第19話 『怠惰』
嘘だ。そんなこと有りはしない。これは絶対に嘘だ!
昨日、俺に連絡もせずに学校を休んだ土屋が心配になり、意を決して彼女の家を訪れた。そこで土屋が出てきて、申し訳なさそうに学校を休んだ理由を説明するか、わざわざ家まで来なくてもいいじゃないと、煩わしそうに追い返すかだろうと、俺は期待していた。
しかしそれは甘い幻想だと、すぐに知ることとなる。
呼び鈴を鳴らして、家から出てきたのは土屋の母親だった。そりゃあ、体調が悪いのなら本人が出てこないこともあるだろうさ。そこはほら、誤差の範囲内ってやつさ。
いきなり好きな女の子の母親と対面して、たじろぐ俺。うわーそっくりだな、とか、土屋が歳取ったらこんなふうになるのか、なんて感想を抱いたのは最初の一瞬だけだった。あまりにも日常とは不釣り合いな母親の表情を見て、俺はすぐに異常な事態が彼女を取り巻いているのだと悟る。
土屋の母親の表情は、悲しみ、戸惑い、不安がすべて合わさり、精神の極限まで膨れ上がっていた。きっかけさえあれば、すぐにでも爆発してしまいそうな、感情の核爆弾。その精神は肉体にまで現れているのか、土屋の母親は立つことさえ何かの支えが必要なほど弱っているようだった。
現状を把握しきれないままも、俺はこの家を訪れた理由を母親に説明する。怪しくならないように、ちょっとだけ仲が良いからと謙虚心も込めて、心配していることを強調して。
だけど母親の口から放たれた事実は、予想だにしてないことだった。
今は家にいない。というか昨日から帰っていない。連絡もない。
土屋の行方を案じる母親は、話しの途中で感情の膜が決壊し、その瞳には次第に涙を溜めていった。しかし俺はそれを慰められるほど器用じゃない。それよりも、信じられない事実を突き付けられて、耳の機能だけを残して脳内へと引き籠っていた。
昨日から帰っていない? そして電話も繋がらない?
どういうことだ? 土屋はどこへ行ったんだ?
まさか……失踪!?
そんな馬鹿な! そんなことは有り得ない! でもあの土屋が、意味なく他人を心配させることなんてあるか?
いいや、ない! そんな無意味なことをする奴じゃない!
じゃあ何なんだ。連絡をしないんじゃなく、連絡が取れない状況にあるというのか?
誘拐? 拉致? 監禁? 誰が? 何の目的で? どうして土屋を?
やめろやめろ! 物事をマイナスの方面へ考えるのはやめろ!
思考が渦巻いている中心に、ある一つの可能性が飛び込んだ。イメージとして浮かび上がったのは、死体。だけど本物の死体じゃない。俺は当時の現場を見ていないから、ただマネキンのような人型がうつ伏せに倒れている状況を思い描いただけだ。
そう、死体。先日、金本浩介が学内で殺された。もしや土屋も、通り魔に襲われて……。
駄目だ駄目だ駄目だ! 考えるな、そんなことを考えちゃ駄目だ!
それに金本を殺した犯人は日村じゃないか。通り魔じゃない。
………………土屋も日村に殺されて?
違う。土屋の推理では、日村は正当防衛だと言っていた。日村に土屋を殺す理由がない。
じゃあ何だというのだ!?
どうなったというのだ!?
もう……もう嫌だよ。そんなの嫌だよ。もう嫌だ。
考えたくない。
土屋のいなくなった世界なんて考えたくない。
土屋がどうなったかなど考えたくない。
土屋が隣にいないなんて考えたくない。
土屋の顔が見られない未来など考えたくない。
もう一度土屋と面白おかしく話せる未来しか考えたくない!
