第1話 『殺人』
「…………あー、まいったな」
湿気を孕んだ夜風が露出している腕をかすめ、身震いした。全身の産毛が逆立っているのは寒さのせいか、もしくは足元の死体を直視している嫌悪感からなのかは、判断ができない。
十六夜の月にぼんやりと照らされる死体から、逃れるように視線を離す。脳漿が半分以上も外部に飛び散っている死体をガン見できるほど、僕の神経は図太くない。
「ったく、どうするんだよ。これ……」
手にしている、凹凸の激しい金属バットを一瞥した。
……いったい、何回殴打したんだろうな。相手をひれ伏せ、昏倒させ、頭蓋骨を割り、脳漿を撒き散らし、さらに人間で一番大事な細胞を機能停止に陥らせるほど。相手から僕を襲ってきたというのに、ここまで傷めつけてしまえば、正当防衛が適応される範囲ではないだろう。
「自首……するべきなんだろうか」
善良な一般市民なら……というか、人を殺した時点で善良も糞もないけど……下半身に接続されている二本の足で交番に向かい、『人を殺しました』と両手首を合わせて告白するべきだろう。そして生憎にも、僕は善良な一市民という自覚がある。ということで、よし、早速自首するか。えっと、こっから一番近い交番は……。
「……そんな眼で見るなよ」
一度だけ死体に目を向ける。何故か、死体がこちらを見ているような気がしたからだ。両の眼球はいつの間にかどこかへお散歩に行っているどころか、死体はうつ伏せなので眼窩すら僕に向いてはいないんだけど。だから視線を感じたなんてのは気のせいだ。たぶん。
「あー……」
なんだか馬鹿らしくなってきた。なんでこいつのために、僕が青春の大半を刑務所で過ごさなきゃならんのだ。むしろ僕は被害者だろ。こんな夜中に呼び出されて、素直に応じたら果物ナイフで襲われてさ。
「……」
無傷なのは運が良かったと言うべきだろうな。死体が手にしたままの果物ナイフは、幸運にも僕の血肉や衣服を削った様子はない。つまり相手のナイフはずっと空を斬り、彼の対戦相手が僕と特定する証拠はほとんど残ってはいないはず。
この金属バットだって僕のじゃない。そこら辺に放置されていたやつを拾っただけだ。だから指紋さえ拭けば……。
目撃者……いるはずもないか。あれだけ物音を立てたというのに誰も様子を見に来ないということは、聞こえていないか無関係を決め込んでいるのか。どの道これだけ脳漿を撒き散らしてやったのだ。今更死体を隠ぺいする気などさらさらない。この日この時間この場所で殺人が起きたことは、周知となればいい。
アリバイ……意味のないことだ。こんな真夜中にアリバイがある方が不自然だ。
結論。よし、逃げよう。そして帰り道で誰かと遭遇したら自首すればいいさ。さすがにここまで鮮血に染まった衣服を見られては、言い訳などできるはずがないだろうしね。
「そういうことだ。悪いね」
未だビクビクと痙攣を続ける死体に呼びかけ、指紋を拭ったバットをその場に置いた。そして背中を向けて歩き出す。
ここで漫画や小説なら、突然生き返るか死霊となって僕に取り憑けばストーリーが進むのかもしれないが、死体はやっぱり死体だった。死体だから動かないのであり、動かなければ僕を襲うなど到底不可能である。
所詮、現実なんてそんなものさ。劇的でもなければ、幻想的でもない。空想以外はすべてが現実であり、現実であるからこそ、人間の描く空想など起こり得るはずもなし。だから目の前の現実は、僕の空想を真っ向から否定し、どうしようもない現実を見せ付けることに専念する他ないのだ。
人を殺してしまった事実は、未来永劫現実として僕の中に刻まれるだろう。
だからこそ……面白い。平凡から非凡へのシフトは、僕に何をもたらしてくれるのか。明日からの僕の人生が、どんな風に脈動するのか。予想しがたい現実が、日常に飽きてしまっていた僕の心を、興奮で満たしてくれる。
嗚呼、楽しみだ。