白きドレスに淡き永遠の孤独
『プロローグ』
ねえ、目を開いてよ。
そして笑ってよ。
僕の夢が叶ったんだよ。
だからさ、約束を守ってよ。
僕の店で。
僕の紅茶を愛してよ。
そして、僕を。
白いドレスは孤独の印。
だから、彼女は白いドレスに着替えさせられた。
僕の服は、彼女とは反対で真っ黒だ。
そして、彼女の側には僕しかいなかった。
彼女は僕の孤独を埋めてくれた。
僕の孤独を僕と嘆いてくれた。
僕の孤独の半分を、昇華してくれた。
それなのに本当に孤独だったのは彼女だったなんて。
僕は知らなかった。
ただ、彼女は誰かといたかったのだろうか。
だから、僕の最期と決められた部屋に来たのだろうか。
そして彼女は名乗ったのだろうか。
白きドレスに包まれた、孤独に埋まった少女であるサンドラを。
僕がそんな事も知らずに呑気に笑っていたのだ。
彼女が今存在するという断片的な幸せに満足して。
僕はいざ知るときはもう遅かった。
サンドラちゃんは孤独に埋まってしまっていたのだ。
必死に手を伸ばしても姿が地に現れないほど。
僕の手など届くはずも無い、固いアスファルトの下に。
彼女はカブトムシの幼虫のように生き埋めにされてしまったのだろうか。
彼女は最期にまだ生きていたいと願ってくれたのだろうか。
最期に僕を想ってくれたのだろうか。
もしも彼女に会えるなら、それが一番聞きたかった。
でももう彼女は僕に会いに来られないだろう。
定められた輪廻の中で本人の意志は介せずに。
だから、彼女に会うには僕から行く必要があった。
「じゃあお休み、サンドラちゃん。僕は君の元に行くまで、少し眠らしてもらうよ」
遠くで少年が泣いていた。
それは誰だろうか。
僕だろうか。
いつまでも孤独を嫌悪していた、昔の僕だろうか。
僕は泣いていた。
僕は。
僕は。
あの時、確か独りで…。
白いドレスを着たお伽話の少女は自分の元に来てほしいと懇願した。
そして、孤独を埋めた。
それと同じく、サンドラちゃんも孤独を恐れていた。
だから、彼女は僕で孤独を埋めようとした。
それは僕も同じで、僕らは孤独を集めて孤独を消した。
孤独が二つ集まっても二つの孤独にしかならないということを意図的に忘れて、孤独を消せると信じきった。
だけど、僕らは孤独であることに代わりはなかった。
だけど。だけど。
僕は彼女を知らなかった。
嘘に染まっていた彼女を。
これは、繊細で脆いお伽話。
『余命』
「もう、治る術はありません」
医者は深刻そうに僕にいった。看護婦達も深刻そうな表情である。それは一体本心でそう思っているのだろうか。それとも仕事なりの表情だろうか。
「そうですか」
僕はそう言うことしか出来なかった。
何も、死を恐れていた訳じゃない。
ただ、僕はもう少しで死ぬんだなと冷静に思っていた。
「これから、どうしますか。病院に残りますか。大切な人の元に戻りますか」
僕が返事を渋っていると、看護婦の独りが怪訝そうに医者に声をかけた。医者は急に不快そうな表情をして話を聞いていたが、すぐに表情を変えて僕に頭を下げる。
「申し訳ありません。病院の特別部屋をお取りします。そこでお過ごしくださいませ。外出は今日から自由にします」
駄目な人間だ。この医者は。まだ勤務中に内緒話をしている看護婦の方がマシだった。
僕は部屋を出て、荷物を新たな部屋に移動させる。今日から、死ぬまでの住家となる部屋へ。
そこは、どの病室よりも大きな部屋だった。
「ここが、僕の最期の部屋なんだな」
そう思っても淋しくはない。
悔いだって存在しない。
僕はベットに寝転ぶ。そして大きな欠伸をした。
そんな時、ふと思った。
《今、死のうか》
外出自由だ。だから今日からはいつだって死ねる。
だけど、本当に今死んでいいものだろうか。
きっと残りの人生、何もなく終わるのだろう。
死ね、死ねと僕の中の僕が笑っていた。
「ごめん」
僕は独り口に出してそう言う。
「僕は、まだ死ねないよ。やっぱり僕はどこか死を恐れているんだ」
ベッドに腰を下ろし雑誌を読み始める。すると不意に扉が開いた。
僕を見舞に来る人など一人もいない。
だったら、よその誰かだろうか。
目を向けると、そこには小柄な少女が立っていた。
失礼だけど、彼女を見て僕は枯れた椿を想像した。
「こんにちは、どうかしたの?」
彼女は病服であった。僕の呼び掛けを冷酷な瞳で払い、小さな声で呟いた。
やっぱり彼女の瞳は死んでいた。
「…こんにちは、お兄さん」
それが僕と彼女の出会いだった。
『孤独なサンドラ』
「ねえ、紅茶でも飲む?」
「…」
「テレビでも付けようか?君の好きそうな番組を付けてあげるよ」
「…」
「それとも、本でも読む?僕は結構本を持ってるんだ」
「…拝借するわ」
彼女は自分のベッドから移動して僕の本棚を見渡す。
そんな彼女を見ながら僕は小さくため息を吐いた。
どうやら、少女は今日から僕と相部屋になるらしい。
部屋割を言うなら、正方形の部屋の半分はリビングスペースとなっており、残り半分をまた半分に分けてお互いの寝室となっていた。それらの部屋はカーテンにて句切を付けることは出来るのだが、彼女が何も言わない中、「ちょっとごめんね」などと言って間にカーテンを挟む勇気は僕にはなく、彼女のおっしゃるままになっていた。実質、彼女は何も言わないので何もしてないのだが。
彼女は何もしゃべらないのでそれならこちらも何も話さなければ良いだけなのだが、僕が先ほどから本を読んでいるのをちらちらと覗いてくるので、僕は話しかけるしか選択権がなかったのだ。
彼女が一作取り出し、ぺらぺらとめくる。どうやらそれを気に入ったのか、自分の胸に抱きしめて僕を上目使いで見てきた。
「気に入った本はあった?」
彼女は首を縦に振る。僕がその本の題名を覗き込もうとすると、まるで見せないとでも言うように強く抱きしめた。
そうされたら無理に見るつもりはない。僕は微笑みすぐに自分の読書に移った。読書といっても集中は出来ないので彼女の観察なのだが。
すると彼女は小さな声で僕に聞いてきた。
「…『忘却の魔法使い』というお話は面白いかしら」
僕は本から目を離して彼女に微笑んだ。
「数ある小説の中から月見先生の小説を選んだんだね。僕は結構月見先生の作品は好きだよ」
「…なんだか、一つだけ長編みたいだったから」
「全十五巻、なかなか長いよ。でもその分読みごたえはある。もし僕がここからいなくなったら、その本を全部あげるよ」
「…え?」
僕はまた視線を戻して自分の本を見て小さく笑った。
「なんでもないよ、忘れてくれたらいい」
「…」
「また読んだら感想を聞かせてくれないかな。月見先生の作品は僕の友達では読んでる人はいないからね」
友達。現在僕にそんな存在はいない。
僕は永遠に孤独だ。
僕こそが、月見先生の作品に出てくる『我が世界に我は独り』という名言の象徴なのだろうか。
僕は平気で嘘をつく。
嘘とは、残酷なものだ。
後に僕自身を傷つける。
だけど僕にそんな未来は存在しない。
だから、犯罪も罪も嘘も、僕であって僕の存在と酷似していた。
「…読む」
そう言って彼女は僕を見た。表情は無表情のままだ。だけど、目元が笑っているようにも見えた。
僕は少し嬉しくなって微笑んだ。
こんな少女に、幸せを貰うなんて僕も罪な人間なのだろうか。
「喜んで」
僕は嘘で出来ている。
周りに嘘の仮面を貼り巡らす。
いつも、仮面を、微笑みの仮面を付けて、僕は人と対面する。
相手が僕のその奥の瞳を知る術はなく。
一度騙されたら、僕はもう間違わない。
僕は、母のように醜い最期を遂げ、他人を悲しませたりしないし、父のように見苦しい行為で他人を絶望に陥れる事はしない。
僕は、一人醜い最期を遂げる。そして、一人で見苦しい世界に手を伸ばす。
それが馬鹿だとわかっていても。
僕は、まだ死ぬ訳には行かなかった。
「ねえ、君」
彼女は本から目を離して僕を見つめる。
「何でしょう?」
「君は、何て言う名前なんだい?」
「私の名前?」
まるで名前たるものが何なのかを分かっていないように首を傾げる彼女。まさか名前がないかと思ったが、そんな訳があるまい。
「サンドラと覚えていただいたらいいわ」
「…はへ?」
「…サンドラ」
「い、いや。僕が聞いたのは愛称とかじゃなくて君の本名なんだけれど…」
「私は私の名前が嫌いなの」
サンドラ。
彼女が作った偽名だろうか。それとも他の誰かが彼女をそう呼んだのだろうか。
どうして、彼女が自分の本名を嫌っているかなんて分からない。別に知りたいとも思わない。知ってしまえば、彼女に気をつけることが多くなるかもしれない。そうなれば、面倒だ。
だから、僕は微笑んだ。
微笑みの、仮面を。
「サンドラ、素敵な名前だね。これからそう呼ぶよ」
彼女は返事をしない。頷きもしない。
彼女は本から目を離さなかった。
「…サンドラちゃんは、素敵よ。私は、サンドラちゃんの闇なのだけれど」
サンドラとは何かのお伽話の登場人物なのだろうか。彼女がそう呼んでほしい、彼女のようになりたい、と思うくらい偉大かつ美麗な。
その割には数々の本を呼んできた僕も聞いたことはなかった。
「ところでサンドラちゃん」
「…?」
「本を読むのは構わないんだけれど自分のベッドにしてくれないかな。僕は夜まで起きておくのが好きじゃないんだ。十一時になったら酔ったように目が回るんだよね」
「…分かった」
彼女は本を持ってベッドに戻った。僕は無言でカーテンを閉める。
このまま、僕は一人になれないだろうか。
僕が触れ合った相手はたいてい傷ついてしまう。それなら、僕は誰にも関わりたくなかった。
「サンドラちゃん」
「…?」
でも僕はそんな事は言わない。
仮面の裏の僕はもう死んでいる。
後に残るのは二度と開くことのない扉の奥で無性に笑い散らす僕だけだった。
「おやすみ」
そう言って、勝手にカーテンを閉める。
彼女は返事をしたのだろうか。
そんな事、どうでもいいのだが。
僕はそのまま電気を消してベッドに横たわった。
その日の夜は、毛布に抱きつくようにして眠った。
『夢に染まれ』
目が覚める。
時計を確認すると、朝の五時過ぎだった。
体を起こし、僕はそのままリビングスペースに向かう。そこでお茶を入れて、テレビの電源を入れた。
何か見たいテレビがある訳じゃない。
ただ、静寂は今の僕には少し堪え難かった。
ニュース、天気予報、ニュース。
どれも平凡なものばかりでどんな事件があっても平和を表面では象徴していた。
僕がもうすぐ死ぬことなど誰も知らない。
そんなの当たり前だけれど、幸せそうに手を繋ぐ家族や駅前で洋菓子を食べさせ合うカップルや一人死にたいと嘆く自殺願望者を見ていると、意味はないと分かっていても無性に腹が立った。
そもそも僕が死ぬことなんて誰が知って得するのだろうか。
見知らぬ他人が死ぬことを聞いて喜ぶ人はいるだろうか。
そんな人はいない事を分かっているのに、僕はただ自分が一人じゃないと誰かに認めてほしかった。
この命の灯が尽きるまでに。
「…馬鹿だなあ、僕は」
本当に僕は馬鹿だ。
こんな僕でも生きてて構わないのだろうか。
僕に生き甲斐なんてものは存在しない。
全て全て、失った。
生き甲斐も、僕の子供心も。
全て全て、奪われた。
「…おはよう、ございます」
不意に後ろから声をかけられて首を向けると、そこには彼女がいた。
眠そうに、目を擦る彼女がいた。
「おはよう、サンドラちゃん。起こしちゃったかな?」
「…」
「…うん。朝食は暫く後だからもう一眠りしたらどうかな。僕はここでテレビを見ているけれどね」
彼女は首を振ってリビングスペースのキッチンと思われる場所をあさりだした。何か食べ物を探しているのだろうか。
そのまま暫く探していたかと思うと小さな声で僕に聞いた。
「…ねえ」
「ん?何かな?」
「テレビの横に紅茶を入れる機械があるわよね」
「うん、あるね。ティーメーカーの事かな」
「それの材料はどこにあるのかしら」
僕は立ち上がって彼女の元に歩いて行った。そして彼女の横に腰を下ろす。
そして近くを探しはじめると、不意に一つの事が気になった。
「サンドラちゃん、一つ聞いても良いかな」
「…?」
「君、何歳?」
初めて会った時は中学生のように見えたのでそう確信して話をしていたが、今よく観察してみると睫毛は長く酷く落ち着いている。高校生といっても言動だけなら通じそうだ。
「19よ」
「ああ、19なんだね…ってええ!?」
少し距離をとってキョトンとしている彼女を見つめる。
僕も19歳なので同じ歳となる。
信じ難い。実に信じ難い。
「何かおかしいかしら」
「いや、僕も同い年だからさ。もっとサンドラさんは若いように見えるから」
「私は貴方が年下だと思ってたわよ。それと急に呼び名を変えなくて良いわ」
「いや、でも『ちゃん』は失礼じゃないかな?」
「それなら、今までの貴方は失礼だったのかしら」
どうして気づかなかったんだろう。
容姿は中学生でも、明らかに言動は成人並じゃないか。
「で、でもさ。サンドラちゃんは初めて会った時僕の事をお兄さんと呼んでたよね」
「何?名前で呼んだ方が良かったかしら?」
「…いや、それはいいよ」
「私も貴方も、自分の名前が嫌いなのね。違う?」
そう言う彼女は少し淋しげであった。僕は彼女の目を盗む。
それでも彼女は薄く笑っていた。
「私たちは、お互いに孤独なのね」
孤独の証明。
僕が孤独であること。
僕は言われたくなかった。信じたくなかった。
誰にも言われなかった。誰も言ってくれなかった。
