で告白したのなら、結果は変わっていたのかもしれないと、どうしても考えてしまうから。
「その、ま、なんだ。……元気出せよ」
「そのうち出すさ。今は素直に落ち込ませておいてくれ」
僕が水野さんに告白してから、まだ二十四時間くらいしか経っていない。たった一日でここまで立ち直れたのは、やっぱり日村のおかげだなと切に思う。振られた直後はホント、腰が抜けたかと思ったもん。
「じゃあまた明日。自殺とかすんなよ」
「するかボケ!」
冗談交じりに別れの挨拶を済ませ、日村は家へと入っていった。
僕の家は、日村の家から一軒分の空き地を挟んだ横隣りだ。だからほぼお隣さんと言ってもいい。三十秒でお互いの家を行き来できるくらいだし。
「ただいまー」
虚空に響いた声はどこへともなく流れ、虚無も悲哀も含まない渇きだけが残る。
嗚呼、自分は今、どんな感情を抱いているのだろう。
***
僕が水野華憐を好きになった理由。その唯一にして最大の理由とは、ただ単に水野華憐が美人だったからだ。あぁ、否定はしないさ。僕はあの美しい顔、その偶像性に恋い焦がれたんだ。下卑た理由だと罵ってくれても一向に構わない。
だからなのだろう、意外にも立ち直りが早かったのは。少し離れた位置から彼女の顔を眺めているだけで満足だし、告白したのもあわよくば程度だったのだ。
目を閉じて、五年くらい昔を思い返してみる。
当時、僕には本気で好きになった女の子がいた。近所に住む、日村と同じく幼馴染の女の子だ。近くの公園で一緒に遊んでいたのを、今でも鮮明に覚えている。日村とその女の子が些細なことでよく喧嘩をしていたもんだから、その度に僕が仲裁に入ったりして。
しかし今では、彼女のことを何とも思っていないのが現状だ。顔を合わせれば挨拶くらいするし、登校時間が重なれば何気ない会話をしながら一緒に歩くものの、僕が彼女を見る目は完全に恋愛対象からは外れてしまっていた。
もし高校が異なっていたら、一つの接点も持たない関係になっていただろう。
だから現在水野さんに抱いている恋心が本気といえるかどうか、五年前の僕が幼馴染の女の子を好きになった気持ちと簡単に比較してみようと思う。
……。
うーん、やっぱり明らかに違うよな、心の密度が。片や風船、片や水晶玉。
風船ならば、自身の精神が崩壊するまで際限なく膨らませることはできるけど、中身はどこまでいっても空虚。上っ面な見た目しか残らない。
対して水晶玉は大きさこそ変化できないとはいえ、わずなか気泡を含むことは許されない最大限の密度が絶対条件だ。さらに透明度は水のそれに等しく、明確な自分の意志を常に確認できることが心地よい。
ふむ。こうして考えてしまうと、本物の恋心を抱けていた小学生の自分に嫉妬してしまうね。現在の僕は、偽りの恋心の中心部で右往左往して助けを求めている子羊だ。……キモイ。
さて、振られたショックで現実逃避の手段として過去を駆ける少年となった自分を手加減なく嘲り、明日もまた気張って登校しよう。水野さんの極上の笑顔で癒されるために。
***
「あぁ、羨ましいなぁ……」
感嘆を含む呟きを吐き捨てて、僕は机に肘をつきながら水野さんを眺めていた。あの容姿に比例して、水野さんは性格がとても良い。愛想が良く、友達からの頼まれ事なんかは断れないタイプの人間だ。男子からは至極当然なのだが、女子からも疎ましがられることなんかなく、むしろ平均以上に友達も多い方だった。
何気なく話しかけられるってのは、幸福なことだよなーと、水野さんの周囲に群がる女子に嫉妬してみる。ちなみに爪は噛んでいない。僕も女子に生まれていれば、水野さんと他愛のないお喋りで花を咲かすことができるのに。ん? それだと告って付き合うっていうほんのわずかな希望も最初から潰れるわけか。いや、女同士だからといって……百合という手も……。いやいやいやいやいや。何を真昼間から戦国武将もびっくりな同性愛妄想を繰り広げているんだ僕は!
