192.各々の覚悟
地上の一本道を、壬生が目にも留まらぬ速さで駆け抜ける。
そうして壬生と吾妻が接触しそうなった瞬間、鶫の眼前へと人影が現れた。壬生と吾妻だ。
転移が成功したことを悟り、鶫は瞬時の判断で糸の階段を壬生の前へと調整して衝撃に備えた。
機関銃のような鋭い踏み込みの音が土台の階段から響き、壬生が目玉へと迫る。だが目玉の実像まであと一歩という所で失速し、壬生の体がぐらりと揺れた。
そして、脱力したように下へと落ちていく。
――失敗だ。
「――おい、大丈夫か!?」
鶫は急いで崩れかけの階段を踏み台にし、壬生を抱き留めた。どうやら外傷はないようだが、邪神の瘴気にあてられたのか顔色が悪い。
それと同時に壬生の手から零れ落ちた刀も一緒に回収する。あそこまで邪神に近づいても消えないとなると、もしかして本物の刀なのだろうか。
すると意識を取り戻した壬生が、悔しそうな顔をして言った。
「……困ったな。まったく届かなかった」
「いいから、下に着くまでジッとしてて。体に障る」
ぼやく様に弱音を吐いた壬生の背中を軽く叩き、下へと降りる。
その途中で糸で作ったパラシュートに括りつけられた吾妻を回収し、鶫たちはようやく空から地面へと足を付けた。
地面に降りた瞬間、ゲホゲホと荒い咳をしながら壬生が耐え切れぬように膝をついた。そうして壬生が口元に添えていた手を離すと、手のひらには真っ赤な血が滲んでいた。
「汚染の影響ね。耐性がある私とソイツならともかく、壬生さんには無理があったんじゃない? もう止めておいた方がいいと思うけど」
壬生を覗き込みながら吾妻がそう言うと、壬生は小さく首を横に振った。
「いや、ゲホッ、まだやれる。――アレはここで止めないと、きっと酷いことになる。ここには私たちしかいないんだから、私たちがなんとかしないと」
小さく咳き込みながらも毅然とそう告げた壬生に、鶫は唇をかんだ。鶫の心情としてはあまり無理をしてほしくはないのだが、壬生の言い分の方が正しいと理解しているからだ。
けれど、だからといって壬生の不調を無視していいわけがない。何か対策はないかと鶫が思考を巡らせた瞬間、ふとあることを思い出した。
「……そうだ、服の中にアレがあったはず」
鶫はガッと吾妻の肩を掴み言った。
「おい、俺から奪った服と荷物はいま何処にある」
「は? 何なのいきなり……。部屋の近くの窓から投げ捨てたから、建物の外のどこかに落ちてるんじゃない?」
急な質問に怪訝そうにする吾妻を尻目に、鶫はビルを見上げた。
――あの儀式の間が東側だから、荷物が落ちているとすればその辺りだろう。
「荷物に浄化ができる物が入っていたはずだから探してくる。それまで壬生の事は頼んだ」
出発前に遠野に持たされた、浄化にも使える非常用の桃のドライフルーツ。使うなら、きっと今しかない。
そう言って鶫は足早にその場を後にした。
◆ ◆ ◆
そんな鶫の唐突な行動を見送りながら、吾妻はばつが悪そうに眉をひそめた。
頼んだと言われたところで、吾妻に出来ることは何もない。おっかなびっくり壬生の背を擦るくらいが精々だ。
「ねえ、何でそんなに頑張るんですか? 私やアイツが責任を取るならともかく、貴女にはそこまでする義務なんてないでしょうに」
ヒュウヒュウとか細い息をする壬生に、吾妻はそう問いかけた。
この惨状の原因となった自分や鶫とは違い、壬生には何の責任も無いというのに。
すると壬生は、小さく自嘲するように言った。
「そうだな、結局は私情なんだと思う。……この国があの邪神によって無法地帯になったとしても、私はきっとすぐに適応できるだろう。壬生百合絵という人間は、魔法少女という肩書がなければただのバケモノみたいなものだからな。ゲホッ、きっと好きに生きて、好きに死んでいくのだと思う」
そこでいったん言葉を切り、壬生は呼吸を整えて続けた。
「だが、きっとそれでは駄目なんだ。私は獣には堕ちたくない。――私はまだ、人間のままでいたいんだ。その為ならば、いくらでも命を懸けるさ」
吾妻には、壬生の言いたいことはよく分からなかった。けれど、それが壬生の根幹を支える矜持なのだろうという事だけは理解できた。
――それに比べて、自分は一体何なのか。心構えから何もかも、まるで道化のようだ。
吾妻は自己嫌悪から暴れ出したい気持ちになり、しゃがみ込んで頭を抱えた。唸るように出てしまう叫び声をなんとか噛み殺し、静かに呼吸を整える。
「……どいつもこいつも、バカみたい」
そう独り言のようにポツリと呟き、吾妻はゆっくりと壬生を見つめた。
――いつまでも、恥を晒すわけにはいかないか。
「さっきの助走、私の手にきちんと触れるためにわざわざ減速したでしょう。そんな風に手を抜いて、あの邪神に届くんですか」
吾妻がそう告げると、壬生は困ったように眉を下げて「それは、確かにそうなんだが――」と俯くように言った。
結局のところ、壬生が減速をする理由はきっと吾妻の能力をあまり信用していないからだ。だからこそ、速度を落としてもきちんと触れることにこだわるしかなかった。
つまり、これは全部吾妻の責任でもある。それを吾妻はきちんと理解していた。