僕の事を心配して。僕に気を使って。内心では僕の事を嘲笑して。
それなのに、彼女は。
「そうだね」
「でも私はここでは一人じゃないわ」
「僕だってサンドラちゃんがいる限り一人じゃないんだね」
微笑む。
誰への微笑みだと自分の中で問いただす。
彼女へか。
自分へか。
僕らは隠しているのだ。表面では、お互いを孤独と言っていても自分は孤独でないと信じていたい。
僕らはそんな偽りの輪の中で生きてきた。
「あ、これじゃないかな。紅茶、僕が入れようか?」
「レモンティーが良いわ」
「いや、見たら分かると思うけどストレートティーしかないからね」
「…」
彼女は恥ずかしそうに頬を染めて微笑んだ。
それは何故か内心からの笑みのように見えた。
僕には、到底生み出すことのできないようなまばゆい笑みだ。
「うん、ならとびっきり美味しい紅茶を入れてあげるよ。僕はかつて喫茶店を開くという夢を持っていたんだ」
「…素敵な夢ね」
「…だから、紅茶を入れるには自信がある。美味しい紅茶を入れてあげるよ」
「…そう」
彼女は僕にティーパックを渡す。そして取り出した物を直しはじめた。
僕には、夢があった。そう、彼女に言った通り喫茶店を経営することだ。
だけど、いつだろうか。ずっと前な気もするし、最近な気もする。
僕はその夢を放棄した。
理由は覚えてない。それは病院に入院する前に決めた事は確かだからどうせ飽きたとかいうところだろう。
でも中学生の頃は確実に情熱を注いでいたから、かなり紅茶を入れるのには自信があった。
水を組み、機械に注ぐ。そしてティーパックを入れ、軽く掻き交ぜ砂糖を入れる。水の温度を機械で上げ、僕は一息付いてソファに座りテレビを見る彼女の横に座った。
「この時間は面白いテレビが何もないのね」
「まあ朝はそんなもんだよね。一緒に外の散歩でも行く?外出許可が出てたらだけど」
「…私は外出制限が出てないわ」
外出制限が出てないということは軽度な入院なのだろう。
それはしばらくしたらこの部屋から出て行くということを暗示していた。
「じゃあ散歩に行こう。朝食前に戻って来て紅茶を飲めば良い」
「そうね。なら着替えるわ」
よく見てみると彼女は水色の全身パジャマを着ていた。別の言い方をしたら着ぐるみのような。
さすがに朝とはいえパジャマで外出するのはおかしいだろう。
僕らはお互い着替えるということでお互いの寝室に入った。
しばらくして僕がリビングスペースに戻ると、既にそこには白い半袖ワンピを纏った小柄の少女がバッグも持って準備してくれていた。
おでこには大学生とは思えない黒色のリボン。
しかし焦げ茶色の彼女の髪型にはピッタリあっているといっても過言ではなかった。
僕は素直に褒め言葉を口にした。
「おや、サンドラちゃん可愛いね」
「そうかしら」
「まるで不思議な国のアリスみたいだ」
実際に不思議の国のアリスを読んだことはない。読もうと思ったことはあったが、僕はその世界観に負けた。
「…素敵なお話よね」
「…そう、だね」
彼女は僕の顔を覗き込んで笑った。
子供のような笑みだった。
「もしかして不思議な国のアリスを読んだ事なかったりするかしら」
「…ん」
「読んでみたら良いと思うわ。一回読んだだけならよく分からないと思うけど、私は何十回も読んで少しだけだけど理解できた」
彼女は自分の好きな本を話すとき少し饒舌になる。そういう所を見ても彼女が19歳だとは到底思えなかった。
「機会があれば読んでみるよ。じゃあ行こうか。朝食は戻って来てここで食べる?それとも外食する?」
「どちらでもいいわよ」
「じゃあ外食しようか。僕はアレルギーなどはないからサンドラちゃんの好きな食べ物を食べに行くよ」
「私の好きな食べ物といえば少し大人の食べ物よ」
彼女は心配そうに僕を見つめる。僕の舌は元から大人舌なので大人向けの料理の方が美味しいと感じるのだが、彼女の言う大人の料理がどれ程大人の料理なのか分からなかったので、僕は小さく頷いた。
「僕は結構渋い料理の方が好きだからサンドラちゃんのお店がどんなのかは分からないけど美味しいと感じるかもしれないね。まあ楽しみにしているよ」
「ええ、すごく美味しいところよ」
そうして僕らは久しぶりに病院の外へ出た。
朝早いというのに、薄い日差しに僕は少しのけだるさを感じたのはまた別の話であろう。
『嘘には死を』
「ついたわよ」
「…ん?」
僕らは暫く歩く事約10分間(サンドラちゃんが自動販売機に並んでいたジュースを飲みたいと僕に駄々をこねた時間は省く)。僕らはサンドラちゃんの目的地と思われる場所の前で立ち尽くしていた。
僕らの目の前には、見慣れたレストランがある。
「ここがサンドラちゃんの言っていた大人の食事が出るレストランなのかな?」
「そうよ。すごく美味しいの」
「うん、確かに美味しいとは思うよ。でも僕の期待を平気で裏切られたような気がするのは僕だけかなあ」
「食べて見れば分かるわよ?」
「いや、そういう問題じゃなくてさ」
僕は近所迷惑にならない程度に出来る限りの声量で叫んだ。
「ここ、ファミリーレストランだから!」
人気ファミリーレストラン、その名もガス〇。家族連れがよく来るレストランで、僕も子供の頃はここのハンバーグをよく食べてたことを覚えている。
大人気料理チーズインハンバーグは大人まで楽しめる料理ではあるが、今まで一度もハンバーグを大人の料理と思ったことはない。
「ちなみにサンドラちゃんは朝ごはんにどのモーニング料理を選んだの?」
「…ん?ハンバーグ定食よ」
「…そのままだね。朝からスゴイネ、何か尊敬するよ」
「でも開いてないなんて意外だったわ。どこか別の場所で朝食をとりましょ」
「財布持ってきてない立場でよく言えるね…!」
彼女は僕の側を抜けて右方に歩いていった。その足取りは軽いように見える。
彼女は僕といる空間を居心地よく感じているのだろうか。
それとも、単に自分の孤独を隠すのに好都合な場所を手に入れたと浮かれているだけだろうか。
そのどちらかは分からない。
でも、内心前者であってほしいと思っている自分がいた。
僕は払拭する。
僕は信じない。
誰も信じずに、自分も信じずに生きなければ。
僕の心の空白を二度と埋められないように。
それが僕の本心の意志と異なっていたとしても、僕にはそうすることしか出来なかった。
「どうしたの、行くわよ」
彼女は振り返る。
彼女の短髪が風に揺れる。
早朝の光が彼女を照らす。
紅い頬。
光る焦げ茶色の髪。
垂れた瞳。
途端に何かが僕の首を強く絞めるような錯覚に襲われた。
「…うッ、うあああああああああああああああああッッ!」
彼女は僕に微笑んだ。
フラッシュバック。ふらっしゅばっく。
頭の中で卓球の球が跳ね回るような痛みが走る。
記憶が音を立てて割れる。
忘れていた世界が僕を見つめて笑っていた。
『どうして?』
彼女は僕に聞いた。
僕は必死に首を振る。
それでも彼女の幻覚は視界に映り僕に笑い続けた。
『どうして?』
違う。
違うんだ。
意味のない否定を繰り返す。
それが彼女に通じない事を認識していたとしても。
彼女は泣きそうな笑顔で小さく僕に問いただした。
『どうして私を見捨てたの?』
時計が音をたてて割れ、時が世界を包み込み空白を生み出す。
夢を見ているときに広がるような白い世界で、僕は膝をついた。
ただただ、溢れ出てくる無力感に打ちのめされるだけ。
彼女はそう言って、僕の側から去っていた。
最後に振り返った時の表情は、なんだか酷く淋しげに見えた。
「どうしたの!?起きあがって、大丈夫!?」
気づけば目の前にサンドラちゃんがいた。
その背景には真っ青な空。
僕は地面に横たわっているようだった。
身体に強い痛みはない。ただ、何かを忘れてしまった。
大切な記憶と認識される何かを。
「…大丈夫。心配かけてごめんね」
「生き返った」
「…へ?」
「どうして、倒れたの?」
彼女は心配そうに僕を見ていた。
僕だって分からない。
ただ急に気を失って、誰かに話し掛けられるのだ。
その相手は誰かは分からないし、何よりこうやって気が戻る際に気を失っている世界で起こった何かを全て忘れてしまうのだった。
しかしそうする度に、「ああ気を失っちゃった」で終われば良いものを僕の身体はかなり腐食されているようで、19歳だというのにそのせいで身体年齢は50歳を越えているらしい。馬鹿な話だが。
「よくあるんだ。僕が病院に住んでる理由の一つがこれでね」
「辛くない?」
「辛くない訳ではないよ。でもこの身体が僕自身であるかぎり、僕は自分を憎まないよ」
「自分の事が好き?」
彼女は立ち上がった僕の背中についた土を払ってくれる。
本当に出来た子だ。
「人に好きだなんて感情は個人的に持たないようにしてるんだ。僕は僕自身の事を何とも思わない。それに、僕は他人には基本的に嫌いという印象しか持たないからね」
「それなら私の事も嫌いなのね」
「僕は人間が嫌いなんだ。だから、サンドラちゃん個人に限ったことじゃない」
「でも私は貴方が好きよ。貴方がどう私の事を思っていても」
「…僕もサンドラちゃん程喋った人がいたかと問われたら黙っちゃうね。サンドラちゃんといること自体は、結構好きかもしれない」
彼女は薄い笑みを浮かべた。
泣いているのだろうか。
笑っているのだろうか。
彼女はやはり分からなかった。
だけど僕は他人を分かりたくなかった。
だからこそ、僕はサンドラちゃんに何も抵抗を感じないのだろうか。
「私は利口な人間じゃないわ。でも、今私の側にいるのは貴方だけなの」
彼女は優しく微笑んだ。
「だから、貴方には最低限私の事を知って欲しいの」
サンドラちゃんを知りたいとは思わない。
だけど、彼女の言う事は正しいことである。
これから僕と彼女はルームシェアをすることになる。
だからこれから彼女は自分の事を知って欲しいという。
当然の事だろう。
所詮は表面上の関係に過ぎない。
彼女がどれだけ僕と仲良くなっても、どれだけ僕を信用しても、僕は彼女を信用しないし裏切ることもあるだろう。
だけど僕は自分自身を裏切ってはいない。
そんな永遠の孤独の中で生きる以外に、僕の存在意義はなかった。
「わかった、サンドラちゃんと仲良くなりたいと僕も思っていたんだ」
嘘じゃない。
彼女なら僕を救ってくれるかもしれないと真剣に思った。
でも、僕は救われてはいけないのかもしれない。
永遠に続く孤独の中で僕は中身の無い笑いを生み出しつづける必要がある。
それに、僕は救われたいとも思わなかった。
短い命の中で、大切な人はもう作りたくなかった。
別れが、ただただ怖いからだろう。
「約束よ?じゃあ貴方がもし破ったら…」
彼女は不敵な笑みを僕に向けた。
「私は、貴方を殺すから」
有り得ない言葉を言われても、僕は何とも感じなかった。
彼女は本当に言っている。
それはわかった。
でも、誰かが殺してくれると言ってくれるのが快感だったのだろうか。
僕は笑って頷いた。
「わかった、じゃあ僕は殺されないように頑張るね」
もしその場に他者がいたら、狂ってると感じるだろう。
彼女だって、そう感じたのかもしれない。
勿論僕らは狂っている。
永遠に、狂っているだろう。
だけどその狂いは、僕と彼女の数少ない共通点なのかもしれなかった。
朝日が出たようで、僕の身体をぽかぽかと暖める。
彼女も、太陽に照らされているのかなと一瞬疑ったが、その答えを見つけたいとも思わなかった。
『孤独は愛へ』
最後の一滴までカップに注ぐ。
より濃厚に出来上がった紅茶を、僕は二つのカップに入れて少量の砂糖を加えた。彼女はさっきから僕の手つきを見て感嘆定型文を発するだけであった。
「出来上がったよ」
部屋に甘い香りが広がる。懐かしいけど、自発することは好きじゃないので彼女の様子を観察することにした
「おぉー」
小さなスプーンで彼女は自分の紅茶を掻き交ぜる。そして僕から奪った砂糖を自然な動作で大量に挿入した。
僕は慌てて彼女を静止する。
「ちょ、ちょっと待ってよサンドラちゃん。砂糖、砂糖入れ過ぎだから!」
「私甘党なのよ」
「僕も甘党だけど紅茶に砂糖は少量しか入れないから!エスプレッソの黒珈琲でもそんなに入れちゃ駄目だよ」
「そうなの?いつもは家族に入れてもらっていたから分からなくて…」
「いい家族だね。僕なんてかなり前から家族という存在には縁が無いよ」
「…うん」
彼女は無言で紅茶を飲み始めた。
返事など期待はしていなかった。
でも無言は怖くて、僕はふと失言をしてしまった。
「でも僕にはサンドラちゃんがいるから淋しくないよ」
「…えッ?」
彼女はが紅茶から口を離して僕を見つめてくる。
「ん?どうかした?」
「う、うん…?う、うんそうね」
彼女は狼狽えて紅茶を口にする。
そしてむせたようで何度も咳をした。
「大丈夫?」
彼女の小さな背中を摩る。
本当に小さな背中だ。
どうしてかその背中を懐かしく感じた。
「…むせたわ」
「いや、それは分かるよ…?」
「美味しいのね。初めて飲んだかもしれない程」
彼女はまた口につけて目を閉じて味わう。
僕も自分の入れた紅茶を舌の上で転がす。昔よりも粘りは強く、味は落ちていると思われた。
しかし、彼女は少し興奮気味に僕に言った。
「これなら夢を叶えられるじゃない」
「…」
「これだけ美味しければ、みんな満足してくれると思う。私が保証するわ」
「いや、僕はもう夢を持つのは止めたんだ」
彼女は首を傾げる。
僕は薄い笑みを作った。