座ったまま大きくのけ反るとともに、自分が危ない顔して空想に耽っていたことに気づいた。どれだけ危なかったのかは、鏡がないからわからないけどね。
慌てて左右を確認してみる。僕が水野さんを眺めながらエロい妄想をしていたと気づいている生徒はいない、……はずだ。
ただしこちらを見ている日村だけは、僕が何に対して妄想していたのかを悟れるだろう。僕が水野さんに告ったことは、彼しか知らない。
「……誰にも言ってないよな?」
「言うわけないよ。それで得になることが何一つないし。それとも言い振らしてほしかったのか?」
「んなわけあるか!」
というのは昨日の会話。日村はしっかりとソロバンを叩ける奴なので、安易に約束を破ることはしない。まあ僕との友情と、言い振らすことによって得られる利益を天秤に掛けた結果が後者へ傾くとしたならば、まず間違いなく言い振らすと思うけど。そう言う奴なんだ、昔っから。自分の利益を最優先にして……。
というわけで、事実を知っているのは日村だけのはずだ。だから僕がボーっとしながら水野さんを眺めていたことは、日村しか知らない。その他の友人たちは、僕が風邪でも引いたのではないかと、心配しながら遠巻きに目配せしているご様子。
「おーい、金本。熱でもあるんじゃないのか?」
昨日の昼にゲーム外にいた僕を犯人扱いするなど、ちょっとばかし脳みその残念な友人が、代表として近づいてきた。
ちなみに僕は特に嫌われているわけではない、……と思う。ただ皆は、もし僕が得体の知れないウィルスにでも感染していたら事なので、近寄って来ないだけなのだ。あぁ、だからこいつが来たのか。何とかは風邪引かないって言うし。
「熱は……あると思う」
「人間だから熱があって当然って冗談はいらねーぜ」
「もしその意味だったら、僕は大丈夫だってことなんだろうな」
友人は可愛げなく首を横に折る。理解できる頭がなかったのか、それとも僕の言い回しが複雑すぎたのか。冗談を言える元気があれば大丈夫、けど言えないから今は大丈夫じゃない。ってことを言いたかったんだけど。
確かに熱はある。恋熱というか知恵熱というか。わかんねーや。いつもより体温が高いのは、触覚を通してふつふつと感じられるけど。
告白してから二日目。いや、もう自虐的に、振られてからと表記しておこう。とにかく僕の心の奥底に蟠っていた落胆や動揺は、ほとんど外部へ放出されてクリアな状態へと変化を……再生を遂げようとしていた。心機一転、心の入れ替えという奴だ。
ただし勘違いしないでほしい。振られたショックは浄化されても、抱いた恋心が蒸発してしまったわけではないんだ。水晶玉なら壊れてしまえば復元することは不可能だけど、風船である水野さんへの想いは、僕という人間が存在している限りは永遠と膨らんでいく。
失恋であってすらも、告白という水野さんとの関係が新たに注入され、一昨日より昨日よりも大きく成長してしまった。
膨らんでいく風船は他の感情を表面へと押し出し、隠れていた僕の本性が浮き彫りになる。
妬ましい。羨ましい。
彼女の周囲への嫉妬心が、心から脳内へと浸透する。
風船が膨らみ続ければ、僕は嫉妬の海へと放り込まれ、身体を悪魔へと明け渡すことになるだろう。
「金本? 本当に大丈夫かよ……」
机越しに友人の顔が視界に入り、僕ははっと目を覚ました。
そうか、僕は今さっきまで、この友人と言葉を交わしていたんだった。目の前にいても気づかぬほど、自分が脳内に引き籠っていたことを嘆かざるを得ない。
「保健室行って寝てた方がいいんじゃないのか?」
「……そうする」
風邪は引いてないんだけどね。とりあえず体温だけでも測ってくるか。
ゆっくりと立ち上がり、おぼつかない足を壁で支えながら、友人の送っていこうかという申し出を柔らかく拒絶し、廊下に出る。
一度だけ教室内を振り返る。水野さんは数人の友達と談笑していた。
あー、水野さんと仲良くしている奴、全員死ね。
***
結局、微熱以上高熱以下の体温を有していることが判明し、午後の授業は保健室で過ごすことになった。一応保険医からは寝るか早退するかの判断を委ねられたが、そこは素直に寝ておくことにした。今のところ帰路の途中で絶対に倒れない保証がないし、二時間も寝れば多少は良くなると踏んだからだ。下校時間なら日村もいるし。
というわけで皆が眠気と闘いながら午後の授業に臨んでいる間、僕は保健室で惰眠を貪っていたわけだ。熱を下げるための睡眠を惰眠と呼ぶのかは不明だけど。
普段より熱が高いことも眠気の拍車を回し、いつの間にか下校時刻になっていた。寝ている時間ってホントに無駄だよなーと、今更自分の人生の三分の一を否定するような発言をこぼしてから、のそのそと起き上がる。先ほどよりはだいぶ良くなったとは思うが、まだ足元がふらつく程度には熱があるようだ。あぁ、ワイワイキャッキャ叫べる元気のある奴が羨ましい。
「ん?」
帰宅する準備をするため教室へ向かう途中、奇妙な光景を発見した。物事の関連性が逆ベクトルを示しているはずなのに、不思議と現実を受け入れてしまう現場。簡潔に事の真相を明かせば、日村と水野さんが廊下で立ち話をしていた。
あの二人、仲良かったっけ?
