127.二輪の花
苦笑いする柩に促され甲板に上がった鶫は、水を貰ってべたつく塩水を流し、借りたタオルで頭を拭きながら小さくため息を吐いた。
柩は操縦士に指示を出すため船内に戻っており、現在甲板にいるのは鶫一人だけだった。雲一つない晴天が海の上に広がっている。
……あれで誤魔化されてくれたとは思わないが、どうやら追及するつもりはないらしい。まあ、噂になったとしても葉隠桜の不思議エピソード(不本意)が増えるくらいだろう。
そうして鶫が絡まった髪の毛を手櫛でほどいていると、船の上で柩の隣にいた少女がやや緊張した面持ちで近寄ってきた。その少女の顔を見て、鶫は驚きながらも顔には出さずに緩やかな笑みを浮かべ、少女に話しかけた。
「貴女は確か、夢路さんでしたよね?」
鶫がそう声を掛けると、少女――夢路撫子は、はい、と嬉しそうに笑った。
……遠目から見た時に似ているとは思ったが、まさか夢路本人だとは思いもしなかった。
柩と夢路の接点を作ったのはある意味鶫の仕業なので、こうして二人が一緒にいるのはそこまでおかしいことではない。ただ、その二人が一緒にいる時に偶然遭遇する事になるとは思いもよらなかった。一体どんな確率なのだろうか。
「あの時こっそり渡した連絡先に返信がなかったから少し心配だったのだけれど、この様子だと柩さんが動いてくれていたんですね」
鶫がいつも以上に演技を意識してそう返すと、夢路はパーティーで見た陰鬱な様子が嘘のように嬉し気に口を開いた。
「葉隠さんが姉の手紙を渡してくれたおかげで、柩さんが私の両親を説得してくれたんです。本当にありがとうございました!」
そう言って深々と頭を下げる夢路をみながら、鶫は目を細めた。
――初めて路地裏で会った時は本当にどうしようもない子供だと思っていたけれど、環境や心持ち次第でこんなにもいい方向へ変わるのか。そう思うと少しだけ感慨深いものがあった。
「いえ、私は大したことはしていませんよ。貴女が現状を変えようと努力したからこそ、今の結果があるんだと思います。――本当に、良かった」
優しくそう告げると、鶫はふわりと微笑んでみせた。……今の姿がびしょ濡れの水着姿でさえなければ絵になっていたのだろうが、それを言っても仕方がない。
鶫の返答を聞いて夢路はほっとしたように笑うと、ぽつぽつと自分の近況を話し始めた。両親との関係性がやや改善したこと。時々柩が様子を見に来てくれるようになったこと。大事な友人が、魔法少女を目指して頑張っていること。大体は七瀬鶫として会った時に聞いたことがあるものだったが、そんな素振りは見せずに相槌を返した。
――葉隠桜と七瀬鶫は、対外的にはあくまでも赤の他人だ。関係性を悟られるようなことはあってはならない。なんだか騙しているようで悪い気もするが、世の中には知らない方がいいこともある。夢路だって、尊敬しているお姉さんが知り合いのお兄さんだったなんて知りたくはないだろう。
「この船には他にも私の友達が乗ってるんですけど、その子は魔法少女を目指してるんですよ! 元気だったら葉隠さんにも紹介したかったんですけど、その子船が苦手だったみたいで酔ってしまって……。今は船の中で横になってるんです」
「そうなんですか……。早く良くなるといいですね」
「はい。だからすぐに陸に戻る予定だったんですけど、風に飛ばされたあの子の帽子を回収していたら葉隠さんを見つけたんです。こんな偶然ってあるんですね!――あ、陸に戻ったらその子のことを紹介しますね。とってもいい子なんですよ!」
……十中八九その友達というのは虎杖の事だろうが、複雑な心境でもある。鶫としてはこの姿の時に七瀬鶫側の知り合いと会うのは出来るだけ避けたかった。恐らく気づかれることはないと思うが、それでも不安はあるのだ。
そうして冷や冷やしながら二人で話をしていると、柩が中から戻ってきた。
「ごめんなさい、お待たせしてしまって。撫子ちゃんは、ちゃんとお礼は言えた?」
「はい。他にもたくさんお話が出来ました!」
「ふふ、良かったわね。――私たちはこれから陸に戻るつもりでいるんですけど、葉隠さんはこの後何か予定はありますか? 良ければ一緒にお茶でもどうでしょうか。この子も話し足りないようですし」
