第12話 『説得』
気持ちが悪い。嘔吐したい衝動に駆られるも、最初に洗面台と対面してからすでに三十分は経過しているので、吐き出されるのはわずかばかりの胃液と唾液のみだった。辺り一帯に酸の臭いが漂っているが、気にすることはない。頻繁に人が通る場所でもないし、時間帯でもない。
学校の旧校舎。通常の授業をする教室がある校舎ではなく、主に音楽室や美術室といった選択科目を行う教室の拠り所である。教室への移動時間ならばともかく、全校生徒の半数は帰宅し、もう半数は部活に勤しんでいる放課後の今なら、誰かが通ることは滅多にないだろう。念のため、トイレのすぐ隣にある美術室も覗いてみたが、どうやら今日の活動はお休みのようだった。
窓辺から差し込む夕明かりに照らされながら、僕は再度嘔吐を試みた。口の中が酸っぱさで麻痺し、粘着性を帯びた得体の知れない液体とともに心の破片が吐き出される。
じわじわじわ。ぼろぼろぼろ。
心の中の空白がどんどん大きくなる。気持ち悪いから吐いているのに、吐くと同時に空白の縁が削り取られるため、さらに気持ち悪くなるという悪循環。そろそろ本当に何も出なくなる。それは胃液唾液の問題ではなく、心がすべて吐き出されてしまうかもしれない恐怖。
どうして急激に心が削れ落ちていくのか、理由は明確だった。
金本のせいだ。金本を失った喪失感。たった一人の親友を殺してしまった罪悪感。まさか今更堪えてくるとはね。
正直、親友ならばまた新たに作ればいいと本気で思っていたものの、僕の心に住む悪魔がそれを許さなかったらしい。
強欲。それが僕の悪魔の名前。心に穴の開いた不安定な状態を、ありとあらゆる物を手に入れることによって満たそうとしてくれる、僕の本性。その強欲な悪魔が、自分の手で金本を捨ててしまった僕に対して反発しているのだ。強欲は僕の心の中で金本を占めていた部分を切り取っているため、こうして吐き気をもよおしているのである。金本のいない日常を過ごすことによって、不足している金本成分を徐々に自覚していったのだろう。
金本を失ったことは、覆すことのできない事実だ。削り取られた心の隙間を補うためには、金本以上のモノを手に入れる他ない。
嘔吐感が残ったままうがいをし、トイレから出る。青春を感じさせる運動部の怒声がやけに遠い。
この旧校舎はグランドとは正反対の位置にあるのだ。しかも学校の敷地内でもかなり奥まった場所に位置しているため、窓の外を通る人は滅多にいない。ここの外を通る理由としてはゴミ捨てくらいのものか。
「……ん?」
誰もいないと思っていた廊下に女の子が立っていて驚いた。そいつはよく見知った顔。
心の崩壊が、いったん停止する。内心で悪魔が微笑んだ。
「こんな所でどうしたんだよ」
「手芸部の部室がここの二階」
「あー、なるほど」
彼女が人差し指で階上を指し、僕は納得がいった。しかしこのタイミング、僕と遭遇したのは偶然ではあるまい。
「あなたの姿を見かけたからつけてきた。それでトイレから出るまで待ってた。あなたこそ、ここのトイレで何やってたの? 三十分くらい籠ってたようだけど」
「ちょっと気持ち悪かったから吐いてたんだよ。吐くところなんて、誰にも見られたくはないだろ?」
「……そう。大丈夫?」
「おや? 僕のことは嫌ってたと思ってたのに、心配してくれるのか?」
土屋が目を細め、僕を睨む。怖かったので手を上げて降参の意を表した。
間。土屋は相変わらず険しい顔つきをしているが、果たして僕はどのような表情をしているだろう。自分の顔の筋肉だというのに、まるで神経が通っていない感覚に襲われた。
「ねえ……」
そして堰を切ったように土屋が口を開く。
「日村、自首したらどう?」
来た! 来た来た来た! これだ、僕が待っていたのはこれだ!
「自首?」
一応惚けてみる。ただし内心では大喜びなので、顔の作りをちゃんと訝しげにできたかは自信がない。
「金本を殺したのって、あんたなんでしょ?」
ぞくぞくする。探偵に、お前が犯人だと指摘された人間の気持はこうも高ぶるものなのか!