「夢なんてものは、どうせ叶わないんだ。僕はそう知っているんだよ」
「貴方は自分の夢から逃げたの?」
「逃げた?逃げてなんかないよ。僕は夢なんて作った自分に笑ったんだ」
「ならどうして夢を作ろうと思ったの?」
彼女は僕を真剣に見つめていた。
「矛盾してるよ。貴方は夢を信じたんでしょ?」
「サンドラちゃん?知った振りはよしてくれないか。胃が痛いよ」
「貴方が喫茶店を経営するといった時は、なんだか淋しそうだったわね。それはどうして?夢を忘れきれていないから?」
「…」
彼女の連続の質問が突き刺さる。
僕の夢。僕の夢を。
どうして破ったのか。
どうして破らなければならなかったのか。
「私は応援するよ。この紅茶なら必ずみんな喜んでくれる。誰かが貴方に救われる」
どうしてだろうか。
どうしてだろうか。
どうして…。
…涙が溢れてくるのだろうか。
誰も認めてくれなかった。
誰も僕の夢を応援してくれなかった。
誰も、誰も。
僕がいるという事実を虚空として認識してくれなかった。
だが、彼女の視界には確かに僕がいる。
彼女はそう必死に伝えてくれた。
なら、僕も。
「…ありがとう、サンドラちゃん」
「…泣いちゃダメよ」
「初めてわかった、初めてわかったよ。孤独とは何たるか、幸せとは何たるかを。僕は孤独を知らなかった。平和に住む人が平和とは何たるかを知らないように、僕は孤独とは何か知らなかったんだ。でもようやく分かった」
「…孤独」
「僕には、サンドラちゃんが必要だったんだ。僕の側にいてくれる誰かが」
彼女は無言でまた紅茶に口を付けた。
砂糖を多量に零した、甘ったるい紅茶に。
僕の味なんてその紅茶に分かるはずがないのに。
僕は気を使われていると知っていても嬉しかった。
「私は貴方と出会ってまだ24時間も経っていないけれど、少し貴方になら心を開けそうだわ」
「へへっ、そうかい」
「でも私は何度も心を開いてきた。でも、誰も相手にしてくれなかったわ。私はいつも孤独だった。みんなが笑顔の輪の中にいたから」
「…」
「でも貴方は孤独だもの。私たちは孤独同士だって言ったでしょう」
暗黙の了解。
僕たちはお互いの孤独について触れないつもりだった。
でも彼女はその暗黙の了解に一歩踏み出した。
それは、一つの僕への敬意だろうか。
それとも、僕とのそのような関係が欝陶しくなったのか。
僕にはわからない。
だけど、分からないからこそ僕は幸せだった。
僕たちはお互いを知ろうと表面上では思いながら本心では理解しがたいものと分別し、他者との関係を保つ。
それが間違った行為だとしても。正しい行為だとしても。
僕らにとってはそれが無難な行為で違いなかった。
「孤独が二つで、孤独じゃないのかな」
彼女はそうぽつりと言った。
それは間違っているよ。
僕は彼女を否定した。
僕はその答えを知っている。
孤独は二つで、孤独が二つになるだけだということを。
なにも変わらないということを。
「そうだね、僕らは二人だから孤独じゃないね」
表面上の笑み。
いつしか僕の癖となってしまった。
彼女も見抜けないだろう。
僕の闇に包まれた本心には。
「でもそういう場所が、私は欲しかった」
彼女はそう言った。
「孤独であって、孤独でない。誰かと孤独を分かち合えるような、そんな境界線のような場所」
孤独とは、誰も周りにいない自分しか感じることのできない場所を言うのだろう。
なら、僕らは孤独ではない。
でも僕らは各々孤独だった。
矛盾が僕らを駆け巡る。
彼女の微笑みが優しい影を作っていた。
「じゃあ僕は孤独じゃないんだね。それなら淋しくなくていいよ」
「でも貴方は淋しそう」
「淋しくないよ、本当さ」
僕は彼女の空になったティーカップに紅茶を注いで言った。
「僕は本当にサンドラちゃんに出会えて良かったと思う」
「…過去形ね」
「…え?」
「貴方の発言では、まるで貴方が明日にでも死んでしまうみたいに見えるわね。いやよ、そんなの」
「ああ、そうだね。悪かった。僕がいなくなったら君は孤独になっちゃうもんね」
「それだけじゃないわ」
僕が彼女の顔を覗くと、彼女は頬を染めて顔を背けた。
「…え?」
「な、なんでもないし!どうでもいいでしょう、もう…ッ。…ゴホッゴホッ」
どうやらまたむせたらしい。よくむせる少女だな。
僕は自分の紅茶に口を付ける。
本当にこれで誰かを幸せに出来るのだろうか。
確かになんだかほんのり暖かい気はした。
でもそれは本当に僕の紅茶のおかげなのか。
それと僕の隣にいる小さな太陽のおかげなのか。
「サンドラちゃん」
「…?」
「サンドラちゃんはどうして入院しているの?」
「…」
「聞きたいんだ。サンドラちゃんの事、もっと知りたい」
「…それっておかしいよ」
「…?」
「私は君の名前も知らないんだよ」
「僕だって知らないじゃないか」
彼女は頬を膨らませた。
「私はサンドラだよ」
「じゃあ僕はのびただ」
「ドラえもんじゃないのよ!」
「知ってるよ」
彼女のティーカップを覗くと、その底には砂糖が溶け残っていた。相当な甘党だということが分かった。
「分かった。私の病気の事を教えるわ。それなら貴方は名前を教えてくれる?」
「うん」
「じゃあそっちからで」
「いや、サンドラちゃんから頼むよ」
「普通そっちからだから!」
「えーとなんだったかなあ…僕の名前。しばらくしたら思い出せると思うんだけど」
「…本当に卑怯なのね」
「よく言われる」
彼女はわざとらしくため息を吐いて語り始めた。
「コルサコフ症候群って、知ってる?」
聞いたことは、ない。今すぐ端末で調べようかと思ったが、失礼にならないようにやめた。
「聞いたことないね」
「あんまり有名じゃないから知らなくても仕方ないと思うわ。簡単に言うなら、記憶が消える病気」
「記憶が、消える」
「消えるといっても更新されて消える訳じゃないのよ。ただ昔の記憶がぽっかり飛んでしまったの。記憶といっても思い出なんだけど」
彼女はなぜか笑っていた。
それが僕には無理矢理な笑みにしか見えなかった。
「だから、私は空っぽなのよ。中に何も入っていない壷のようにね。病気は治ったんだけれども、失った思い出は帰って来ないの」
「じゃあ僕が新しい君の人生を導いてあげるよ」
「…え?」
僕は無意識に口を動かしていた。
ただただ彼女が可哀相で。
彼女を救ってあげたくて。
彼女の間の虚空を埋めてあげたくて。
「君の消えた記憶なんて存在さえも忘れてしまえばいい。君はこの部屋で生まれて、これからこの部屋で育つ。君の知ってる人は僕だけでいいよ」
余命が決まってる人はそんな嘘を付けるだろうか。
だけど僕は嘘をつける。
永遠に彼女といれると。
僕が去る時は近いというのに。
「…ありがとう」
僕は彼女を見る。
彼女は下を向いていて僕からは表情を伺えなかったが、なんとなく明るくなったような気はした。
「じゃあさ、教えてよ」
「ん?何をかな?」
彼女は僕に頬を膨らまして言った。
「名前」
「ああ、そんな約束をしていたね」
僕の名前。
ナマエ、ナマエ。
長年僕の名前を口に出したことはなかったから忘れているかと思ったが、流石に覚えていた。
「僕は藤堂隼人。いや、二宮隼人だ」
「ご家族は離婚したりしたの?」
「そうだねえ」
僕は藤堂隼人だ。
でも、僕は二宮隼人でいたかった。
「わかった、私はこれから隼人と呼ぶわ」
「お好きに」
「だから、私の事はサンドラと呼び捨てでいいわよ」
そう言う彼女に僕は微笑んだ。
「僕はサンドラちゃんという言い方が好きなんだよ。別にサンドラちゃんを自分より下の立場だなんて思ったりしてない。サンドラちゃんと呼べば、僕はサンドラちゃんに近い存在のように感じられるから」
「それなら私も隼人くんと呼ばせて貰おうかしら」
「ははは、それはまるで恋人のようじゃないか」
「…永遠に続け」
僕はサンドラちゃんを見つめて言った。
「え、今なんて?」
「いや、確かに恋人に見えるわよね。恋人に見えちゃ、隼人くんは嫌かしら?」
「むしろ光栄だよ」
「あら、無理矢理感が察知できるのだけれど」
もし、僕らが恋人ならば僕らは二度と離れることはないだろうか。
互いの手を握って、二度と離さないように。
強く強く強く。
…柔らかい。
「どうしたの、隼人くんはもう恋人気分かしら?」
気づけばサンドラちゃんの手を握り締めていた。
それに、強く。
「う、うわえわったたッ!」
すぐに手を離す。
すると一瞬彼女は僕の離れる手を求めるような動作を取り、その動作に僕が気づくと恥ずかしそうに手を膝の上に揃えた。
そういう仕種を見せられると僕まで恥ずかしくなってくる。
そこで沈黙がやって来た。
だけど僕はこの沈黙なら我慢できた。
むしろ、心地良かった。
彼女とこうして座っていられる事が。
永遠に続かないだろうか。
誰にも、何にも僕らを妨げることのできないようなそんな世界で。
この、沈黙が。
この、距離が。
この、世界が。
この、生命が。
二度と感じることなんて無いと思っていた。
二度と願うことなんて無いと思っていた。
生きたいなんて。
反面死にたいと思ったことはいくらでもあったけど。
僕なんかが命を望んでいいのだろうか。
生きたい、生きたい。
でも生きたいよ。
死ねよ、生きたいよ、死ねよ。
「死にたくない、死にたくないのか…?僕は、僕は...」
涙が溢れてくる。
今まで堪えてきた涙が。
死にたいと思う度に蓄積されてきた涙が。
頬を伝って、地に落ちる。
生きたい、生きたかったんだ僕は。
死を望んでいたけれど。
本当は僕は生きたかったんだ。
何かが僕を包み込んだ。
僕の小さな身体を、抱擁した。
彼女は。彼女は。
「心配しないで」
僕を、彼女は。
「私がいる。隼人くんの側には、私がいるんだから」
愛してくれたのだ。
「私は不器用だけど、隼人くんを何としても救ってあげる。これは私の独りぼっちの作戦」
彼女は肩を揺らしていた。
「私には、もう隼人くんしかいないから」
彼女は孤独に泣いていた。
彼女は孤独に堕ちていた。
彼女は孤独に溺れていた。
彼女は愛を渇望していた。
彼女は夢を渇望していた。
彼女は友を渇望していた。
僕は、彼女を愛していた。
僕は、彼女に溺れていた。
「僕にも、もうサンドラちゃんしかいないんだよ」
僕らは孤独であって孤独でない。
僕らの間に空洞はない。
だけど僕らの間には割ることのないガラス板があった。
僕らは、愛し合っていて、拒絶しあっていた。
どこか正直になれない僕らがいた。
だけど、間違いなく僕らは愛に溺れていた。
死に溺れていた。
孤独に溺れていた。
だからこそ、二人で愛を分かち合う必要があった。
だからこそ、二人で死を分かち合う必要があった。
だからこそ、二人で孤独を埋め合う必要があった。
「隼人くん、私の側にいて。ずっと、私から離れないで」
自然と涙は止んでいた。
僕はそれでも抱擁を解かなかった。
もう少しだけ、人の温もりに触れていたかった。
「勿論さ、僕は死ねない。君を孤独にする訳にはいかないもの」
どちらかが欠けた時点で僕らは孤独に溺れ死ぬ。
僕らはそんな藁にも縋るような人間だった。
僕らが弱いことはお互い知っていたのに、改めて知らされた気がした。
だけど、僕にはリミットがあった。
彼女の側から離れるまでのリミットが。
彼女は僕の言葉を信じ込み、一筋の涙を零した。
彼女の涙を見てはいけない気がして、僕は必死に自分の目を擦った。
『繋がりを解くだけ』
今日は一ヶ月に一回の定期検診の日だった。
勘のよい人なら気付いたかもしれないが、僕はつまり先月の定期検診の後にサンドラちゃんと会ったため、もう気づけばサンドラちゃんと会ってから一ヶ月が経ったのだ。
僕らは挨拶は勿論、一緒にお出かけをしたり所謂デートと言われるような事もまあした。
だけどどれだけ彼女が饒舌になったりしても、彼女はあの日の事には触れなかった。ずっと、僕らはただの友人であるかのように振る舞う。
だからこそ僕も彼女を尊重して彼女の中に触れることはなかった。
そして今僕らは定期検診に呼ばれるまで病服を着て病院の待合室で待っていた。
「でも何年経ってもこの定期検診は怖いよ」
彼女はそう言って微笑んだ。
僕も首肯して笑う。
「いきなり近いうちに死ぬって言われそうで僕は怖いよ」
実際言われた訳だから笑えないのだが、そういう嘘を着くのはどうやら僕は得意らしい。彼女も僕の冗談に口元に手を当てて笑ってくれた。
「まあ、でもそれは私たちにとったら十分にありえるから怖いよね」
「サンドラちゃんは最近はずっと平常って定期診断では異常なしで出てるんだよね。羨ましいよ」
「隼人くんは違うの?」
「まあサンドラちゃんが言うようにすぐ死ぬとは言われたことはないけど腎臓が悪くなってるとかすい臓がそろそろ使えなくなるとか脅されたことは数え切れないほどあるよ。実際僕の腎臓はダミーだからね」
「…本当に?」
僕は頷いていきさつを説明した。
「僕の親父が生きてた頃に、僕の腎臓が壊れて使えなくなって、ダミーを付けないと死が確定する頃に買ってもらったんだ。僕の身体は弱い訳ではなかったんだけれど、妹を交通事故から庇った時に腎臓付近をやられてしまってね。まず腎臓が潰れたんだよ」
「腎臓のダミーってなんだか凄いわね」
「でも正直言うなら値段はそんなに安易に手が出せるものではなかったよ。だから僕の妹を溺愛していた母さんは、僕を手放すことに決めたんだ」
彼女は驚いているようだった。
まあ、実際驚いていても無理はない。
