105.天照の巫女
因幡に連絡を入れた鶫は、祈るように両手を組み、じっと椅子に座って目を閉じていた。
一方アザレアは興味深そうに立て看板の術式を見つめていて、一緒の部屋にいる少女は泣き疲れてソファーで眠っている。
現在映画館は警察によって閉鎖されており、立ち入れるのはスタッフと事件の関係者のみとなっている。なお、捜査権限はすでに政府に移っているが、政府側の人員が到着するまでは、警察がこの場を管理する手筈になっているらしい。
……警察からは、鶫が勝手に政府に連絡を取ったことについて、かなりきつい嫌味を言われたりもしたが、例の看板の文様を見せたら納得してもらえた。
それを見た警察の人はそういったモノ――呪術関係に耐性が無かったらしく、酷く気分が悪そうにしていた。どうやら、普通の人には見るだけで害を為すような術式らしい。
――政府が動いた以上、鶫が出来ることはもうない。誘拐犯の捜索も、囚われた人の救出も、それに特化した魔法少女が上手くやってくれるだろう。……そう信じるしかない。
それにしても、と鶫は思う。――アザレアは、何故一目見てあの文様が呪術によるものだと分かったのだろうか。
本人はその後ハッとした様な顔をして、取り繕うように「実は僕、第六感が鋭いんです」と曖昧に笑っていたが、どうにも怪しい。
――これはあくまでも鶫の推測だが、アザレアには何か秘密があるように思えてならなかった。留学の目的も、勉強の為と話していたが、それすらも本当かどうか分からない。
……だが、少なくとも今回の件に関してはアザレアは無関係だと鶫は考えている。アザレアがこの映画館に来たのはどう考えても偶然であり、誘拐犯と共謀しているとは考えにくい。
もしアザレアが誘拐犯と共犯関係にあるならば、先程の様に文様について口走るなど、わざわざ疑われるような真似はしない筈だ。
――まあアザレアからしてみれば、立て看板の呪術の気配をいち早く察知し、尚且つ政府へのパイプを持っている鶫の方が奇妙な存在に見えているのかもしれない。秘密があるという点においては、お互い様なのだろう。
「……ん?」
大人しく待機をしていた鶫は、奇妙は気配を感じて顔を上げた。どうやらそれは、段々とこちらへ使づいてきているらしい。
「……俺、ちょっと外の空気を吸ってくる」
確認するために外に出ようと思った鶫がそう告げると、アザレアも続く様に立ち上がった。
「あ、僕も一緒に行きます」
「うん? まあ別にいいけど」
そう言って、鶫たちは映画館の出入り口へと向かった。途中で現場保存をしている警察官に止められたが、ずっと室内にいるばかりでは気が滅入るので外の空気が吸いたい、と言い張って何とか外へ出た。その瞬間、ひんやりとしていた空気が、一瞬で蒸し暑い陽気に切り替わる。
そんな暑さにうんざりしながら辺りを見渡した瞬間、地面に落ちた影がものすごい勢いでこちらに近づいてくるのが見えた。嫌な予感がして鶫が空を見上げると、ビルの隙間を縫うように赤い物体が動いているのが分かった。
「……何だあれ」
――赤いバイクが、空を走っている。正確に言えば、ビルの壁を走っているのだが、あの地球の重力を無視したような動きは、もう飛んでいると表現しても過言ではない。
そのバイクは徐々に高度を下げると、やがて緩やかに鶫たちの目の前に着地した。乗っている人物は二人――見たところ、二人とも女性の様にも見える。
鶫が警戒した面持ちで二人組の動向を窺っていると、運転していた女性がおもむろにヘルメットを脱いだ。深紅の長い髪が、肩に散らばる。
「映画館はここみたいね。――あら、もしかして貴方が通報者の子?」
そう言って、誰よりも美しい女――遠野すみれは鶫に微笑んだ。
◆ ◆ ◆
「そう。これが例の術式。――随分と手の込んだ真似をするのね」
バイクを降り、颯爽と映画館の中へと入ってきた遠野は、スタッフルームに入るや否やすぐに立て看板の方へと足を進めた。
促されるようにその背中について行った鶫は、遠野が立て看板を調べているのを横目に見ながら、鶫にしがみ付いている人物――鈴城を見つめた。