――怠ケル心ハスベテヲ無ニスル。
それが昨日の話。俺は今日も普通に登校して、土屋が欠席していることを確認した。
だけど何も考えない。日常を過ごす一分一秒も記憶に留めることはない。
罪の浸食が始まった。以前から俺のいたるところに分散していた罪が、次第に肥大していく。真っ白の紙に、普段は所々散布していた墨汁が、土屋の失踪をきっかけに徐々に紙の白い部分を埋め尽くしていくような。黒い罪はやがて紙面のすべてを墨汁で染め、俺の全身を蝕むだろう。
早回しにしているビデオテープみたいに、高速で後ろへ流れていく日常風景。その中心でほとんど変化もなく呆然と立ち尽くしているのは、怠惰の罪を纏いし罪人、木原純也。つまり俺。
土屋がいない世界ってのは、こうも早く過ぎ去って行くもんなんだな。
……少し違うか。
当然のことながら、土屋と顔を合わせない日は過去にも何度かあった。でもこんなにも時間が早く感じたことはない。
それはそう、たとえ目の前にいなくても、頭のどこかには土屋が存在していたからだ。次に顔を合わせたら、あの話をしようとか。そういえば昨日、予習をサボったことを土屋に説教されたなとか思い出して。
だけど今はどうか。頭のどこを探しても、土屋を見つけることができない。記憶のどこを潜っても、土屋の顔を思い出すことができない。土屋の存在をみいだせない、虚無感に襲われる。
何故だろう。何故忘れてしまったのだろう。あんなに大好きだった土屋の顔を。あんなにも心地よかった、土屋と過ごした日々を。
思い出したい。もう一度手に入れたい。あの日常を。
「……あぁ、手芸部か」
いつの間にか旧校舎の二階、手芸部部室前に来ていた。時刻は太陽の傾き加減から推測するに、放課後だろう。今日の朝や昼は、どんな授業を受けて、誰と何を話したのかなど、本当に記憶になかった。
そんな状態でも、無意識のうちに手芸部まで足を運んでしまうとは……はは、確かにここは土屋とよく二人で過ごした思い出の場所だけどさ。
視界がぐらりと揺れ、ぶつかるように部室の扉に手を掛けていた。体全体で扉を押し、倒れこみながら入室を果たす。
「あら……」
部屋の中央で佇む少女に、俺の眼は完全に奪われた。そこにいたのは絶世の美人。小野小町、クレオパトラ、楊貴妃に並んで、世界四大美人と称されても、なんら違和感を抱かないだろうと思われるほどの美貌の持ち主。
水野華憐は意外そうな瞳で、しかし驚いた様子もなく俺を迎え入れた。
「放課後に木原君がここに来るのなんて、珍しいね」
確かに、昼食時には弁当を持って土屋と一緒に食べることはよくあったけど、放課後この部室を訪れたことはあまりないな。
俺と水野は顔見知りだ。昼休みにはいつも土屋と二人きりだったわけでなく、たまには他の部員である水野などと昼食を共にしていたこともあった。だから俺は、手芸部ではけっこうな顔馴染みなのである。
けど、何故お前がここにいる? 俺が会いたいのはお前じゃない。土屋なんだ!
土屋と過ごしたあの日々、昼食を共にしたあの日常、延々と堅苦しいことを喋り続けるあの会話。どの思い出にも、お前の姿はない。今お前の存在は必要ない!