「はは、そんな馬鹿な。金本を殺したのが僕だって? 証拠はあるのかい?」
さあ土屋。君がどんな風に推理し、どんな風に理論立て、どんな風に僕が持つ金本の魂を奪っていくのか、見せてもらおうじゃないか!
「証拠ね……。現場に、あなたのものと思われる足跡が、いくつも残されていたわ」
足跡か。夜間だったため僕はあまり気にしてなかったが、そんなにもはっきりと残っていたのか? にしても何でこいつ、足跡の情報なんか……あぁ、親父さんが刑事だったな。
ではどうやって言い逃れをしよう。事前に現場を訪れていたことがあった?
……無理だな。野球部ならいざしらず、体育でソフトも選択してない僕が野球部の部室付近に足を運ぶ機会など、不自然すぎる。それに足跡が特定できるほどとなると、一番新しいものでなくてはならない。毎日練習のある野球部より後の時間に残されたとなれば、犯行時にその場所にいたと考えるのが合理的、か。
やはり足跡なんて物的証拠を突きつけられたら、言い逃れはできないのか……?
……いやいやいや、待て。逆だ。
「何を言ってる。僕は靴の型なんて取られたことは一度もないぞ」
もし警察が端から僕を疑っているのならば、取り調べに来た刑事が靴の型どりをしていってもおかしくはない。覆面パトカーに乗せられた時も、座席の下は普通のシートで型どりができるものではなかった。その前に、あの時は事件に履いていた靴と違うものだったしな。
だとしたら、土屋の言ったことはもしかして……?
と、土屋の顔が苦虫をつぶしたような表情をした。
「その通り。だから残された足跡があなたのものっていう話は嘘よ。……鎌をかけたの」
嘘! あの土屋が嘘を吐いた! あの正直者の土屋が、正義感の塊のような女が、他人を騙すような鎌かけを平然とやってのけた!
楽しい、楽しすぎる! 普段なら絶対に嘘なんて付かない傲慢な土屋が、僕を罠に陥れるために自分の主義を裏切りやがった! それだけ焦っている? もしくは僕を憎んでいる? どちらにせよ、よく知った人間の意外な一面を目の当たりにできたことが、僕の高揚感を最骨頂まで駆り立てた。
……だが待て。少しだけ不安はある。最初から鎌をかけてくるってことは、証拠なんて初めから用意してなかったんじゃないだろうか。
「勘弁してくれ。でっち上げた証拠で人を犯人扱いしないでくれよ。それとも、他に何かあるか?」
「証拠は……ないわ」
ほらね。というよりも、僕の期待は根本から間違っていたんだ。証拠があれば、即座に警察が事情聴取に来るのはずだ。ただの一高校生である土屋が、先に僕の元へ辿り着くなんて期待は、やはり最初から無理があったのかもしれない。
まあいい。解答用紙を提出された以上、僕のやることはその採点以外にはない。
「じゃあ何だよ。僕が金本を殺す動機でも見つけたのか?」
「それも無いわね。あんたが金本を殺す理由はない」
何なんだこの女。じゃあ何を根拠に僕を犯人扱いしているんだ。……いや、事実僕には金本を殺す理由はなかったのだから、それは正解か。
軽く呆れてみせ、もう帰りたいのアピールとして土屋の傍を歩き抜こうとする。引き止めてくれるわずかな期待よりも、ぐだぐだな推理をしようとする土屋への失望感の方が大きかった。
「証拠がなくても、金本がどうやって殺されたかを想像するのは簡単よ」
「?」
立ち止まる。一応聞いておこうではないか。
「死体が発見された前日の夜、金本は誰かを殺すために学校で待ち伏せしていた。たぶんその誰かを呼び出したんでしょうね」
「何故わかる?」
「金本がナイフを手にしたまま死んでいたからよ。凶器としての殺傷能力は低いけど、銃刀法違反に触れる長物だったらしいわ。さすがに万が一に備えて、護身用で持ち出したものとは考えづらい。つまり金本は、少なくとも何者かを傷つけるために、家からナイフを持ち出したか、事前に買っていたかしていた」
「なるほど」
