29.君の名前
「――我が名は【バアル】。今は遠きカナンの地にて祀られる豊穣の神である。……いや、だったと言うべきだな」
ベルは観念したように、遠い目をして口を開いた。語られた内容は、おおよそ鶫が予想していた通りだった。
バアル――聖書で「約束の地」と称されていた、カナンの地で祀られていた偉大なる神様のことだ。そして、バアルをバビロニア式の発音に変えると【ベル】となる。
その別名は多岐に及び、一説ではソロモン72柱の悪魔の一人【バエル】や、七つの大罪で有名な暴食の悪魔【ベルゼブブ】、エジプト神話の嵐の神【セト】などと同一視されることもあるらしい。
「今やカナンであった場所は他所からやってきた宣教師どもに支配され、我の存在をあがめる者はもう誰もいない。そればかりか奴らはこの尊き我が身を貶め、辱めた。邪神や悪魔などと嘲笑ってな」
吐き捨てるようにベルが言う。
――かつて栄華を誇った神様が、邪神に貶められる。豊穣の権能は反転して、作物を荒らす虫をなぞらえて暴食に変わり、蠅の王などと称された。神々をまとめていたという逸話は、捻じ曲げられて悪魔の軍団を率いていたことにされてしまった。
……よくベルは人間のことを身勝手だと言うが、確かにそれは間違っていない。
自分の幸せの為ならば、今まで信じていた神様だって容易に切り捨てる――たとえそれが宗教弾圧の中で生き残るためだったとしても、許されていいことではない。多神教の国に住む鶫には到底理解ができない話だ。
「この国に来たのは、ほんの気まぐれだ。見守るべき民も居なくなり、このまま魔王として存在が塗り潰される前にまともな神として動いてみたかったというのもある。だが前にも話したように、政府には碌な候補がいなくてな。諦めて神の座に戻ろうと思い始めた矢先に――鶫、お前を見つけた」
ベルが鶫を見て柔らかに笑う。それはまるで、憑き物が取れたかのような晴れやかな笑みだった。
「……今は、ここにきて良かったと思ってる?」
鶫はそうベルに問いかけた。ベルだって裏切られた絶望を、そして貶められた苦難を忘れたわけじゃないだろう。けれどそれでも、今はこうしてこの国――人間に力を貸してくれている。それが鶫には、とても気高いものに見えた。
「まあ、悪くはないな。――だが勘違いをするなよ。我は決してこの国に隷属したわけではない。貴様ら人間が好き勝手に都合よく動かせるものではないと心得ろ」
「うん、分かってるよ」
あくまでも、この国は神様に力を貸してもらう側だ。いくら天照大御神が管理者側だとしても、そこに上下関係などは発生してならならない。そんなことは誰だって承知の上だ。
「それと、我のことは普段通り【ベル】と呼べ。今さら呼び方を変えられるのは面倒だ」
「ベル様がそう言うのなら、その通りにするよ。ベル様の今の姿だと他の名前はちょっと浮きそうだしね。……この際だから聞くけど、なんで黒猫の姿なんだ? 別に他の姿にもなれるんだろう?」
今までは名前と同様に、この姿にはどうにも触れてはいけない空気を感じていたのだ。
しなやかな黒猫の背中に、蜻蛉のような羽の生えた姿――悪魔の使い魔にもみえるその姿は、子供がイメージするマスコットキャラクターそのもので、とても愛くるしい印象を受ける。ベルの性格から考えると、なぜこんな姿を選んだのか不思議だった。
「……あまり厳つい姿だと怖がられると思ってな。知り合いに相談した結果、コレに落ち着いた。あまり触れてくれるな。思い出したくもない」
ベルは苦々しげにそう言った。その様子に、鶫はベルと会った当初のことを思い出した。
――そういえば、ベル様は本当は小さい子供と契約したかったんだよな。
鶫は何とも言えない気持ちになって、曖昧に微笑んだ。今ならベルが幼い子供――というか純真な心を持つ人間と契約したかっただけ、というのが理解できるが、あの頃はロリコンの言い訳にしか聞こえなかった。相互理解は大事なんだな、と鶫はつくづく思った。
色々と問題はあったが、鶫とベルの相性は悪くない。鶫の気のせいかもしれないが、ベルもラドン戦からかなり心を開いてくれたような気がするのだ。
魔法少女としての活動を鶫がいつまで続けられるか分からないが、ベルが望む限りは続けていきたいとは思っている。あまり命をかけるようなレベルの戦いはしたくはないが、今回の様なケースはもう多分ないだろうし、無理をしなければそれなりに長く活動できるだろう。
「ああ、言い忘れていたが今回の報奨金が振り込まれていたぞ。緊急の出動に答えた礼として全額支給されたが、やはり割には合わんな」
「へえ、幾らくらい?」
報奨金の金額は世間一般には公表されていない。金額が高くても、低くても、どちらにせよ騒ぐ人間がいるからだろう。