あの二人、同じ委員会にでも所属していたのだろうか?
あの二人、同じクラス……であることは間違いないな。
あの二人……。
さまざまな疑問が浮かんでは消えと自問自答している間に、二人の会話は唐突に終わりを遂げた。水野さんが小走りで教室の方へと駆け、日村がその背中を見送る。
にしてもあの二人が並んで立つと、物理的な意味で目が眩んでしまうかと思われるほどの美男美女さだ。もし二人が付き合ったとしたら、クラスメイト公認の美男美女カップルになるだろう。あぁ、自分の妄想が恨めしい。
壁を伝いに日村の方へ足を進めると、彼はすぐにこちらの存在に気づいた。
「お前、水野さんと何を話してたんだ?」
「ん、ちょっと話してただけだよ」
まるで質問に対し質問で返された気分だ。というかこいつ、僕が覗き見ていたことに対する憤りも、突然姿を現した驚きも示さずに平然平坦としている。
「それで、熱はもういいのか?」
「昼よりは良くなったと思うよ。起きてからは測ってないけど。というか帰るために荷物を取りに来たの。早く一緒に帰るぞ」
一気に捲し立て、佇む日村を置いてさっさと教室に向かう僕。
拗ねたような子供っぽさを表したのは、日村に感情をぶつけたくなかったから。
水野さんと普通に会話できて、とても妬ましい。いや、今に限ったことではない。日村はいつだって僕の嫉妬の対象だった。
顔のことはもちろん、背の高さだって、運動神経だって、成績だって、人気だって、人当たりの良さだって……。個人が頑張ってどうにもならないことは諦めていたけど、努力できるところは僕だって、それなりの力を注ぎ込んできたつもりだ。なのに日村は、すべてにおいて僕の頭を軽く飛び越える。
妬ましい妬ましい妬ましい!
本性が風船を圧迫し、恋心は深層心理へと沈んでいく。代わりに無限分裂を繰り返す嫉妬心は、諸手を挙げて地上につながる蜘蛛の糸を探し求めていた。
だから半分無視するように、日村を置いてさっさと行ってしまった。幼馴染にこの感情をぶつけるのは、あまりに不躾すぎるだろ? 妬ましさ満天だけどさ。
***
次の日にはすでに異変に気づいていた。同じクラスで誰かと誰かが付き合い始めたら、たとえ隠し通そうとしていても、数日で周知となってしまうものだ。人の口に戸は立てられないし、何より高校生でなくとも、人間とはこういう恋愛沙汰には非常に敏感な生き物だからである。
さらに今回は、学校一の美少女と、同じく学校一と称しても過言ではない美男子の熱愛報道なのだ。不幸なことに、僕は二人ともにとても縁近い関係なのである。
一人は僕が毎日惜しみもなく視線を献上し、かつ先日振られた女子生徒。
一人は僕の親友かつ幼馴染でもある男子生徒。
その二人が今までよりも近しい関係となったのを、最初に気づいたのは僕かもしれないが、事実はあっという間に広がっていった。
美少女水野に惹かれていた男子も、美少年日村に惚れていた女子も大多数いたと思う。
しかし祝福のムードや言葉はあれど、僻みの小言は陰へと追いやられていた。
なぜならお似合いだったから。
自分たちが手を出せる範囲ではないのだ。それはまるで、俳優と女優がテレビの中で熱愛を公にするのと同じ感覚。すでに美化され偶像化され、批判の余地はあっても口出しなどできる権利など一般市民にはない。テレビの中に悔しさを求めるように、現実に持て余す嫉妬心は、何十倍にも薄められてしまう。
だから僕の本性も、初めは喉から奥深くへと落ちて行った。ぐるぐると掻き回された胃の中から、疑問だけが生起され嘔吐する。
何故? どうして?
