114.久しぶりの再会
あの誘拐事件から二週間。鶫と千鳥の関係は――驚くほど変わらなかった。……いや、変えない様に互いが意識していると言った方が正しいだろう。
いつも通りに振る舞っている様に見えるが、その瞳の奥には隠し切れない変化への怯えが滲んでいる。薄氷の上を渡るかのような緊張と、心の探り合い。息が詰まるとまではいかないが、何となく居心地が悪いのは確かだった。
一方、気になるのは遠野の動向だった。鶫は遠野から何かアクションがあるのかと身構えていたのだが、あの日以降遠野が鶫――葉隠桜に話しかけてくることは無かった。
鶫の出方を窺っているのか、それとも忙しすぎて鶫の相手をしている暇もないのか。どちらにせよ不気味な事に変わりなかった。
――そんなに気になるなら、遠野に問い質しに行けばいい。けれど鶫がそうしなかったのは、心のどこかに恐怖があったからだ。
……あの、遠野の人を見透かすような透明の眼差し。鶫の中に隠された澱を、これ以上暴き立てられるのが恐ろしかったのだ。
はたして遠野は何をどこまで知っているのだろうか。知りたいけれど、怖くて何も聞きたくない――そんな矛盾した気持ちを抱えながら、鶫は暫くの間様子を見ることにした。打つべき手が見つからなかったともいえる。
そんな臆病な鶫に対し、ベルは政府側の神に探りを入れると言って行動を開始していた。ベル自身も、鶫の過去に対して何か思うところがあったのかもしれない。――そのささやかな気遣いが、鶫は本当に嬉しかった。
例えベルが鶫に抱くその感情がただの同情だったとしても、鶫にとってその優しさは心の支えとなった。……それが依存に近い信頼だと鶫は理解していたが、自分の契約神に縋るのが悪いことだとはどうしても思えなかった。
――そして鶫は胃が痛くなる様な日々を流されるままに過ごし、季節はあっという間に茹だる様な暑い日が続く時期に切り替わっていった。
「やっぱりさー、俺としては出かけるなら海がいいと思うんだよ。だって綺麗なお姉さんの水着姿とか最高じゃん?」
「いや、オレは断然遊園地を推すね。夏のクソ暑い時期なら客も少ないだろうし、たまにはああいう所で存分にバカ騒ぎしたい」
「おいおい、夏といえば山だろ。皆でキャンプした後サバゲ―しようぜ」
「暑い場所は溶けるからヤダ。俺は室内でゲームの方がいい」
放課後の教室で、そんなことを思い思いに話しながら騒ぐクラスの友人たちに、鶫は呆れた様に言った。
「お前ら今年は受験生だろ。そんな遊ぶ予定ばっかり入れてていいのかよ」
鶫が帰り支度をしながら控えめにそう告げると、友人たちはケラケラと笑いながら口を開いた。
「はぁぁ、七瀬ってば本当に枯れてるよな。高校最後の夏だぞ? 騒がなきゃ損だろうが」
「そうそう。それに俺らは七瀬より頭良いから。必死になって勉強しなくてもそれなりの点数とれるし。ま、クラスの平均点すら超えられなかった七瀬にはわかんねーだろうけど」
「……ホントに腹立つなお前ら。学年の平均は超えてたんだから別にいいだろ」
そう言って、鶫は大きなため息を吐いた。
……十華での仕事や色々な心労が重なったこともあり、七月の定期テストは散々な出来だった。それでも学年の平均は何とか超えたのだが、それよりも一教科あたり十点は高いクラス平均は流石に超えられなかった。
そもそもこの学校自体がそれなりの進学校なので、授業を休みがちな鶫が落ちこぼれていないだけまだマシな方である。
――それにしても、夏休みか。最近は気の滅入ることばかりだったし、たまには羽目を外すのも悪くないかもしれないな。