「ほんとに、もう無理。あんなの落ちたら死ぬってば。速いし風は強いし、すみれちゃんは話を聞いてくれないし。……ごめんね、鶫君の方が大変なのにこんな事ばっかり言って」
「いいよ。――十華が動いてくれてるって分かって、俺も少し安心したから」
半泣きの様な表情を浮かべながら、鈴城は鶫の服の裾を握っている。……鈴城がこんな状態になってしまったのは、遠野がバイクを降りて直ぐのことだった。
空飛ぶバイクに乗っていたもう一人の人物。その人物はふらふらとバイクから降りると、ヘルメットを被ったまま鶫に向かって抱き着いてきた。
「は、え? あの、ちょっと」
男ならともかく、相手が女性だったので突き放すことも出来ず、鶫は行き場を失った両手を彷徨わせながら、困ったように遠野の方を見つめた。すると遠野は微笑ましいものを見る様に目を細めながら、予想外の言葉を口にした。
「あら? 鈴城さんったら随分と熱烈なのね」
「す、鈴城? それに十華の遠野さんも、何でこんなところに……?」
鶫が動揺した様にそう告げると、遠野は微笑みを保ったまま口を開いた。
「それは私たちが政府から派遣された救出班の一員だからよ。――さ、こんなとことで立ち話をしている暇は無いわ。例の看板のある場所まで案内してもらえる?」
「あ、はい。……鈴城、ほら、何があったか知らないけど、中に入ろう。此処じゃちょっと目立つから。ほんとに」
警察が映画館の前の通りを封鎖しているとはいえ、人の目が全くないわけではない。遠野がいると声が上がっただけで立ち入り禁止の柵の前に人が集まりだしているのに、いくらヘルメットで顔が隠れているとはいえ、十華の一人である鈴城に抱き着かれている男がいるだなんて世間に知られたら、炎上どころの騒ぎでは済まされないだろう。
ぐずる様にぐりぐりとヘルメットを押し付ける鈴城を誘導しながら、鶫は映画館の中へと足を進めた。そして、先ほどから全く動かないアザレアの方を振り向き、怪訝そうな声を上げた。
「アザレア? どうしたんだ?」
鶫がそう声を掛けると、アザレアはビクッと肩を揺らして呆然とした表情を浮かべた。
「七瀬君は、何も感じないんですか?」
「何もって、何が。確かに遠野さんは滅茶苦茶美人だったけどさぁ、今はそれどころじゃないだろ」
――十華の集まりでも思っていたが、遠野の美貌は群を抜いている。艶やかな赤髪に、蠱惑的な容姿。おまけに体型すら男の理想を体現したかのようなプロポーションだ。
鶫の場合、精巧な美術品を鑑賞するような気持ちに近いのだが、それでも見惚れてしまうのは仕方がない。
そう鶫が茶化すように言った瞬間、腰に回っている手の締め付けが更にきつくなったが、今はそれは置いておく。
鶫がそんなことを告げると、アザレアは苦しそうな顔で吐きだすように言った。
「そうですか。七瀬君には彼女がそう見えるんですね。……僕には、あの人は人型の炎の塊にしか見えませんでした。それこそ、全てを焼く尽くしてしまうほど強く。……すみません。変なことを言いましたね。僕はロビーで待っていますから、七瀬君は先に行って下さい。少し、冷静になりたいので」
「ああ、うん。……なんか、感受性が強いって大変だな」
遠野の能力は確かに炎に偏っている。その能力の本質が、アザレアには炎そのものとして見えてしまったのだろう。
鶫にはよく分からないが、アザレアも涼音と同じように特殊な能力の持ち主なのかもしれない。外国ではそういった能力にあまり理解が無いと聞くし、それならばアザレアが留学先を日本に選んだのも何となく納得できる。
憔悴したアザレアの姿に後ろ髪を引かれながらも、鶫は鈴城を連れて映画館の中へと入っていった。そのまま入り口で待っていた遠野を引き連れ、スタッフルームへと向かったのだ。
――そして、今に至る。
ヘルメットを脱いだ鈴城は、ぐすぐすと鼻を鳴らしながら恐怖体験を吐露している。……たしかに壁を縦横無尽に走るバイクの後ろにしがみ付くというのは、女の子には中々ハードな経験かも知れない。