E級は百万。D級は五百万。そしてC級になると一千万となってくる。それ以降の金額はまだ鶫には知らされていない。
鶫の場合、在野の魔法少女なので全額ではなく七割の支給となるが、それでもこの三か月で四千万ほどの報奨金を受け取っている。正直なところ、金銭感覚が狂いそうで少し恐ろしい。
A級だと難易度も跳ね上がるし、もしかしたら一度に五千万くらい貰えるのかもしれない。鶫がそう考えていると、ベルは何でもないような顔でとんでもない金額を口にした。
「三億だ。貴様の命も安く見られたものだな。……ん? どうしたそんな変な顔をして」
ひくり、と頬が引きつる。……もしかして聞き間違いだろうか。
「そ、それ桁が間違ってないかなぁ」
「間違えてなどいないぞ。我としては三十億でもよいと思うが?」
その言葉に、鶫はぶんぶんと首を横に振った。そんな金額、恐ろしくてとても受け取れない。嫌な汗を掻いている鶫をよそに、ベルは呆れた様に腕を組んで言った。
「何を遠慮することがある。考えてもみろ――貴様が戦わなければ、他の魔法少女が来るまでの間、あの街はラドンによって蹂躙されていただろう。その際に負う損害を考えれば、三億なんてはした金だろうが」
「そう言われると否定はできない……」
確かに被害のことを考えれば、その金額でもおかしくはないのかもしれない。ただ問題があるとすれば、鶫がそのお金を自由に使うことは難しい、という点だろうか。
――魔法少女が受け取る報奨金は基本的に非課税だが、それはあくまでも個人が特定できていたらの話だ。
鶫のように政府に身分を隠している魔法少女は、あまり大きな買い物をすると国税局の捜査に引っかかる可能性が高いので、高額の買い物は基本的にできない。中には脱税の疑いが掛かって身元がバレるケースも何件かあったくらいだ。
何にせよ、今のところはちょっとした小遣いと、ベルとの食べ歩きくらいしか使える時がない。……あまり気に病んでも仕方がないし、忘れることにしよう。
そこまで考えて、鶫は小さくあくびをした。心配していた事柄が一先ず落ち着いたので、気が抜けたのかもしれない。
「ふん、この我を前に欠伸とはいい気なものだな」
「ごめん、少し眠くて」
鶫が目を擦りながらそう言うと、ベルは鶫に近づき、グリグリと小さな手で鶫の頭を撫でた。頭から、肉球の柔らかい感触が伝わってくる。独特な感触が、思いのほか心地よい。もしかしてマイナスイオンでも出ているのだろうか。
「今は休むといい。体が治ったら、また前のようにしっかりと働いてもらうのだからな」
「うん。――ありがとう、ベル様」
何だか照れくさくなって、誤魔化すように笑みを浮かべた。千鳥や芽吹に心配されるのとはまた違う感覚――もしも鶫に兄がいたら、こんな感じだったのだろうか。
そんなことを考えながら、鶫は緩やかに眠りについた。なんだか良い夢が見られるような、そんな気がした。
◆ ◆ ◆
――深夜二時。病院内の明かりは消え、静寂が建物全体を支配していた。
「……喉が乾いた」
鶫はそう呟きながら、ベッドから起き上がった。何かを飲もうと思い、辺りを見渡す。個室の冷蔵庫には冷えたお茶が入っているが、何となく飲む気になれない。
「たしか廊下に自販機があるって医者が言っていたはず……」
半分寝ぼけたようにふらふらと鶫は立ち上がった。そして点滴の棒を支えにして、ゆっくりと扉へと向かって歩き出す。もしこの場に千鳥がいたならば、夜中に出歩くなんて、と怒って止めていただろう。
そして鶫が扉に手をかけようとした瞬間――なぜか背中に視線を感じたのだ。
ぴたり、と手が止まる。ぼんやりとしていた思考が段々と冴えてきた。……視線を感じたのは、備え付けのソファの方から。つまり、鶫の斜め後ろからだ。
――まさか、幽霊ってことはないよな?
ごくり、と唾を飲み込む。鶫は幽霊の存在をあまり信じていないが、最近は神様がいるんだから幽霊だっていてもおかしくはないんじゃないか、と思い始めているのだ。しかもここは病院――いない方が不自然な気もする。
ラドンみたいな化け物と戦っておいて、何を今さらと思われるかもしれないが、自分の理解が及ばないものはやはり怖い。魔獣みたいに切ったら死ぬくらいの方が、分かりやすくてありがたいくらいだ。
鶫は少し考えるそぶりをみせたが、やがて諦めた様に肩を落した。
じりじりと背中を焼くかのような、視線と不可思議な気配。このまま知らないふりをして部屋を出てもいいが、どうせ結局はまたこの部屋に戻ってくることになる。
――やっぱり、見てみるしかないか。
鶫は小さく息を吐くと、意を決したように後ろを振り返った。
唐突なホラー。