「金本はあなたを殺すためにナイフを所持して呼び出した。しかしナイフを突き付けてあなたを怯ませたはいいけど、あなたは偶然にも落ちていたバットを手に取り、襲いかかってきた金本を返り討ちしてしまう。どうかしら?」
「だからそれが僕だって証拠は……」
無いんだったな。無いことを前提にした想像だったことを失念していた。
「じゃあ仮にお前の言う通り、金本が襲いかかってきたところを僕が返り討ちにしたとしよう。でもそれじゃあ、金本には僕を殺したいほど憎む理由があったはず。それは何だというんだ。まさか証拠どころか、殺害動機も突き止めていないのに、僕に自首を勧めているわけじゃないだろ?」
土屋が首を横に振った。
「知ってるでしょ? 金本の嫉妬心を」
「嫉妬心?」
あー、あれか。昔から勝負事がある度に、金本が僕に食ってかかってきた。勝負に挑むと明言しているわけではなかったが、絶対に負けたくないと想いが詰まった視線で僕を捉えていたことは知っている。嫉妬心というよりは、勝負心とでも呼ぶべきか。
なるほど。嫉妬が殺害理由か。面白い。
「今まで僕に対する嫉妬が積もりに積って、犯行に及んだってのか?」
「違うわ」
「というと?」
嘯くと、土屋明美は目くじらを立て、眼下から僕を睨み上げてきた。
「わかってるくせに。水野華憐の件よ」
ふふ、ふははは、素晴らしい! こいつはもうすべてを知っている! すべてを理解している! さすがは土屋明美。ただの想像と、僕と金本の人間性を考慮しただけで、ここまで真実に近づけるとは!
それだけに惜しい。もっと時間をかければ、事件に対してあまり自由のきかない高校生という立場でなければ、僕をもっと楽しませてくれたかもしれないのに。
本日の推理は、テストで言ったら八十点くらいか。金本がどのように僕を学校まで呼び出したかを述べなかった減点こそあれ、十分に合格点。ただし証拠がないことは名前が無いのと同じなので、採点すらされないだろう。
だから犯人である採点者の僕も、答案用紙を渡された瞬間に破り捨ててもよかった。最初から名前がなかったのだから、その答案はあってもなくても同じことだからね。
しかし僕はそうしない。名前の記入欄に、僕がしっかりと『土屋明美』と書いてあげる。それは同情でも憐憫に思ったからでもなく、ただ僕の都合によるものだ。
なぜなら、これが僕の受け取る最後の答案用紙だと決めていたから。たとえ零点だったとしても、合格にしてあげようと思っていたから。もちろん、答案用紙を提出してくれれば、が前提だったけどね。
「ねえ、日村」
僕の沈黙をどう捉えたのか、土屋が悲しげな瞳で僕に訴えかけてきた。
「あなたは水野と付き合うことによって、金本の恨みを買ったことを知らなかったかもしれない。金本を殺したといっても、正当防衛だったんでしょ? だから自首しない? 罪はずっと軽くなるわ」
嗚呼、僕が金本の告白を知っていて、水野と付き合ったことが確信犯だということは思い至ってないわけか。さらに減点。
ふふ、ここでまた自首を促してくるってことは、もう終わりなのかな。
お楽しみの時間は終了。残るは後片付け、か。
「……いったい、何度頭を殴打したと思ってるんだ。正当防衛が適用される範囲だとでも思っているのか?」
脱力な嘆息に混じる自白を耳にし、土屋は眉を顰めた。
「それに金本がどういう理由で僕を呼び出したのか、大方予想はできていたんだよ。まさか初めから殺すつもりだったのは予想外だったけどね」
「金本を殺したことを認めるの?」
「認めるもなにも事実さ。それに僕は自分が犯人だってことを一度も否定してない」
どちらが吐いたのか確認もできないほど小さな溜め息。奇妙な間が人工的に沈黙を生産していても、ひぐらしの大合唱が静寂を許さなかった。
……あー、そう言えば一つだけわからないことがあったな。土屋なら的確な答えをくれるかもしれない。