鶫としては少しだけ空飛ぶバイクに浪漫を感じたのだが、残念だがきっと乗ることはないだろう。鶫――葉隠桜が転移能力を持っている以上、移動の為の道具は必要ない。政府だって、ただ乗ってみたいという理由だけでは使用許可は出してくれない筈だ。
「なるほど。大体理解したわ。これの効果は、人払いと適性者の呼び込みってところね。しかも使われているのは、恐らく術者の血。――これなら早く事が済みそうね」
立て看板をじっと見つめていた遠野は、顔を上げるとそんなことを言った。そしてそのまま看板を机の上に置き、そっと自身の右手を上に翳した。
部屋の中の空気がピンと張り詰め、鶫は緊張から思わず息をのんだ。鳥肌がたった腕を擦りながら、遠野を畏怖の目で見つめる。
――これが、天照の巫女。
美しい顔も、魔法少女としての強さも、遠野にとってはただの付属品にしか過ぎない。彼女にとっては、彼の神の巫女であることが最大の価値なのだから。
「巡れ巡れ、龍の理。辿れ辿れ、根の縁。いざや、この地を踏み荒らした愚か者への制裁を下さん」
遠野がそう告げると、立て看板がひとりでにガタッと揺れ、その中央から黒い靄の様な物が現れた。遠野はその黒い靄をぐっと握ると、静かに口を開いた。
「――燃えろ」
その言葉と共に、立て看板から火柱が上がった。鶫は焦ったように遠野を見つめたが、彼女は平然とした顔をして炎の中に手を突っ込んでいる。どうやら、本人は熱さを感じていないようだ。
やがて炎が収まると、遠野は落ち着いたように微笑みを浮かべながら鶫たちの方へ向き直った。
「これで捜索の妨害をしていた術者はもう動けない筈です。政府の方でも、そろそろ誘拐犯の居場所を掴んでいる頃でしょうね。ほら、鈴城さんも駄々を捏ねてないで行きますよ」
「うう、分かってるってばぁ」
遠野が諭すようにそう告げると、鈴城は名残惜しそうに鶫の服を手放した。……どうやら、帰りもあのバイクに乗って帰るらしい。
「それにしても、あの子――千鳥さんの契約神は何をしていたんでしょうね。政府でも連絡が取れないみたいですし」
ほう、と憂鬱そうなため息を吐きながら遠野はそう言った。
「千鳥は、神様は用事があって出かけていると言っていました。今朝から姿は見ていないそうです」
鶫がそう答えると、遠野は綺麗な眉を歪め、うんざりしたような顔をして口を開いた。
「そうなの? ……本当に、肝心な時に役に立たないんだから」
「え?」
「ああ、いいの。気にしないで」
そう言って遠野は、鈴城を連れて映画館の出口に向かった。その途中で、遠野は思い出したように鶫に言った。
「そういえば、貴方とあの外国人の男の子。あと部屋で寝ていた女の子と一緒に、この後タクシーで政府にまで来てくれないかしら。多分数時間以内には被害者の子達も保護できるだろうし、その時はお友達や家族が一緒にいた方が安心するでしょう? もう一人の被害者のご家族にも連絡が行っているから、貴方達も政府に着いたら指示に従って待っていて欲しいの」
「はい、分かりました。彼らにも伝えておきます」
鶫が頷くと、じっとこちらを見ていた鈴城が駆け寄り、ぎゅっと強く鶫の手を握った。そして真剣な目で鶫を見つめながら口を開いた。
「千鳥ちゃん達は、私とすみれちゃんが絶対に助けるから。心配しないで」
「うん。――本当に、ありがとう」
鈴城の気遣いに対し小さく笑みを浮かべ、鶫はお礼を言った。
――この二人が動くなら、きっと千鳥の救出も上手くいくだろう。それでも心の奥底に残る不安は消えないが、耐えることはできる。
手を振りながら出ていく鈴城を見つめながら、鶫は小さく息を吐いた。これから、部屋で寝ている少女を起し、アザレアを連れて政府に行かなくてはならない。此処からは車だと一時間くらいかかるだろうが、それまでに救出が終われば携帯に連絡が来るはずだ。
「……千鳥。どうか無事でいてくれ」
鶫はそう小さく呟くと、アザレアがいるロビーに向かって歩き始めた。