(6)
七海はどうして晶がこんなに切なそうな表情をしているのだろうかと疑問に思ったが、すぐに「そうだった」と心の中で頷いた。
(――そうだった、この人、ビルの中から出られないんだった)
晶はこのビルの中でしか魔法が使えないんだ。
信彦は「実は、晶は他の魔法使いに狙われてまして、魔法が使えない状態で外に出るのは危険なんです」と言っていた。
信彦の言葉を聞いただけでは、どれだけ危険かどうかはわからない。
でも、近くのコンビニにちょっとビールを買いに行っただけでさらわれてしまいそうになるなんて、きっと晶を狙っている魔法使いは晶がビルの外に出るのを今か今かと待ち受けているのではないだろうか。
自分より少し年上くらいの男性が、ビルの中から一歩も外に出られないなんて……。
いろいろとやりたいこととか行きたいところとかあるはずなのに、きっと不便でツラいんだろうな、と七海は思った。
(――でも、この人、何でビルの中でしか魔法が使えないんだろう?)
自分が知らないだけで、現実に存在する魔法使いはそういう風に限定的にしか魔法が使えないのだろうか。
七海が考えながら晶の横顔を見ていると、不意に晶が七海の方に顔を向けた。
「――お腹空いた!」
「えっ? さっき、ブランデーケーキ食べたばかりじゃないですか? しかも一本丸ごと……」
まさか、さっきの切ない表情って、外に出られる信彦と葉月を羨ましく思っていたのではなくて、「お腹が空いた」ということだったのだろうか、と七海は呆れた。
「あんなんじゃあ、足りねーよ。ノブさん、何であいつ送って行ったりするんだよ! ホットケーキ作ってもらおうと思ったのに」
「ホットケーキって……」
本当、この人はどこまで子どもなのだろうか。
まあ、他の魔法使いに狙われて「危険」だとわかっていながら、のこのこコンビニへビールを買いに行くような人だしな、と七海は思った。
「ノブさんの作るホットケーキ、超美味いんだぜ」
晶がまるで自分がホットケーキを作るのが上手いかのようなしたり顔をした。
「でも、ホットケーキくらい自分で作ったらどうなんですか?」
もしくは魔法で作ったって……と七海は心の中で続けた。
「俺、自分の作ったもの食べると、絶対に吐いちまうんだよ」
何かわかる気がする、と七海は思った。
「――じゃあ、私が作ります」
七海はため息を吐きながら仕方なく言った。
「えっ? マジで? って言うか、お前、料理作れんのかよ?」
晶の言葉に七海はムッとした表情をした。
「作れます! ホットケーキ作るの、すごく得意なんですから!」
「じゃあ、作ってみろよ」
作ってもらう立場なのにそのふてぶてしい態度は何なの? と七海は逆上しそうになったが、「まあ、待て」と自分に言い聞かせた。
(――私のホットケーキ食べれば、絶対にあんな態度取れなくなるんだから)
七海はワザと澄ましたような顔のまま晶から顔を逸らすと、そのまま店の本を自由に読めるスペースの奥にある、給湯室へと向かった。
給湯室はそれほど広くはないが、冷蔵庫もあるしガスコンロや電子レンジもある。ヤカンとフライパンとナベもあり、ちょっとした料理なら作れるようになっている。
晶が「ノブさんの作るホットケーキ、超美味いんだぜ」と言った通り、信彦は料理が得意だった。
よくこの給湯室のスペースでちょっとした料理を作っては、晶や七海に食べさせたりもしていた。
七海が給湯室の上の棚を開けてみると、ホットケーキの素の箱が三つほどストックされている。冷蔵庫を開けてみると、ホットケーキを作るのに使うであろう卵と牛乳もちゃんとストックされていた。
信彦がホットケーキの箱を三つもストックするほどホットケーキ好きとも思えないし、多分、晶のために用意されているものなのだろう。
(――ノブさん、本当にあの人には甘いんだから)
七海はホットケーキの素と牛乳と卵を鍋に入れると、泡だて器でかき混ぜ始めた。
ホットケーキを作るのは久しぶりだ。
何年か前は、それこそ毎日のように作っていた。
ホットケーキの生地を混ぜていると、あの頃のことを思い出す。
今日は昨日よりも上手く作ろう。もし、今日がダメでも、明日もっと上手く作ったら、今度こそ食べてくれるかもしれない。
そう思いながら必死になってホットケーキを作っていた頃が、遠い昔のような気もするし、つい昨日の出来事のような気もする。
七海はホットケーキの生地をフライパンに流し込みながら、涙ぐんだ。
七海が澄ました顔で晶の前に出来上がったホットケーキを置くと、晶は明らかに驚いたような表情をした。
我ながら良い出来だ、と七海は自分の作ったホットケーキを見ながら思った。
ホットケーキの素のパッケージ写真のように、ふっくらとしていて適度な焦げ目もついていて完璧だ。いや、パッケージの写真よりも自分の作ったホットケーキの方が美味しそうに見えるかもしれない。
冷蔵庫や戸棚の中には、ちゃんとバターとメープルシロップもあった。七海はバターの乗せ方やメープルシロップのかけ方も研究済みだった。
「これ、お前が作ったの? それともどっかのファミレスの出前?」
「私が作りました! どうぞ、食べてください」
七海は晶の鼻先にフォークを差し出しながら言った。
晶は七海からフォークを取ると、晶にしては珍しいゆっくりとした仕草でホットケーキにフォークを入れた。
ホットケーキから湯気が立ち昇り、バターとメープルシロップがトロリと皿にこぼれ落ちていく。
晶は一口にしては大きいくらいのホットケーキを口の中に入れると、目を見開いて「美味い」と言った。
そして、口をもぐもぐと動かしながら七海の方を見ると、もう一度「美味い」と言って、本当に美味しそうにホットケーキの続きを食べ始めた。
やっぱり、自分の作るホットケーキは美味しいんだ……。
七海は晶が美味しそうにホットケーキを食べるのを見ながら、また涙ぐみそうになった。
自分が毎日のようにホットケーキを作っていた時に、自分の作ったホットケーキをこんなに美味しそうに誰かが食べてくれたら、自分も少しは救われていたかもしれない。
でも、今、晶が自分の目の前で本当に美味しそうにホットケーキを食べているのを見て、七海はあの頃の自分がやっと少しは浮かばれたような、そんな気持ちになった。