83.過去からの手紙
「今日も反応が無いのかい? 目は覚めているんだろう?」
「ええ。起きていて意識はあるんですけど、こちらの問い掛けには全く反応してくれなくて……」
柩の入院している病室の前で、医師と看護師がそんな会話をしていた。柩はぼんやりとした意識の中で、その声を聞いていた。
「体の傷は治癒系の能力を持つ魔法少女の力でほぼ完治しているが、魔獣の浸食の影響は未知数だからな。何らかの精神障害が残っていてもおかしくはない。……こればかりは、時間に解決してもらうしかないな」
「そうかもしれませんね。――それと、面会の申し込みが多数来ているのですが、断った方がいいでしょうか? その中には、十華の方々もいらっしゃるのですが」
「ふむ。同僚との面会は良い意味で刺激になるかもしれないな。一日に三人までなら許可をしよう。相手の選定は君に任せるよ」
「はい。分かりました」
そう言って、医者は去っていった。病室に入ってきた看護師は柩のことを痛ましそうに見ながら、柩の腕に繋がっている点滴を交換している。
――私はいったい、何をしているのだろう。
そんな疑問が頭の中に浮かぶが、答えは出てこない。何かとても大事なことを忘れている様な気もするけれど、頭の中に霧が掛かっているようで考えが纏まらないのだ。
柩がぼんやりとそんなことを考えていると、いつの間にか看護師は部屋からいなくなっていた。どうやら、柩が考え事をしている間に作業は終わっていたらしい。
――ここでの時間の流れはとても不思議だ。ふと目を閉じた瞬間に、空の色が変わっていたりもする。ふわふわと、ゆらゆらと意識が安定しない。それはまるで、現実を認識することを心が拒否しているかのようだった。
目を閉じ、再び目を開ける。その時、ガチャリと扉が開く音が聞こえた。
「こんにちは、柩さん。ご機嫌はいかがですか?」
そう言いながらベッドの隣の椅子に腰かけた赤い髪の少女が、愛らしい笑顔で柩に問いかけた。
「返事はまだできませんか。……では聞こえていないかもしれませんが、一応報告だけはしておきますね」
赤い髪の少女――遠野すみれは、静かに言葉を続けた。
遠野が柩に告げたことは、大きく分けて三つ。
一つ目は、今回の柩の暴走は『政府施設の老朽化によるガス爆発』として処理されたということ。
二つ目は、この件で柩が責任を負うことは無いということ。
三つ目は――これから先、柩が魔法少女として復帰することはほぼ不可能に近いということ。
「片肺の損傷――それ自体はそこまで問題ではないんです。ただ貴女の場合、神力を溜める器が魔獣の浸食によってほとんど破壊されてしまっています。一度壊れてしまったものは、もう元には戻らない。残念ですが、魔法少女としては引退するしかないでしょうね」
淡々と言葉を紡ぐ赤い髪の少女を見つめながら、柩は首を傾げた。彼女の話す内容はあまり頭の中に入ってきていない筈なのに、どうしようもなく胸の奥が痛い気がしたのだ。
――何か、大切なものを失くしてしまった気がする。ズキン、と頭が痛んだ。思わず頭を抱えて顔を顰める。
「……今日はここまでにしておきましょうか。また近いうちに来ます。その時は、お話しできるようになっているといいですね」
そう言って、赤い髪の少女は立ち上がった。そして扉に手をかけ、少女は振り向いて艶やかな唇を開いた。
「柩藍莉。貴女は立派な魔法少女でした。――私は、貴女を誇りに思います」
それだけ告げると、赤い髪の少女は足早に病室を去っていった。
――立派な、魔法少女。その言葉を心の中で繰り返すと、じわり、とよく分からない温かなものが柩の胸の中に広がった。ふわふわとして、どこか落ち着かない。けれど――決して嫌なものではなかった。
その後も、何人もの少女達が柩の病室に訪れ、取り留めのない話をして帰っていった。笑う者、涙ぐむ者、怒り出す者、反応は様々だったが、みんな最後には「また来ます」と告げて去っていった。
少しずつ、心の中に小さな火種が溜まっていく。そんな気がした。
――何度夜がやって来たのか思い出せなくなった頃、柩がぼんやりと窓の外を流れる雨粒を眺めていると、一人の訪問者が現れた。