壬生や鈴城、そして小さな友人である虎杖などからも夏休みの遊びの誘いは来ているが、細かい計画はまだ立てていない。だが十華の仕事も事前に都合が悪い日を言えば休むことが出来るし、数日の旅行くらいはどうにかなるだろう。
鶫がそんなことを考えていると、話し合いはだいぶヒートアップしているようだった。
「最後の年だしさ、暇な連中みんな誘って遠出しようぜ。何なら引率で渚先生とか誘ってもいいし」
「いや、むしろ渚チャンは引率される側では? ほっとくとすぐ迷子になりそう」
「ねぇねぇ、どうせなら泊りにしようよ。夜中に女子会とかしたい!」
「あ、私の親戚が別荘とプライベートビーチとか持ってるから、借りられるかどうか聞いてみるよ。たぶん二十人くらいなら何とかなると思う」
クラスの女子たちも話に交じり、着々と予定が組みあがっていく。
元気だなぁ、と他人事のようにその光景を見つめていると、一人が振り返り「当然七瀬も来るだろ?」と声を掛けてきた。
鶫は特に断る理由もないので頷いた。……正直なところ、海も山も遊園地もヤバい魔獣と戦った嫌な記憶ばかりでやや忌避感があるが、その辺は我慢するしかないだろう。
そして恐らく誘われないであろう友人――行貴の不満そうな顔が頭に過ったが、行貴は大人数で行動するよりも気心の知れた者といることを好むので、どうせ誘っても来ないだろうと自分を納得させた。
「じゃ、詳しいことが決まったら連絡するわ。あ、千鳥ちゃんも一緒に誘うか?」
そう聞いてきた友人に、鶫はゆっくりと首を横に振った。
「いや、千鳥は夏休みはきっと剣道部の合宿の手伝いの方に参加するだろうから。まあ、一応聞いてはみるよ」
「おう、頼んだ。――そういえば、なんか急いでるみたいだけど予定でもあるのか?」
興味津々といった様子で問いかけてきた友人に、鶫は意味深に笑いながら口を開いた。
「ああ。――可愛い女の子と待ち合わせをしてるんだ」
◆ ◆ ◆
――ま、女の子と言ってもまだ小学生の子なんだけど。
一瞬ざわついた教室をさっさと抜け出し、最寄りの駅に向かった鶫はそんなことを考えながら苦笑をした。……別に嘘は言っていないが、変に見栄を張ってしまったようで少し恥ずかしい。
そうして鶫が駅の南口に着くと、見覚えのある制服を着た少女たちの後姿を見つけた。その内の一人が振り返り、鶫を見て大きな声を上げた。
「あ、鶫お兄さん! 久しぶり!」
そう言って駆け寄ってきた少女――虎杖叶枝は嬉しそうな笑みを浮かべ、鶫に抱き着いてきた。それを難なく受け止めつつ、鶫は微笑ましいものを見るかのように目を細めた。
「久しぶり。叶枝ちゃんも元気そうでよかった」
虎杖とは時折電話やメッセージなどでやり取りはしていたが、こうして直接顔を合わせるのは遊園地の事件以来である。怪我もなく健康そうな虎杖を見て安堵しながら、鶫はもう一人の少女の方に目をやった。
「……仮にも明日香学院に通う淑女が、いくら恩人とはいえ殿方に抱き着くのはどうかと思いますけど」
そう言ってつんとした態度を取りながら、もう一人の少女――夢路撫子はため息を吐きながら鶫たちの方へと近づいてきた。
鶫がその小生意気な様子――最初にあったころに比べて随分と角が取れている様子をじっと見ていると、夢路は居心地が悪そうに眼を逸らした。
「な、何ですか。私が一緒なことに何か不都合でも?」
「いや、夢路ちゃんも元気そうで安心したよ。最後に会った時はあんな状態だったしさ」
鶫がしみじみとそう告げると、夢路は顔を赤くしながら俯いてしまった。……どうやら病室で虎杖にしがみついて泣きじゃくったことは、彼女にとっては黒歴史らしい。