「僕を手術しないまま放置すると母さんは言ったけれど、親父は僕に手術はしてくれた。だけど、その後母さんはお金の都合で家を出て行って、親父は自殺したよ」
「…」
「親父が死んだことで寄付金が出て、僕はこうしてここで時折手術を受けれてるんだよ」
「お母さんは悪い人なのね」
「僕は母さんを責めないよ。母さんは僕の妹に溺れていたんだからね。誰だって、愛に溺れることはあるんだ。今になっては、母さんが自然のように感じてくる」
僕の話を聞いて、彼女は頭を僕の肩に預けた。
女の子特有の甘い香りがする。
一瞬眩暈がしたが、平常を保とうとすると案外容易に視界が元に戻った。
「お母さんと妹さんは今どこにいるの?」
「僕は母さん達を憎んだことはないけど、もう家族とは思っていないんだ。妹は毎月来るけれど、僕は話した覚えが無い」
「どういうこと?」
彼女が首を傾げるのを見て、僕は微笑んで続けた。
「僕の妹は、僕がこのように入院して生死をさ迷うような人生を送っている事を自分自身のせいだと誤認しているみたいなんだよ。だから、毎月来るんだ。サンドラちゃんと出会ってからも一度来ていたんだけど、その時はサンドラちゃんは留守っぽかったね」
「誤認、というか自覚しているだけじゃないの?」
「確かに正しく言えば自覚だね。でも、僕は僕の妹が悪かったなんて思いたくないんだよ。ただ勝手に僕が道路に飛び出して轢かれた。僕はいつまでも無能な僕がいたという記憶を残していたいんだ。誰かの責任で死んだとは思いたくない」
少し哲学じみたお話になってしまったのだろうか。
彼女は僕の話を初めは真剣に聞いてくれていたみたいだけれど最後は飽きたのか分からなくなったのか前髪をいじくっていた。
なんだか彼女はいつでも彼女なんだなと確信してほっとした。
「まあまとめると、僕は妹の事なんて忘れていたいんだ。だから、家族については記憶喪失のフリをするのさ」
「…でもそれなのに毎月妹さんは来るなんてどういう事かしら」
「毎月去っていく際に『一ヶ月後に』と言ってから部屋を出て行くんだよ。自然とこの時期になれば、定期検診と妹の訪問が脳裏に浮かぶよ」
「家族との繋がりは、そんなにも大切じゃないの?」
「家族との繋がりは、切っても切りきれないと聞いたことがあるよ。だから僕は切ろうとしないんだ」
ちょうど彼女が着ている病服の襟元についてある紐を僕は手にとって続けた。
「解くんだよ。相手から繋がりは解かれた。僕だって繋がりを解いた。その関係に何の意味がある?僕はもし繋がりを捨てたことによってこの今があると言えるのならば、なにも後悔はないよ。僕はこの幸せの今が続くなら十分だ」
「私にはずっと前から解けるだけの繋がりがないから。小さな頃から誰かと繋がりを持つことをどこかで恐れていたの。だから誰かと繋がりを持っている貴方を羨ましく思うわ」
僕は彼女の襟首についていた紐を解くと、彼女は擽ったそうにはにかんだ。
孤独なサンドラは、もう一人ではないのだろうか。
僕が彼女の孤独を埋めれているのだろうか。
いつもこうした疑問は浮かんでくるのだが、今日はいつもより濃い心配事となって僕にのしかかってきた。
「だから、私は貴方との繋がりを永遠に繋いでいたいの」
第三者が聞けばプロポーズとも聞こえる彼女の発言。
だけどそれは彼女の孤独を絵に描いたように具体的でかつ抽象的な彼女の渇望をあわらす物であると僕は知っていた。
だから僕は微笑む。
彼女の期待を裏切らぬよう。彼女を信じようと。
そう決めた僕は仮面を外さなかった。
彼女にさえも、僕は外すことは出来なかった。
「そうだね、僕だってずっとサンドラちゃんといれたらいいなって思うよ。片方の花が散るまでね」
「それはいつなんだろうね。私はまだ遠いと思うけれど、貴方が分からないわ」
「僕もそれほど命が短い訳じゃないよ。それに僕は死にたくない欲求が強いからね」
「私も、その欲求なら負ける気がしないわ」
彼女がそう言い微笑むと、看護婦が来て彼女を呼んだ。彼女は笑顔で応対して僕を向く。
「じゅあ私は呼ばれたから行ってくるわね。確か隼人くんはその次だったから用意していたほうがいいと思うわよ」
「了解」
「じゃあまた後で部屋でね」
そう言って去って行く彼女の足取りは軽かった。
なにも定期検診が怖くないのだろう。
恐れ震える僕とは正反対だった。
僕など明日死ぬと言われてもおかしくない。
今日死ぬと言われても何もおかしくはない。
そんな死と生の狭間のような場所に、僕はいた。
僕は常に死と対峙していた。
「サヨナラ、サンドラちゃん」
僕の声は誰にも届く事なく、暗い闇の中に消失した。
そしてその声を聞いた少女は僕に語りかけてきた。
『隼人くん、隼人くん?』
また彼女だ。
僕の中に巣くい、僕を中から喰らう怪物。
だけど僕が彼女に抑制されている反面、彼女も僕に抑制されていた
『早くこっちの世界にきてよ』
肩に人にのしかかられるような重みを感じて反射的に後ろを向くが、そこには誰もいなかった。
視覚的な感覚では誰もいないように見えるけれど、肌にそこに誰かがいるということはひしひしと感じられた。そう、彼女がいるのだ。
クスリと彼女が笑う声がなんとなくだが分かった。
「僕はまだ行かないよ」
沈黙が訪れる。
僕の発言に彼女は時を止めたように黙り込んでしまったのだ。
そんな実体のない彼女に、僕は微笑んで告げた。
「僕は君の元には行けないんだ。サンドラちゃんに、別れを告げるまでは必ずね」
『…サンドラ?』
一瞬戸惑ったように彼女は震え、尚冷静に彼女は僕に聞き返してきた。
僕は頷いて笑う。
「僕の、大切な人だよ」
『隼人くんの?』
明らかに僕の前にいる架空の少女が狼狽えているのが分かった。
空気の歪みが、彼女の実感へ。彼女の実感が、僕の自覚へ。
『…はっは』
「…」
『違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね違うよね…?』
耳を塞ぐ。少女のトーンの変わらない声が僕を貫いた。
彼女は叫んだ。
まるで何かを僕に訴えかけるように。
だけど僕は彼女を拒絶した。
彼女は僕の敵だと一度認識して。
「もう、僕の元から消えてくれないか」
『…え?』
「君にそんな事が出来るかは知らない。君は僕の元にしか生息できないのかもしれない。だけど、僕は君が嫌いなんだよ」
『…』
「僕に、生きる権利をくれよ」
少女の気配は消えた。
淋しそうな少女が遠くへ去って行った気がした。
僕に一気に安堵と疲れが押し寄せて来て、僕は腰を下ろす。
僕の中に眠る正体不明の彼女はサンドラちゃんの事を知っている風ではあった。
そして、彼女自身なんだかサンドラちゃんに深い思い入れがあるようにも思えた。
「僕は、前みたいに死を望んだりしないからさ」
独り言を続ける。僕の中の彼女に向けて。
僕の、正直な気持ちを。
「僕が愛する彼女のためなら僕は命だって信じて残せるよ。何度も放棄しようとした命にかわりは無いんだけどね」
彼女からの返事は、なかった。
『DEAD AND SEEK』
「正直言わしてもらうなら、君は寿命が伸びたといえるだろうね」
医者は僕の定期検診後の結果報告の場面でそう言った。
僕が首を傾げるのと同様に、医者もよく分かっていないようだった。
「一種の精神的なストレスの解除とかじゃないかな。暫くは安静にしておけばまた気楽に過ごせるかもしれない」
「本当ですか」
「…。君、初めに会ったときより雰囲気変わったね」
医者は僕を見て微笑んだ。
医者は元々いた医者に比べて若い別の医者に代わっていた。
「明るくなったね。本当にあの子に救われたのかなあ」
「…あの子とは?」
「君の部屋で住む匿名の女性だよ。家族が亡くなってから親の貯金を使ってここに住んでいる子さ。話すことはあるかな?」
「まあそれなりには」
「この前も二人仲良く外出していたね。茶化してあげようかと思ったんだけど、そんな時間も俺には残されていなくてね」
医者はどこか淋しげだった。
まるで、人生に疲れたような表情を浮かべていた。
「こんなおっさんの話だけど、一つだけ聞いてくれないか」
断る理由はない。
少しだけだが医者の話を聞いてみたいという欲求もあったので首肯すると、医者は微笑んで「ありがとう」と言った。
「俺は学生の頃、友を知らなかったし、愛を知らなかったし、自由を知らなかった。まあ学生といっても何年前かは覚えていないな。俺は両親に優秀な医者になるように育て上げられていたから、外で普通の子供のように遊ぶことは許されていなかった。ずっと勉強して、俺はそれが普通だと思っていた。俺は反論することはなかった。ぶたれるからという理由もあったけれど、単純に俺はその時自分がしたいことを見つけていなかった。医者になったら、沢山お金が儲けれるから、医者になりたい。俺は不純な医者だった。今だって、なにも自分が清純な医者だとは思えないよ。だけど、救える可能性が低い患者をすべて見捨てて、そのままでも生きていける患者に追加手術して救い、功績を得た俺は本当に愚かだった」
僕は気づけば話に聞き入っていた。
「そんな俺の元へ、瀕死の患者と重傷の患者が救急車に乗ってやって来た。重傷の患者は俺の先輩が担当したから、俺は瀕死の患者を担当することになったんだ。彼女は救うことのできるレベルの傷ではなかった。内臓はぐちゃぐちゃ、おまけに左手は真っ青に膨れ上がっている。ああ、彼女はどれだけ手術しても三日で死ぬな。俺はその時確信したよ。だから、無敗の俺の功績を傷つけたくなかったから、俺が手術するまでに死んでくれないかな、と俺は心の中で願っていた」
「…」
「でも彼女がまた不思議な人でね。俺が一人、瀕死の彼女の元に行くと、彼女は俺を見て大笑いしたんだ。[こんなに重病な私の元に来るのは若い貴方だけなのか]ってね。俺は何も言えなかった。無言で、彼女の手術に望んだ。彼女が俺に何を聞いても、俺は淡泊にしか答えなかった。彼女は、死を恐れていない、珍しい人間だったんだ」
医者はこつんとボールペンを鳴らして過去を思い出すように笑った。
やはり、その仕種にも寂しさが感じれた。
「彼女はいつも笑っていた。俺が彼女の元に行くと、彼女は俺に彼女の家族のお話をしてくれた。俺はずっと彼女の話を聞いた。[そうかい]とか[そうなんだね]とか淡泊な返事を返しても、彼女はうれしそうに微笑んで俺にいろんな話をしてくれた。初めは聞き流していたけれど、俺は途中から彼女の話をノートに夜取ることにした。毎日毎日、彼女の話をノートに取ると、一週間でノートは満タンになった。彼女の面白いお話は底をつかなかった。そこで俺は悟ったんだ。彼女は淡い永遠の孤独の中に住んでいる人なんだって」
「…淡い永遠の孤独、ですか」
「長年医者をやって来て気付いたことは、人間が死を恐れるのは、直接恐れているという訳ではないという事だね。人間は、誰かに知られているからこそ死を恐れるんだと。深い漆黒の闇は、孤独のすぐ傍にあって、淡い永遠の孤独に住んでいた彼女のような人は、なにも死が怖くなかったんだ。そしてそれと同時に、俺は彼女の話がすべて空想だと悟った」
「…」
「彼女の話によると、彼女の両親は彼女をいつも愛し、彼女の事を第一に考える素敵な両親だと聞いた。でも、ある日保護者と対面した時に、俺は気付いたんだ。彼女の両親は、全く彼女の事など愛していないということに。俺が彼女の具合の話をしている最中に、平気で二人で談笑をしたり、彼女の病室に誘った際には、[面倒]という一言で断られた。俺がその言葉に文句を言おうとすると、先輩達に遮られたんだけどね」
彼女は本当に孤独に住んでいたんだ。そう医者は言った。
本当の孤独というものがいかに寒く、苦しい場所であるかがひしひしと伝わってきた。
「俺は恋に溺れていた。いつの間にか泡沫のように消えてしまいそうな彼女に俺は溺れていたんだ。そして彼女が俺に微笑む度、彼女が俺から目を逸らす度俺は息苦しくなっていたんだよ。彼女は近い内に俺の傍から消えるんだ。だから、俺は彼女を見ていられなかった。彼女が消える瞬間を、彼女の魂が存在しない彼女の肉体を、ね」
「彼女は、本当に事故だったんですか」
「…彼女はある日俺に言ったよ。[もしも私に定められた命の鎖から逃れる事が出来る力があっても、私は逃げることはないと思う。だって、私は今孤独に生きてないから]とね。そしてこう続けた。[孤独の空間は恐ろしく冷たくて吐息が凍るような感覚に襲われる。だから、私はそんな空間にいるより死んだ方が楽になれると思ってた]とね。俺はその言葉を聞いた時、ようやく気付いたんだ。彼女は交通事故でここに運ばれて来たんではない、本当は彼女は自殺をしようとしていたんだと。それなら、確かに身体に受け身をとったような傷がみられないのも納得が言った」
「…」
「俺達には明日がある。明日したいことや、未来したいことを好きなだけ空想し、実行に移すために努力することが出来るよ。でも彼女は違ったんだ。俺達のように人に囲まれ会話を常識と認識する事も出来ずに、彼女はただただ孤独という深い闇の中で足を捕まれ呼吸出来ずに笑っていたんだよ。そして自由を求めた先には自殺という結末が存在していた」
医者はそう言い終わると机の上に置いてある写真立てを手にとって、僕に見せてきた。そこには若い頃の医者と思われる青年と、薄く微笑む目の細い女性が映っていた。場所はどこだろうか。病院には見えなかった。
