122.人でなしの悪魔
風呂から出た鶫は、暫くのあいだ行貴と他愛もない話をした後、明日も早いのでリビングのソファーを借りて眠りにつく事にした。
「……それにしても、この香りは何なんだろうな。あいつはリラックスできるお香とか言ってたけど」
くん、と部屋に香る甘い匂いを嗅ぎながら鶫はそう零した。
行貴が「貰い物なんだけど、僕はこういうの興味ないから鶫ちゃんが使って感想聞かせてよ」と一方的に告げて置いていったアロマスタンドには、小さな花の形をしたお香が置かれており、キラキラと小さな光を灯している。
別に不快な匂いではないだが、この砂糖菓子の様に甘い香りは何となく落ち着かない。
だが、そんなことを考えている間にも時間は過ぎていく。明日は学校もあるので、朝早くには此処を出て家に帰って仕度をしなければいけない。朝は転移で若干の時間は節約できるが、それでもこれ以上の夜更かしはしない方がいいだろう。
そう考えた鶫は、手慣れた様に部屋の電気を消してソファーに寝そべった。そして借りたタオルを腹の上に掛け、ゆっくりと目を閉じた。それと同時に心地よい微睡みに襲われる。
――今日も大変な一日だったな。本当に、疲れた。
つらつらとそんな事を思うのと同時に、意識が闇に沈んでいく。そしてぶつりと糸が切れるかのように、鶫は静かに眠りについた。
◆ ◆ ◆
――鶫が動かなくなった後、明かりの消えたリビングに忍びよる影があった。
寝間着ではなく、白いワイシャツに黒のスラックスを身に纏った行貴は、片手に小さな小箱を持ちながらリビングの中へと入っていった。
「よく寝てるね。ま、睡眠薬が入った煙を吸ったんだから当然か。――体には残らないタイプの薬だから許してね」
そして行貴は眠る鶫を見下ろすと、そっと鶫の首筋に手を伸ばし、力を込める様に柔い喉笛に触れた。
「……僕自身が君を殺すことは出来ない。人を直接手にかけたとなれば、流石に政府の神に勘付かれるだろうしね。流石の僕もアイツらとの鬼ごっこは勘弁してほしいからさ。ごめんね、手際が悪くて」
そう言ってフッと笑って手を離すと、行貴は小箱の中から小瓶を一本だけ取り出した。その小瓶には、紅玉を砕いて液体にしたかのような美しい水が入っている。
行貴は静かにその小瓶の蓋を開けると、鶫の口元にまで小瓶を持っていき、ゆっくりと口を傾けた。
「ほら、飲みなよ。僕が時間を掛けて溜めた高純度の力だ。君にはよく馴染むだろうさ」
こくこくと鶫の喉が上下し、赤い液体を飲み干していく。そうして鶫が最後の一滴まで飲み干すのを見届けると、行貴は小瓶を投げ捨ててどっかりとその場に座り込んだ。
そうしてぼんやりと鶫の寝顔を見つめながら、行貴は目を細めた。
――自分がたかが人間にここまで入れ込むことになるなんて、一体誰が予想できただろうか。そう考えて、行貴は自嘲した。
基本的に人間という種は『自分と違うイキモノ』を嫌い、迫害し、自分から遠ざけようとする。それは潜在的な恐怖からくる物であり、種としての防衛本能でもある。
そんな臆病な本能を持った人間達は成長するにつれ、宗教家が作り上げた善悪の定義を学び、己が悪だと断じたモノを忌み嫌うようになった。それが正しいことだと信じ込みながら。
――だが、七瀬鶫にはそれがない。
七瀬鶫という人間は、この世に生まれる前からルシファーの分霊――梔尸沙昏によって魂に調整を加えられている。邪神を受け入れる為の器として。それはつまり、魂が【悪】を忌避しない様になっているという事だ。
つまり鶫自身が直接的な酷い被害を被らない限り、彼は行貴の様な悪をも許容する。……それがどんなに得難い奇跡なのか、本人はきっと知ることはないだろう。
「僕も、ルシファーも、結局は同じ穴の貉だ。かつてサタナエル――神の御使いと呼ばれた僕らは、予定調和の様に悪に堕とされた。それ以外の生き方は許されなかったとはいえ、別に思う所が無いわけじゃないんだよなぁ」
――天吏行貴は、裏で人の心の無い天使と呼ばれている。行貴はずっと、その呼び名は言い得て妙だと思っていた。だって行貴という人間の皮を被って生きている人外は、文字通り天使の失敗作なのだから。