そう聞いてきた柩に、鶫はやっぱりそういう流れになるよな、と思いながら承諾の意味を
込めて頷いた。
「はい、私でよければ喜んで」
……本当は予定があると答えても良かったのだが、海で漂っていたような奴がいきなり「用事がある」と言っても断る口実くらいにしか思われないだろう。無理に断って、期待のまなざしで鶫を見ている少女――夢路の心を傷つけることは鶫には出来そうもなかった。
◆ ◆ ◆
海から陸に戻った鶫たちは、夢路家が有する海に隣接した別荘のテラスにて顔を合わせていた。……船が陸に着いたときに最初に見えた建物は流石旧家の別荘だと思ってしまうくらいに立派で、こんな格好で出歩いていいのかと不安になったが、通されたのが別宅のテラスで安心した。
テラスの近くには時折波がやってきて、白い砂浜を濡らしていく。鶫の前には、鶫の姿に気を使ってか、合わせて水着を纏ってきた柩や少女二人――船酔いから回復した虎杖たちがやや緊張した面持ちで椅子に座っていた。
「ええと、その、私は虎杖叶枝っていいます……」
戸惑いがちに口を開いた虎杖は、状況が理解しきれていないのか不安そうに夢路の手を掴みながらそう言った。
……虎杖からしてみれば、船から降りたと思えば急に十華の魔法少女と対面で話をすることになったのだ。戸惑わない方がおかしい。
「こんにちは、虎杖さん。私のことは知っていますか?」
「はい、もちろん。葉隠さんは有名ですし……。お会いできてうれしいです」
「ふふ、ありがとう。夢路さんから聞いたのだけれど、虎杖さんは魔法少女を目指しているのよね? 何か聞きたいことがあったら何でも聞いて下さいね。まあ、私は所属としては在野の魔法少女だからあまり参考にはならないかもしれないけど」
鶫が優しくそう言うと、虎杖はたどたどしく質問を始めた。
「えっと、在野って、神様から直接スカウトされた人のことですよね。政府の魔法少女とは何が違うんですか?」
「うーん、主に待遇でしょうね。在野は政府の縛りがない分自由度が高いけれど、政府施設の使用が出来なかったり、報奨金の額が下がったりします。学業面でいえば、バイト扱いになるので魔獣との戦いで学校を休んでも公休にならなかったりしますね」
「そ、そうなんですか……。何だか、大変ですね」
思っていたよりも庶民的な回答がきて驚いたのか、虎杖は困惑しながらそう頷いた。
……でもいくら同じ魔法少女とはいえ、在野と政府所属とでは立場が違うのだ。そこははっきりさせておかなくてはいけない。
「組織に属さないというのは、つまり後ろ盾がないのと一緒ですから。特に理由がなければ政府所属になってしまうのが一番ですよ。私はちょっと神様の御意向でそれは出来ないんですが……。そうですね、あと違うとすれば神様との関係性でしょうか」
そう言って鶫が困ったように笑うと、黙って虎杖たちを見守っていた柩が不思議そうに口を開いた。
「神様との関係性? 何か違う様なことがあったかしら?」
「ありますよ。政府の魔法少女は、候補生の中から神様が契約者を選ぶスタイルですけど、神様が契約者にあれこれしつこく行動に口を出したりはしないでしょう? 引退する時だって、魔法少女の意志が最優先ですし。――でも在野の魔法少女にとっては、神様が圧倒的に上なんです」
――在野の魔法少女の数割は、魔獣の結界事故に巻き込まれた被害者だとベルが以前に話していた。
命を助ける代わりに、その身を神に差し出す。それは古くから存在する人と神の契約であり、簡単に破れるものではない。それ故に、在野の魔法少女は神様の無茶ぶりによって高ランクの戦いを強制され、命を落とすことも少なくはない。
鶫が契約を交わした神様も最初はその類の外道な気配が見え隠れしていたが、今となっては最高の神様だと信じて疑わないので何の問題もない。
「在野の魔法少女の多くは何らかの願いと引き換えに神様の手を取っています。――それ故に、在野の魔法少女は神様からの許可がない限り、魔法少女を辞めることが出来ない。取る手を間違えた子は、それこそ悲惨でしょうね」
「そんなことが……。知らなかったわ」
ショックを受けた様に口元を押さえる柩に、鶫は苦笑しながら言った。