「俺は命を掛けた。俺の出来ることを、使えることを全て注いで彼女を救おうとした。その時はただ俺は彼女にしあわせを知って欲しかった。誰でも感じることのできるしあわせを、彼女に味わってほしかったんだ。彼女への過剰な熱望が、いつしか彼女との友情に代わり、そして彼女との愛情にかわった。俺は彼女を愛し、彼女は俺を愛した。そしてしばらくして、彼女は死んだ」
医者の話は聞き手を話の中に牽き入れる強い力があった。それ故に、僕は医者の話の結末が淡泊に述べられたことに驚いた。
だけどなんとなく分かった。
別に医者は彼女と過ごした日々を後悔している訳ではないだろう。
むしろ、逆のようだった。
「君とルームシェアしている彼女は、そんな泡沫な少女だよ。いつ消えるかなんて分からない。だけど、そう長くないかもしれないね」
「彼女がですか?」
「そうは言っても、当然だが先に去るのは君だろうね。彼女を一人に残す覚悟は君にあるかな?」
「…そんなの、分かりませんよ」
「君は若いよね。だからこそ責任は重い。だけど一つだけ考えてほしいのは、誰かを残して去るということが想像以上に相手を傷つけることになる、それだけは知って置いたほうがいいよ」
医者は微笑んで僕に退室を促した。僕も素直にそれに従う。
―――――誰かを残して去るということ。
僕はため息を吐いて部屋に戻った。
『憑依された青年』
定期検診の次の日、目を覚ましサンドラちゃんの様子を見ようと辺りを見渡したが、彼女は外出中のようだった。
朝早くから一人で外出なんて珍しいなと思いながら紅茶を飲んでいると、すぐに彼女は帰宅した。
いや、彼女達というべきであろうか。
彼女の傍には、今最も会いたくない人であろう人物が立っていた。
「隼人くん、この子って隼人くんの妹さん?」
「…お兄さん」
「…」
まさかの再会。近いうちに会うとは思っていたが、まさか定期検診の次の日だとは思っていなかった。
「…お久しぶり」
「…」
「隼人くん、見えてるんだったら返事したらどう?」
サンドラちゃんらしい質問が飛び、僕は欝陶しいと思っている感情を全面に出しながら挨拶をする。
「…おう」
「お兄さんとルームシェアして下さっているんですね。私はお兄さんの妹の三咲といいます。よろしくお願いします」
「私はサンドラ。隼人くんとは仲良くさせていただいてます」
堅苦しい挨拶の後は沈黙が続く。コミュ症三人の謎の沈黙は辛い以外の何物でもなかった。
その空気を察してか、三咲が僕に話を振ってきた。
「お、お兄さんもこんな素敵な人と仲良くなれて羨ましいなあ…。私だってこんな素敵な人とお会いできたらいいのに…」
「…僕もサンドラちゃんと仲良くなれたことは光栄に思っているよ」
「まあ、私は妹さんが思ってるほど素敵な人間じゃあないんだけれどね。私も隼人くんも、短い命の人間だから」
「…サンドラちゃん」
「口を滑らせてしまったかしらね」
案の定サンドラちゃんの失言を三咲は鋭く聞き返してきた。
「…お兄さん、どういうこと?」
「三咲には関係ないことだろ」
「隼人くん」
サンドラちゃんは首を横に振っていた。
僕はため息を吐いて診察結果を言う。
「僕は、すぐじゃないが近い内に死ぬらしい。もうすでに右肺は機能しなくなっているらしいから、体内外の空気の換気も自由に出来ないらしくてな」
「…え?でもお兄さんはしばらくしたら退院できるって」
「あれは、嘘だ」
「嘘?」
嘘という言葉に三咲は反応して僕を睨むように目を細める。
その仕種は懐かしかったけれど、安らぎは生まなかった。
「お兄さんは、私に嘘なんてつける人じゃなかった」
「僕を憎むというのかな、三咲」
「憎むなんて言ってないわ。でも、お兄さんは嘘なんてつけるような人じゃなかったはず」
「じゃあ僕が三咲のお兄さんじゃないのか、それとも三咲の想像が現実と化さなかったのか。どちらかだね」
「…お兄さん、本当に変わってしまったのね」
三咲はそう言い残すと立ち上がって薄く微笑んだ。サンドラちゃんが心配そうに見上げる中、喉から捻り出すように「また来月」と言い、ドアを開けて去って行く。
去って行った三咲を横目で見つめながら、サンドラちゃんは僕に言った。
「追わなくてもいいの」
「サンドラちゃんは家族との温もりというものを知らないと言っていたね」
僕の発言に彼女は頷く。そこで僕は微笑んだ。
「じゃあ、僕が今感じている家族との温もりを引き裂く度胸の中に隠された苦しみを、サンドラちゃんは分かりはしないだろうね」
「…」
「僕は追えない。追うことが出来ないんだ。三咲をすぐにでも突き放さないと、僕は我を失って彼女に呑まれてしまいそうになる。僕は彼女に呑まれたら、もう二度と帰ってくる事の出来ない気がする」
「…三咲ちゃんに?」
「…そうじゃないんだ。でも、そんな感じもしなくも無い。僕を飲み込もうとしてくるのは正体不明の一人の少女だ」
彼女は首を傾げる。
僕は説明しようとして自分の語彙力の無さを歎き笑った。
「僕の病気は客観的に見ればそれほど恐ろしい病気ではないらしい。それなのにどうして僕がこれほどまで苦しめられているのかというと、僕の中にいる一人の正体不明の少女が、僕を飲み込もうとするからなんだ」
「正体不明の少女…」
僕は頷いて続ける。
「彼女は僕にしきりに声を掛けて来て、僕に何かを気付いてもらいたいようにしてるんだ。だから、僕も彼女に気付いてあげたいと思う。彼女が抱え込む、深い闇にね」
「それは隼人くんが考え込む深い闇よりも解消すべき問題なの?」
「…そう言われれば確かにそこまで重要視する必要は無いような気もするけど、僕は彼女が淋しい存在であるような気がするんだよ。彼女はまるで、サンドラちゃんと出会う僕のように孤独の波に溺れている」
僕自身彼女の事はよく分からない。
だけど知りたいとは思わなかった。
ただ、彼女を孤独から救うことが出来るなら。
サンドラちゃんは悩み込むような仕種で僕に言い放った。
「貴方はその子の被害者なんじゃないの?それなのに、どうして?」
「…サンドラちゃん、僕はサイコじゃないよ」
「…え?」
「僕は自分に害を為す人間を全て害悪な存在だとは認識しないということさ。僕を理由なく戒める人は沢山いたけど、彼女はそうじゃないように見えるんだ。それなら、僕だって彼女を責める訳にはいかないよ」
彼女を殺したいと思うほど憎んだことは、正直ある。
自分の中に自分以外の何かがいる、そして時々その何かが僕を蝕む。
聞くだけでは、寄生虫のような存在で、僕は彼女を憎み嫌っていた。
だけど、彼女は世間的にもよい存在ではなかったけれど…。
――――――どこか僕に酷似していた。
「僕は彼女に飲み込まれて自我を失うというのなら、彼女を追い払う決心はしてある。でも、彼女はそうじゃないんだよ。僕を追い払うというよりは、僕に同化する事を望んでいる気がするんだ」
「隼人くんと同化したら、彼女の人格も継いでしまうという訳じゃないの?」
「分からないよ。だけど僕に捨てるものなんてサンドラちゃんとの鎖しかないんだ。家族の絆も、友との友情も、希望も、夢もなにもかも捨ててやれる」
「私との鎖以外を?」
「それ程まで長くない命だよ。そんなはかない命に寄生してしまった彼女を、僕は可哀相に感じるんだ。どうせすぐに散る命なら僕はくれてやってもいい」
僕はそう言って微笑んだ。
サンドラちゃんの苦笑いも、見なかったことにして。
「私達は知らないうちに、フィナーレに近づいてしまっていたのね」
夏なのに酷く冷たい風が僕らの間を通り抜けていったように感じた。
『夏の終わり』
こんな夢を見た。
僕は暗闇を歩いていた。視覚を感じることさえ許されないような、永遠の闇。
そこで僕は、問題の彼女と対面していた。
闇の中で、お互いを確認できないまま。
「やあ」
挨拶をする。
しばらく時を置いて、返事が返ってきた。
「ごきげんよう、隼人くん」
「僕は君の名前を知らないのに君だけ知っているなんて卑怯だね。僕が呼べないじゃないか」
「私の名前を知りたい?」
「君が良いというならね」
彼女がくすりと笑う。
彼女の声は実際に対面して聞いてみると透き通った素敵な声だった。
「サンドラと知り合いだと隼人くんは前言ってたよね」
「そうだね」
「サンドラの事はどれくらい知ってるの?」
「僕は全然彼女については詳しく知らないよ。ただ、彼女は僕と同じ淡色の永遠の孤独の中に生きている。誰も救い出すことは出来ないし、彼女も僕も救われる事を求めている訳でも無い」
「そうよね、サンドラも隼人くんもちっとも自分の命の事を考えてはいないよね」
僕が頷くと、彼女は再確認するように僕の手を握って言った。
温もりに満ちた手だった。
「もう一度聞くけど、隼人くんはサンドラの本名も知らないんだよね」
「探すことも失礼だと思ったから、彼女の口から直接出てくるまで待ってる最中だよ」
そんな時、少しずつ灯が明るくなってくる。
彼女の姿が明らかに浮き彫りとなってきた。
彼女は、白い肌の童話に出てきそうな美しい女性だった。
僕よりは年下に見える。
そこで彼女は僕に優しく微笑んで言った。
「私の名前は、秋川沙耶。秋川という苗字は好きじゃないから抵抗なく沙耶と呼んでくれたら嬉しいな」
「…うん。君にちゃんをつけるのも悪い気がするから、普通に沙耶と呼ばしてもらうよ。その名前は両親から決めてもらったものなのかな?」
「そうだよ。だからあんまり好きで名乗りたい訳じゃないんだ。だけど隼人くんには知って欲しくて、今名乗らせてもらったの」
「でもそっちの方が気軽に話せて僕は満足してるよ。ところで、サンドラちゃんを知ってるみたいだったけど君はサンドラちゃんとどういう関係なの?」
僕の質問に彼女は少し考えるそぶりをした後に言った。
「腐れ縁、かしらね。私はサンドラの事を嫌いだし、サンドラも私の事を嫌いなはずよ。お互い、出会いたくないのに出会わなければならなかった。そんな関係」
彼女の肌は白すぎて、闇に呑まれたら帰って来れ無いような気がした。
そして、彼女の後ろにはもう闇が迫って来ているのも目に見えて分かった。
「私の命はそんなに長くないの。貴方よりは長いかもしれないけれど、きっと貴方が死ぬまでに、私は消失すると思うんだ」
「沙耶は消失したらどこにいくんだ?」
「そんなの分からない。人間死んだら天国に行くかもしれないし、地獄に行くかもしれないよね。私はきっとそんな場所にも行けずにこの世を彷徨い続けるんだろうけど」
「彷徨って、また僕のような残念な人に取り付いて生きるのか」
「私はもう独りで居たくないの。独りは淋しくて、怖かった。だからこそ誰かと共存していたかったんだけれど、案外うまくいかないもので私が取り付いた人に挨拶をすると、相手は狂ったように騒ぎだして会話もしてくれないの。ずっとずっと、私は独りから変われなかったわ。隼人くんと出会うまでは」
彼女自身恥ずかしいことを言っているという自覚はあるのか、少し頬は紅く染まっているように見えた。
そんな彼女を見ていると、僕まで恥ずかしくなる。
「貴方も私を拒絶するように見えたけど、私と話してくれたよね。今だってそう、貴方は私との関係を切り離さないでくれた。そして私の事を救いたいと言ってくれた時は、泣きそうになるほど嬉しかったの。私を理解してくれる人がいて、私はその人に偶然出会うことが出来たって。だけどそれは違ったのよ。貴方は私と出会うべくして出会ったの」
「…え?」
「サンドラを、よろしくね。私は貴方の事が好きだから、貴方の身体を奪おうなんて事はしないから安心して。貴方だってそう長くないのだろうけれど、最期までサンドラの傍にいてくれたら私は嬉しいわ」
「沙耶」
僕は彼女を抱擁した。
柔らかい身体が僕の肌に触れ、優しく動く。
辺りがゆっくりと暗くなって行く。
「ごめん」
暖かい彼女の温もりが、暗闇の中でも結晶のように光り輝いていた。
「ねえ、サンドラちゃん」
僕らは夜道を二人きりで歩いていた。初夏のせいか蒸し暑さが感じられる。
荷物というのは僕とサンドラちゃんの部屋を飾るためのインテリアの事だ。サンドラちゃんの思ったより多い注文に僕らは(特に僕は)死にそうになりながら荷物を運ぶ羽目になったのだった。
「何?」
「夏だねえ」
蝉が鳴く声。
温風の砂を持ち運ぶ音。
全てが陽炎のように揺らめいている。
僕らの存在さえも。
「そうね」
「夏は、僕が一番好きな季節なんだ。揺らめいて見える陽炎が、世界を包み込んでくれるようでね。僕は夏に自分を隠していたんだ」
「不思議な理由ね」
「今年の夏は、もっと楽しい予感がするよ」
「どうして?」
「だって…」
上目使いで僕を見るサンドラちゃんに自然と僕は笑っていた。
きっと当然の答えを言うからだろう。
「――――サンドラちゃんが、僕の傍にいるからだよ」
僕の言葉を聞いて、サンドラちゃんは呆れたように微笑んだ。
『エピローグ』
今年で僕は21歳になった。
病院は退院してすぐに三咲は大学寮住いになったので、独り家族のローンを払い切った一軒家で住むことになった。想像以上に散らかっていた部屋をかたずけるのには独りでは一日を使うことになった。翌日のゴミは恐ろしい数になったのだが。
昔の写真やアルバムなど思い出の残っているものは全て捨てた。そうして出来上がった部屋は、想像以上に大きく感じる。
今日も朝食を済まして朝の日課トレーニングを行う。
僕は21歳になってまた独りに戻っていた。
重いドアを開き、僕は靴を脱いで中に入った。
すると視界いっぱいに広がっていたのは、大量の点滴台。その線の先はすべて放物線を描いて部屋の中心のベットに集まっている。
