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ビルの中の魔法使い  作者: 木原式部
2. Songbird(ソングバード)
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 鈴木信彦すずきのぶひこが経営している「Tanaka Books(田中書店)」は、N県N市のB地区の片隅にある。

 レンガ造りの外壁に「Tanaka Books」とシンプルなフォントで書かれた洒落た看板が目印の店だ。

 表通りから少し離れているし小さな本屋ではあったが、お洒落な店構えと店長の人柄、何よりも並んでいる本のセンスの良さに魅かれて、固定客になるファンが多かった。

 店の奥には本を読めるちょっとしたスペースがある。

 小さなカフェのようなそのスペースには、本を読んでいる客やノートパソコンを開いて長居している客、時にはテーブルにうつ伏せて居眠りをする客などもいたが、どんな客に対しても、信彦はニコニコとした笑顔を向けていた。



 七海がこの「Tanaka Books(田中書店)」でバイトを始めてから、一週間が経とうとしていた。


「じゃあ、お店の名前の『田中』って、ノブさんの母方のおじいさんの苗字だったんですね」

 七海が「Tanaka Books(田中書店)」の店の紹介が書いてあるパンフレットを折りながら言った。

 七海はパンフレットに書いてある「Tanaka Books(田中書店)」の名前を見て、そう言えば信彦の苗字は「鈴木」なのにどうして店の名前は「田中」なのだろうか、と疑問を感じていたことを思い出した。

「そうなんですよ。この本屋はずっと母方の祖父がやっていた店なんです。ちなみにこのビルは僕の父方の家がずっと所有しているビルで、父親はよくこの本屋に来ていたそうです。それで、母親と知り合ったんだと言ってました」

「そうだったんですね。ご両親の思い出の本屋さん、ということなんですね」

「はい。僕が本屋をやることになって名前を変えても良かったんですけど、やっぱり『田中書店』という名前はそのままにしたいと思って……。店の改装はしましたが、名前だけはそのまま残しました」

 良い話だな、と七海は胸がジーンとしてきた。


 バイトも一週間過ぎて、七海はすっかり信彦と打ち解けていた。

 元々、七海は信彦のことを「良い人そう」と思っていたが、一緒に働き始めても「良い人そう」という印象は変わらない。

 信彦は七海に仕事の内容など丁寧にわかりやすく教えてくれるし、面白そうな本もいろいろと紹介してくれる。

 会社が倒産した成り行きでこの本屋の求人に飛びついたようなものだが、良いところでバイト出来たな、と七海は思っていた。


「――ところで七海さん、前の会社からは連絡は来ましたか?」

「一応、連絡は来たんですが、社長が行方不明になってしまったらしくて……」

 七海はため息を吐いた。

 一応この間まで働いた給与は何とかと言う制度で支払われることは支払われるらしいが、もう、会社が倒産して再起不能なのは決定的だった。

 倒産してしまった会社への未練はもうなくなったが、それでもショックなことはショックだ。

 会社が倒産してしまった後、七海はネットなどで「もうすぐ倒産しそうな会社の特徴」というのを調べてみたが、びっくりするくらい自分の勤めていた会社と特徴が一致していた。

 だから、あんなに人が辞めたりしてたんだな、と七海は悟った。


「でも、七海さんもすぐに働いたりして良かったんですか? 確か、会社が倒産したら失業保険とかすぐに出るんですよね? もちろん、僕としては七海さんがここでバイトしてくれるのは非常にありがたいんですが、良かったのかなと思って」

「いいんです。――その、働いている方が好きなんです。家でボーッとしているのも性に合いませんし」

「そうなんですね、仕事熱心で素晴らしい」

 信彦はそう言ってニコニコとした。

 七海も信彦に笑顔を返した。


 七海は信彦に笑顔を見せながら「申し訳ないな」と思っていた。

 信彦に自分の思惑はきっとわからないだろう。


 七海は確かに「働くのは好きな方」だが、失業保険がすぐに出るのであれば、失業保険をもらいながらゆっくりと新しい職を探したいという方が本音だ。

 いくら不況の世の中とはいえ、焦らなくたってそれなりの職ならそれなりにあるだろう。

 でも、七海は働いていない期間、つまり家で何もせずにボーッとしている期間が出来るのが怖かった。


 七海は会社が倒産して本屋で新しい職を手に入れた、あの月曜日の時のことを思い出した。

 両親に「会社が倒産したけど、本屋で働けることになった」と言った時、両親は信彦と同じように「失業保険が出るなら、そんなに慌ててバイトを見つけて来なくても……」と言っていた。

