(3)
ドアを開くと、新しい本のあの独特のにおいが流れ込んで来る。
店内は決して広くはなかったが、本棚や本の配列が工夫されているのか、実際の面積よりも広く感じた。
下は木の床で、天井から下がっている白熱灯の灯りが店全体の雰囲気を優しく温かみのあるものにしている。
思っていた以上にステキな店内だ、と七海は思った。こんなステキなところだったなんて、もっと早く入っていれば良かったのに。
七海は店に入ると、どこかに店員はいないかと辺りをキョロキョロと見渡した。
「――いらっしゃいませ」
七海がキョロキョロしていると、後ろから声を掛けられた。
七海が振り返ると、「Tanaka Books」と胸元に刺繍の入った紺色のエプロンを付けた中年男性がニコニコしながら立っている。
年齢は自分の父親と同じくらいだろうか。背が低めで少々ふくよかなところは「名探偵ポワロ」を思わせる。
白髪の混じった髪をバックに流して、口元と顎にヒゲがあった。
七海は中年男性を見た途端、何だかホッとした気持ちになった。男性の笑顔が何とも人懐っこくて優しい。七海はホッとした気持ちになったと同時に、やっぱり自分はさっきまで会社が倒産したことについてひどく動揺していたんだな、と改めて感じた。
「すみません、実はこのお店のドアに貼ってある『スタッフ募集』を見て……。詳しい話を聞きたいと思いまして」
「ああ、ありがとうございます。僕はこの店の店長の鈴木信彦と言います」
鈴木信彦と名乗った男は、また七海に笑顔を向けた。
「私、石橋七海と言います」
「石橋さんですね。今、人を呼びますので、少しお待ちください」
「――?」
あれ? と七海は思った。
今、この信彦と言う男は自分のことを「店長」と言ったはずだ。店の詳しい仕事内容とか勤務時間とかは店長が話すのではないのだろうか。
店の名前は「田中書店」となっているし、もしかすると、店長の他に店の経営者で「田中」という人物がいるのかもしれない。
信彦は七海に近くのイスに座って待っているように言うと、店の奥のドアの向こうへ消えて行った。
七海はレジ近くにポツンと置かれたイスに座って、信彦を待った。
平日の昼前と言うこともあり、店に客は二・三人くらいしかいない。
明るい店内に、程よい音量で流れてくるジャズの曲が心地良い。
ふと横を見ると、七海が今読んでいるファンタジー小説「魔法使いジョニー」シリーズの最新刊が平積みになっている。
七海は思わず本を手に取ると、パラパラとページをめくった。
そう言えば、金曜日の夜、この本のことを考えながら夜道を歩いていたら、あのふてぶてしい男に会ったんだったな、と七海は思い出した。
主人公の「魔法使いジョニー」が愛用のマントを羽織りながら夜道を歩いていると、後ろから巨大な悪魔がやってきて……。
土曜日、二度寝から目覚めた七海は「いつの間に自分は時間と距離を飛び越えて、早朝の自分の部屋のベッドの上にやってきたのか」と腑に落ちない気持ちのまま、小説の続きを読んだ。
魔法使いジョニーは結局、後ろからやってきた巨大な悪魔に襲われてケガをしてしまう。
そして、倒れているジョニーの前にその国の美しい王女様が現れて、ジョニーを抱きかかえながら自分の城へ連れて行くのだ。
七海は小説のそのシーンを読むと、思わず本を閉じた。
土曜日も思ったが、この「王女様がケガをしたジョニーを抱きかかえながら城に連れていく」という部分、どこかで見たことがあるような気がする。
そう、まるで金曜日の夜にバンのバックドアから転がり落ちてきた男に「そこのビルまで運んでってよ」と言われて、男を抱きかかえてビルまで運んでやった自分のようではないか。
これはただの偶然なのだろうか……。
七海がアレコレと想いを巡らせていると、何やら遠くの方からガツガツと大きく響く足音が聞こえてきた。
足音が停まったかと思うと、さっき信彦が入って行った店の奥のドアが開いて、男が一人入ってきた。