「そういえば気になってたんだけどさ、何で金本は僕を学校に呼び出したんだろうな? 初めから殺すつもりだったんなら、すぐ近く……たとえば隣の空き地でもよかったはずなのに」
本来ならば金本と僕の立場は逆転していたはずだ。仕方なく金本を討った僕ならばいざ知らず、金本は僕を殺した後どうするつもりだったのだろう。ナイフでの殺人なら返り血を浴びることは覚悟しなければならないし、家からだと少しばかり距離もある。もっと人気のない所もありそうなものだ。
「家の近くじゃなかった理由は、犯人が自分だと特定されないための配慮でしょ。学校を選んだのは……やっぱりあれじゃないかしら。嫉妬心。あなたに劣等感を抱く象徴の場所といえば、やっぱり学校と呼ばれるべきところだもの。今まで負け続けた場所で、最後の最後にあなたに対して、過去を覆すほどの優越感を得たかったんじゃないかしら」
「……なるほどね」
お互い、苦労してたんだな。なあ、金本。
僕は強欲の悪魔に取り憑かれ、ありとあらゆる物を欲しがったりして。
お前は嫉妬の悪魔に取り憑かれ、常に僕を羨んだりして。
幼稚園の頃からの付き合いなのに、お互い理解し合っていたつもりなのに、こんなところで食い違うなんてな。僕たち、本当に親友だったのだろうか?
「自首はするよ。金本を殺した罪はどうあっても拭うことはできないけれど、一応けじめはつけなきゃね。正直、普通の暮らしにも飽きてきたところだ。刑務所暮らしの体験をするのも悪くはない」
そして土屋、この勝負は君の勝ちだ。いや、僕は決して負けたわけではないけれど、負けを認めなければならない。このまま金本の魂を、刑務所まで持っていくわけにはいかないからね。僕の刑期が決まった後でもいいから、この魂を墓前にでも返しておいてくれよ。
「そう。警察まで一緒についていこうか?」
土屋のその申し出を、僕は殊勝な態度で拒否した。
「心配すんなよ。ちゃんと一人で行けるって。それに僕が刑務所に入ったら、たまには面会に来いよな。僕を自首に追い詰めた責任として。……とかなんとか言っちゃったりしてな!!』
双眼鏡を一瞬にして前後逆にしたように、視界が急に米粒並みに小さくなった。意識が遠のく感覚。狭い視界の中心で、土屋が苦しそうな顔をしている。耳からは呻き声がなだれ込んできた。
そして彼女の首には、誰かの白い両手が絡み付いている。
誰の? 視界の下方から伸びているから、その手は……。
『自首ぅ? ヒャハハ、馬鹿言っちゃいけねーよ。んなことするわけねーだろーが!』
「あ……が……」
『お前の推理は外れだ、大外れだ! なぜなら金本は俺が殺したんだからな!』
視界の中の土屋の顔がドアップで映された。彼女の首を絞める両手を引き寄せ、顔を近づけたのだろう。土屋の口からは唾液が漏れ、眼球が徐々に赤く染まっていく。
首へ伸びる両腕に、土屋の爪が食い込んできた。肌を裂き肉まで達しているその爪は、朱い液体をがむしゃらに貪るようにして、手加減なく僕の中へと侵入してこようとする。
しかし奥に引っ込んでしまった僕の意識では、腕の痛みを感じることはできなかった。たぶんもう一人の僕も、腕の中に異物が混入したくらいでは手を放しはしないだろう。
「ぎ……ぎぃ……」
外界に飛び出そうなほど膨張した眼球で僕を睨み、土屋は歯を食いしばる。
みしみしみしと音がした。それは土屋の首の骨だったのか。僕の両腕の肉だったのか。
『大体よぉ、お前は間違いだらけなんだよぉ! たかが高校生の分際で探偵気取りか? 本当に俺を説得できるとでも思っていたのか? 俺が強行手段にでないとでも思ったか!? ヒャハハハ、残念残念! お前が事件を解決しようと思ったのが間違いだ。一人で俺を諭そうとしたのが間違いだ。俺たちに関わろうとしたことが間違いだ! ヒャハハハ、他人を否定するって楽しいねぇ。けどうぜぇうぜぇ。てめぇのやろうとしていることがうぜぇ! 何でも自分の思い通りになるとでも思っているのか? はっ! 傲慢さもここまで来たらただの馬鹿だ! 関係ない奴が殺されただけなのに、ちょっと首を突っ込んだら自分も殺されてな! あっはっはっは、馬鹿がいるぞ! ここに馬鹿がいるぞ!』