当然の疑問。説明するまでもない。説明する気にもなれない。
吐き出された疑問は解決されないまま地面へとぶち撒けられ、瞬時に蒸発していく。それらを掬い上げることもできた。すぐに蓋をすれば、元型のまま留めておくこともできた。
だけどしなかった。
もういい。そんなものはどうでもいい。意味など無意味。
やがて疑問の無くなった食道から、悪意が逆流してくる。悪意は僕の本性と混じり合い、そして口から放出されることはなく、そのまま血肉を介して前頭葉へ。思考の停止と活動を同時に強要する。
「………………………………」
気づけばすでに一日が終わっていた。とは言っても、日付が変わるまでにはまだ一日の三分の一はあるけど。僕ら高校生にとっては、帰路がすでに今日一日終了までのカウントダウンなのだ。
いつもならその秒読みには、僕と日村+その他友人の会話が付属していることが多い。しかし今日に限って僕は一人だった。いつもいる人物は横にはおらず、絶対に返ってこない問いかけや無駄口をたたくわけにもいかない。
いや、僕との会話の大多数を占める美少年は、五十メートルほど前方を歩いていた。
ただしその横には、絶世の美少女を連れ添って。楽しそうに談笑しながら。
あー、妬ましい。
二人の会話が耳に届く距離ではないし、彼らは僕の存在には気づいていないと思う。ストーカー……ではない。なぜならこの道は、僕の家にも続いているからだ。
日村の家に辿り着く前に、二人は手を振って別れた。水野さんの姿が見えなくなるのと同時に、僕は日村に駆け寄る。
「おい」
予想通り、日村は突然の呼び掛けにも驚きを示さず振り向いた。僕の存在に気づいていたわけでもなく、また声を掛けられることを予想していたわけでもない。こいつの無感情さは、とっくの昔から知っている。
「おー、金本。後ろにいたのか。てっきり先に帰ってたかと思ってたよ」
白々しい。その爽やかな顔が、白々しさを一層に際立たせる。
「お前、なんで水野さんと一緒に帰ってるんだ?」
んー、っと数秒唸ったのは、照れてるからではないだろう。正直に言うべきか嘘を付くべきか。より自分の得になるのはどちらかと計算をしているのだ。
「それは僕と水野さんが付き合ってるからだよ。恋人同士で帰路を歩むのは、一般論からしても別に変じゃないだろ?」
結局は正直に言い放った。僕のこめかみに、一本の筋が浮かび上がる。
自制心を強めるために、すでに天へと昇っていった疑問を再度吐き出す。
「なんでお前が水野さんと付き合ってるんだ?」
「そりゃ、水野さんが告白してきたからだよ。僕がそれに応じただけさ」
「水野さんが……?」
彼女からの告白だったとは。嫉妬心のせいで、二本目の筋が刻まれることとなる。
いや、じゃあ……ってことは、待てよ……。
「い、い、……いつからだ?」
「昨日」
あっけらかんと言い放つ日村。
昨日。それはもちろん、僕が告白したのより後の日付。
じゃあ、じゃあ、お前は……、
「じゃあお前は、僕が振られたのを知っていて、付き合ったというのか!!!」
茜色に染まる夕空に似合わぬ咆哮。近所迷惑などドブ川に捨てた勢いで、僕は叫んだ。仏の顔も三度まで。もう耐えられなかったのだ。
しかし日村は物怖じするどころか、普通に会話をするように平然と答えた。
「そうだよ」
その言葉は、僕のすべてを溶かした。血も肉も骨も脳髄も内臓も四肢も呼吸も嫉妬心も!
口が原形を留めているうちに、感情のこもっていない言葉が紡がれる。
「今夜十二時、学校へ来い」
「…………は?」
聞こえていたはずだ、何度も言わせるな。
「今夜十二時、学校へ来い」
「いや、だから何で?」
「話したいことがある」
「だったら今話せばいいだろう」
「深夜じゃなきゃ話せないことだ」
「なら隣の空き地でいいだろう。それに携帯でもいいし……」
「直接会って学校じゃなけりゃダメだ。絶対に来い」
「……」
有無も言わさず睨みつけてやった。こいつは来る。絶対に来る。断るはずなどない。
「……ッチ、わかったよ行くよ。行けばいいんだろ?」
お手上げのポーズで、口約束を取りまとめた。舌打ちは余計だったが、予想通りの反応だった。明日の予習、睡眠時間、呼び出す時間帯、家から学校への距離を考慮した結果、日村は呼び出しに応じたのだ。こいつの場合、他人から状況を左右される時はいつも、心の中で天秤を持ち出すからな。片方に僕が載る場合、多少の理不尽な要求であっても、天秤はほぼ僕の方へと傾く程度の友情に自負はある。
「待ってるぞ」
日村の横を通り過ぎる時、まるで宣戦布告のように呟きかけた。
いや、これはもう本当の意味で宣戦布告なのだ。
殺す。殺す殺す殺す! こいつだけは殺す。日村だけは殺す!
扇動心も抑制心も溶けきってしまった今、一つの塊となってしまった僕の心には、本性しか残っていなかった。透明度零パーセント、濃度百パーセントのどろどろした嫉妬心。
そう、嫉妬心だけが今の僕を動かしている。
――嫉妬ノ心ハ殺意ノ源。
***
羨ましい羨ましい羨ましい。
どうしていつもあいつなんだ。どうして僕じゃないんだ。顔がいいからか? 成績がいいからか? 運動神経がいいからか? 僕だって悪くはないと思ってるさ!