と、内心では粋がってみたものの、口に出すことすら面倒なので、視線だけで訴えておいた。
「あぁ、ちょっと土屋を探しに来たんだ」
そう答えると、みるみるうちに水野の表情が憂いへと変化していった。
本当にこの女は、どんな表情をしても絵になるな。まるで自分の心情を、他人へ強引に共感させる能力が備わっているようだ。それほど水野の美貌は、多くの人を屈服させる魅力を持つ。
だけど好きになれるかっていったら、絶対にそんなことはない。水野の偶像性は舌を巻くばかりの力だが、それはあくまでも表面上だけのもの。如何せん、水野の器は小さすぎる。
二、三回会話してみてすぐにわかった。その魅力から、心は底なしの湖の如く深いだろうと思って足を踏み入れたら、全然そんなことはなかった。底に足がつくどころか、踝あたりまでしか水がなかったのに驚いたのは初対面の時。あれは何も知らない男子が、後先考えずにダイビングすると、絶対に怪我をするなと思ったのはいい思い出。
……別に水野との思い出を語りたかったわけじゃない。土屋とのをくれよ。
「やっぱり明美、木原君にも連絡してないの?」
「あぁ……」
「本当にあの子、大丈夫なのかな。電話やメールもできないほど高熱出してたりして」
土屋が家にも帰ってなく、親が慌てふためいていることはまだ知らないのか。まあ、それを知っているのは、今のところ俺だけだろう。だけど何も知らないとはいえど、上っ面だけで土屋を心配しているこいつには少々腹が立つ。
「水野さんは最後に土屋と会ったのっていつ?」
「私? うーん、昨日は学校も休んでたみたいだし、一昨日は私、部活に行かなかったし……。最後というと、一昨日のお昼あたりかな。その時に会話したのは覚えているけれど、内容まではちょっと忘れちゃった」
ということは、俺が最後に会ったよりも前ってことか。
俺は土屋とは同じクラスの為、放課後まで同じ教室で授業を受けていた。それからだ。あの日土屋は何やら用事があると言って、俺と一緒に帰ることを拒否したんだったな。その時から行方不明か……。
ちょっと待て、用事って何だ? いつものように部活だと思って完璧にスルーしてたけど、土屋は部活のことを用事と言うだろうか? いや、部活だったら部活と言うはずだ。
じゃあ何の用事だったんだ? 家の用事なら俺と一緒に帰ることもできたはず。部活をサボってまでの用事? 教師の手伝いか何かか? むしろ土屋の言った用事と、土屋が行方不明になったことを繋げて考えてもいいのだろうか?
わからない。わからない。わからないんだけど……、
やーめた。
俺がいろいろ考えたところで、状況は変化しない。怠惰という罪が脳内のニューロンを食いつぶし、頭がまったく回転しない。ひたすら思考能力が落ちていく。
「あれ、どこ行くの?」
「もしかしたらこの部室に土屋がいるかもしれないと思って来たんだけど、いないならもういいや。あいつがいなけりゃ用はないし」
そう嘯き、即座に退室を試みる。といっても用がないのは事実だし、水野と一緒にいてもストレスで疲れるだけ。土屋のいない手芸部など、何の価値もない。下唇を噛みながら俺を睨みつける水野を一瞬だけ視界に入れ、早々に部室から逃げ出した。
さて、どこに行こう。土屋がいなければ、何をしていても面白くない。
土屋土屋………土屋って誰だっけ? 実は俺は、すでにあいつのことをほとんど忘れてしまっていた。土屋の声も、話し方も、顔も、思い出も。ただ俺が土屋を好きだという感情を残して。
今になってわかった。俺の罪である怠惰が、肥大していった理由だ。
土屋の死をイメージしてしまい崩壊してしまった俺の精神は、本来なら狂いに狂っていただろう。だけどそうはならなかった。罪が大きくなるにつれて、土屋のことを忘れていったから。忘れることによって、怠けることによって、発狂することさえも面倒くさがっているのだ。
この罪を消し去る方法は、一つしかない。
その手段としては、すべて土屋絡み。土屋と再会を果たせば、土屋の顔を見れば、土屋の声を聞けば、土屋の居場所がわかれば、忘れてしまっていた土屋の記憶がすべて蘇り、怠惰の罪も薄くなっていくだろう。
それもただの仮定にすぎない。もし土屋がすでにこの世にいないとすれば――、
やめやめ、考えるのストーップ。さぁ、俺の罪よ、俺の存在を丸ごと飲み込んでくれ!
俺はもう何も考えない。何も話さない。何もしない!
罪が示すままに、最大限に怠けようじゃないか!
あーあ、眠い眠い。怠けるといったら、やっぱり睡眠だよな。もう寝よう。
このまま永遠の眠りについても、別にいいんだけど……。ま、どうでもいいか。
とりあえず、おやすみなさい。




