(1)
今日の夜道は、いつもと違う気がする。
石橋七海は通勤用のカバンを抱きしめるようにしながら、最寄りのバス停への道を急いでいた。
普段使っている通勤路なのに、今日は何だか怖いような気がする。
怖い理由は、多分、昨日読んだ本のせいだ。
昨日、七海は寝る前に、買ったばかりのファンタジー小説を読んだ。青年の魔法使いが活躍する、七海がお気に入りのシリーズの最新刊だった。
主人公の魔法使いが愛用のマントを羽織りながら夜道を歩いていると、後ろから巨大な悪魔がやってきて……。
七海は残念ながらそこの場面で寝落ちをしてしまい、その後、魔法使いがどうなったかというところまで読むことが出来なかった。
七海は早く家に帰って本の続きを読みたかった。
でも、夜遅くまで読書していたせいなのか寝坊してしまい、慌てて支度をしていたら、本を持ってくるのを忘れてしまったのだ。
そして、早く帰りたい日に限って仕事が長引いてしまい、帰りが遅くなってしまった。
まあ、明日は土曜日で仕事も休みだから、ゆっくりと本の続きが読めるけど、何でこんな日に限って残業になってしまうんだろう、と七海はカバンを抱きしめながら思った。
(でも、最近、おかしいな……)
七海は心の中で呟いた。
自分が専門学校を卒業して今の会社に入ったばかりの頃は、こんなに遅くまで残業することなんてなかった。
今、ちょうど一年くらい経ったが、ここ1・2ヶ月の間に急に仕事が忙しくなってきた。
何人か同僚が辞めてしまい、よくわからない仕事が大量に回ってくるようになったのだ。
しかも、先月は残業代が全て支払われなかったし……。
七海がいろいろと考えながら夜道を急いでいると、後ろから車がやってきたらしく、ライトの灯りで急に周りが明るくなった。
七海は思わずビクッとして、後ろを振り返った。
バン? という車種の車だろうか、大きくて黒い車が七海の横を通り過ぎて行く。
何だかフラフラして走っているな、と七海が思ったその時、バンのバックドアが少し開いて、中から何かが転がり落ちてきた。
――人だ。
バックドアから落ちてきたのは男だった。
バンは男が落ちたのに気付いていないのか、そのままフラフラと走って行ってしまった。
七海は思わずバックドアから落ちてきた男の元に駆け寄った。
駆け寄って、アスファルトに倒れている男を上から見下ろした。
自分より少し年上くらいだろうか。
背が高めでスラッとしていて、アディダスのスニーカーにリーバイスのジーンズを履き、カーキ色の薄手のモッズコートを羽織っていた。
街灯の心もとない薄明りの中でもハッキリとわかるほど、キレイな顔立ちをしている。
俗に言う「美青年」という言葉がピッタリ来るような容姿だった。
男は目をつぶったまま、動かない。
「――あの、大丈夫、ですか?」
七海は恐る恐る倒れている男の肩に軽く触れながら言った。
肩に触れるために身を屈めると、何だかアルコールのにおいがする。
(――もしかして、この人、泥酔してるとか?!)