「いいですよ、全力で走っても。私が合わせます。いえ、合わせてみせます」
吾妻はそう告げると、徐に上着を脱ぎだした。
「ようは皮膚接触さえすればいいです。私は接触部分を増やすために下着になるので、悪いけど壬生さんは裸足で走ってください。――そうすれば、最高速度を保ったまま貴女が私を踏みつけた瞬間に転移ができる。先ほどの試走の感覚だと、軽く影を地面に敷いておけばある程度のタイミングもつかめるので、転移ミスはほぼ無いでしようし。これで、懸念は解消できましたか?」
「……いや、だが、いいのか? いくら魔法少女とはいえ、生身では危険だと思うが」
そう言って壬生は考え込むように視線を下に向けた。
壬生の全カ――電磁制御による疑似レールガンの原理を用いれば、先ほどの助走など意に介さないほどの速度が出せる。だが、その通り道となる吾妻が無事に済むとは到底思えない。
何より、ただの踏み込みだけで岩を砕く威力があるというのに、そのままの勢いで生身の体を踏むなんて、壬生には嫌な未来しか想像できなかった。
「あ、流石に頭と心臓の裏は踏まないでくださいね。即死したら転移できないので」
それだけは気を付けて貰わないと困る、と吾妻は苦笑した。骨や内臓までは破壊されてもなんとか耐えられるが、脳と心臓だけはどうにもならないからだ。
「まあ、結果としてどうなったとしても、壬生さんが気にする必要はないですよ。出し惜しみをして五体満足で生き残ったとしても、どうせ私は碌な目に遭いませんから。なら少しくらい世界の役に立った方がまだマシですし」
――結局のところ、吾妻はやり過ぎたのだ。
間接的であるが人を沢山殺したし、何より国も神も何もかもを裏切っている。これから先どう転んだとしても、まともに生きていくことは絶対にできない。頼みになるはずの神様にだって裏切られた。吾妻には、もう何も残ってなんかいないのだ。
別に罪滅ぼしという訳ではないが、必死になって生きている目の前の狂人のために体を張ることくらいは許されるだろう。
そう言って吾妻は晴れやかに笑った。奇しくもそれは、両親が死んでから初めて出た濁りのない笑みだった。
壬生は吾妻のそんな笑顔を見て珍しく悲しそうな顔をすると、ただ静かに「ありがとう」と頭を下げた。
……恐らくは、吾妻の覚悟を悟って壬生は反論を呑みこんだのだろう。無理に止めようとしない辺りがなんとも壬生らしい。
そうしている内に、赤黒い小さな袋を持った鶫が帰ってきた。
戻ってきた鶫は吾妻の姿を見て少し動揺したようだったが、それよりも壬生を優先したのかそっと壬生の前にしゃがみ込み手に持った袋を開いた。
「これは、遠野が持たせてくれた浄化の効果がある果物なんだ。……ちょっと色々あって汚れてるけど、食べられるか?」
そう言って、鶫は壬生の前に茶色くなったドライフルーツを差し出した。
……汚れているのは吾妻が鶫を殴った際に流れた血が入れ物の袋に染みこんだ所為なのだが、あえてそれを告げる必要はないだろう。
壬生は口元まで運ばれたドライフルーツを無言で躊躇いもなく口に入れ、静かに咀嚼して飲み込んだ。すると乱れがちだった呼吸が整い、頬に明るさが少し戻った。
「うん、ちょっと鉄臭かったけど効果は抜群だ。あとで遠野さんにもお礼を言わないと」
「そっか、よかった……。まだひと欠片残っているから、これは渡しておく。俺には多分必要ないと思うから」
そう言ってホッと安心したように息を吐いた鶫の肩を壬生が叩き、スッと立ち上がる。
「じゃあ、余力がある内にもう一度挑戦しよう。――今度こそは、成功させないと」
「ああ、頑張ろう」
そうして壬生は体調を悪くしていたのが嘘のように道の端へと駆けて行った。……空元気なのかもしれないが、それを証明する術はない。
吾妻には、ただ祈る事しか出来なかった。
◆ ◆ ◆
「それで、その、なんで吾妻は服を脱いでるんだ?」
「うるさい、こっちを見るな」
質問に冷たくそう返され、鶫は閉口した。
不可抗力で下着を付けていない自分と、上は下着しか身に着けていない吾妻。嫌な対比である。
ちなみに先ほど服を探しに行った際、結局服はドライフルーツが入ったコートしか見つからなかった。それでも当初の目的は達成できたので、まあ別にいいのだが。
――吾妻の恰好も、恐らくは転移条件の皮膚接触の絡みで服を脱いでいるのだろう。ある程度予想は付くが、情報の共有くらいはして欲しい。
壬生に関しては、鶫はこれくらい察することができるだろうと判断したのだろうがあまりにも言葉が足りない。
鶫は肩を竦めて口を開いた。
「まあ、別に何でもいいさ。きっと泣いても笑ってもこれが最後だ。頼むからしくじるなよ」
「そんなこと、アンタに言われなくても分かってる」
吾妻は不機嫌そうにそう答えると、壬生の方に背を向けるようにして跪いた。どうやら踏み台に徹し、背中の感覚だけで転移を決行する心積もりのようだ。
鶫が不在の間、壬生と吾妻の間にどんな会話があったのかは分からない。けれど、吾妻には何かしら心境の変化があったのだろう。協力してくれる分には、こちらとしては問題はない。
そうして、道の端にたどり着いた壬生がゆるりとこちらを振り向く。
――最後の幕が上がろうとしていた。