やめろ。その手を放せ。
『ははっはー、止めたいにしてはやけに冷静だな、おい。その態度がムカつくぜ! でもこの手は放せねえな。俺は今イライラしてんだ。つーか俺の存在自体がお前の怒りなんだけどな。はっはー』
土屋の抵抗も空しく、両手に込められる握力がさらに増加する。そのうち握力だけで首を切断せんばかりの勢いだ。
『本当にムカつく奴だ。ここまで死に追いやってるってーのに、恐怖の色一つも見せやしねえ。さぁ、早く吐き出せよ! 傲慢の悪魔を吐き出して、恐怖に怯えた断末魔の光を見せてみろよ!』
……馬鹿なことを。首を絞められているんだ、断末魔の悲鳴などあげられるはずない。
土屋の手の力が極限に達した。僕の腕の肉を抉ったまま、一気に力が抜けていく。
『さぁ、一気に行くぜ! 金本を殺した時ほどストレスが溜まってるわけじゃねえんだ。俺が表に出られる時間もそうそう長くはないんだよ! だから死ね死ね、早く死ね!』
ついに僕の腕から土屋の手が放れた。だらりと床に向けられた腕は、主人を亡くしたマリオネットのように魂が抜かれる。
「……じゅ……や……」
真っ赤に充血した眼球が裏を向いた。だらしなく開いた口からは唾液が滴り落ち、僕の腕を濡らす。涙も混じったその液体は、とても冷たかった。
『ヒャハハハ! 死んだ死んだ! 人間ってのはなんでこうも簡単に死ぬんだろうな! あー、ムカつくムカつく! もっと足掻いてもがいて苦しみながら死んでくれればいいのによぉ!』
両手で締め上げていた土屋だった物体を、勢いよく真下へ投げ捨てた。リノリウムの床と土屋の眼鏡が衝突した音が、妙に響き渡った。
『とりあえず、ミッションコンプリーーーーート! 二人目撃破! ヒャハハ! 楽しいね。楽しいけどムカつくね。ムカつくけど楽しいね! ヒャハハハハハ、ハハハハハハハ、ヒャッハッハッハ、……………………はぁ」
視界が拡大された。自由に動かせるようになった己の腕を眺める。
次に土屋の脈を確認した。左手首、首筋、どちらに触れてみても、脈なし。
あいつに投げ捨てられ、うつ伏せの状態である土屋を起こす。割れた眼鏡の破片が顔面に所々切り傷を作っているが、眼球は無事のようだった。しかし眼球自体は無事でも、その持ち主が生命を失った証拠が現れ始めている。
土屋の長い爪には、抉られた僕の腕の皮膚と血肉がしっかりと詰まっていた。自分の腕を見ても、たぶんすべての爪の中に僕の遺伝子が混入していることだろう。
土屋の瞼をしっかりと閉じてやり、ゆっくりと床へ寝かす。死体を手荒に扱うのは失礼だ。僕の趣味じゃない。
立ち上がって首を左右に振ってみた。あれだけ叫んでいたにも関わらず、誰にも聞こえなかったのだろうか? 場所が場所だけに人が通ることは少ないのだろうけど、本当に誰も通らなかったのは運が良いな。
床に伏せている土屋へ視線を戻す。どこかへ隠すことはできないだろうか。
いったいどこへ? 例えばトイレとかは……。
「……無理だな」
というか、僕はまだ逃れようかと考えているのか? あわよくば殺人をなかったことにしようとしているのではないか? ふふ、厚かましいにも程があるぞ、僕の悪魔。僕のような人間は、世間から隔離された方が世の為ってものさ。
自首はしない。土屋も言っていたけど、自首すると少しでも刑期が短くなるらしいから。自殺は却下。死ぬことに対する恐怖はないけれど、悪魔がそれを絶対に許さないだろう。
……強欲の悪魔、か。
「ふふ」
金本の魂を土屋に託すつもりだったのに、逆に土屋の魂までも手に入れてしまった。
こんなもの、イラナイのに。君たちがいない日常など、僕には必要ないのに。
「あはははは」
目頭を押さえ、馬鹿みたいに笑い声を上げてみた。しかし思った以上に音量はなく、また嗚咽でもない。乾いた嘲い声だけが、誰もいない廊下に響いた。