正直、周囲の生徒よりも劣っていると思ったことは一度もない。顔は人の好みによるけど、成績だっていつも上位に食い込んでいるし、運動神経だって、どの運動部に入っても少し練習すれば、エースは無理でも即レギュラーになれる自信はある。自分は平均的に優れている。すべての物事において、平均以上の能力を有しているという自負はある。
だけど日村はどうだ? あいつの場合、人間としての穴を探す方が困難を極める。気持ち悪いほどに完璧、身の毛がよ立つほどの超人さ。
何故人間はこうも不平等で生まれてくるのか。そりゃあ、他人と比べれば劣っている場所など必ず出てくるさ。だけど同時に優れているところも見つけ出し、優越感と劣等感の狭間で悩むことで、人付き合いが成立するのではないのか?
なのに日村は僕より劣っている部分など一つもない。
何故、何故、どうして? どうしてお前はいつも僕を見下すの?
どうして僕はいつもお前を見上げなければいけないの?
いつも首を掲げてる僕の苦痛が分かるか?
お前の存在のせいで陽が当たらなくなっている僕の陰鬱さがわかるのか?
そこをどけ! 僕はまっすぐ前を見たいんだ。陽の光を全身で浴びたいんだ!
生まれてから十六年。日村という大きな存在が立ちふさがってから約十三年。もう限界だ。あいつの陰に霞むのはもう耐えられない!
ぐつぐつぐつと音を立てて生成される嫉妬心。
日村と出会った時から溜めこまれていた嫉妬心のすべてが混じり合い、一つの物体となって僕の全身を蝕む。軟体動物のようにうねりながら人の形を形成していくその物体は、一人の悪魔を作り出した。
その悪魔の名前は、金本浩介。
嫉妬の悪魔に耳を貸し、己の身を捧げた若き罪人。
自らの悪魔と契約を交わした僕は、一つの目的のためにすべてを捨てた。
きっかけは風船だった。水野さんに対する恋心。しかし心のどこを探しても、それらしき姿を見つけだすことはできない。どこへ行った? まさか水野さんへの恋心はすでに消え去ってしまったのか?
……違う。僕の中身がすべて溶けてしまった時、一時的に外へと放出し、避難させていたんだった。
じゃあお外で散歩している風船はどこへ行ったんだ? お前がいなきゃ、水野さんを見つめていてもつまらないだろ? さぁ、戻っておいで。
……あぁ、そこにいたんだね。姿は見えないけど、場所だけはわかるよ。日村の後ろにいるんだよね? 少しだけ待ってて。すぐにこいつを目の前から消すから。この障害がなければ、お前はすぐにでも戻ってこれるだろ? そしてもう一度僕を楽しませておくれ。水野さんを見てムラムラしようじゃないか。
たぶん明日には、僕にも陽が当たっているようになっているはずさ。だって今夜、日村はこの世からいなくなるんだから。
***
犬の遠吠えがよく響く静寂。闇夜が東の空より来訪してから早六時間。もうすぐ夏だというのに、校舎を吹き抜ける風はとても冷たい。体温が異様に上昇しているため、皮膚から外は普段よりも寒く感じられるのだろう。
約束の時間から五分が経過した。もしや来ないのではと頭の片隅を過ったが、微かな足音を耳にして身構える。
「こんなわかりづらい所にいたのか。学校っていっても広いから、随分と探し回ったよ」
余裕と気だるさが入り混じった表情の日村が姿を現した。その気に食わない態度がまた僕の嫉妬心に触れ、ポケットの中に忍ばせているそれを堅く握りしめる。
「夜間も電灯が点いてる場所がここしかなかったんだよ」
相手の警戒心を高まらせないために、あえて軽く受け流す。
武道場と校舎に挟まれた、焼却炉に続く狭い小道だった。横の校舎の廊下からは丸見えかもしれないが、深夜十二時に校舎内を歩く人などいるはずもない。
「で、こんな真夜中に学校なんかへ呼び出して、そりゃド肝も抜かせるようなサプライズがあるんだろうね?」
「サプライズね。用意してるっちゃ用意しているけど、その前にお喋りタイムだ」
ブクブクブクと、余計な嫉妬心が彷彿する。気を許してしまえば、活火山の如く感情が噴火してしまう警告かもしれない。
「日村。……お前、何で水野さんと付き合ってるんだ?」
「それは昼にも言っただろ? 水野さんが僕に告白してきたからだって……」
「そんなことを訊いているんじゃないことくらいわかるだろ!!!」
嗚呼、日村が惚けるから、無駄なエネルギーを消費してしまったではないか。