長い黒髪に、色素の薄い鳶色の目。アンティーク調のワンピースを身に纏った背の高い少女は、部屋に入って来るなり小さな紙袋を柩の前に突き出した。緑色の四葉が描かれた、可愛らしい紙袋だ。
紙袋を見て首を傾げる柩に、少女は無理やり紙袋を握らせると、側にあった椅子にそっと腰かけた。そして、難しい顔をして口を開いた。
「……昨日、不思議な夢を見ました」
少女はすっと紙袋を指さし、「中を見てください」と柩を促した。言われるがままに、中身を取り出す。
――そこには、よれた茶色の封筒が入っていた。表には、滲んだ字で【柩藍莉様へ】という文字が書かれている。
「暫く前のパーティーの時に、その封筒の差出人の妹から、貴女に渡すように頼まれたんです。……本当は貴女が回復してから渡そうと思っていたのですが、少し事情が変わったので」
そう言って、黒髪の少女は苦笑した。
「手紙を渡してきた妹さんよりも少し年上の女の子が、夢の中で私に言うんですよ。――その手紙を、柩さんに届けてって。不思議ですよね、私はその子本人には会ったこともないのに」
そう語る黒髪の少女を、柩は黙って見つめていた。不思議と、意識はいつもよりもはっきりしている。
手に持っている封筒には水が零れたような跡があり、どこか年季を感じさせる。そして柩は、隣に書かれている差出人の名前に目を向けた。
――夢路四葉。その名前には、見覚えがあった。
ぼやけた思考の中でも鮮明に思い出せる、大切なひと。魔法少女としての『柩藍莉』の原点になった可愛い後輩。――今はもう、二度と会えない存在だけれど。
何となく物悲しい気持ちになり、俯く。失ってしまったものは返ってこない。そんなことは、自分自身が一番よく分かっていた。
「後でいいので、その封筒を開けてみてください。……看護師さんには、勝手に捨てない様にちゃんと伝えておきますから」
黒髪の少女はそう話すと、小さくため息を吐いた。少しだけ、疲れているようにも見える。
「……みんな柩さんの早い復帰を願っているみたいですけど、少しくらいゆっくりしていても罰は当たらないと思いますよ。柩さんは、ちょっと働き過ぎていましたから。じゃあ、私はこの辺で失礼します。――今度は、美味しいお菓子を持ってきますね」
それだけ告げて、黒髪の少女は病室から出ていった。一人部屋の中に残された柩は、封筒を見つめ、おもむろに封筒の閉じ口の部分を破いた。
ビリビリと紙の破ける音が静かな部屋の中に響く。柩は封筒を開き、中身を取り出そうとした。つかみ損ねた小さな物が、ベッドの上に落ちる。それは、藍色の栞だった。
――その栞が目に入った瞬間、世界が鮮やかな若草色で色づいた気がした。
瞼の奥で、一人の少女が昔と同じように柩に笑いかけている。――藍莉先輩、と耳元で呼びかけられた気がした。
「あ、ああっ……」
掠れた様な声が、柩の喉から漏れる。それは紛れもない嗚咽だった。閉じていた心の箱から、今まで眠っていた感情が溢れ出るように流れ出ていく。心臓が痛くなるほどに脈拍が増し、胸が締め付けられる。
まるで熱に浮かされているかの様に震える手で、柩は手紙を開いた。
『藍莉先輩へ
この手紙が貴女に届くことを信じ、言葉を綴ります。
約束を破ることになってしまい、本当に申し訳ありませんでした。けれど、決して先輩に責任はありません。全ては私の心の弱さが原因です。私は圧し掛かる重責に耐えることが出来なかったのです。
――先輩と出会えたことは、私の人生の中で一番の幸いでした。
候補生時代に藍莉先輩と出会えていなければ、私は夢も持たず、もっと早くに自死の道を選んでいたと思います。
貴女と一緒にいる時だけは、私はただの【後輩】でいられた。――それが私にとってどんなに幸福なことだったのかは、言葉だけでは伝えきれません。
だからせめて、先輩だけは心のままに生きて下さい。それだけが私の願いです。
手紙と一緒に入れてある栞は、元々先輩に贈ろうと思っていた物です。よければ受け取って下さい。
貴女の不出来な後輩 夢路四葉』