心が無くなった。亡くなったともいう。僕の心は死んでしまったのさ。
空白の開いていた心は、すべてが空白と成ってしまったのだ。悪魔に反発した行動により、心はすべてが闇へと葬られ、ただの空洞と化した。この空洞を埋める物はもうこの世には存在しない。だって僕は、大切な幼馴染を二人も……。
「土屋……」
何と言いたかったのか。もしくは言うことなどなかったのか。
失った言葉は、心とともに闇へと堕ちて行った。
だから一つだけ、絶対に遺さなければならない言葉だけ……。
「……ごめんな」
悪いけど、少しの間だけそこで寝ていてくれ。そのうち誰かが発見してくれる。
そして警察に通報され、数々の証拠を残しているため、すぐに僕をお縄にするだろう。
それでジ・エンド。終わり。終幕。連続殺人事件の犯人は、なんと幼馴染だった。
だからごめん。罪を償うのはもうちょっと後になるかもしれない。それは明日か明後日かはわからないけど。
「さて……」
何故だか身体が軽くなったような気がする。ふわふわと空中を彷徨うように、足が地についている感覚がない。死んだのは土屋の方なのに、幽霊になったのは僕の方だったか。……ふふ、意味のわからない冗談だ。
帰るとしよう。
土屋明美だったものに背を向け、僕は終焉へと帰還する。
***
迂闊だったわ。まさか日村がこのような強行手段にでるとは思っていなかった。
推理通り、正当防衛で金本を殺したんだとしたら、私には絶対に危害を加えないだろうと高を括っていたのが敗因か。仕方がない。
にしてもこの男、何と言った? 私の推理は間違い? 金本を殺したのは俺? 意味不明だ。日村秋月と俺という存在は別? そんな言い訳が通用するとでも……。
いえ、でも日村のこの変わりよう。急に暴力的になった変化。まるで一瞬のうちに中身が別人になったかのような感覚を受けた。
二重人格? そんなものが本当に存在するのだろうか? 存在自体はよくメディアで取り上げられることがあるけれど、一つの人格は平穏な日常を暮らし、裏の人格は殺人を行うのに何の躊躇いもなくなる、そんな仮想の登場人物のような人間など……。
……いないと断言はできないわ。特殊な過去を持つ日村なら尚更……。
……まずい、少し悠長に考えすぎた。そろそろ助けを呼ばないと本当に殺されてしまう。窒息死どころか、首の骨を折られるくらいの勢いだ。
誰か、誰か来ない? 下校時間は過ぎているけれど、まったく人が残っていない時間帯でもないはずだ。誰でもいい。ちょっと見掛けてくれさえすれば、日村の意識も削がれ、若干の余裕が生まれるだろう。隙を見て逃げ出せばいい。
……あぁ、脳内の酸素が減ってきたのか、視界が白く染まり始めた。間近にあるはずの日村の顔がぼやけて見える。助けを呼ぶことはおろか、呼吸をすることもままならない。
まずい、本当にまずい。このままだと本当に……。と、
「?」
口の中から何かが出て行ったような気がした。ぼやけた視界とはまた違う白さで、綿飴のように軽くふわふわした物体だ。たぶん酸素の足りなくなった脳が混乱を起こし、幻覚を見たのだろう。口から出た白い物体は、すぐに空気へと霧散していった。
「×××××!」
何だろう? 日村が何事かを叫んでいる。はは、ついに耳までも機能を失っちゃったか。
……? 機能を失った? 何で? 何で私、首を絞められいる? 何で日村と二人きりで話していた? 何で私は日村に……殺されかけている?
殺……、される……?
い、い、嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ!
死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない!
放して! お願い、放して! 誰か助けて! 助けて純也! 純也ぁ!
「……じゅ……や……」
………………………………………。




