*(16)
ある日、七海が学校から帰って来て、自分の部屋で大好きなファンタジー小説を読んでいると、下の方で玄関の扉が開く音がした。
この時間、七海の両親は共稼ぎだし、姉の六華も仕事のはずだ。
誰だろう? と七海が階段を降りてみると、六華が玄関で靴を脱いでいるところだった。
「お姉ちゃん、仕事は?」
七海が声を掛けると、六華が顔を上げて七海の方を見た。
七海は六華の顔を見て、思わず目を見開いた。いつもの六華とは全く別人のような表情をしている。
六華は明るく穏やかな性格で、まるで春の日差しのようにいつも温かそうな笑顔を絶やさない女性だった。
でも、今の表情はどんよりと暗い。まるで、「陽の光なんて一度も見たことがない」とでも言いたそうな表情だ。
こんな暗い表情の姉を初めて見たかも……と七海は思った。
「ああ、七海」
六華の口から出て来た言葉も、低く独り言のように小さな声だった。
「お姉ちゃん、どうしたの? 具合でも悪いの?」
こんな暗い表情をしているなんて、七海は六華はきっとものすごく具合が悪いのだろうと思った。
そう、だからこんなに早く仕事から帰って来たんだ。
具合が悪いから、こんなに暗い表情をしているんだ……。
「うん、ちょっと……」
七海は暗い表情で、俯いたまま言った。
「医者行く? お母さんに連絡しようか?」
「大丈夫、寝れば治ると思うから……」
六華はそのまま真っすぐ、自分の部屋へと消えて行った。
そして、その日から、六華は自分の部屋からほとんど出て来なくなった。
六華が自分の部屋に引っ込んでから2・3日くらいは、七海も七海と六華の両親も「具合が悪いだけなのだろう」と思っていた。
六華のことを心配はしていたが、それこそ、六華が言った通り「寝れば治る」ものだと思っていた。
でも、六華が部屋に引っ込んでから一週間も経ってしまうと、七海も両親も本気で「これはまずい」と思い始めた。
両親は六華に「どうして部屋から出て来ないのか?」と何度も訊きに行っていたが、六華は「放っておいて」とか「何も話したくない」と部屋の中から繰り返し言うだけだった。
七海も部屋に引っ込んでいる六華に向かって心配している旨を伝えたが、やはり両親の時と同じ答えが返って来るだけだ。
七海も七海の両親も突然の六華の変わりように戸惑うばかりだった。
取りあえず、七海の両親は六華の仕事先に「急に病気になってしまったので、しばらく休む」とだけ連絡していた。
(――お姉ちゃん、どうしたんだろう?)
七海は姉のことが心配で心配で仕方なかった。
あの自慢の姉があんな暗い表情をして部屋に閉じこもってしまうなんて、今まで一度もなかった。
七海は勉強もスポーツも得意でなく、テストで点数が低かったり運動会の徒競走で転んで最下位になったりして落ち込んで、少しの間部屋に閉じこもった……なんてこともあったが、姉の六華に関してはそんなことは一度もない。
何しろ六華は小さい頃から何でもできる女の子だった。勉強もスポーツも出来たし、性格も明るくて面倒見も良く、何かショックなことがあって部屋に閉じこもる、なんてこととは無縁な人間だったのだ。
そんな「万能」を絵に描いたような六華が暗い表情をして、部屋に閉じこもるなんて……。
(――お姉ちゃん、よっぽどショックなことでもあったのかな?)
それとも、別の理由があって部屋に閉じこもっているのだろうか。
どちらにしても、七海には六華が部屋に閉じこもっている理由の見当が全く付かなかった。