柩は手紙を読み終え、藍色の栞を手に取った。その栞の表面には、四葉のクローバーの押し花が埋め込まれている。どうやら手作りの様だった。所々に粗はあるが、それがより一層素朴さを引き立てていた。
「わたし、――本当にあなたの助けになれてたのかなぁ」
ボロボロと透明な涙を流しながら、柩は栞を優しく抱きしめた。
――大事な後輩。自分のこと。今までのこと。そして、犯してしまった罪。柩はその全てを思い出した。
「あのね、四葉。わたし、あなたに胸を張れるように、今までずっと頑張ってきた。どんなに魔獣退治がつらくても、怖くても、億劫でも、弱音なんて絶対に吐かなかった。そうでなくちゃ、あなたに悪いと思ったから」
――才能があるのに魔法少女になれなかった彼女と、才能が無いのに魔法少女になってしまった自分。まるで正反対の境遇だったけれど、彼女とは不思議と気が合った。
魔法少女の道を諦めた四葉が政府の職員になると言った時、柩は彼女に「なら、私は立派な魔法少女になるね」と約束した。
最初は軽い気持ちでした約束だけれど、そのすぐ後に四葉は死んでしまった。柩はその約束を破ることも出来ずに、ずるずると魔法少女を続けていた。それほどまでに、柩の中で四葉の存在は大きかったのだ。
そして柩が魔法少女としての限界を感じ始めた頃、柩は四葉の言葉を思い出した。――魔法少女を辞めたとしても、彼女の代わりに政府の職員になることができれば、約束を破ったことにはならないかもしれない。そう考えたのだ。
……今にして思えば、とんだ暴論でしかない。けれど、その時の柩にはそれが最善に思えたのだ。
涙を拭いながら横を向くと、備え付けのテーブルの上に沢山の贈り物が置かれていることに気が付いた。おそらく、見舞いに来た後輩の魔法少女達が置いていったのだろう。
「私がぼんやりしている間に、沢山の子達がお見舞いに来てくれたみたい。……私には、もう心配してもらえる資格なんてないのに」
ひたすら頑張って、走り続けて、柩は四葉の願いを叶えようとした。政府からの覚えもよく、他の魔法少女との関係も良好。全ては順調に進んでいた。――だがしかし、引退目前の柩に待っていたのは、政府襲撃犯というとんでもない汚名だった。
……遠野すみれは、柩に責任は無いと言った。けれど全てが今まで通りとはいかないだろう。ほぼ確実だった政府への内定だって、取り消しになっているに違いない。
魔獣に意識を乗っ取られていた時のことは、ぼんやりとしか覚えていない。けれど、雪野や葉隠たちを切り裂いたことだけは覚えている。飛び散る血の赤だけが、脳裏に焼き付いたように消えてくれない。
「ごめんね、四葉。……わたし、最後に失敗しちゃった」
懺悔の様にそう呟いた。両手で顔を覆い、膝を抱えるようにして俯く。もう、何も考えたくなかった。
『いいんですよ、先輩。もう、約束なんて気にしないでください。――これ以上、死者に囚われないで』
嗚咽を漏らしながら泣き続ける柩の耳に、そんな小さな声が届いた。ハッとして、顔を上げる。けれどそこには当たり前のように誰もいない。柩は落胆したようにため息を吐いて苦笑した。
「……そうよね。聞き間違いに決まって――」
その時、ふわりと金木犀の香りを感じた。彼女が好んで使っていた匂い袋と、同じ香り。導かれるように、入院着のポケットに手を入れる。指先に、小さな物が触れた。
「――あ、」
親指ほどの大きさに手折られた、季節外れの金木犀。その枝先には、ちいさな四葉のクローバーが結び付けられていた。まるで、ここにいるよ、とでも言いたげに。
「ふ、うっ、うわぁぁぁぁ!!」
――耐えられなかった。叫ぶように荒ぶる感情を吐き出す。病室に駆けこんできた看護師が「大丈夫ですか!?」と問いかけてきたが、それすらも耳に入らない。
こんな話、誰に言ったって信じないに違いない。けれど自分だけは信じよう。四葉は――こんなに不甲斐ない先輩のことを、死んでからも大切に思ってくれていたのだと。
その日泣きつかれた柩は、意識を失う様に眠りについた。――夢の世界で二人が会えたかどうかは、神のみぞ知る。