第14話 『過去』
僕は特殊な環境で幼少期を過ごしていた。虐待されていたのだ。両親に。
両親は仲が悪く喧嘩をするどころか、むしろ世間からはオシドリ夫婦と呼ばれるくらいには親密だった。出会ってから一度も喧嘩をしたことがないと言われても、納得してしまうほど。
しかし僕のことは疎んでいた。望まれて生まれた子供ではなかった。幼いながらも、物心がついてすぐに、自分が愛されていないことを理解していた。
食べ物を与えてもらえなかったわけではない。着る物を買ってもらえなかったわけではない。世間体を守るために、母親は僕を幼稚園にも通わせていた。それは単に、僕と顔を合わす時間を少しでも少なくするためだったのかもしれないけれど。
ただ無視だった。愚痴やストレスの捌け口になることもなく、本当はいない人間のように、本当は生まれなかった子供のように、まるで幽霊か透明人間かのように扱われていた。
だから僕は物心が宿って早々に、知識をつけなければならなかった。一人で生活できるように、一人で何でもできるように。
子供が一人で生きるのには無理のある範囲の物事、たとえばお金などの問題は心配いらなかった。自分たちの子供、つまり僕の存在を周知にした状況で、世間体を優先順位の一番に考える愚かな両親なのだ。僕のことを露骨に疎かには扱えるはずはなかった。
しかし何がきっかけだったのかは覚えていない。というか知らない。知りたいとは思わないし、知る機会もない。
仕事から帰ってきた父親が、部屋へ入ってくるなり僕の顔を怒りまかせに引っ叩いたのだ。そして何度も何度も、蹴る殴るの暴行を加え続けた。もちろん母親は止めに入ったりはしなかった。一緒になって僕を殴ることもしなかった。
やるんなら静かにやって。声を出させないようにやって。傷が残らないように、もしくは目立たないようにやってと、父親を宥めることもなく遠巻きに眺めているだけだった。
あらかたの暴行が止む頃には、僕はほとんど手足を捥がれた昆虫状態にまで陥っていた。全身から火が出るような痛みが自由な動きを拒否し、乳歯はすべて折られ、四肢の関節はあらぬ方向に曲がっていた。皮膚は肌色の面積の方が少ないくらいに、青痣を作っていたかもしれない。
怒り心頭の父親とは対称に、冷静に成り行きを見届けていた母親は小さく溜め息を吐いた。
『……どうすんのよ、これ』
これ、である。今思い返してみれば吹き出してしまうくらいに貶された指示語だ。
徐々に冷静さを取り戻しつつある父親も、次第に困り果てていった。
怪我をしているから病院へ連れて行くのは当然だが、しかしこの状態を診られては、どんなに愚鈍な医者であっても虐待を連想してしまうだろう。それは駄目だ。せっかく虚偽であろうと円満な家庭を演出して、世間に好印象を与えているというのに、虐待なんかあってはそれこそ自分の名前が地に堕ちる。地位など、吹けば飛びそうなくらいの紙屑へと変わってしまう。
数十分悩み貫いた結果、父親は結論を出した。
『捨てておけ』
もちろん本当にゴミ捨て場に捨てて来いという意味ではない。だからといって、いつまでもリビングに転がっていてもらっては、後味が悪すぎる。
だから隔離された。僕は押し入れの中に閉じ込められた。外からつっかえ棒のようなものを立てかけて、中から開けられないようにして。両腕の骨が折れているため、まったく動かすことすらできなかったんだけれども。
それから僕は完全に放置だった。傷の具合を診に来ることも、食事を与えに来ることも、襖の向こうでは話し声はおろか、足音すら皆無だった。
両親は僕を亡き者にするつもりだったのかもしれない。幼稚園には、僕が怪我か病気で入院していると伝えたのかもしれないし、近所でもそれは通じる。あぁ、金本と土屋は心配してくれていたのかな? ただし当時はまだ幼稚園児だったため、たとえ家に来たって両親に追い返されればそれで終わりだろうけど。
ガリガリガリガリ。
幼い身体での絶食はとても辛かった。正直、三日くらい経った頃には、すでに死んでいるんじゃないかと勘違いもしていた。
ガリガリガリガリガリガリガリガリ。
傷の痛みは、麻痺した脳みそによって既に感じなくなっていた。どれも致命傷ではないため、簡単に死ねなかったのは幸運か不運か。どちらにせよ、生殺しの地獄を見たことには違いはない。
ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ。
爪で襖の裏を何度も引っ掻き回すが、いっこうに破れる手ごたえはない。いったいどれだけ硬い襖なのだ。
……? あれ? そんな馬鹿な。どうやって引っ掻いているというのだ。自分は今、両腕を骨折して動かすことさえ困難だというのに。
ガリガリガリガリ、ガリガリガリガリガガガガガガガガガガ!!
何! 何この音!? 怖いよ! 助けてよ! ここを開けて!
恐怖と焦りにより身をくねらせると、四肢が壁や床に激突し、死んでいた痛覚が蘇った。
何故自分がこのような目に遭わなければならないのか。何故自分なのか。
憎い。自分の運命が憎い。自分の両親が憎い。気づいてくれない近隣の人間どもが憎い。
憎い憎い憎い! すべてが憎い!
