126.夏と海と水着
学校が夏休みに入り、政府から無事休みをもぎ取った鶫は、クラスメイト達と共に海のある遠くの街へと旅行に来ていた。
参加者の一人が有するプライベートビーチのコテージを借り、数日間の旅行を楽しむ予定だ。高校三年の夏――受験に追われる前の最後の長期休みとあってか、クラスメイト達もかなり羽目を外しているようだった。
この夏が終わればいくら普段は能天気な彼らも、勉強に時間を取られ付き合いが悪くなることだろう。……まあ、それでも時間を見つけて騒ぎそうな気もするが、それはそれ。
今日は、そんなバカ騒ぎをした後の三日目――個々人で動き回る自由時間だった。他の友人たちは観光地での買い物や、前に言っていたようにナンパに繰り出しているようだったが、鶫はどうにも食指が動かなかった。
色々な誘いを断った鶫は泊まっていたコテージで一人ぼんやりとしながら、ふと海に泳ぎに行くかと思いたった。誰にも邪魔されず、何も考えずに波に揺られるのもたまにはいいかもしれない。
そう考えた鶫は着替えを取り出そうと鞄を開けると、奥の方に見覚えのない紙袋があることに気が付いた。
「ん? なんだこれ……誰の仕業だ。まさか秋山か?」
不思議に思い紙袋を取り出して中を見てみると、そこには予想外の物が入っていた。
苦々しい顔をしながら中身を取り出す。するとそこには黒い女性用水着――いわゆるフレアビキニにレースのパレオが付いたような物が入っていた。
「…………」
鶫は冷静に水着を一度紙袋の中に戻し、警戒するように周りを見渡した。……こんなところを誰かに見られたら、変態の誹りは免れない。
そうして誰もいないことを改めて確認し、安堵した息を零した。ドッキリにしてはあまりにも性格が悪すぎる。
そう考えながら大きく舌打ちをすると、鶫は足元に小さなメモが落ちていることに気が付いた。嫌な予感がしつつも、そのメモを拾って目を通す。鶫は端から端までそのメモを眺めると、今にも壁を殴りそうな顔をしてぽつりと呟くように言った。
「ふざけんなよあのクソウサギ……」
ぐしゃりと握りつぶされたメモが、床へと落ちていく。そのメモには【約束通り、夏に合わせて特別に服を用意したので是非着てほしい。P.S.写真は出来れば海をバックにしたものが望ましい。兄より】と書かれていた。つまりは、そういう事である。
「夏服をあげるって言われたから、確かにその時は頷いたよ。でも浴衣とかだと思うだろ普通は。まさか水着だとは……しかも女性用……。くそっ、受けとったら着て写真を撮るなんて約束するんじゃなかった!!」
膝をつき、両手を床に叩き付けながら鶫は小さな声でそう吠えた。先日、急にシロがそわそわしながら「可愛い弟に夏服を贈りたい」と言い出したので、断るのも悪いと思い軽い気持ちで約束してしまったのが仇となった。
――見なかったことにしてしまおうか。そう思うも、鶫は諦めた様に小さく首を横に振った。いくらシロが鶫の契約神ではないとはいえ、神は神。たとえ騙されたようなものだとしても、神との約束事を破れば何が起こるかわからない。
「冗談だろ……。男の海パンとはわけが違うんだぞ? 女の姿で、こんな下着みたいな恰好で外を歩けるわけないだろ。まだゴスロリの方がマシだよ……」
可愛い服を着て歩き回るのと、水着とではわけが違う。あんなもの下着と変わらないじゃないか。
……男である鶫にはよく分からないが、そもそも世の中の女性は水着と下着の違いをどう捉えているのだろうか。露出度的には同じくらいなのに。
虚無の表情を浮かべながら、水着を目の前に掲げる。幸いにも胸元は目立たない様にフリルの布で隠れており、太もものあたりも腰布でそれなりに隠れる。その代わり腹は丸見えになるが、それくらいだったらまだ妥協はできる。……こちらが許容できるギリギリのラインを攻めてくるのがまたいやらしい。
「俺が着るのか、これを。……あー、本当に嫌だ」
変身後の体とはなんだかんだでもう一年近く付き合っているので、今更女の体で着替えをするのが恥ずかしいと言うつもりはない。
ただ、それでも水着だけは抵抗があった。それは変身時の顔が自分というより姉――さくらお姉ちゃんとあまりにも似ているから、姉に無理やり露出度の多い服を着せてるような微妙な気持ちになるのだ。
――でも、約束しちゃったんだよなぁ。破ったら破ったで面倒そうだし、やっぱり着るしかないか……。
そう考えながら、鶫はカーテンを少し開けて外の様子を見た。この二日間は海で遊びつくしたせいか、今日は海で泳いでいる人間は誰もいなかった。
どうやら他のみんなは街へ観光に出たか、一般客がいるビーチの方へと向かったらしい。つまり、誰にも見られずに海で写真を撮るなら今が絶好の機会というわけだ。
「はぁ、仕方がないか」
そう言って、鶫は大きなため息を吐いた。そしてのろのろと立ち上がると、水着を手にして鍵のかかるトイレへと入っていった。
◆ ◆ ◆
「……それにしても、めちゃくちゃ落ち着かない」
男の時よりもやや高い声でそう呟きながら、鶫は腰に巻かれたレースの布を摘まみ上げて肌色が目立つ己の恰好を見下ろした。鏡で全体を見てみたが、それなりに似合っているのが腹が立つ。上は耐えきれずに男性物の薄手のパーカーを羽織っているが、それでもやっぱり心もとない。