僕はなるべく元気に挨拶をした。
「おはよう、サンドラちゃん。今日もいい天気だよ。窓を開けようか」
「あら、ごきげんよう。隼人くん」
僕は窓を開けてベットの近くの椅子に腰を下ろす。サンドラちゃんは真っ白な壁の一点を見つめていた。まるで、そこに何かがいると感じているように。
「どうかしたの?サンドラちゃん」
僕がそう聞くと、サンドラちゃんは首を横に振る。
サンドラちゃんは故意的に沈黙を作り出していた。
僕は静かに彼女が沈黙を破るのを待つ。
蝉が遠くで鳴いていた。
デジャヴのような感覚が襲い掛かってきて、僕は小さなため息を吐いた。
「早く良くなると良いね。サンドラちゃん」
僕がそう言うと、サンドラちゃんは喉から搾り出したような小さな声で返事をした。
「もう私は、良くなんてならないよ」
静かな時間が僕達を包み込む。
僕は顔を引き攣りながら、訴えるようにして言った。
「サンドラちゃん、何言ってんだよ…ッ。サンドラちゃんが良くなってくれないと僕が…」
「私ね、分かってたんだ」
サンドラちゃんの声が明らかに鋭くなっていく。
耳を塞ぎたくなるような現実が明らかになっていった。
「私が隼人君に初めて会った日から、私の余命は決まっていたんだ。ちょうど二ヶ月後、どうせ隼人くんの方が先に死ぬって思ってた」
「…そんな」
「だけど隼人くんは救われた。私の命はもうすぐで終わりって時にね。笑っちゃったよ。まさか私の方が早く死ぬことになるなんて知り得なかったんだ」
「…サンドラちゃん」
「結局私は誰も救えない醜い存在だったんだわ。勝手に私は隼人くんを救える人間だって自己満足していたのよ。そんな馬鹿な私が、私の中で私を嘲笑っていたの」
サンドラちゃんはそう言い終わると僕に微笑んだ。
彼女に繋がれた点滴糸がゆらりと揺れる。
「それでも、僕とサンドラちゃんが過ごしたあの日々は、幻じゃないんだよ。僕は、サンドラちゃんを家族と思ってるんだから」
「…」
「今だって、僕はサンドラちゃんを信じてるよ。サンドラちゃんが僕に掛けてくれた励ましの言葉は、真実なんだって」
「貴方は、それだから優し過ぎるのよ」
サンドラちゃんの口調が早くなっていく。
僕の鼓動も同じく早くなっていった。
「だって僕は、サンドラちゃんの傍にいたから。サンドラちゃんの傍で、確かに僕は生きていたから」
「…」
「結局なところ、僕だってサンドラちゃんを騙してたんだ。サンドラちゃんの事を赤の他人と言い続けてきたけど、僕はサンドラちゃんを溺愛していた。だから、サンドラちゃんと別れることなんて出来なかったんだ」
「その件はありがとう。でも、もうお別れみたいね。昨日から聞いてる鼓動の振動数も、もう半分ぐらいになっちゃった。私は死ぬ前に貴方のような人に会えて…」
サンドラちゃんは僕の表情を見て言葉を止めた。
目を丸くして、驚いている様子ではあったが、困っている様子でもあった。
サンドラちゃんに会うまでは、決められた現実には逆らわないように生きようと決意していた。
そう、サンドラちゃんに会うまでは。
僕は、サンドラちゃんを。
気づけば僕は拳を握り締めて叫んでいた。
「僕…僕ッ…!さ、サンドラちゃんが死ぬのだけは、受け入れられないよ…ッッ!」
熱い涙が頬を伝って地に落ちる。
暑い夏の風が、一瞬病室の中に入ってきて音をたてた。
サンドラちゃんは視線を落として白いシーツを握り締める。
その力は、弱かった。
「私だって、死にたくないよ」
サンドラちゃんはそう漏らすと、何かのスイッチが入ったように顔を上げて僕を睨みつけ、叫んだ。
言葉の雨が、僕を叩き付ける。
「どうして私なの…ッ?私が何をしたっていうの?私は何もしていないのに、私がどうして死ななきゃならないの?おかしい、おかしいよ!だんだん幸せだった隼人くんとの記憶も薄れてくるの!あんなに楽しかったのに、あんなに幸せだったのに、全部全部幻のように消えていってしまうの…ッ。おかしいよ、おかしいよ…!」
サンドラちゃんが泣くところなんて見たことがなかった。
見たくもなかった。
サンドラちゃんには、いつもいつも笑っていてほしかった。
サンドラちゃんの笑みは、いつも素敵だったから。
だけど、今は子供のように泣いている。
怖いのだろう、死という未知なる存在が。
命を失い冷たい世界に移るという現実が。
僕だって、死が怖い。
死んで永遠に孤独でいるのが、怖くて仕方が無いのだ。
誰かと心中でもしないかぎり。
「サンドラちゃん、聞いて欲しいんだ。僕の命はサンドラちゃんに救われた。だから、この命は僕のものでありながらサンドラちゃんの物でもあるんだ」
「…」
「だけど、最期くらいは僕の命にして欲しい。僕の命を、僕の意志で動かしたいんだよ」
「隼人くんは何がしたいの?」
僕は微笑んで言った。
「サンドラちゃんの後を追いたいんだ」
「隼人くん、何をふざけてるの?」
サンドラちゃんの口調が明らかに鋭くなっていた。
僕は冷静に言葉を返す。
「僕は、ずっとサンドラちゃんの傍にいたいんだ。サンドラちゃんに救われた命を、君の元で断ちたい」
「ふざけたことを言わないで。隼人くんは隼人くんの夢を叶えなきゃダメ。私は一人孤独に戻るの」
「僕の未来は、僕のものだ!…だから今はサンドラちゃんの言うことにしたがわないよ」
彼女は視線を落として苦笑いを浮かべる。しかし僕は真剣な瞳で彼女を睨んだ。
「サンドラちゃん、僕はこの世界は間違ってると思うんだ。僕のような悪人は罰せられて当然だと思うけれど、サンドラちゃんが罰せられる必要はなにもない」
「違う、違うの」
彼女は顔を上げて微笑した。
その微笑に、なぜか僕は酷い寒気を感じた。
彼女はそのまま続ける。
「私、知ってたの」
ドクンドクンと僕の鼓動が跳ねる。
それでも彼女は平然と続けた。
「どうして、貴方がここに来たのか。また命を失いかけたのか」
聞きたくない。
聞きたくなかった。
サンドラちゃんの口から。
だから僕は耳を塞ぐ。
それでも、彼女の声は僕の拒絶に反抗した。
「だって…」
風鈴が激しく音を鳴らした。
温い風が僕の汗を吹き飛ばすような勢いで病室に入ってくる。
彼女の短い髪が揺れる。
彼女は落ち着いて目をつぶり、しばらくして僕を見つめて微笑んだ。
彼女の表情は、不思議な程淋しそうで、不思議な程嬉しそうだった。
「だって隼人くんは、私が***したから瀕死の状態でここに運ばれて来たんだよ?」
息が止まるような錯覚。
幻で喉が詰まったような、息苦しさに襲われる。
違うと信じていた。
サンドラちゃんじゃないと願っていた。
彼女の笑顔には、一度見たことがあると思いたくはなかった。
デジャヴを信じ、デジャヴを呪っていた。
そこで彼女は力無く喉から声を搾り出した。
「だから、私を忘れてよ…。私の事を忘れて、静かに幸せになって。私は孤独の象徴なんだから、心配しなくてもいいから。じゃあ、もう出てって貰っていいかな」
僕の前で揺れる視界だけが、僕の存在を象徴しているようで、僕はただその現実から必死に目を逸らすことしか出来なかった。
これは暑い暑い夏の日の出来事であった。
『苦しみの伝導』
「せっかくだから夏祭りに行きたいわ」
もうすぐで夏至を通り過ぎようとする頃、サンドラちゃんは思い出したように僕にそう言った。今年の夏もクーラーの中で悠々と過ごそうと思っていた僕の眉間に心なしかシワが出来る。
「あんな人込みの中に行って楽しいかねえ」
「そういう陰キャ発言は置いておいて、私たちだってせっかく外出許可が出てるんだからもっと祭りのようなものに触れるべきだと思うの。私、祭りに行ったことが無いから行ってみたいってのも一つのちっぽけな理由なんだけれど」
「…そうだねえ」
昔僕は一度夏祭りという場所に行ったことがあった。人込みばかりであまりいい思い出はないけれど、それでも楽しくなかったといえば嘘になる。本心では、結構楽しんでいたのかもしれない。
「でもサンドラちゃんは小さいからはぐれてしまうかもしれないからなあ。サンドラちゃん連絡端末持ってないし」
「別に携帯は購入してもいいのよ。でも設定とか面倒臭そうだから止めてるの。隼人くんの為に購入した方がいいかしら」
「い、いや僕のためというより普通に連絡端末は持っておいた方がいいと思うよ。これから先、僕以外に連絡交換する相手も出てくるかもしれないしね」
「その点は大丈夫よ。私、いつもテレカ持ち歩いてるから」
テレカ及びテレフォンカード。久しぶりというか初めてヘビーユーザーを見つけた気がする。サンドラちゃんが見せてくれたテレカは500回も使用できるものだった。
「うん、テレカを責めるつもりは無いし公衆電話で連絡する人を見ると少し尊敬したりするけど、ただでさえ公衆電話は減ってきているんだからそろそろ最新式の端末に変えることをオススメするよ」
「うん、じゃあその時はついて来てね」
「勿論だよ」
僕がそう言うと、彼女は夏祭りのチラシを持ってきて僕の座る椅子の前に置く。僕が手にとると、彼女は嬉しそうに微笑み対面の椅子に座った。
「結構遠い場所に行くんだね。それに大阪では一番大きい夏祭りじゃないか」
「それは知らないのだけれど」
「人酔いするのはまちがいなさそうだね…。酔い止めぐらいは持って行こうかな?」
「なさけない人ね。私は逆にたくさん人がいるから面白そうに思えるのだけれど」
彼女はそう言って紅茶を飲み干した。僕もそれにつられてゆっくりと紅茶に口をつける。
だんだん、あの時の味に近づいて来ている。
でも、まだあの時には程遠かった。
「本当に隼人くんの紅茶は美味しいのね。最近はさらに美味しくなって来てるわ」
彼女がそう呟いて微笑む。それだけで僕は満足だった。
今僕が入れる紅茶はたくさんの人を満足させる為の紅茶ではない。
ただ、彼女さえ満足させることが出来たら僕は十分だった。
僕の極限を求める必要など、どこにもなかった。
「サンドラちゃんは、本当に紅茶が好きなんだね」
僕の発言に、彼女はクスリと笑う。
不思議そうに僕が見ると、彼女は僕に顔を近づけて囁いた。
「私は、隼人くんが好きなだけ。だから隼人くんの紅茶も好きなの」
「ありがとう」
知っている。
彼女が僕の事を愛していないということも。
知っている。
僕が彼女の事を愛していないということも。
だからこそ、僕は彼女の言葉に返答しなかった。
返答することを、許されなかった。
『別に私は貴方とサンドラが恋することを拒んでいる訳じゃないのよ?』
僕の中の少女はそう心配気に言った。
僕は首を横に振る。
「僕は別にサンドラちゃんとの愛を拒絶している訳じゃないさ、沙耶」
『ならどうして貴方はサンドラの想いに気づかない振りをするの?』
「それを僕の口から直接言わせるつもりなのかな?」
温かい夏風と風鈴の優しい音色が僕の頬を優しく撫でた。
『隼人くんの命が短いから、サンドラと深い関係になって彼女と関係を持つことを嫌がっているんでしょ?』
「当たりだよ」
『それはサンドラへの心配りのつもりなの?』
「そう言われればそうなるね。でもこれは僕の勝手な意見に過ぎないさ。君からしたら滑稽に見えるかもしれないね」
『滑稽を通り越して呆れるわ。現実逃避ほど、見てて呆れるものはない』
「別に僕は現実逃避している訳じゃないよ。君ならどうする?決められた余命を前にして、愛する人とさらなる関係を深めれるか?僕には出来ない。今彼女に捧げた幸せは、その何倍にもなって後に彼女に悲哀となって返って来る。僕は、そんな日が恐いんだ。そうなれば僕が彼女に残したものは苦しみだけになる」
『それはただの屁理屈よ』
「屁理屈だって善でないとは限らないさ。僕にとって正しいのは、サンドラちゃんが幸せになることだ」
『貴方に拒絶されたサンドラが幸せになるとでも思っているの?』
「ねえ、沙耶」
彼女は首を傾げる。僕はそんな彼女に微笑んだ。
「僕は、サンドラちゃんを幸せにしてあげたい。確かに君の言葉にも、一理あるさ。でも、君は唯一の友達に、この世界に孤独に残される気持ちが分かるかい?」
『貴方は、分かるっていうの?』
「僕には、かつて友達がいた。多いか少ないかは分からないけれど、まあ通常の学生ぐらいはいたね。その中で最も仲がよかったのは、梓という少女だった」
僕は一度目を閉じて、過去の話を話しはじめた。
過去の事で覚えている全てを。
あの日は、今日のような夏の日だっただろうか。
僕はいつも通り学校に向かっていた。その頃は、遅刻もろくにしない優等生だったかもしれない。
そんな僕は友達が少なくはなかった。教室に入れば挨拶はされるし、休み時間も僕の周りには比較的多数の生徒がいた。
だけど、僕には最も仲のいいといえる少女がいた。
室園梓。僕と同じ特進クラスの生徒だった。
彼女は体も弱く、あまりその時は友達付き合いが少なかったといえるだろうね。
だけど話してみると愉快な少女で、僕はいつのまにか彼女に惹かれていた。そして彼女と一緒に登下校したり、一緒に弁当を食べたりする内に、僕らは確実に親友と化していた。
その日僕は水族館のペアチケットを偶然手に入れたから、彼女を水族館に誘った。僕は気軽に誘ったからそこまで考えていなかったけれど、誘った時の彼女の仕種を見て、これはデートに誘っているんだと認識したよ。
彼女は快く僕の誘いを受けてくれて、僕らはその日デートとやらを楽しんだ。楽しかったよ、すごく。
彼女の笑顔を見て満足していた僕は、確かに彼女に恋をしていたんだと思う。他人に恋をすることは誰しもあることだから、そこはまあいいだろう?