ま、いい。失った嫉妬心は、半永久的に生産されるのだから。
特に驚いた様子も戸惑った素振りも見せず、日村は黙ったまま手を頭へやる。こいつの頭の良さは僕も一目を置いているので、さすがに今の言葉の意味が理解できなかったわけではないだろう。
そう思ったのも束の間、日村は片足を適当に遊ばせ、手持無沙汰にしていた両手はポケットへと突っ込み、半眼で僕を睨みつけてきた。
「金本さ、僕の過去を知らないわけじゃないだろ?」
「何で過去の話が出てくる?」
「いいから聞けよ。昔ある程度は話したと思ってたけど……、そうだよな。状況は理解できたとしても、実体験した僕の感情まで理解できていると思う方がおこがましいよな」
「……」
今度は僕が黙る番だった。日村がどのように話の流れを持っていきたいのか、いまいち予測できない。
非常にゆっくりとした動作で、日村は右手をポケットから引き抜く。そして眼前へ。親指以外の四本指で左目を覆い、人差し指と親指の間から、無機質な視線が僕を貫いた。
「その昔、僕はすべてを失った。命以外のすべてをね。その反動なのか、最近……って言っても二、三年くらい前からなんだけど、僕はありとあらゆる物が欲しくなってしまったんだ。いくら手に入れても満たされない。どんなに充実していても、気がつけば心の隅に得体の知れない空白が生まれていて、それがあの時の記憶を彷彿させるんだよ。簡単に言えば、僕はその空白に恐怖しているんだ」
日村に恐怖心か。日常のあの体裁からは、とてもじゃないが想像できたもんじゃない。
しかし日村がすべてを失ったのは知っている。こいつが幼年期にどんな仕打ちをされて過ごしてきたのかも聞いている。その過去に同情する心は、溢れんばかりに持ち合わせているつもりだ。
が、それがなんだというのだ? 心の隅に得体の知れない空白? 何だそれは。そんなものは知らない。そもそも、ここで過去の事を持ち出すこと自体が、話しの論点をずらしているのだ。
「過去のことは関係ない。お前は僕が水野さんのことを好きと知っていて、付き合っている現在の事実が問題なんだ!」
「いいや関係あるね。僕は強欲なんだ。心の空白を埋めるために、何でも欲しがるんだ。ありとあらゆる物を求めるんだ。失った心を元通りにするためにね。それにお前だってわかっているだろう? 水野さんはこの上なく美人だ。そんな人から告白されたら、僕じゃなくたって無条件に頷いてしまうさ」
もし僕が告白する前に日村と水野さんが付き合っていたのなら、僕の本性である嫉妬心は別としても、諦めはついていたと思う。だけどそれは過ぎ去った仮定にすぎない。だから憎い。憎い憎い憎い! 友情を裏切った目の前の男が憎い!!
ポケットの中でそれを握りしめている右手が、今にも動き出しそうだった。
もう我慢できない。いくつもの触手に枝分かれした嫉妬心は、僕の内側からありとあらゆる物を黒く染め上げる。じわじわじわと。音速を超える速さで嫉妬心に蝕まれた身体は、残っていた正常の欠片を吐き出した。
「日村さ。お前、水野さんのこと、好きか?」
うーんと唸っただけで、間髪入れずに返ってきた答え。
「確かに水野さんの外見には惚れ込むところがあるけどね。好きかって訊かれたら、別にそういうわけでもない」
終りが訪れた。漆黒の嫉妬心はすべてを焼き払い、僕は理性のすべてを悪魔へと捧げた。
右手をポケットから引き抜き、つま先のみの力で日村の方へと跳躍する。体勢を低く構え、眼前の敵を薙ぎ払った。
「っと!?」
反射神経の良さが功を奏したのか、日村は後ろへたたらを踏んだだけで、僕の右手は空を斬っただけだった。
「マジかよ。そんなサプライズがあるなら先に言っとけよ」
先に言ったらサプライズにならないだろ、と突っ込みはもはや無い。悪魔に乗っ取られた僕の身体は、日村を斬り刻むことをエネルギーとし、それ以外の機能、たとえば言葉を紡ぐことなど本能の外。
さて、今の僕は怒っているのだろうか? 笑っているのだろうか? 泣いているのだろうか? それともまったくの無表情なのか? 興味はあるが鏡がない。
「抜き身でそんなもんをポケットに入れてたなんて、穴が開いてるんじゃないか?」
五月蝿いな、その通りだよ。だけどお前を斬り刻む事に比べたら、ズボンの一つや二つや三つや四つ、いくらでも生贄にしてやるさ!
