19.天秤が傾くほうへ
その後は特に何事もなく冬休みに入った。
クラスの友人たちと遊ぶ約束を取り付け、クリスマスに集まったのが男ばかりだったのは記憶に新しい。何だかんだで最後は結局グダグダになったけれど。まあ、よくある日常である。
――そして今日は十二月二十七日。空は快晴で、まさに旅行日和という天気だ。
千鳥は朝早くに旅行の待ち合わせ場所に出かけ、三日間は家に帰ってこない。
少しだけ寂しい気もするが、折角の機会だから楽しんできてくれればいいと思う。ちなみに鶫はこれからベルと一緒に、丸一日食べ歩きに出かける予定だ。
今日の服装はカーキ色のミリタリーコートに、黒のチェックのひざ下ワンピース。腰に大きな赤いリボンを結び、髪はゆるくお下げにして伊達眼鏡をかけている。なんだか普段と印象が違って見える気がする。
ベル曰く「優等生風な見た目とコートのギャップ」をテーマにしてシンプルにまとめたらしい。彼は一体どこを目指しているのだろうか。
鶫はそんなことを考えつつ、ベルが食べつづける様子を見つめていた。
「……本当によく食べるなぁ」
「この体は食べ物を飲み込んだ瞬間にエネルギーに変えるからな。満腹とは無縁だ」
「燃費以前の問題だったのか……。世の中の女性が羨みそうだ」
そんな会話をしながらも、ベルは山の様に積まれたシュークリームをハイペースで消費している。はっきり言って、とてもシュールな絵面だ。
――けれど周りの人々は、ベルの方に目を向けることはない。
これは最近気づいたことだが、どうやら普通の人間にベルの姿は見えていないらしい。いや、見えていないというよりも、認識を改ざんされていると言った方が正しいかもしれない。
例えば外でバーベキューをして、鶫がせっせとベルの皿に肉を置いていったとしても、それを見た人はいつのまにか肉が無くなったとしか思わない。
あとは肉が無くなった理由を勝手に脳が補足していくので、大多数の人は「肉を焼いている人が食べた」と認識してしまう。おそらく、葉隠桜大食い説はこうやって出来上がったのだろう。
そんなわけで、世間では鶫――葉隠桜は大食いキャラとして広まりつつある。
今日は念のため眼鏡を掛けたりして軽く変装はしているのだが、そもそも大量に商品を注文する時点でバレバレなんじゃないだろうか。
「そう言えば、貴様は過去の記憶が無いのだったな。十年前の大災害、だったか? アレは貴様らの間ではどのような話になっているのだ?」
突然ベルがそんなことを聞いてきた。いきなりどうしたのかと鶫は疑問に思ったが、特に変な様子もないので、ただの世間話の延長だろう。
――十年前の大災害。それは鶫の人生に深く関わっているが、語れることはあまり多くない。
「どうと言われても、詳しいことは分からないんだ。記憶が無いっていうのもあるけど、政府はあの件に関して情報規制をしているから」
大きくなってからあの大災害のことを調べなおしたが、災害の規模の割にまったく情報が集まらなかった。被害状況についての報道ばかりで、その原因に関しては何一つ明確なものが見つからない。どう考えても、政府が真実を隠しているとしか思えないのだ。
鶫がそう答えると、ベルは興味深そうに目を細めた。
「ふん? まあ規制も妥当か。我らの間だと、あれは『神降ろし』に失敗したという説が濃厚だからな」
「神、降ろし?」
聞いたことのない言葉だった。鶫が首を傾げると、ベルは不満げに鶫を睨んだ。
「これだから無知な人間は困る。――この場合の神降ろしとは、人の身に神格を降ろすことを示す。まったく愚かなモノだ。そもそも人間ごときが神を制することが出来るはずがないだろうに」
「……待ってくれ。それって、あの災害は人為的に起された可能性があるってことか?」
鶫はてっきり、魔法少女がA級クラスの魔獣を討ち漏らして、政府がそれを隠匿したとばかり思っていたのだ。それが、人為的なものだったなんて考えもしなかった。
ベルは、やれやれといった風に肩をすくめた。
「そういうことになるな。中には神ではなく魔獣を降ろそうとしたという話もあるが、どちらにせよ街ひとつを犠牲にしてもそいつらは何も得ることが出来なかった。なんとも高い勉強料になったものだ」
――人の身に『神』を降ろす。何故そんなことをしようとしたのかは分からないが、周りを巻き込んで自滅するなんて傍迷惑にも程がある。
「千鳥にはとても言えないな……」
「別に言う必要もあるまい。――知らない方が良いことは、この世には沢山ある」
ベルはそう締めくくり、再びシュークリームを口に運び始めた。そして二つ目に口を付けた瞬間、どこからか、リンリンリン、と鈴の鳴る音が聞こえてきた。