僕はしばらくして彼女に告白した。そして彼女も了承した。
僕は嬉しかった。それまで彼女という存在を手に入れたことはなかったから、素直に喜んでいたよ。だけど僕は次の日絶望したんだ。
絶望というよりは、苦しかったな。
彼女は、梓は、次の日死んだ。学校での飛び降り自殺だった。
僕は目を疑ったよ。耳を疑ったよ。
彼女は昨日までは元気な少女だったんだ。だけど、次の日自殺した。
自殺するほどの苦しみを彼女が抱えている事など、知らなかった。
僕は狂ったように悩み、狂ったように苦しんだ。
僕の夢に出てきた梓は言うんだよ。
苦笑いで、僕に囁いてくるんだ。
「お前は何も気づかなかった」って。
僕は不登校になった。そして引きこもりになった。
苦しんだよ、狂ったよ。
だから、僕はこんな病気になってしまったんだ。
梓は死ぬ直前、何と思っていたかは今でも分からないよ。
きっと、僕の事を呪っていたのかなって思うんだ。
「もし過去に戻ることが出来るなら、僕は梓に会いたいよ。救えるものなら、救ってあげたかった。だけど、過去には戻れない。そんなこと、知ってるんだ」
『結局、過去に戻っても未来は変わらないわ。自己満足のために過去に戻っても、何も意味が無いことは貴方自身知っているでしょう?』
「過去に戻れるならの仮定法に過ぎないよ。僕はサンドラちゃんに嘘をついている。いずれ僕は死ぬんじゃない。もう近いということを、僕は彼女に言っていないんだ」
『それを言いたくないの?』
「言えないんだ、恐いんだよ。彼女の表情が。僕が今まで騙してきた過去を払い、新たな嘘を重ねてしまいそうだということが。彼女は苦笑いを浮かべると思う。僕はそんな無理矢理な彼女の笑顔を見たら、心臓が壊れてしまう。きっとね」
『それは、貴方は梓という少女と、同じだということよ。だって貴方は…』
「僕は梓じゃない…ッ!僕は…僕だ。沙耶でもない。…僕なんだよ」
『貴方が梓ちゃんに苦しめられたというのなら、貴方はサンドラを苦しめようとしていることを忘れないで。それと、梓ちゃんは貴方を心から愛していたはずだから』
「…」
『だって、今の貴方の立場に、梓ちゃんはいたのかもしれないわよ』
沙耶は席を立つ。
そしてそのまま深い暗闇の中に歩いていった。
「私は、いつでも貴方の中にいるから。貴方の側で、貴方を見ているから」
沙耶は一度振り返り、すぐに前を向いてゆっくりと遠くへ進んでいく。
僕はただ、その場に残された紅茶を静かに啜った。
「梓の気持ちなんて、誰にも分からないさ」
僕に返事をしてくれる人は、もうここには誰もいなかった。
『淡き永遠の孤独』
僕はあの日友人達と夏祭りに来ていた。
全員浴衣に着替え、近所の大きな夏祭りに来ていた。
その夏祭りの名前は覚えていない。
「隼人、おま、夏祭りにこの恰好はねえだろ!」
「いや、元々みんながそんなに張り切っているとは思ってなかったから」
「張り切るもなにもまさかTシャツで来るとは。しかもそれ学校指定の体育祭の時に着るやつだし」
「仕方ないだろ、最近俺ん家の洗濯機が壊れたんだから。梓に選んでもらったりしたセンスのいい服は洗濯できてねえんだよ」
僕の友達は静かに笑った。確かに周りを見れば夏祭りの服装で来ている人が多い。
「祭りは好きだけど、こんな祭に来たことはなかったからな。ただのリア充の集まりみたいな祭りには」
「おいおい棘のある言い方だなあ」
僕の通っている高校はある程度有名なせいか、他校の女子と付き合っている男子生徒も多い。今日来ている男子生徒のほとんどは彼女がいるのだ。
「ってか隼人もいるじゃん。梓たそが」
「あ、梓とは別にそんなんじゃねえし」
「男子のツンデレは見てて吐き気に襲われるな。でも梓たそは止めといた方がいいかもよ」
「…?」
青年は俺に深刻な表情で続けた。
「梓たその左腕ってさ、いつも包帯につつまれてんじゃん。あれってなんでか知ってるか?」
「怪我じゃないの?」
「違う、自殺痕だよ。自分で切り裂いてんだ。死ぬために」
「あ?」
俺が立ち止まると、青年は俺を見て言った。
「きっと、何かしら辛い目にあってんだよ、あいつも。家族の件なんだろうな、苦しんでるのは」
「梓の家族が?」
「あいつは孤独なんだよ。別にそんなに深い孤独の闇の中にいる訳じゃあない。ただ淡い孤独の中で、永遠に眠ってるんだな。目が覚めると死が待っているなんて知らずに」
「例えが濃すぎて分かりにくいよ」
「じゃあ、隼人は死が恐いか?」
僕はありきたりでありながら珍しい質問に首を傾げた。
「誰だって死は恐いよ。死んでしまえば僕はどうなるかなんて分からない。永遠にこの世界をさ迷い続けるかもしれないし、二度とこの世界に戻ってこれなくなるかもしれない」
「隼人が死を恐れるのは人間の心理だ。だけど、梓は違うんだよ。あいつの瞳を見れば分かる。あいつの瞳の奥は、永遠だ」
「隼人くん」
僕らの前に不意に梓が姿を現した。梓の側には8人の女子がいる。
僕が驚き戸惑っていると、僕の友達は微笑み側から去っていった。
「梓」
「何?梓、彼氏?」
「ち、違うよ。友達なの。大切な友達」
梓が友達にからかわれている。梓も少し変わったなと思った。
「隼人くんも来てたんだね」
「じゃあ梓、私たち先に行っとくから」
「あ、うん」
そう言い残して彼女達は梓を残して去っていった。その場には僕と梓だけが残る。梓は恥ずかしそうに僕の側に寄って来て笑った。
「一緒に回ろうか」
「そうだね」
僕は梓の微笑みを見て安心した。
彼女はいつも通りであった。
だが僕は気がつかなかったのだ。
その時、彼女の左腕に巻いた包帯に、大きな血痕が染み渡っていた事に。
まるで、あの日のようだ。僕はデジャヴに襲われながら小さなサンドラちゃんが迷子にならないように視線で追っていた。
「ねえねえ隼人くん見て。もふもふだよ。これなんて食べ物なの?」
彼女は綿あめを振り回していた。かじりつき、そして振り回す。
まるで子供のようだ。
「綿あめを食べたことはない?」
「ええ、甘くて美味しいわ。でも大きくて食べづらいわね。隼人も食べる?」
「肝臓の数値が良くないからあまり食べることは好ましくないけど、少しもらおうかな」
「はい」
僕に綿あめを渡してまた走っていく彼女。間接キスになるかと思ったが、大丈夫だろうと思って口にした。
甘い甘い砂糖がねばっこく舌に絡み付く。
まずくはなかった。
「ねえ隼人、フランクフルトを食べて、ラムネジュースが飲みたいの」
「買いに行く?」
僕の提案に彼女は嬉しそうに笑った。
「やった」
「サンドラちゃんは本当に楽しそうだね」
僕がそう言うと彼女は不思議そうに首を傾げた。
僕が何を言っているのか分からないとでも言うように。
「私は生きているもの。楽しさだって感じるわ」
「僕だって楽しいよ。生きているもんね」
「だけど私か隼人くんが死んだら、私は二度とこの幸せに出会えないのかもしれないと思うのよ。だからお願い、隼人は長生きしてね」
「…勿論だよ」
"僕は近い内に死ぬんだ"
"僕は君をもうすぐ一人で残してしまう"
数ある言葉が僕の喉まで上がって来て散っていく。
サンドラちゃんが怖かった。
僕を見て苦笑いを無理矢理浮かべる彼女を見るのが嫌だった。
力不足といわれればそうだろう。
卑怯といわれればそうだろう。
意気地無しといわれればそうだろう。
僕は何と言われても、サンドラちゃんに悲しまれるのが一番怖かった。
いつまでも幸せな彼女でいてほしい。
永遠に僕のサンドラちゃんでいてほしい。
有り得なくてもサンドラちゃんが僕の元から去って行くような気がして、僕は彼女を恐れていた。
僕は一度彼女を孤独の闇から救った。
そして今、僕は彼女をまた孤独の中に戻そうとしていた。
僕は拒んでいる。だが、だからといって何になる?
どう足掻いても僕は死ぬ。
すると、彼女は孤独になる。
孤独に埋もれた彼女はどうするだろうか?
辛い想像が僕の脳裏をよぎり、キリキリと頭を締め付ける。
僕はその痛みに抗う事は出来なかった。
「どうしたの?」
サンドラちゃんが僕の様子を疑う為に僕の側まで戻ってきた。
彼女の瞳は明るく生気が感じられた。
じゃあ逆に僕の瞳はどうだろうか。
死んではいないだろうか。
「サンドラちゃんは、死が恐い?」
「いきなりどうしたの?」
「サンドラちゃんは死が恐いかなと思って」
彼女は少し考えるそぶりを見せた後、笑って返事した。
「私は死が怖くないかな」
「どうして?」
「確かに私は死ぬことになんの躊躇いもないよ。でも、私が死ぬことによって孤独になる人がもしいるなら、私は死にたくないの」
「強がらなくていいんだよ」
「…」
残りの綿あめを彼女の口元に押し付ける。
彼女は一瞬僕を見てそのまま食べはじめた。
そして、一度口を離して僕に言った。
「じゃあ隼人くんはどう?もし急に余命が決められたらどう思う?」
僕の余命の事がばれたのだろうかと心配になったが、どうやら彼女は例えの話をしているらしい。
僕は安心して答えた。
「単純な話、なんで僕なんだろうと思うな。僕が何をしたからこういう結果になったのかは考えるのかもしれない。だけど何より感じるのは呆れかな」
「呆れ?」
「僕は狂うかなあ。僕は暴れるかなあ。でも、ずっとサンドラちゃんの側にいることさえ出来ない無力な僕に、呆れるよ」
「私の側にいることがそれほど大切?」
「僕にとって自分の存在を認めてくれるのは、サンドラちゃんだけだもの。君に会うまでは、僕は本当にこの世界に生きているのかを疑うこともあったよ。誰も僕の事を呼んでくれないから」
「だけど私は貴方が存在することを認めた、そういう事?」
僕が頷くと、彼女は微笑み言った。
「悪いけど、私は貴方の存在を認めた訳じゃないのよ。私はただ、自分の側にいてくれる人が欲しかったの。そう病院の医者に相談すると、貴方の部屋を薦めてくれたわけ」
「医者が?」
「貴方の側に誰かが必要だからと言われて、私は貴方の部屋を率先して行ったの。私はその時はただ孤独な人を見て安心したかったのよ。私は醜い人間だから」
「そんなことないよ」
「うん、確かに私は貴方に会って変わった。本当の孤独に埋まった人は、何もしゃべらないで読書でもずっとしてるもんだと思ってた。でも貴方は違ったわ。私に話しかけて来て、私に微笑んだ。私はそんな貴方に会って、安心以上の安堵を覚えたの」
屋台に吊られている提灯のせいか、彼女の頬が赤く染まっているように見える。
一体彼女はいまどんな気持ちなのだろうか。
「隼人くんに借りた本、全部読んだ。『忘却の魔法使い』だよ。私のそんな好きな小説ではなかったけどね」
彼女はそう言って両腕を後ろに組んで微笑んだ。
「だけど『我が世界に我は一人』だったよね。あの台詞は少し考えちゃったわ。彼は自分が孤独になっていく事にどんな気持ちを感じていたのかしら。孤独を、誇りに思ってたのかしら。どう?隼人くんは自分の孤独を誇りに思える?」
「孤独は僕にとって畏れの存在だから、僕は孤独を誇りに思うことは出来ないと思う。でももしサンドラちゃんにあのまま会わず僕はこのまま生きていたなら、孤独にいることを心地よく感じてしまうのかななんて思ったりした事はあったよ」
「私はそんな孤独は怖くない。だけど私が本当に孤独なのか、それとも孤独じゃないのか分からないような世界は怖いの。気づかないから抜けようともしない。誰かに手を伸ばされても無意識に遮ってしまうような洗脳された自覚。私はそこに埋まってしまうの。首だけだして、呼吸だけ出来る。私はそんな世界を『淡き永遠の孤独』と呼ぶ」
「どこかで聞いたことのある名前だね」
「医者が、こう呼んでたから。私もその通りだと思ってそう言う事にしたの」
そこで彼女は前進して僕の手を掴んだ。
真剣な目で僕を見る。
「だから、私たちはお互いに強く手を握り合ってどちらもそんな孤独に溺れないように生きましょう。私は溺れたくない。ずっと隼人くんの側にいたいの」
「僕だってそうだ」
「だけど、これだけは約束しましょ?これを約束しないと私たちはいずれどちらかが電池の抜けた機械になってしまうから」
「なんだい?」
彼女の手を掴む力が少し強くなるのが分かった。
「お互いこれからどちらかは欠けると思うの。でも、残った方は相手の事を忘れて孤独のまま生きましょう」
「それは、どちらかが死んでも悲しむなということかな?」
「そう約束してくれる?」
「サンドラちゃんは、本当に実行出来る?」
「ええ」
彼女は躊躇いもなくそう言った。
「私は、隼人くんの側にいたいだけなの。隼人くんがもし欠けても、私は一人で生きていける」
「なら、僕も了承するよ」
「そうしてくれると思ってたわ」
「じゃあ交換条件を付けさせてくれないか」
僕はそう言って指を立てる。
そして勢いのまま言い放った。
「サンドラちゃんの誕生日は三週間後だったよね」
「そうよ、詳しいのね」
「じゃあその日、僕の願いを一つ聞いてほしいんだ」
彼女は首を傾げる。
「普通逆じゃないの?」
「そこをなんとか」
「別にいいわ…。でもあまりに卑猥なものは嫌よ」
「じゃあちょっと卑猥なものにしようかな」
僕が笑うと彼女は不服そうに頬を膨らませた。
「でも、今更私に頼み事なんてあるの?普通に言ってくれたら叶えれるかぎり叶えるわよ」
「僕は直接は言えないよ。僕にそんな度胸はまだないんだ。だから、君の誕生日に言わしてほしい」
「…うん」
僕は微笑み彼女の頭を数度叩く。彼女は擽ったそうに僕を見た。
「じゃあ早くたくさん食べ物を買いに行こう!私お腹が空いて仕方がないわ」