僕の右手には、家から持ち出された果物ナイフが握られていた。殺傷能力は低く、ぎりぎり銃刀法違反に引っかかるような代物だけど、斬れ味は本物だし刺す場所によっては簡単に人の命を奪うこともできるだろう。包丁やその他鈍器のような物の方が人を殺すのにはもっと適しているかもしれないが、日村との話が終わるまでに隠し通せるわけないし、何よりかっこ悪いので断念した。
初撃で首筋を深く抉りたかったんだけど……。簡単に避けやがった。その反射神経が妬ましい。
「ま、待てよ。もうちょっと話し合おうぜ」
と言う割には逃げ腰の日村。
しかしこいつ、警戒はしているんだろうがあまり動じている様子がない。普通、親友が刃物を持って襲ってきたら、それなりに慌てふためいてもいいようなものだけど。逃げ腰とはいえ、それは次撃に対する防御である。表情はおろか、口調まで普段の僕と話しているようだ。ここまで動揺しないのも気持ち悪いな。
まあいい。今から死体になる奴の言葉に耳を貸していたら、某独裁者はそれだけで半生が終わってしまうだろう。だから僕も耳だけを馬にする。
次撃、ナイフの先端を日村の眼球めがけて突いた。しかし先ほどのように不意打ちではなかったため、またも簡単に避けられてしまう。
そして日村はすぐさま反転した。駆け出す。その背中を追う。
さぁ、狩りの始まりだ!
校舎横を駆け抜け、どうやら校庭方面へと向かっているようだ。さすがに校門へ向かうという愚行は犯さない。門が閉まっているため、よじ登る間に追い付かれてしまうからね。
日村の背中は三メートルほど前方で踊っている。しかしすべてにおいて僕を上回っている日村の方が、当然足は速い。とはいっても、五十メートル走で〇,二、三秒違うだけ。目に見えるほどの差が開くことはない。
あーはは。たーのしぃー。追いかける追いかける追いかける。狩る者と狩られる者。日村が狩られる者で僕が狩る者。僕の方が上位。僕の方が優位!
人生で初めて日村に勝った瞬間だった。すごい、すごい! 身体の中からどんどん嫉妬心が消えていく! これが優越感というものか! なんて素晴らしいんだ!
いつまでもこの感覚を味わっていたいけれど、僕らの体力にも校庭の敷地にも限界はあり、校庭の端まで走りきると、日村はコンクリート材質でできた建物の陰へと折れた。ここは……運動部の部室棟か。いつの間にか校庭を完璧に横断していたんだな。
陰へ隠れたとはいえ逃がしはしない。すぐさま僕も部室棟の角を折れる。
そこには――。
「ひゃはっ!」
笑った日村が突っ立っていた。手には……金属バット?
ガツッ!!!!
視界が暗転する。
なんだ? 何が起きた? 何だ今の音は? ここはどこだ? 日村はどこだ? くそっ、真っ暗で何も見えないじゃないか! 真っ暗? なんで急に真っ暗になったんだ? さっきまでは薄暗くとも、しっかりと日村の背中を捉えていたはずだろ? ん? 何の音だ? 甲高く、とても耳に障る。……笑い声? 誰の? 僕じゃなきゃ、日村のしかないだろ? これが日村の声? そもそも日村はどこに?
っていうか、あれ? 僕は今まで、何してたっ――――ガツッ!!!
***
これは当然の結果なのだろう。親友を振った女から告白されて、好きでもないのに付き合い始めて……。もちろん金本の心情は理解できているつもりさ。僕だって、自分の物が誰かに盗られたら気が気でいられないだろうし。水野は金本の物じゃないけど。
僕が間違っていたのか? ……いや、こんなことに正解も不正解もあるはずはない。僕は僕で本能のまま判断しただけなのだから。
理由は金本にも話した通り。最近では常に心に虚無感を抱いていて、ストレスが溜まっていた。生まれるストレスは、無意識にもう一人の自分へと押しやってしまうため、気持ち悪い感触だけが付きまとうのだけど。
痒い所に手が届かないように。皮膚の下から蛆でも湧いているかのように。
そこへ舞い込んできたのが水野華憐からの告白。あれほど上等な女は他にいまい。僕は二言返事でオーケーした。
僕の心は満たされた。それが一時的だったとしても、強欲な僕の本能が水野を手に入れたがったのだ。美女が隣で一緒に歩いている優越感。それは僕にとっては一種の麻薬のようなもの。効果が切れれば、また別のモノを欲しがってしまう、どうしようもなく下卑た本能。
まあいい。これは自分が生まれ持ったものだと諦めているから、今さら否定する気なんてさらさらない。問題は現状。親友の金本が、果物ナイフで僕を攻撃したという悪夢。
「ま、待てよ。もうちょっと話し合おうぜ」
我ながらなんて白々しい言葉なんだ。金本を怒らせているのも、攻撃してくるきっかけの言葉を吐いたのも、すべて自分だというのに。
しかしナイフときたか。泣き事恨み事妬み事、その他さまざまな小言を言われた揚句、首くらい絞められるかなとは予想していたけれども、まさか刃物が出てくるとは思わなかった。それだけ金本は本気……なのか?