「もう、あんまり撫子ちゃんのことからかっちゃ駄目だよ。お兄さんだって分かってるでしょ?」
そう言って頬を膨らまして怒る虎杖に、鶫は「ごめんごめん」と軽く謝りながら苦笑した。
けれど、夢路の様子を見て安心したのは本当だった。
――虎杖の友人である夢路撫子は家庭に問題を抱えていた。高い適性持ちだったが故に、家族には魔法少女になることを切望され、彼女はそれ以外の道を選ぶことは悪だと教えられてきた。
だが、あの遊園地で初めて魔獣と遭遇し被害を受けた夢路は、すっかり心が折れてしまったのだ。魔獣に対しての深いトラウマも重なり、魔法少女を目指すことを諦めてしまった夢路は、家庭内で居場所をなくしていた。
その潮目が変わったのは、柩に手紙を渡してからだ。虎杖からの情報によると、それ以降柩が夢路の家に足を運ぶことが何度かあり、柩との話し合いによって夢路の両親の考え方も徐々に軟化していったそうだ。今でも多少はギクシャクしているそうだが、それでも随分とマシになったらしい。
鶫としても、夢路の事は心配していたので良い方に転がって良かったと思う。――だって、家族は仲がいいのが一番なのだから。
「と、とにかく! ずっと此処にいるわけにもいかないので、移動しましょう。車まで案内するので付いてきて下さいね」
夢路はそう告げると、くるりと背を向けて駅の外へと向かってさっさと歩き出した。戸惑いつつもその背中についていくと、隣を歩いていた虎杖が小さな声で鶫に話しかけてきた。
「あのね、本当は近くのファミレスとかでお話しようと思ってたんだけど、撫子ちゃんに反対されたの。最近は物騒だから、不特定多数が集まる場所で大事な話はするべきじゃない、って言われて。ほら、私たちがお話しようとすると、どうしてもあの遊園地の話が出てくるでしょ?」
「……確かにそうだな」
いくら遊園地のイレギュラーの件が政府によって情報規制されていたとしても、当事者である鶫たちがうっかり話してしまえば、簡単に世間に情報が漏れてしまう。あの一件は今では随分と下火になっているが、それでも気を付けるに越した事はないだろう。
そうして鶫たちが駅のロータリーに停まっている車――見るだけで分かる高級車の前に辿り着くと、厳つい顔をした運転手が丁寧な動作で後部座席のドアを開いた。
その運転手の鋭い視線にたじろぎながら車に乗り込むと、鶫はハッとした様に夢路に問いかけた。
「そういえば、この車はどこへ向かう予定なんだ?」
――言われるがままに車に乗り込んでしまったが、まだどこに行くのかはまだ聞いていなかった。鶫がそう問いかけると、虎杖は意味深ににっこりと笑って、まるで内緒話をするかのように鶫の耳の途に顔を寄せて言った。
「あのね、撫子ちゃんのお家にお邪魔させてもらうの。セキュリティもばっちりだし。すっごく綺麗な家なんだよ!」
その虎杖の言葉に、鶫は引き攣った笑みを浮かべながら「そ、そっかぁ」と何とか返した。
……それは、運転手に睨まれるわけだ。どこかの店に行くのと、実家にお邪魔するのとでは周りが受け取る意味合いも変わってくる。
あの運転手からしてみれば、鶫は可愛いお嬢様をたぶらかそうとしている胡散臭い男に見えているのかもしれない。
だが彼女達にとって、鶫は所詮『ちょっと頼りになる年上のお兄さん』くらいにしか思っていないだろう。運転手の心配は杞憂である。
……でも、変なことは言わない様に気を付けよう。誤解を受けると困るし。
そう心の中で密に決意をしながら、鶫は小さなため息を吐いた。