鶫は周りを見渡したが、音の発生源は見当たらない。
ベルはその音を聞いて舌打ちをすると、食べかけのシュークリームを鶫に押し付けてきた。
「え? なに?」
「少し持っていろ」
ベルはそう言って手を虚空にかざすと、そこからガラスの板のようなものが突然現れた。どうやらそのガラスが鈴の音を出しているらしい。
そしてベルはガラス板をテーブルに置き、何かを話し始めた。
「何の用だ。……はあ? 何故我らがそのようなことをしなくてはならない。捨て駒なら貴様らの子飼いに腐るほどいるだろう、貴様らの下らない面子など知ったことか。――ふん、結局貴様らの手落ちではないか。精々自分たちの無能さを悔やんでいろ、この無礼者共が!!」
ベルはそう叫ぶと、手を振り上げガラス板を地面に叩き落としてしまった。
鶫には口を挟む余裕もなかった。
……結局何が起こったのかよく分からないが、ベルがこんなに怒るということは何かとんでもないことが起こったのだろう。
「政府の狗の分際で何様だ!! ああ、今すぐ八つ裂きにしてやろうか!!」
「えっと、何があったか知らないけど落ち着いて。ほら、これでも食べてさ」
鶫は預かっていたシュークリームをそっとベルに持たせ、叩き落とされたガラス板を拾った。
そして鶫は少し迷ってから、ガラス板をコートのポケットの中に入れた。今これをベルに渡してもまた何処かへ投げられそうなので、しばらくは鶫が持っていたほうがいいだろう。
「――で、今のは何だったんだ? まるで電話みたいだったけど」
ベルの激昂が少し落ち着いたころに、鶫はそう問いかけた。ベルはばつが悪そうに不貞腐れた顔をすると、はあ、と大きなため息を吐いた。
「政府からの出動要請だ。何やら予知システムに不具合があったらしく、今から十五分後にA級の魔獣が現世に出現するらしい。貴様が転移のスキルを持っているから声がかかったのだろうな」
「なんで在野の『葉隠桜』にそんなものが? 普通は六華とかに話がいくのが筋だろう?」
そもそも、政府に所属していない鶫たちに声をかける方がおかしいのだ。
いくら時間がないとはいえ政府にだって転移持ちの人材もいるだろうし、C級の葉隠桜ではA級の魔獣に敵うはずもない。穿った考え方をすれば、死ねと言われているも同然だ。ベルがこうやって怒るのも当然だろう。
「ふん。奴らが言うには、午前中にD級二十体、C級六体、B級二体などの高ランクの出現も重なり、政府の転移能力持ちが動けない状態らしい。それに加え出現場所付近に魔法少女がいないため、どう急いでもあと十五分では出現までに間に合わないそうだ。――だがいくらイレギュラーが重なったとはいえ、すべてはリスク管理ができていない政府が悪い。我らが命を張る理由にはならんな」
ベルはそう軽く言ったが、鶫としては驚きの内容である。
――B級の魔獣なんて月に五体くらいしか出ないのに、今日に限って二体も重なるなんて。それだけで準災害級の出来事ではないだろうか。
それに転移の力を持つ能力者は少ないと聞いていたが、これはかなり深刻な事態だろう。今の時間は正午、一日はまだあと十二時間ある。それまでにまた高ランクの魔獣が出たらどうするつもりなのか。
……ベルに掛け合って、C級までなら対応を考えてもいいかもしれない。
「とんでもない被害が出そうだな、それ」
「知るか。あのような愚か者共に慈悲などいらん」
「それにしてもA級の魔獣か。場所はどの辺なんだ?」
「ああ、――出現場所は神奈川の箱根という街らしい」
鶫は、ピタリと動きを止めた。
「……ふーん、そっか」
――なるほど。魔獣が出るのは箱根なのか。ならば、鶫がどうするかなど最初から決まっている。
鶫はそっとポケットに手を伸ばし、その中身を確認した。微かなふくらみが、その存在を主張している。これならば、きっと問題はない。
ずきり、と胸に鋭い痛みを感じる。鶫がこれからしようとしていることは、間違いなくベルへの裏切りだ。それはこの三か月の信頼を無に帰す行為でもある。それが、辛くて苦しい。
……できることなら鶫だってこんな真似はしたくなかった。
――それでも鶫は、迷うことすらできない。なぜなら、鶫の天秤はとうの昔に傾いたままなのだから。
そして鶫はゆっくりと席から立つと、ベルに向かって軽く断りをいれた。
「ベル様ごめん、ちょっと席を外すね。その間にシュークリームを食べちゃってよ」
「別に構わんが、どうした?」
怪訝そうなベルの問いかけに、鶫は完璧な笑みを顔に張り付けて言った。
「――うん。ちょっとお花を摘みに、ね」
――摘まれるのはきっと、鶫の方だけれど。