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葉月なつきって聞いたことがある、と七海は思い出した。
一年か二年くらい前に、ある有名な純文学の文芸雑誌の新人賞を取った作品だ。作者が県内の大学に通っている学生で、有名な純文学の賞の候補になったということもあり、県内のニュースで特集を組まれていたのを見たことがある。
惜しくも純文学の賞は逃してしまったが、この「ソングバード」という小説はかなり売れた。
この本を原作に映像化されるような話も出ていたはずだ。
「この本書いたのって、あのお客さんだったんですね」
ファンタジー小説が好きな七海はこの「ソングバード」は畑が違うので読まなかったが、ニュースか何かで聞いたあらすじは、若い男女の切ないひと夏の恋の思い出を描いた話だったような気がする。
七海はさっきの葉月という男性がそんな切ない恋の話を書くのは、ちょっと意外な感じがした。
「そうなんですよ。前、あの奥のスペースで葉月さんを招いてトークショーをやったことがあって、それが縁でこの店に通ってくれるようになったんです。でも、最近、調子が悪いみたいで……」
「調子が悪い?」
「はい、締め切りが近いけど、なかなか筆が進まないみたいなんです。まだ若いから、もっとたくさん書いて、頑張ってほしいんですけどね」
「そうだったんですか」
だから、あんなに暗い表情をしているのか、と七海は思った。
信彦と話し終えると、七海は葉月に気付かれないように、そっと奥のスペースを覗いて見た。
葉月はテーブルにノートパソコンを開いて、何やら文字を打ちこんでいる。
一応、何かしらは書いているらしい。
何だか放っておけないな、と七海は思った。
自分と同じくらいの年齢の人が若くして才能を発揮して注目されているのに、あんな暗い表情をしているなんて……。
(――あの人、このまま筆が進まなかったら、どうするんだろう?)
七海は考えると寒気を覚えた。
やっぱり、放っておけない、と七海は思った。
あの葉月という人が上手く小説を書けるように、自分にも何かできないだろうか……。
陽が沈んで夜になっても、葉月は店の奥のスペースのイスに座ってノートパソコンのキーボードを叩いていた。
一見、普通に小説を書いているようにも見えるが、時折考え込んだり、近くに置いてある本を眺めてみたりと、悩んでいるようにも見える。
七海は葉月のテーブルに近付くと、そっとコーヒーカップを置いた。
「――」
「どうぞ、店長からです」
「ありがとうございます。――あの、最近働き始めたバイトの方ですよね?」
葉月は七海を見上げて言うと、コーヒーを一口飲んだ。
「はい、石橋って言います」
「僕は藤堂って言います」
あれ? と七海は思った。
「葉月さん、ではないんですか?」
「ああ、あれはペンネームです。本名は藤堂って言うんです」
「そうなんですね。――店長から聞きました、作家さんなんですよね?」
「はい、一応は」
葉月は七海から目を離すとパソコンを見下ろした。「でも、締め切りが近いのになかなか進まなくて……」
葉月の暗い表情を見て、七海はやっぱり信彦が言っていたことは本当なんだな、と思った。
「そう、なんですね」
「すみません、こんなこと話してしまって。気にしないでください」
「――あの、もしなら、私に何かお手伝い出来ることって、ありますか?」
「えっ?」
葉月がビックリしたような声を上げた。
七海も自分でも自分の発言に驚いていた。
何てお節介を言っているんだろうって、自分でもわかっている。
でも、葉月のあの暗い表情を見ると、どうしても放っておけない気持ちになってしまったのだ。
「あっ、すみません。でも、何だか気になってしまって……」
「ありがとうございます」
葉月は戸惑いながらも七海に笑顔を見せた。「ええと、そうだな、例えば、小説の登場人物に出てくると面白いような、強烈なキャラクターの人とか、いますか? そういう人を見たら、もしかすると良いアイディアが湧くかもしれない。でも、そんな人、いないですよね……」
「強烈なキャラクター?」
七海の頭には、すぐに「あの人」が思い浮かんだ。「います! すごく強烈なキャラの人が!」
「――ノブさん、アイスコーヒー!」
七海が「強烈なキャラクター」と言われて「あの人」を思い浮かべた途端、まるで待ってましたとばかりに、ガツガツと大きな足音を立てながら晶が入ってきた。
「――」
七海と葉月は入ってきた晶を見て、目を丸くした。
晶は昨日七海が老婦人からもらってきたブランデーケーキを切りもせず、そのままかぶりつきながら入ってきたのだ。
部屋の中にブランデーの良い香りが漂って来る。
「何だよ、その目。これ、俺がもらったもんだからやらねーからな」
呆気に取られている七海を見て、晶がサッとブランデーケーキを後ろ手に隠した。
「あの……」
葉月が恐る恐る七海に言った。「『ものすごく強烈なキャラの人』って、もしかして、あの人ですか?」
「あっ、はい、そうです……」
七海は葉月に気まずそうに答えながら、さっきまで何度も晶のことを考えていたことを後悔した。