七海が思った時、男が少し太めの整った眉を動かすと、ゆっくりと瞼を開いた。
瞳を開いた男と目が合った七海は、思わず胸をドキッとさせた。
瞳を開いた男は、瞼を閉じている時よりも何倍もキレイに見えた。
開いた瞼の中の瞳が、薄明りの街灯の光に反射して、静かに輝いている。
まるでビー玉のようだ、と七海は思った。
男は顔を歪ませながら身体を起こそうとしたが、上手く起き上がれない。
やっぱり、この人、泥酔してるんだな、と七海は思った。
「――あの、さ」
男が七海の方を見上げると口を開いた。
顔立ちと同じでキレイで透明感のある声だったが、口調はふてぶてしく、話すこと自体がさも面倒だとでも言いたそうな感じだ。
「はい?」
「そこのビルまで運んでってよ」
「えっ?」
運ぶって、何を? と七海は思ったが、どうやら男は「自分」をそこのビルまで運んで行ってほしい、と言っているようだった。
七海は男が「運んでって」と言ったビルの方を振り返った。
7階立てくらいのビルだろうか。そこまで大きくもないが小さくもない。新しい感じもしないが古くもない。どこにでもある、至って普通の雑居ビルだ。
ビルの一階は小さい本屋になっている。
この本屋さん、ずっと入りたいと思っていた所だ、と七海は思った。レンガ造りの外壁に洒落た看板、大きな窓から見える店内は明るくて居心地が良さそう雰囲気だった。
店の奥には本を自由に読めるスペースがあるらしい。
通勤路にあっていつも通り過ぎるたびに気になっていたが、会社の昼休みに行くには少し遠いし、かと言って休みの日にわざわざ来るのも……と思っていて、ずっと行く機会を逃していた。
そこのビルまで運んでほしいということは、この男はビルの住人か何かなのだろうか。
でも、自分一人でこんな背の高い男の人を運べるのだろうか。
それに、この人、誰かにものを頼むのに、こんなふてぶてしい態度って……。
七海があれこれと考えていると、また急に目の前が明るくなった。男がさっき転がり落ちてきたバンが、Uターンして戻って来たらしい。
男はバンが戻って来たのに気付くと、表情を変えて慌てて起き上がろうとした。でも、やはりうまく起き上がれないようで、再びアスファルトの上に倒れ込んだ。
「――ちょっと、運べって言ってるだろう!」
「あっ、はい!」
男に大声で言われて、七海は反射的にしゃがみ込むと、男を抱きかかえて立ちあがった。
(――おっ、重い……)
七海の身体に男の重さがズッシリとのしかかってくる。
重さだけでなく、アルコールのにおいも相当だ。
七海は男を抱きかかえてフラフラになりながら、一歩ずつゆっくりとビルへと歩いて行った。
今いるところからビルの入り口までは、10メートルくらいなのかもしれない。一人であれば、それこそ5秒もかからず行けるはずなのに……。
(――どうして、私がこんなことしなくちゃいけないの?)
七海は心の中で男に文句を言いながら、さっきチラッとでも男のことを「キレイ」とか「美青年」と思った自分のことを責めた。
七海はもう男のことをアスファルトの上に置き去りにして、このまま家路に急ごうとまで考えた。
「おい! 早くしないと、あの車に追いつかれるんだよ!」
その時、男が焦ったような口調で七海を急かした。どうも、男はあのバンから逃れようとしているようだ。
またのふてぶてしい態度に、七海は思わず男を見上げた
男のあのビー玉のような瞳と目が合う。
目が合った七海は、思わず「はっ、はい!」と返事をし、男を抱きかかえたままフラフラとビルの方へと歩き始めた。
あのビー玉のような瞳。
あまりにも純粋にキレイに輝いていて、何だか逆らえないような気持ちになってしまう。
七海は何とか男を抱きかかえたまま、ビルまで歩いた。
そして、バンが二人の真後ろで「キィーッ」というブレーキ音と共に停まった瞬間、ビルの入り口に倒れ込むように入った。
(――はあ、重たかった)
ビルの中に入った七海は身体を起こすと、大きくため息を吐いた。
七海が入ったビルの中は、やけにしんと静まり返っている。
七海はさっきまで抱きかかえていた男の方を見た。男は瞼を閉じて床に倒れたまま、身じろぎもしない。
「――あの、大丈夫、ですか?」
七海は慌てて男の肩を揺さぶった。
もしかすると、ビルの中に倒れ込む時にヘンなところでも打ったのだろうか。ふてぶてしいイヤな感じの男だけど、さすがにケガでもさせてしまったら……。
七海が肩を揺さぶると、男はゆっくりと瞼を開けた。
また、あのビー玉みたいな瞳と目が合った。
男に見つめられて、七海は何だか恥ずかしいような気持ちになって目を逸らした。
目を逸らすと、さっき自分たちが入ってきたビルの入り口のガラス張りの扉が目に入った。
(――あれ?)
七海は自分の目を疑った。自分たちがビルの中に入る直前、確かに後ろで黒いバンがブレーキ音を立てて停まったはずだ。
今見てみると、バンなんて停まっていない。
でも、車が発進する音は、何も聞こえなかった。
「――何、ボーッとしてんだよ?」
男に話しかけられて、七海は我に返った。
「だって、さっき車が停まったのに。今見たら、なくなってるから……」
「車って、何の話?」
「えっ?」
だって、「早くしないと、あの車に追いつかれるんだよ!」って言ってたじゃない? と七海が言おうとした瞬間、男が七海の顔に手の平をかざした……。