「そうだね、僕も着いて行くよ。せっかくこうやって遊ぶ機会が出来たんだ。最高に楽しまなきゃ勿体ないね」
「うん」
そう言ってはしゃぎながら駆けて行くサンドラちゃん。
僕は、そんな彼女を見て聞こえないように呟いた。
「ありがとう、サンドラちゃん。僕に生きる希望を与えてくれたよね。君にとってはそんな自覚はないのかもしれないけれど、僕にとってはそう思っていられるよ」
そう言い残して彼女の背中を追って行く。
どんどん小さくなっていく背中。
すると、その前をふと影が通り過ぎた。
「…え?」
僕は視線をずらす。
自分の鼓動がどんどん速くなって行く。
まさか。まさか。
「待ってッ!」
気づけば僕は走っていた。
サンドラちゃんが不思議そうに振り返る。
「どうかしたの?」
「サンドラちゃん、サンドラちゃんは少しでいいから元いたベンチで待っていてくれないか。僕に少し用事が出来た」
「え…あ、うん」
空返事を漏らしたサンドラちゃんをその場に残して僕はただ影を追った。
見間違いかもしれない。
見間違いであってほしい。
だけど、僕には追い掛けなければならないという義務があった。
ゆっくりと歩いている影に追いつけないまま僕は夏祭りの人混みを出る。そして、ようやく駅前のベンチに座っていた影に話しかけた。
しばらく運動していなかったせいか少し走っただけで息は切れてしまう。それでも意識ははっきりとしていた。
デジャヴのような感覚。頭が鈍器で叩かれたような痛みに襲われる。
僕は苦笑いで叫んだ。
「梓…、久しぶりじゃないかぁ…ッ!」
僕の震えた声を聞いて、僕に呼ばれた少女は子供のように微笑んだ。
『実愛の欠けた虚像に花束を』
「梓…、久しぶりじゃないかぁ…ッ!」
僕の震えた声を聞いて、僕に呼ばれた少女は子供のように微笑んだ。
「隼人くん、ね」
「少しばかり見たことのある顔が通り過ぎたと思って追い掛けてみたらまさか君だなんて思わなかったよ」
「夏祭り…懐かしくて、寄らせてもらったの」
彼女はそう言ってクスリと口元に手を当てて笑う。その笑みは透明的で神秘的だった。
「ふと思い出したんだ。君と来た夏祭りも確かここの夏祭りなんだってね。すると君が僕の前を通り過ぎたんだよ」
「やっぱり隼人くんは夏祭りにジャージで来ているんだね」
「着物なんて恥ずかしくて着れないさ」
「隼人くんらしいよ、すごくすごく」
梓は可愛らしい洋服を着ている。どうやら夏祭りに来た時の服ではないらしい。
「隼人くんは、あれから変わった?」
「変わったよ。二回変わって、元に戻ったのかもしれないけれどね」
「うん、でも私が思っていた隼人くんとは少し違う」
「…?」
「昔の隼人くんも今の隼人くんも孤独を恐れているように見える。でも、今はきっと隼人くん自身の恐れではないよね」
梓は一息ついて僕に言った。
「隼人くん、誰かに憑かれてるね」
鋭いのか、それとも単に勘なのか。
彼女の瞳は確信に満ちていて、前者であると分かった。
「僕は梓に憑かれてるのかもしれないよ」
「私が隼人くんに憑く意味がないもの。別の人に憑かれてるわ」
「僕には誰かに憑かれているという実感はないけどね」
「誰かに憑かれているという事はそれほど隼人くんは誰かに思われているということなの。そんな相手が今隼人くんにいる?」
沙耶が僕の事を想っているのだろうかと少し考えたが、それはありえないだろうと自分の中で意見を払拭する。
そんな僕の様子を見て彼女は微笑んで言った。
「でも隼人くんは昔から人気者だったものね」
「昔で始まり昔で終わる。そんな過去を話されても僕は困るよ」
「私が知っているのは昔の隼人くんだけだもの。私はそんな隼人くんに憧れていたわ。その事を今更隼人くんは否定するの?」
「僕だって君には憧れていたよ。僕に足りない何かを君は持っていた。だから僕は君に恋をしたんだ」
「どう?感傷に浸れる?私と隼人くんの昔を思い出して」
「僕は弱い人間だよ。でも、いつまでも君に縋り付いたまま生きている訳じゃあないんだ。永遠に解くことの出来ない後遺症は残ってしまったけど、僕は独りで今を生きている」
彼女はそこでわざとらしくため息を吐いて言った。
「隼人くんは孤独を愛してるように見えたけど、誰よりも孤独を恐れていたでしょう。そんな隼人くんが孤独の中で生きているとは到底思えないわ」
「梓はどうしてそんなに鋭いんだい?アホな子にしか見えなかったよ」
彼女は不満足そうに頬を膨らませた。
「アホな子じゃないし。私は他の誰よりも隼人くんを見てきたから隼人くんの事を知っているだけ」
「僕だって梓の事をずっと見てきたよ。なのに僕は何も梓の事がわからなかった。だから、教えてくれないか」
「…何を?」
僕はとぼける梓をにらむように見つめて吐き捨てた。
「梓が、どうしてあの時僕を恨んだのか。何も分かっていなかった僕に、怒りの矛先を向けたのか」
「実は私もそれを隼人くんに言いに来たのよ」
彼女は立ち上がって僕の前に来て言う。
「私がどうして死んだか、考えたことはある?」
「君の自殺は日頃のストレスからの自殺だってみんなも言ってたよ。僕だってそう思っている」
「ストレスという言い方は正しい気もするけど間違っている気がするわ。だって、私は隼人くんを愛していたもの」
「梓のストレスに僕が関与していたということかな」
彼女は小さく頷いた。
「隼人くん自身が関係している訳じゃないけれど、隼人くんの存在は関係していたわ」
「それって一体どういうことだよ?」
「私の中に、隼人くんはいたの」
「…は?」
僕を見つめて彼女は続けた。
「私は隼人くんに憑かれていたの。私の意識が曖昧になるほど、私の過半数を隼人くんは占めていた。私は別にその頃から自分の命に興味はなかったから、隼人くんに憑かれていることには何とも思わなかったわ。逆に私は隼人くんを痛ましく感じた」
「じゃあ梓は二人の僕と毎日対面していたということだったのか」
「学校で会う隼人くんは明るくて太陽のようだった。誰しも隼人くんを慕っていたし、私だって隼人くんを尊敬してた。そしてもう一つ、私の中の隼人くんはいつも孤独を恐れてた。いつか自分の元に孤独がやって来ると恐れ、死を選ぼうとする隼人くんがいたの。信じたくなかった。隼人くんがそんな人間だと。光に包まれていた隼人くんにこんな影があったなんて」
「だから僕を傷つけるために死んだとでも言うのかい」
「言わなかった?私はいつまでも隼人くんを愛していたって。隼人くんの側にいつまでもいたかったって」
梓の短髪が夏風に揺れる。
まるですぐにでも消えてしまいそうなほど不安定で幻想的な存在だった。
「私は、孤独というものを知らなかった。だけど、隼人くん達に会って私は初めて誰かと過ごす安心感に出会えたの。そんな安心感こそが私の幸せだって気づくまで時間はそうかからなかったよ」
「だったらどうして…」
「隼人くん、貴方はもしどうしても死ななきゃならない時が来たどうする?」
「死ななきゃいけない時?」
「余命の話をしてるんじゃなくて、もし隼人くんが必ず決められた日に死ぬと分かっていたら、隼人くんはどうする?」
「今なら必死に抗うかな」
彼女は僕を見上げてふと笑った。
「私なら、抗わないかな」
「…これは、ただの世間話の一種なのか?それとも梓が言いたい事の一つなのか?」
「ハーフハーフかしら」
花火が頭上で散った。
眩しい赤色の光に少し遅れて轟音が鳴り響く。
梓は自然な動作で胸を押さえた。。
「死んで復活しても、それは変わっていないんだな」
梓は一瞬何を言っているのか分かっていない様子だったが暫くして僕の言ったことを理解したようで淋しそうに微笑んだ。
「今までは、隼人くんの泣き叫ぶ声がいつも私の中を反響していたの。だから私は耳をいつも必死に閉じて隼人くんの声を聞かないようにしてた。でも今は聞こえないから大丈夫だよ」
「僕がいたってのはどういう事なんだ。僕が君を無意識に呪っていたということなのか?」
「私だって分からないけれど、いつもいつも隼人君は囁いてきたのよ。助けて、助けてってね。どうやって助ければいいのかわからなかったし、何より本物の隼人くんに少し嫌悪感を抱いたりしたくなかったから、私は自分の中の隼人くんに無視を決め込んだの。いつまでも無視を決め込んで、私の中に誰もいないと思い込み、私はただ耳を塞ぎ拒絶した。隼人くんの幻想は、いつまでも私を追い詰めてきたわ。いつもいつも私に救いを求めてきた。いつもだった。隼人くんと話している時以外ね」
梓は微笑みを崩さない。
「そして、あ隼人くんは私に告白してくれたよね。素直に嬉しかった。私は隼人くんの事を本心で愛していたし、何より隼人くんの側にいたら私の中の隼人くんから救われる気がしたから」
「梓にとって僕は何だったんだい?」
梓は優しく僕の両頬を手でとって僕に顔を近づけた。
「愛している人かな」
二度目の花火が音を立てた。
光に目を眩ます僕に反して、彼女は光を受け入れ背景を薄く映し出す。
透明な彼女がますます透明になっていく。
ガラスのように繊細な少女は、僕を真剣な瞳で見つめていた。
「…隼人くんは私…の事を…。愛してくれて…た?」
彼女の言葉は曖昧で正確性がない。
僕の顔に触れる温かい手も、どんどんと冷たくなっていった。
僕は必死に涙を堪えて力一杯叫んだ。
「勿論だよ…!だから、梓も僕の元へ戻って来てくれよ!僕は一人が淋しいんだ。一人が恐いんだよ…!梓!梓…ッ!」
「それなら…よかった…かな。私の…事、憎んでるのかと…思って…怖く…て来たの」
そう言う梓の表情は柔らかい。
どうしてか満足そうに笑っている。
「でも…馬鹿だった、私。…隼人くんを、信じきれ…てなかっ…た。ね…え。隼…人くん。一つだけ…お願…いがあるのだ…けれど」
「…なん、だよ?」
「これから、隼人く…んはたくさ…んの人に関わって…生きて行くと思う。そこで、隼人くんは…素敵な人に出会えるかもしれない…よね。そうなったら、隼人くんは私を忘れて、幸せになって、ほしいの」
「梓を忘れるなんて僕に出来ると思った…?」
「我が儘な、願い事に、なることは、わかってたの。でも、お願い。私は、誰かの邪魔な…存在として思い出…を残したくない」
梓は僕の瞳から流れる涙に落ち着いて触れた。
雫は、蒸発し優しく散る。
視界が曖昧になるような幻想の世界の中で、僕は薄くなっていく恋人をただただ見つめていた。
手を伸ばしても届かないことなど分かっていたから。
「…私はずっと辛かった。誰もいない孤独に満足して平然と日々を過ごす自分が怖かった。いざ命が消えるという時に、私は何も残せていないんだなと思ったよ。でも、そんな私を救ってくれたのは隼人くんだった」
「僕は、君に何もしていないさ…ッ」
「…下手に気を使われるより、私は隼人くんのように普通に接してくれる事がなにより嬉しかったの。誰かの側に私がいて、私の側に誰かがいる。…そんな安心感に包まれているときが……私の最高の至福だった」
梓は僕に身を傾けた。
冷たい小さな体だけれど、湯たんぽのように暖かく感じた。
「…私、隼人くんに会えて本当によかった。悔いなんてないよ。隼人くんのような人が私の側にいてくれた事は幻のようだったけれど、それを現実だと再認識する度に私は嬉しかった。だからこそ、最期に隼人くんに忠告しておきたい事があるの」
「…?」
不意に梓は僕を突き飛ばした。僕の体は無力で弾き飛ばされる。
もう一度梓を見ると、梓は花火を見つめながら小さく呟いた。
嬉しそうな、悲しそうな、不思議な表情で。
「隼人くん、隼人くんにとって地獄が何なのかは分からない、けれど。天国は何億年歩き続けても達しないほど遠い場所にあるわ。それでも、孤独に包まれた地獄は、石を投げれば届くほど、隼人くんの目と鼻の先まで迫ってるから。孤独にのまれたら、貴方はもう、地獄にいる、か……ら…」
梓は消えた。
僕は目を必死に擦る。
必死に必死に擦って、梓を戻そうとした。
瞳に焼き付いた虚像が、僕の側を離れなかった。
「隼人くん…?」
呆然と立ち尽くしていると、背後から少女の声が響いた。
「…ねえ、サンドラちゃん」
少女は僕の側まで歩いてくる。
僕は梓が視界に残された幻から視界を外さず続けた。
「僕は、もう長くないんだ」
「…え?」
「僕は、近い内に余命が決まってたんだ」
少女は僕に体を寄せて呟いた。
「…知ってた」
僕は少女に視界をずらす。
少女は、何かを堪えているようだった。
「…そっか」
少女に僕は手を回す。
花火が数々上がっていった。
「隼人くんが長くない事は医者から知らされてたから」
「…うん」
「隼人くんがいつ言ってくれるのかと思ってたもの」
僕はその場で腰を下ろす。
そうすると、彼女と目線が同じになった。
「ねえサンドラちゃん」
「…何?」
「僕と、正式にお付き合いをしてもらえませんか」
彼女は目を見開いて薄く微笑んだ。
「余命の決まっている貴方と正式にお付き合いをしろと?」
「うん」
「そんな人、いないわよ」
そう吐き捨てて僕の手をとった。
小さく柔らかい手に、僕の左手は包まれる。
温もりに満ちた、小さな手に。
「でも、この状況で言われたら、断れないじゃないの」
「ははっ」
「だったら、約束してね?」
彼女は僕に顔を近づけて言った。
「私はだらしないし、なにも一人じゃ出来ないから、私のお世話をしてくれるって。精一杯長生きしてくれるって」
「僕は余命に抗う怪物だからね。そう用意に死んだりしないさ」
「約束よ?絶対だからね?」
僕は頷いて彼女の頭を撫でる。
彼女は擽ったそうに微笑んで、僕にさらに顔を近づけた。
止むことを知らない花火達が、僕らの頭上で精一杯命を落としていた。