22.神代の怪物
「――来たか」
ベルがそう呟いた瞬間、鶫の体に微弱な電流のようなものが走った。多分これが魔法少女が結界を張るときの感覚なのだろう。今までは結界を張るのもベルに任せきりにしていたので、なんだか新鮮な気分である。
世界が鏡写しの様に切り替わっていくにつれて、箱根の芦ノ湖周辺に濃い霧のようなものが掛かっていく。
それと同時に感じる、凄まじい重圧。ビリビリと肌を突き刺すようなその気配は、相対するだけで怯んでしまいそうなほどに恐ろしいものだった。
芦ノ湖のほとりに見えるその影は、今まで戦った魔獣とは比べ物にならないくらい大きい。そして霧が晴れていくにつれ、その実態が明らかになっていく。
――それは、大きな蛇だった。いや、しかも一匹ではない。
九匹の巨大な金色の蛇が折り重なり、絡み合うような奇妙な姿をしている。体長はおよそ、五百メートルから三百メートルの間。一匹の胴の太さは直径三メートルほどで、単体で見ると少しずんぐりとした体形をしている。
一見すると八岐大蛇のようにも見えるが、それにしては違和感がある。
「あれはラドンだな」
ベルがそうぽつりと呟いた。
「ラドンって、ギリシャ神話に出てくるあの蛇のこと?」
鶫の問いかけに、ベルはしっかりと頷いた。
――ラドン。正式名称はラードーンといい、それはギリシャ神話に出てくる百の頭を持つとされる大蛇のことを示している。有名なのはヘラクレスの十二の試練での話だろう。けれど目の前の蛇は、逸話と違って九つの頭と尾しか生えていない。
「頭が九つしかないから、てっきりここの『九頭竜伝承』になぞらえたのかと思ったけど、違うんだ」
芦ノ湖を根城としていた悪しき九頭竜を僧侶が説き伏せて、守り神に昇華させたとされる伝承だ。先日千鳥が箱根の神社について話していたので、その伝承のことはよく覚えていた。
鶫がそう説明すると、ベルは感心したように頷いて言った。
「……なるほど、考えたものだな。この地に残る『恐れ』を器にしたのか。道理で出現までの時間が短いわけだ」
「えっと、どういうこと?」
「簡単な話だ。ヤツは地上に降りてくるのに、この地に存在したとされる『九頭竜』という魔物――人がそう定義付けた器の中に、ラドンという中身を注ぎ込んだ。その方法なら、今回のように短期間での出現が可能になるのも納得だ」
「……ふうん?」
鶫にとっては少し分かりにくい説明だったが、つまり元々人が勝手に作っていた九頭竜のイメージの中に、ラドンの人格が入っている、ということでいいのだろうか。
「それだと今回のことは八咫鏡の不具合じゃなくて、いつも通りの的確な予知ってことになるのか? ……こんなのが何回も続くようなら、政府も対応が大変だろうな」
――本当に厄介な話だ。
けれど日本の政府だって馬鹿じゃない。ベルの言っていた推測くらいは簡単にたどり着くだろう。けれど、取れる対策があるかどうかはまた別の話だが。
まあ、その辺りのことは政府が努力をするしかないだろう。今は、目の前のことが先決だ。
魔獣から遠く離れた場所に居るからといって、別に気を抜いていたわけではない。ベルと話をしながらも、鶫はしっかりとラドンのことを観察していた。
ラドンは湖の浅瀬を、ノロノロとした動きで這いずっている。どうやらあの様子だと動きは遅そうだ。
――まずは手始めに、一番右端の首に攻撃をしかけてみよう。
自分自身をスキルで透明化させ、転移で近くに忍び寄り、糸を首に絡めて切断を試みた。
「……え?」
その首は、手ごたえすら感じないくらい簡単に両断された。血を吹き出しながら、黄金の首は湖へと落ちていく。その刹那――首の顔が、ニタリと笑ったような気がした。
ばしゃり、と音を立てて首が湖に沈んでいく。手ごたえのなさもそうだが、なぜこの大蛇は首が一本落とされたというのに狼狽えもしないのだろうか?