「政府にいる在野の魔法少女は、基本的に神様との関係が良好ですからね。最初から政府に所属していた柩さんが知らなくても無理もないと思います。それに、柩さんの神様はお優しい方でしたから。不快な内容を柩さんの耳に入れない様にしてくれていたのかもしれませんね」
「そうかもしれないわ。あの方は、私を実の子供の様に可愛がってくれていたから……」
ほんのりと目尻に涙を浮かべる柩を見ながら、鶫は柩の契約神――大蜘蛛の姿をした鬼子母神の姿を思い浮かべた。……枕元に立たれた時は正直トラウマになるくらい恐ろしかったのだが、柩にとっては良い神様だったのだろう。
「じゃあ、在野のスカウトは受けない方がいいんですか?」
青い顔をして怯えながらそう問いかけてきた夢路に、鶫は小さく首を横に振った。
「在野の神様すべてが悪いわけではないんです。中には人間社会に詳しくなくて限度が分からなかったというケースもありますし、それこそ神様次第でしょうね。――少なくとも、私は今の神様に出会えてよかったと思っています。きっとあれが、私の人生の中で一番の幸運だったと思うくらいには」
幸せそうに微笑みながら、ベルのことを思い浮かべる。この一年、辛いことも苦しいことも沢山あったけれど、何とか乗り越えてこられたのはきっとベルが側に寄り添ってくれたからだ。
そんな穏やかに笑う鶫を見て、虎杖がぽつりと呟くように言った。
「――私もいっぱい努力したら、葉隠さんの神様みたいな素敵な神様と出会えますか?」
「ええ、きっと。優しい神様はいつだって頑張る人間のことを見守ってくれていますから」
そうであってほしいと思いながら、言葉を紡ぐ。――彼女の手を取ってくれる神様が、この子の良いところを見てくれればいい。そう願わずにはいられない。
それからしばらくの間、魔獣との戦いの感想や柩が語る候補生の実態などに耳を傾けた後、話し疲れた少女達は、折角水着に着替えたのだからと柩に言われて気晴らしに海へと駆けて行った。
「――ありがとうね、葉隠さん」
「いえ、私もあの子達と話すのは楽しかったですから。あんな素直な子が将来の後輩だと思うと、今後が楽しみですね」
鶫がしみじみとそう言うと、柩は小さく首を振って口を開いた。
「それもあるけれど、そうじゃないの。不安がるだろうからあの子達の前では言えなかったけれど、――私、あの時のお礼をきちんと貴女に言えてなかったから。助けてくれて、本当にありがとう。迷惑をかけて本当にごめんなさい」
鶫の手を取り、頭を下げながら柩はそう言った。
「柩さんは何も悪くないですよ。それに、お礼を言いたいのは私の方です」
「え?」
「――生きていてくれて本当にありがとうございます。おかげで私は、自分を嫌いにならないで済みました」
――もしあの時、柩を見捨てる選択をしていれば鶫はきっと一生自分を許せなかっただろう。だからこうして柩が笑って生きていてくれる、それだけで十分だった。むしろ肺を一つ潰してしまったせいで、彼女の魔法少女としての未来を奪ってしまった負い目の方が強いくらいだ。
握られた手を握り返しながら、鶫はゆっくりとそう告げた。すると柩は、眩しいものを見るように目を細めて困ったように笑った。
「貴女が女性で良かったわ。男の子だったらきっと好きになっていただろうから」
「そ、それは光栄ですね?」
鶫が大人の女性の笑みに動揺しながらそう答えると、柩は悪戯が成功した子供の様に笑った。
「ふふ、冗談よ。――そういえば、最近は日向さんはどうしているの? 葉隠さんと仲良くしていると聞いたんだけれど」
「日向さんですか? 相変わらず忙しいみたいであまり政府ではあってないですね。ああ、でも今度一緒に他の支部の視察に行く約束をしていて――」
――そんな話をしている瞬間、背筋に悪寒が走った。足元から大量の芋虫が這い上がってくるかのような、異常な程の不快感。その奇妙な感覚に辺りと見渡した刹那、ソレを見つけた。
テラスの脇に咲く、二輪の赤い花。季節外れのチューリップの様なその花は、生き物の様にぐるりと鎌首をもたげてその空洞を鶫と柩に向けた。
パンッ、と銃声のような破裂音が辺りに響く。人が倒れる音と、流れる血。――十一年越しの呪いが、いま花開かれた。