それに加え、緊張と後ろめたさのせいか、胸が不整脈のように高鳴って落ち着かない。まったく、もし変な性癖が目覚めたらどう責任を取ってくれるのか。
そう心の中で自分を茶化しつつ、表面上は冷静を保ちながら鶫はコテージの外へ出た。冗談でも言わないとやってられない。
眩い日差しが、白い手足に反射する。……今のところ人影は見えないが、それでも注意は必要だ。
糸を伸ばし周りに人がいないか慎重に探りながら、足早に海へと駆けた。もしかしたら、対魔獣の時よりも必死で索敵をしたかもしれない。
そうして身を隠すことが出来る岩場がある場所までたどり着き、鶫はほっと息を吐いた。
「――よし、誰もいないな」
こそこそとしながらそう呟き、指示された通り海をバックに携帯で自撮りをする。少し引き攣ったような笑顔になってしまったのはご愛敬というやつだろう。
……そもそもシロはなんでこんな写真が欲しいのだろうか。いくら見た目はそれなりだろうと、中身が男だと知ってる奴の水着写真なんてネタ扱いにしかならないだろうに。
「いや、きっとあれはただ単純に、思い出をいろんな形で残しておきたいタイプなだけだな。言動が収集癖があるクラスメイトによく似てるし」
食べ物などの消え物を好むベルとは違い、シロは思い出を重視する傾向がある。人と同じように神様にも様々な性格がいるのだろうが、ここまで俗っぽいと逆に珍しいのかもしれない。
そうして無事にミッションを終えた鶫は、さっさと着替えて変身を解除しようと砂浜を歩きだしたのだが、遠くから人の気配を感じ、ピタリと足を止めた。
岩場に隠れながら糸をピンと張り、指先から音を拾う。するとざわざわとして聞き取りにくいが、何人かの若い男女の声が聞こえてきた。……もしかしたら、誰かがコテージに帰って来たのかもしれない。
そう思った瞬間、鶫の頭の中に『知り合いにばれる』『きわどい水着姿』『社会的な死』などの単語が次々と浮かび――一時的なパニックに陥った。
焦った鶫は携帯を乱雑にパーカーのポケットに突っ込み、流れるような動作で海へと飛び込んだのだった。
◆ ◆ ◆
……冷静に考えたら、転移で一旦家に帰ればそれで済む話だったな。必死で泳いで損した。
鶫は海岸から遠い沖でぷかぷかと波に揺られながら、死んだ目でそう思った。焦ってここまで逃げてきてしまったが、自分のスキルのことをすっかり失念していた。魔獣相手でもここまで狼狽えたことはなかったのに……。
自己嫌悪でうわぁ、と呻く様な声を出しながら深く沈む様に海に潜る。やはり、慣れない恰好をしていたせいで精神が浮ついていたのかもしれない。携帯が水の中でも使える完全防水だったことがせめてもの救いだろう。これで携帯まで駄目になっていたら立ち直れなかった。
そうして陰鬱な気持ちのままくるりと水中でターンをし、光が差す方を見上げる。その光景を見た鶫は、ぴたりと動きを止めた。
――なんて、美しいんだろう。
上で揺れる水面がきらきらと光を反射し、大小さまざまな魚たちが鶫のことを気にもせずに自由に泳いでいる。その絵画のような光景に、思わず目を奪われた。
そうして暫くの間その光景を眺め、鶫は苦笑するように笑った。自然が作り出した壮大な景色を見ている内に、自分のちっぽけな悩みがどうでもよくなってきたのだ。
――あーあ。目的も達成したんだし、さっさと帰って着替えよう。今回の厄介事はこれで終わり。切り替えて旅行を楽しまないと。
鶫はポケットから携帯を取り出すと、そのまま水面にカメラを向けて一枚の写真を撮った。鶫の水着写真なんかよりも、こっちの方がよっぽど価値がある。
そしていい加減息が苦しくなってきた鶫が水面に上がろうとした時、急に頭上に丸い影が出来た。不思議に思いながら、その影に手を伸ばす。
「ぷはっ。……なんだこれ、女の子の帽子?」
丸い影の正体――可愛らしい麦わら帽子を手に取って、鶫は首を傾げた。すると、少し離れた場所に一台のクルーザーがあることに気が付いた。そのクルーザーは、ゆっくりとだが真っすぐに鶫の方へと向かってくる。
目を細めてみると、髪の長い女性と小さな女の子が双眼鏡を使いながらこちらを指さしているのが見えた。もしかしたら、あの子の帽子がここまで風か何かで飛ばされてしまったのかもしれない。
……たぶん向こうにもこちらの姿は見られてるだろうし、逃げるわけにもいかないよなぁ。でもあんまりこの姿は人に見られたくないし、どうしようか。
そんな風に鶫が悩んでいる間に、クルーザーに乗っている人物の顏がしっかりと目に入った。そのどこかで見たような顔に、鶫の動きが止まる。……ある意味、逃げる選択肢がなくなったともいえる。
そうして速度を落としながら近づいてきた船から鶫のことを呆然と見つめ、心底不思議そうにその女性は問いかけてきた。
「――ええと、その。こんなところで何をやってるんですか、葉隠さん」
「……見ての通り海水浴ですよ、柩さん」
鶫が引きつり気味の愛想笑いをしながらそう答えると、元十華序列六位――柩藍莉は「こんなところで?」と困惑した顔をしながら水の中にいる鶫に手を差し伸べた。