――けれどその理由は、すぐに分かった。
「う、わぁ」
ぐちゃぐちゃと生々しい音を立て、胴体の根元から新しい首が生えてくる。簡単に倒せるものではないとは思っていたが、やはりそういうタイプか。
……となると、さっき落とした首の方も危ないんじゃ――。
「――ッつ!!」
悪寒を感じ、糸を用いてその場から瞬時に離れる。ドン、と先ほどまでいた場所から何かが砕けるような音が聞こえてきた。振り返ると、そこにはクレーターのように大きく抉られた地面があった。
あたりを見渡すと、湖から蛇が顔出し、こちらを向いて大きく口を開けていた。微かに口元から煙の様なものも見える。
ラドンの本体は定位置から動いていないことを考えると、あれはきっと鶫が落とした首だろう。
――それにしても、だ。
「最近の竜種はみんなビームが撃てるのかよ……」
嫌な事実である。けれど、魔獣の大半は人の持つイメージを原型として作られているらしいので、それだけ多くの人が『竜=ビーム』だと思っているのかもしれない。ゲームのやりすぎだろう。
それはともかく、首を落とすのは悪手かもしれない。糸を湖の中に忍ばせて、落ちた首の形状を確認してみたが、首自体にも再生能力があるらしく、すっかり胴体が復活してしまっている。このままでは、遊撃部隊を増やしてしまうだけだ。
「水に潜られるのが厄介だな。さすがに水の中だと糸の動きも鈍いし……」
そんなことを考えながら、ラドン本体の付近に探索用の糸を仕掛ける。
なぜあの本体は、一切の動きを見せないのだろう。鶫としては最初から激しい攻防が続くのではないかと戦々恐々だったのだが、ああも動かないとなると別の何かをしているんじゃないかと疑いたくなる。
――ラドンの特性とは。百の頭の行方。不死とされる説。体中に口がある。かつては毒矢で死んだ。様々な記憶を掘り起こし、何か対策がないかを考える。
「……ん? なんだ、これは」
ハッとして湖を見渡す。心なしか、水面の高さが上昇している。そして風もないのに、波が起こったかのように水面が揺らいでいる。
くいっと、指先の糸をひく。
――ラドンの反応が、最初より大きい? いや、増殖している――!!
鶫がそれに気づいた瞬間、水面の一部が盛り上がった。そして天を目指すように、一本の金色の何かが飛び出てくる。鶫はその金色を見上げ――目が合った。
とっさに転移を使い、反対側の山へと飛ぶ。考える暇もなく動いたが、どうやらそれは正解だったようだ。
ガガガガッ!! と大きなものが崩れるような爆音が辺りに響く。元いた場所に目を向けると、そこには信じられない光景が転がっていた。
「山が抉られてる……」
反対側の山は、大きな何かに薙ぎ払われたかのように茶色の地肌が露出していた。
それを為したのは、あの金色の触手――いや、蛇の集合体だ。
「動かなかったのは水の中で分裂していたからか……。あんなのどうやって倒せっていうんだ」
山の破壊によってできた砂ぼこりが晴れていく。上から見ることができる触手、いや蛇の尾の数は六本。これは推測だが、きっと本体の首と同じ数だけ、あの長い尾を湖の中に隠しているのだろう。
「あれが本来のラドンの姿なのかもな。――まさしく怪物そのものだよ」
一本の尾の長さは、およそ二千メートル。場合によってはもっと伸びるだろう。
しかもあの尾は所々にある頭から遠距離攻撃のできる光線まで出してくる。攻撃範囲だけ考えたら芦ノ湖周辺は完全に抑えられてしまったと言っていい。
――状況は、決して良いとは言えなかった。
鶫は張り巡らせた糸の上を駆け、尾の攻撃をすり抜けて本体を目指した。
あの本体が逸話通り百の頭を持つというのなら、百回首を落として再生できない様にすりつぶしてやればいい。いくらA級の魔獣とはいえ、その力のリソースは無限ではない筈だ。無限に再生し続けるなんてことはできないだろう。
前回のワイバーン戦のような遠距離攻撃も考えたのだが、あれは被弾までに時間が掛かりすぎる。途中で尾を使って守りを固められたら、本体にダメージなんてほとんど通らないだろう。
幸いにも、鶫の能力は持久戦にも向いている。被弾さえしなければ、体が動く限りは戦い続けられる。
――本体の首を一本切り落とし、転移で離脱する。余裕があれば首が落ちる前に寸断して、切り刻むことも忘れずに。それを延々と繰り返す。時折尾の攻撃を掠ってしまうが、別に動きに異常が出るような傷ではない。
――心の中に微かな不安は残っている。この首を落とす行為が、本当に効いているかどうかは分からない。ただ悪戯に敵を増やすだけで、何の意味のないかもしれない。
もしラドンが逸話通りの性能をしているなら、毒物以外では殺せない可能性だってあるのだ。
もしこの場にいるのが六華のメンバーだったなら、そんな相性や条件などものともせずに魔獣を倒していただろう。
序列一位の遠野すみれならば、芦ノ湖ごと魔獣を燃やし尽くしたはずだ。
序列二位の壬生百合絵ならば、巨体を一刀のもとに切り捨てていただろう。
序列三位の鈴城蘭ならば、この箱根一帯を毒の海に沈めていたに違いない。
けれど、鶫にはそんな必殺技は何もない。一つだけ奥の手らしきものはあるが、あれは博打の要素が強すぎる。使うとしたら、それこそ他に打つ手が無くなった時だけだろう。
何度かの突撃の後、鶫はぜぇ、はあ、と肩で息をしながら、尾の攻撃から逃れるように岩の影に隠れた。さすがに連続で戦うとなると体力が持たない。
「どうする? 勝てないと諦めるか?」
ふわりと鶫の隣に舞い降りてきたベルが、からかう様にそう聞いた。まったく、鶫がどう答えるかなんて、分かりきっているくせに。
「嫌だね。――絶対に諦めない」
鶫は笑いながらそう言った。
だって、鶫の心は折れてなんかいない。それに戦いは、――まだ始まったばかりなのだから。