 そして、続けて両親は「すぐにバイトが見つかって良かったじゃないか」と安心したような笑顔を見せていた。

 七海は両親の笑顔を見て、やっぱりすぐにバイトを決めて良かった、と思った。

 両親は気付いていないかもしれないが、無意識の中では自分と同じ気持ちなのだ。

 自分が家で何もせずにボーッとしている期間が出来るのが怖いのだろう……。


「――そうそう! 七海さん、もう30分くらいしたら、晶のところへ行ってもらえますか?」

「えっ? あっ、はい」

 七海は思わず戸惑ったような声を出してしまった。

「晶が届けてほしいものがあると言っていて、宜しくお願いします」

「はい……」

 あのふてぶてしい男にまた会うのか、と思うと七海は心が重くなるような感じがした。



 30分後、七海はビルのエレベーターに乗って、3階へ登っていた。

 晶はこの本屋のあるビルの、3階に住んでいるらしい。

 なぜ「らしい」なのかと言うと、本当に3階に住んでいるかどうかよくわからないからだ。

 ただ、晶が七海に用事がある時は「3階の奥の部屋に来い」と言ってくるので、七海は勝手に晶がこの3階の奥の部屋に住んでいるのだろう、と思っているだけだ。


 別に信彦に「晶は3階のあの部屋に住んでいるのか?」と訊いても良いのだが、住んでいる部屋を特定したいほど、晶に興味があるわけでもないし……。


 エレベーターの3階のボタンが光ると、静かに扉が開いた。

 このビルは雑居ビルだから、会社や住居が混同している。平日でも比較的人の行き来はあるのだが、この3階だけはいつも静まり返っていて、人の出入りもほとんどない。

 あまりにも静かで人がいないので、もしかしてこの3階は晶が「貸し切り」みたいな感じで使っているのだろうか? と思ってしまうほどだ。

 でも、いくら魔法使いとはいえ、政令指定都市の繁華街にある雑居ビルのフロア全てを貸し切りに出来るほどの財力が晶にあるとも思えない。

 もしかすると、この静けさも晶の「魔法」の仕業ということなのだろうか……。


 七海は廊下の一番奥にある扉の前に辿り着くと、ドアをコンコンとノックした。


 ――返事がない。


 七海は今度はもう少し強く、ゴンゴン! とドアをノックした。

 やはり返事はなかったが、少しするとドアの向こうから何かが動く音がした。


 ――ドアがゆっくりと開く。


 ドアが開いた途端、七海の方に良い香りが流れて来た。

 今日はお花みたいな香りだな、と七海は思った。

 晶の部屋は、ドアが開く度に何とも言えない良い香りが漂ってくる。

 しかも、毎回違う香りなのだ。

 この間はハーブみたいなスッキリとした爽やかな香りだったし、お香のようなオリエンタルで濃厚な香りの時もあった。

 今日は、そうだ、地元の植物園に入った時に感じた匂いに似ていた。香水とかそういうものではなく、本物の花から漂って来る香りに近い。


 一体、晶の部屋の中はどんな仕掛けになっているのだろうか。

 七海は晶の部屋の前まで来たことはあるが、まだ部屋の中までは入ったことがなかったので、晶の部屋の中がどのような状態になっているのかわからなかった。


 ドアが開いて良い香りが流れて来ると、次に晶がドアの隙間から顔を覗かせた。

 七海は晶の顔を見て、あれっ? と思った。

 何だか、やつれているようにも見えなくもない。少なくとも晶が疲れているんだろうな、ということだけはわかった。

「……よお」

 晶はドアの隙間から手を伸ばすと、七海に小さな紙袋とメモ紙を手渡した。「コレ、そこに書いてあるところに持って行って。――俺はこれから寝るわ」

 晶は大きなあくびをした。

「はい。――あの」

 七海はドアを閉めようとした晶を思わず引き留めた。

「何だ?」

「あの、もしかして疲れているんですか? 大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃねーよ」

「えっ? 大丈夫じゃないんですか? 大丈夫ですか?」

「何、意味わからねーこと言ってんだよ。――それ作るの超疲れるんだ。取りあえず、寝れば大丈夫になるんだよ。じゃーな」

 ドアがパタリと閉じると、晶と一緒にあの花の香りもどこかへと行ってしまった。

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