「×××××!」
奇妙な雄叫びを上げながら、金本の手に持つナイフの先端が僕の眼球へと向かってきた。最初から逃げ腰だったため、簡単に避けることができる。
本気で殺しにかかってきている! 今のは避けなかったら確実に眼球を抉られていたところだったぞ! それに今の声、なんて叫んだ? 本当に日本語だったか?
いや、その前に、今のは本当に金本の声だったか?
なんて悠長に疑問を並べている場合ではない。僕はナイフを避けた動作から、そのまま身体を反転させて駆け出す。金本に対抗できる武器がないというよりは、対抗したくない。すべて僕が悪いんだから。あいつの憎しみくらい、僕の強欲さで享受してやろう。
だからといって斬られるのは御免だ。逃げて逃げて、金本を説得させる言葉を考えるしかない。
最初は学校内からの脱出を試みようと思ったが、それはすぐに断念した。逃げすぎて撒いてしまったら説得どころではないし、深夜とはいえまだ十二時。出歩いている人がまったくいないわけではない時間帯だ。もし校外に出てナイフで僕を襲う金本が見つかってしまったら、普通に通り魔である。親友を犯罪者にするのはできるだけ避けたい。
なので校庭のど真ん中を突っ切ることにした。これなら見失われることもないだろうし、足の速さに自信がある僕なら追い付かれることもない。
「×××××!」
相変わらず奇声の叫び上げているようだが、さて、どのように説得するべきか。
考えているうちに、部室棟まで辿り着いてしまった。コンクリートの壁を曲がり、今の追いかけっこで差ができたので、ほんの少しだけ速度を緩める。
カツン。
何か蹴ったようだ。足元には金属バット。野球部かソフト部の片づけ損ないか。この状況で……こんな物見たら……奴が……奴が!
『さぁ、殺人ショーの時間だ』
ドクンと一度だけ心臓が大きく脈打った。そして意識が遠のく。
……いや、違う。意識はしっかりしているはずなのに、視界だけが異様に狭くなる。望遠鏡を逆から覗き込んでいるように、側面は真っ暗で、視点はぼんやりと。次に猛烈な吐き気。
まさか! まさかまさかまさかまさか!!!
出てくるのか? 今出てくるのか? 今はダメだ。もし今出てきたら……!
刹那、一気に気分が良くなった。視界も夜間ならではの鮮明さを取り戻す。
ただし一つだけ違った。一つ以外はすべて違った。眼球だけはちゃんと役割を果たしているのに、その他の機能はまったく動かない。誰かに身体を乗っ取られたかのように。夢を見ているかのように。まるで幽霊にでもなったかのように。
『殺されそうなんだろ? だったら返り討ちにしてやりゃいいじゃねえか!』
そいつは軽やかな動作で足元のバットを拾い上げ、唇を歪めた。
『ひゃはっ!』
肩越しに見えた金本の表情は驚愕に満ちていた。ただしそれも一瞬のことだけ。そいつは金属バットを振り上げたと思うと、躊躇なく金本の脳天へと一気に振り下ろした。
ガツッ! 鈍い音とともに、親友はうつ伏せに地へと倒れる。
『ひゃははっ!』
そいつは倒れた金本を見下ろして笑っていた。
『いいねいいね。きゃはは、自分一人じゃ何もできないほど弱った奴を嬲るのはたーのしーねー。って今まで殺人どころか、表に出てきたことも二、三度しかなかったっけ? ひゃはは!』
五月蝿い、黙れ。まだ生きてるんだら早く病院へ……。
その時、微かに動く金本が頭を上げた。視線が交差する。
何が言いたいのか。何を求めているのか。何を遺したいのか。
残念ながら僕にはわからない。僕らの友情もその程度だったってことか。
親友の死を惜しむ間もなく、第二撃目がそいつから振り下ろされた。今度こそ脳天が割れたのか、血液が飛散する。
ガツッ、ガツッ、ガツッ、ガツッ、ガツッ、ガツッ。
流れ作業のように何度も何度も金本の頭へバットを振り下ろし、その中身を撒き散らす。
そしてどれくらいの時間が経過したのだろうか。そいつの脳裏に『飽き』が過った。同時に身体の自由が蘇ってくる。
手にはひんやりと冷たい金属バットの感触。鼻腔には人間の脳みその臭いがまんべんなく侵入してくる。舌の上では鉄の味が広がる。少し口の中に入ったのか? あれだけ大口開けて、笑いながら殴ってたら当然か。
周囲には車が通る音すらなく、耳鳴りがするほどの静けさが漂う。
そして前方やや斜め下には、頭が空洞になった親友がうつ伏せに倒れていた。
「…………あー、まいったな」