「ベリアル――邪悪な者と称された僕は、光をもたらす者と名付けられたアイツと違って汚れ仕事が多くてさ。今あるサタンの伝承なんて、アイツより僕がやったことの方が多いくらいだ。あーあ、そんな事だから人の皮を被っても人間に嫌われるんだろうな」
そう呟いて、行貴は肩を竦めた。人の皮を被り、人間のふりをしてみても滲み出る悪の気配を察知され嫌悪される。中には心の弱い人間や、美貌に誑かされた人間が狂信者の様に寄ってくることがあるが、それもごく少数である。
それに加え、創造主から付加された祝福――人類の敵対者であれという定義付けは、人の身に移っても変わることはなかった。元よりベリアルはこの地に降りてくる際に魔獣の力を多く流用している。そう考えると、人の敵対者として振る舞うのは至極当然のことだろう。
定義づけられたままに悪として振る舞い、奔放に、辛辣に、人を踏みにじる。まあ、それも他の神から目を付けられない程度の些細なものだが。
そしてそもそも、天吏行貴――堕天使ベリアルは人間の利益になる行動を取ることが出来ない。あの融通が利かない創造主にかくあれかしと、そう望まれたからだ。
だが別に行貴自身はそれとどうとも思っていない。行貴にとって人間は退屈しのぎの玩具であり、己の楽しみの為に消費される哀れな生贄でしかないのだから。
だがそんな有様だからこそ、真っ当な人間は絶対に行貴には近寄ってこない。行貴の背後に、唾棄すべき悪を見てしまうからだ。
――けれど、七瀬鶫は違う。彼だけは悪としてのベリアルではなく、真っすぐにあるがままの『天吏行貴』を見たのだ。そして行貴自身も、鶫に対してのみ神の祝福が作用しないことに気が付いた。恐らくはルシファーの調整の結果だろうとすぐに気が付いたが、そんなことはどうでも良かった。
あの時の衝撃を、何と例えればいいのだろうか。動揺と恐怖、そしてほんの僅かな期待と憧憬が胸を渦巻いた。新しい玩具を――大切な宝物を手にしたかのような高揚感。七瀬鶫は、まさに魔のモノにとって目新しい麻薬の様な存在だった。
鶫に対してのみ揺り動かされる新しい感情と想い。それは行貴にとってはとても新鮮で、得難いものに感じた。
神が作った楔から抜け出したたった一人の人間。行貴はそんな鶫が大好きで、大切で――だからこそ殺してやりたかった。
……鶫の命が長くないことは、初めて会った時から分かっていた。その魂に絡みついた呪縛は深く魂に根付いており、人の身に入っている行貴には対処できそうにもない。
鶫の魂に巣食う外法の神を模した魔獣は、やがて彼の魂とそれを守るルシファーの分霊の魂を喰らい尽くすだろう。行貴は、それがどうしても許せなかった。
それ故に、行貴はこの哀れな人間を自分の手で終わらせてあげようと思ったのだ。……まあ、それは結局のところ善意というよりは独占欲に近いのだが。
どうせ失ってしまうのならば、自分が好きだったままの魂で死んでほしい。行貴の行動理由は、ただそれだけなのだ。
そんな子供の様な動機で自身の中の魔獣の力を呼び起こし、裂け目に干渉してイレギュラーの出現情報を読み取った。時には協力者である月読の力を借り鶫を追い込んだが、イレギュラーを使った襲撃は何度も失敗し、鶫は着々と終わりの日に近づいている。
――これも全て、邪魔をする奴がいるからだ。
行貴は苛立ちのままに鶫の胸元を掴み、ぎりぎりと締め上げた。けほり、と苦しそうに鶫が息を吐く。
「――ねえ、ルシファー。いや、今はサクラと呼んであげた方がいいのかな? どうせ聞いてるんだろう。わざわざ力を分けてあげたんだから、さっさと返事をしろよ」
行貴が冷えた声でそう告げると、鶫の睫毛がふるりと揺れた。そして静かに瞼が開かれていく。だが、その両眼の色は――鶫とは似ても似つかない赤黒い色をしていた。
「……うるさいなぁ。気安く私の物に触らないでよ、鬱陶しい」
鶫の姿をしたそのイキモノは、可愛らしい少女の声でそう告げた。
そして忌まわしそうに行貴の手を払いのけながら上体を起し、座り込む行貴のことを見下ろした。爛々とした赤黒い目が、行貴を見つめる。
「それで? わざわざ私を呼び出して何の用があったのかな、泥棒猫のベリアルくん」
くすくすと少女の声が暗い部屋に反響する。――悪魔たちの密かな邂逅が始まろうとしていた。
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