(3)
「――お帰りなさい、七海さん。お疲れ様でした」
七海が「Tanaka Books」に帰ると、信彦が笑顔で出迎えてくれた。
「ノブさん、ありがとうございました。お店、大丈夫でしたか?」
「大丈夫ですよ」
信彦はまた笑顔で答えた。
普段、店は信彦と七海の二人で回している。信彦か七海がいない時、もしくは二人ともいない時や忙しい時は、近所にある信彦の兄がやっている不動産屋からスタッフが手伝いに来てくれることになっている。大体は信彦の義理の姉が来てくれていた。
ただ、今日は不動産屋も忙しいらしく、七海が晶の「お使い」をしている時は信彦一人だけだったのだ。
「良かった」
七海はホッとして、「Tanaka Books」と胸元に刺繍のある紺色のエプロンを付けた。
「ああ、その紙袋。今日は『あのお宅』の日だったんですね。もう一年経つのか」
信彦が老婦人から渡された菓子屋の手提げ袋を見ながら言った。
「『あのお宅』、ですか?」
「はい、毎年晶が届けものをしているお宅です。晶がそこの菓子屋のブランデーケーキが好きだって知ってて、いつも手土産にくれるんですよ」
「これ、ブランデーケーキだったんですね」
「はい、晶はブランデーケーキとかホットケーキとか、そういうのが好物なんです」
「そうなんですね」
ホットケーキが好きなのか。味覚も子どもなんだな、と七海は思った。
まあ、ブランデーケーキが好きっていうのも、魔法が使えなくなるのにビールを買いにうっかりビルの外に出る晶らしいな、とも七海は思った。
「あのお宅、昔からブランデーケーキを手土産にくれたらしいですよ。父親が届けものをしている時からそうだったって、晶が言ってました。晶の父親もここのブランデーケーキが好きだったんです」
そう言えば、と七海は思った。初めてこの本屋に来た時、信彦は晶のことを「僕の親友の息子」と紹介していたが、晶の父親や母親はどこにいるのだろうか。七海はふと疑問を感じた。
「あの……」
「はい?」
「あの、堀之内さんのお父さんとかってどうしているんですか? 堀之内さん、一人でこのビルに住んでいるんですか?」
「そうです。晶の両親はかなり前にどちらも亡くなりましたから」
「亡くなった?」
七海が信彦に訊き返した時、店のドアが開いて客が一人入ってきた。客が信彦に声を掛けてきたので、話は中断した。
「ああ、葉月さん、こんにちは」
信彦に「葉月」と呼ばれた男性客は「今日もあそこ使わせてもらいます」と信彦に軽くお辞儀をすると、店の奥の本を自由に読めるスペースへと消えて行った。
あのお客さん、良く来る人だ、と七海は思った。
自分と同じ年齢くらいだろうか。中肉中背で黒フチの眼鏡をかけている。髪も黒い。普通のTシャツにジーパンを履いている、どこにでもいるような青年だ。
決して「ダサい」という印象はないが、同じような服装をしている晶に比べると「カッコ良い」というような印象はない。
(――まあ、あの人、見た目だけはものすごくカッコ良いから)
七海は「見た目だけは」というところを強調しながら、心の中で呟いた。
しかし、あの「葉月」と呼ばれた男の人、何者なのだろうか、と七海は思った。
平日でも休日でも「フラリ」と本屋に現れて、店の奥の本を自由に読めるスペースで長い時間ずっと過ごしている。
持参したノートパソコンを開いたり本を読んだり、時には机にうつ伏せて眠っている時もある……。
少なくとも、サラリーマンではないだろうし、もちろん晶みたいに魔法使いではないのだろう。
ノートパソコンを開いて何か文字を打っている時もあるから、きっとライターとかそういうフリーランスの仕事をしているのだろうか、と七海は思った。
七海が翌日「Tanaka Books」に出勤すると、昨日自分が土産にもらったブランデーケーキがレジの奥の棚に置かれたままになっていた。
昨日、七海が晶の部屋にブランデーケーキを届けに行こうとしたら、信彦に「晶が自分で取りに来るから大丈夫ですよ」と言われたが、晶はまだ取りに来ていないのだろうか。
七海は信彦に「晶は来たのか?」と訊いてみた。
「いえ、まだ取りに来てないんです。毎年『あのお宅』に届けるものを作ると半日はグッスリなんですが、それを過ぎるとケロっと下に降りて来てブランデーケーキを食べるのに……。今回はまだ寝ているみたいです」
「あっ……」
七海は思わず声を上げた。
晶がまだ寝ている理由は自分なのかもしれない。
疲れて寝ようとしていたのに、自分が階段で転びそうになったのを助けたから、もっと疲れてしまってまだ起きて来られないのかもしれない。
(――悪いことしちゃったな)
自分が階段で転びそうにならなければ、晶はもっと早く起きて好物のブランデーケーキを食べられたのかもしれないのに、と思うと七海は晶に申し訳ないような気持ちになった。
七海はその日一日、レジの棚にあるブランデーケーキの入った紙袋を見ては晶のことを考えた。
しかし、昼が過ぎ、夕方近くになっても、晶は本屋へブランデーケーキを取りに来ない。
七海がまたレジの棚のブランデーケーキを見て晶のことを考えていると、ふいに店のドアが開いた。
七海は慌ててドアの方を振り返った
「あっ、いらっしゃいませ」
店に入ってきたのは、信彦が「葉月」と言っていたあの青年だった。
葉月は七海に「今日もあそこ使わせてもらいます」と言うと、店の奥の本を自由に読めるスペースへと歩いて行った。
(――あの人、どうしていつも暗い表情しているんだろう?)
七海は葉月の背中を見送りながら思った。
初めて見た時にも「あれっ?」と思ったけど、あの葉月と言う男の人、いつも思い詰めたような暗い表情をしている。
時々、七海は店の奥の本を自由に読めるスペースに行くが、行ってみると葉月はいつも暗い表情でパソコンの画面とにらめっこしたりうつむいたりしているのだ。
ライターか何かかもしれないから、文章を考えるのに行き詰っているのかな、と七海は考えた。
「葉月さん、こんにちは」
雑誌のコーナーで整理をしていた信彦も葉月に気付いたらしく、笑顔で挨拶した。
葉月は信彦の笑顔とは対照的な暗い表情で「こんにちは」と言うと、奥のスペースへと消えて行った。
「――ノブさん」
七海はレジの方に戻って来た信彦に声を掛けた。「あの葉月とか言うお客さん、良くいらっしゃいますよね」
「はい、あの奥のスペースで小説を書いているんですよ」
「小説?」
「そうです」
信彦はニッコリ笑うと、レジの奥から一冊の単行本を持ってきた。
ソングバード
葉月なつき
単行本にはそう書かれてあった。