(2)
* * * * *
七海が瞼を開けると、見慣れた自分の部屋の天井が目に飛び込んできた。
(――えっ?)
七海は慌てて身体を起こした。
辺りを見渡すと、見慣れた自分の部屋のベッドの上だ。パジャマも着ているし、枕元には七海が読んでいるお気に入りのファンタジー小説の最新刊が転がっている。
(――でも、私、さっきまであの男と一緒にビルの中にいたはずなのに)
七海は枕元の目覚まし時計に目をやった。
4/11 土 4:44
土? 土曜日? 4時44分? と七海は自分の目を疑った。
さっきまでは確かに金曜日の夜で、あの男とビルの中にいたのに……。
いつの間に自分は時間と距離を飛び越えて、早朝の自分の部屋のベッドの上にやってきたというのだろうか。
(――もしかして、私、今まで夢でも見ていたって言うの?)
七海は「信じられない!」という気持ちで目覚まし時計を見つめたが、段々と眠たくなって来て、再びベッドに横になった。
そうだ、まだ朝の4時だ。取りあえずもう一度寝てから考えよう。
七海はそのまま吸い込まれるように眠りの世界へと入って行った。
* * * * *
月曜日。
七海は「やっぱり腑に落ちない」というような表情で会社への道のりを歩いていた。
金曜日の夜、自分は確かに男とビルの中にいたはずなのに……。
どうして気が付いた瞬間、朝の4時で自分の部屋のベッドの上で寝ていたのだろうか。
七海は朝の4時に目を覚まし、その後、眠気に襲われて再び眠った。次に起きると、太陽がすっかり登り切っている時間になってしまっていた。
ベッドから身体を起こし、それから今の今までずっと考えているが、やっぱり自分は確かにあの男とビルの中にいたとしか思えない。
男の「美青年」という言葉がピッタリ来るような容姿も、
男が瞼を開いた時に見えたビー玉のような瞳も、
男の「そこのビルまで運んでってよ」と言った時のふてぶてしい口調も、
男を抱きかかえた時に感じた身体の重みも、
全部、覚えている。
七海はあの男といたビルの前を通りかかると、思わず歩みを止めた。
見上げてみても、やっぱりどこにでもある普通の雑居ビルだ。
一階は小さな本屋で「Tanaka Books(田中書店)」という洒落た看板が立っている。店のドアには「短期スタッフ募集中」という小さなポスターが貼ってあった。
本屋のドアの横にある、ビルの入り口の扉。
確かに自分は男を抱きかかえながら、あのビルの入り口の扉に入ったはずなのに……。
七海は首を傾げながら、再び会社への道のりを歩き始めた。
七海が会社に着いてみると、会社のドアに張り紙が貼ってあった。
何だろう? と七海が張り紙を読んでみると、何やら難しい言葉でいろいろと書いてある。
告知書、破産者、手続開始、占有管理……。
(――えっ?)
七海は慌ててドアノブをひねってドアを開けようとした。
いつもならすんなりと開くドアが、いくらガチャガチャやっても開く気配がない。
「――あっ、石橋さん」
七海がしつこくドアノブをガチャガチャやっていると、後ろから名前を呼ばれた。
振り返ると、同じ会社の男性営業スタッフだった。
「すみません! これってどういう……」
「どうもこうも、そういうことみたいなんだよ」
男性営業スタッフは頭を抱えながらため息を吐いた。「会社、倒産したみたいなんだ」
(そんな……)
数十分後、七海は重い足取りで、さっき歩いて来たばかりの通勤路をトボトボと歩いていた。
男性営業スタッフに「その内、連絡が行くと思うから、取りあえず今日は帰って良いと思うよ。俺も帰るし……」と言われて帰路についたものの、足取りは重い。
確かに最近、人が辞めたり残業代が払われなかったりなど、「おかしいな?」と思うこともあった。
でも、まさか急に会社が倒産するなんて……。
これからどうしよう、と七海はため息を吐いた。
(――職場が倒産したら、すぐに失業保険がもらえるんだっけ?)
でも、失業保険をもらうよりも働きたい、と七海は思った。何もしないで家でブラブラしているのは避けたかった。
考えながら歩いているうちに、七海はさっき歩みを止めた雑居ビルの前まで来た。
ふと横を見ると、本屋のドアに貼ってある「短期スタッフ募集中」の小さなポスターが目に入る。
(――これだ!)
七海は思わず頷いた。
次の就職先が見つかるまで、この本屋で短期バイトしたらどうだろう? ここなら倒産した会社と同じ通勤路だし、読書が好きな自分にはピッタリの職場だ。
しかも、ちょうど「短期スタッフ」の募集だし……。
七海は本屋のガラス張りのドアの近くまで行くと、貼ってあるポスターをもう一度よく見た。
短期スタッフ募集中。
本の販売やディスプレイ・レジなど、
他にもいろいろなお仕事をお願いします。
待遇や勤務時間等に関しては、お気軽にお声がけください。
しかし、どうして長期ではなく「短期スタッフ」なのだろうか、「他にもいろいろなお仕事」の「いろいろ」とは何なのだろうか。
七海は少し気になったが、とりあえず詳しい話だけでも聞こうと思い、本屋のドアを開けた。




