(7)
晶が七海の作ったホットケーキをほとんど食べ終わった頃、信彦が「ただいま」と言いながら店に戻って来た。
「お帰りなさい」
「お帰り」
七海と晶が信彦に振り返ると言った。
「ホットケーキ……。もしかして七海さんが作ってくれたんですか?」
信彦は二人に笑顔を向けると、晶の前に食べかけのホットケーキがあるのに気付いたようだった。
「はい、私が。給湯室、使われてもらいました」
信彦は驚いたような表情を晶に向けた。
晶は信彦の視線に気付くと、何故か少しムッとした表情をした。
「ああ、ホットケーキ、まあ美味かったよ」
晶はホットケーキの最後のひと口を飲み込むと、フォークを皿にガチャンと置いた。
「七海さん、ありがとうございます」
信彦が今度は七海に笑顔を向けた。
「あっ、いえ、そんな……」
七海は戸惑った。
信彦はなぜこんなに嬉しそうな表情をしているのだろうか。
それにしても、ホットケーキを食べた本人は、今回もお礼を信彦に言わせるんだな……と七海は心の中でため息を吐いた。
「さて、やっとお腹いっぱいになったし、そろそろ戻るか」
晶はイスから立ち上がると、七海の方をジーッと見た。
「なっ、何ですか?」
七海はまた晶に何か言われるのだろうかと思い、身構えた。
「お前さ、明日もホットケーキ作れよ」
「えっ?」
「良いから作れよ、美味かったから」
晶はそう言うと、七海に後ろ姿を向けてそのまま行ってしまった。
七海はしばらく身じろぎが出来なかった。
晶が自分に「良いから作れよ、美味かったから」と言った時、やけに瞳がキラキラと輝いていたな、とぼんやり考えることしか出来なかった。
晶のビー玉のように輝くあのキレイな瞳、やっぱり魔法か何かがかけられているかもしれない。
晶と最初に会った時も、あの瞳を見てうっかり言いなりになって晶をビルまで運んでしまったし、「じゃあ……、誰かを不幸にすることはできるんですか?」と晶に言った時も、あの瞳を見つめたまま、なぜか身体を動かすことが出来なくなってしまったし……。
「――七海さん、すごいですよ!」
不意に信彦が言ったので、七海は我に返って信彦の方を振り返った。
「すっ、すごい?」
七海は少々興奮気味の信彦の表情を見ながら、きょとんとした。
「七海さん、本当にすごいですよ! あの晶がホットケーキを『美味かった』なんて言うなんて……。晶はホットケーキにはうるさくて、晶の母親と僕が作ったホットケーキ以外、『美味い』なんて言ったことないんです。しかも、『明日もホットケーキ作れよ』だなんて! よっぽど七海さんの作ったホットケーキが美味しかったんですよ!」
七海は信彦が熱っぽく語るのを見ながら、実は信彦もいつもはニコニコと晶のワガママを聞いているが、晶には多少なりとも手こずっているのだろうか、と思った。
「あの、私、ホットケーキ作るのだけは得意で……。一時期、毎日のように作っていたんです」
「毎日?」
「はい、あの家族にホットケーキが好きな人間がいて……」
「毎日ご家族のために! 七海さんは家族思いなんですね」
「いえ、そんな……。そういえば、ノブさん、葉月さんは大丈夫でしたか?」
七海はこれ以上家族のことを突っ込まれて訊かれるのは……と思い、慌てて話題を逸らした。
「大丈夫と言うと?」
「あの人が、堀之内さんが、色々と言っていたから、もしかすると気を悪くされたんじゃないかと思って……」
「大丈夫ですよ。それよりも、葉月さんは晶のことがひどく気に入ったみたいでした。『ブランデーケーキを丸ごと食べながら登場するなんて、あんなすごいキャラの人は滅多にいない』って手放しで褒めてましたよ」
手放しで褒めるって……と七海は複雑な気持ちになったが、それでも、葉月が気を悪くしていなくて良かった、とホッとした。
「葉月さん、強烈なキャラクターの人間を見たら小説のアイディアが思い浮かぶかもしれないって言ってました。もしかすると、堀之内さんみたいなキャラクターが葉月さんの小説に出てくるかもしれませんね」
「そのことなんですが……」
信彦はなぜか真顔になった。
「ノブさん、どうしたんですか?」
「その、葉月さんの小説の件なんですが、僕、葉月さんを送っている途中に謝ったんですよ」
「謝った? どうしてですか?」
「実は晶が言ったことが気になって……。僕も葉月さんをいろいろと励ましたりして、新しい小説をたくさん書いてほしいなと思ってました。何せ、この県から有名な賞にノミネートされる作家が出るのってほとんどないですからね。しかも、県在住の作家なんて」
「確かにいないですよね」
「ただ、さっき晶が『書けないんだったら、ムリに書かなくてもいいんじゃね?』って言ってるのを聞いて、その通りだなと思って……。僕や葉月さんの周りの人たちが、葉月さんに自分の考えや期待を押し付け過ぎていたのではないかと思って反省しました」
「でも、葉月さんは小説を書きたいんじゃないんですか? あんなに暗い表情をしてパソコンに向かっているし、書きたいけど筆が進まないだけなんじゃあ……」
七海は葉月がいつもしている思い詰めたような暗い表情を思い出しながら言った。
「僕も書きたいけど筆が進まないだけだと思っていました。でも、葉月さんに謝って『晶の言う通りかもしれません』と言ったら、葉月さん、ただ笑ってました。そうだとも違うとも言わずに。きっと、その笑顔が答えじゃないのかと思いました」
では、葉月は晶の言う通り「書けないけどムリして書こうとしている、だから筆が進まない」と言うことなのだろうか。
本当は書けない状態だけど、周りの考えや期待に応えようとして、ムリに書こうとしているということなのだろうか。
だから、なかなか筆が進まないと。
でも……、と七海は心の中で首を横にブンブンと振った。
でも、そのまま葉月に「だったら、書かなくてもいいよ」と言うのは危険ではないだろうか。
そのまま本当に葉月が「筆の進まない状態」から「書かない状態」になったら、本当に「書けない状態」になってしまうのではないだろうか。
書けない状態のまま周りの人に構われなくなって、葉月があの暗い表情のまま、周りの人に見放されて行ったら……?
七海は考えると寒気を覚えた。
(――あの人やノブさんは「書けないのであればムリに書かなくても」って思うかもしれないけど、私はそうは思わない)
やっぱり、葉月さんのことを放っておけないな、と七海は思った。