寸前のところで発狂しそうだった。怒りに身を任せ、その勢いで悶え続け、興奮状態の極限まで達していた脳みそは、アドレナリンの洪水によって溺れ死ぬところだった。
ガリガリガリガリ。
しかしどうしたことだろう。先ほどまで恐怖を煽っていた奇怪な音が、僕に安らぎを与えてくれる。音の鎮静剤のように、僕の心は少しずつ暴動を抑えられる。
何かを切り取るようなその音は、最後にはゆっくりと、切り出した始点を狙うかのように静かに音を消す。そして、
ガリガリガリ……スポン!
取り除かれた。僕を憤死に至らせようとしていたすべての恐怖や憎しみが、一瞬のうちにどこかへ消えていった。心の中に大きな穴が現れたのを実感したが、心のことなど今はどうでもいい。すべてに対する憎しみや恐怖が消え去ったことが、とても心地が良い。
ただし心を満たしていたそれらの感情が無くなったということは、別の感情を意識せざるを得なくなるということ。つまりは現状においての欲求的不満。
食べ物が欲しい! 水が欲しい! 歯が欲しい! 健全な身体が欲しい! 話し相手が欲しい! 優しい両親が欲しい! 幸せが欲しい!
そして何より、愛が欲しい!!!
何もかも失った僕の心は、欲で満たされた。憎しみや恐怖が消え去って空いてしまった空白も、収縮の反動ですべてが欲求不満で満たされた。
生きたい。死にたくない。どれだけの時間、その文節を繰り返していただろう。
奇跡は突然やってきた。
目の前の黒い壁がゆっくりと開かれ、隙間からなだれ込む光が、暗闇に慣れてしまった僕の虹彩に刺激を与えた。
数人の声。ほとんどが男の人。何やら怒鳴っている人もいるようだけど、何故こんなにも大勢の人がいるのか。
ゆっくりと瞼を開くと、そこには知らないおじさんが何人もいた。
***
結果からいえば、僕の両親は死んだ。この近辺とは程遠い、山奥の観光地で。
落石事故だったらしい。ドライブしていたら運悪く巨大な岩が落ちてきて、車ごとペチャンコに。事故後の写真は見せてはもらえなかったが、聞いた話のよると、前座席付近では猫も通る隙間がないほど、本当に潰れつくしていたそうだ。
被害者の身元がわれた時に、僕の存在が行方不明になっていたことが警察を動かせた。後部座席にはおらず、崖下も捜索したが発見されず。近所の聞き込みで入院していることは簡単にわかったが、その病院が特定できず。最終手段として家宅捜索に乗り出した結果、監禁されていた僕が発見されたわけだ。だから押し入れから出た時にいた何人もの男の人は、警察の方々だったということになる。
そして両親があの時期に、何故遠くの山奥にいたかは今でも謎である。旅館の宿泊記録から日をまたいだ旅行なのは明確だけど、その理由が一切不明。僕を監禁したまま旅行に行くことに何のメリットがあるのか。ただ僕の存在を忘れてゆっくりと過ごしたかっただけか。もしくはちょっと離れている隙に僕が死んでしまえば、事故か強盗にでもやられたと言い訳ができると思ったのかもしれない。ま、今となっては解明することが不可能ではあるから、変な想像をするのはやめておこう。
後日、一人身となった僕は、伯父夫婦に引き取られることが決定した。その伯父夫婦というのが現在も一緒に住んでいる僕の保護者なのだけれど、その二人は本当に良い人。僕が悲惨な目に遭って同情してくれていることを差し引いても、ちょっと心配になってしまうほどのお人よし夫婦だ。
伯父夫婦の家は市外にある。だが僕はこの場所から離れることを嫌った。金本や土屋と離れ離れになりたくなかったからだ。だからちょっとした我が儘。少しごねて怒られたら諦めようと考えていたけれど、僕の言葉を聞いた伯父はこんなことを簡単に言い放った。
だったら引っ越そう。
当時の僕はまだ子供で知識もなく、ただ単に嬉しかった。引っ越しをすることにどれだけの手間が必要なのかも知らなかった。
ただ僕の元の家を残しておくことは嫌な思い出がぶり返すだろうと取り壊して空き地にし、その隣に家を建てたのだ。その実行力や資産は純粋にすごいと思う。どうして最初からこの伯父夫婦の下に生まれなかったのかと、何回嘆いたことやら。
こうして僕は、虐待監禁されたことなどすっかり忘れてしまうほど、幸せに取り囲まれて暮らすことができた。自分の子供のように接してくれる優しい伯父夫婦。気の許せる楽しい幼馴染たち。
満たされていた。それら以外に欲しいものなんてなかった。すべてが充実していた毎日だった。
だから当時は気づかなかったのかもしれない。自分の心の中に、小さな穴が開いていることに。切り離された怒りと恐怖が、自分とは別の所でひっそりと隠れていることに。
満タサレタ心ハ何モ求メナイ――――




