98.聖職者の毒
外国からの転入生――アザレアは鶫の心配をよそに、あっという間にクラスに馴染んでいった。
芽吹に似た優し気な風貌に、人当たりの良い控えめな性格は、ある意味この癖の強いクラスには向いていたのかもしれない。
あまり交流が無い他の普通のクラスからはやや距離を置かれているようだが、迫害とまではいかないので、特に対処する必要はないだろう。念のため顔の広い千鳥に話を通しているので、このままアザレアが問題を起さなければ直に学校にも馴染むはずだ。
そして鶫が最も不安だった行貴の行動だが、そちらは意外にも問題はなさそうだった。今のところ、鶫が知る限り行貴がアザレアに話しかけている場面は見たことがない。どうやら本人の申告通り、アザレアとは関わり合いになる気は全く無いようだった。
そう芽吹に報告すると、芽吹は安堵した様にため息を吐いていた。芽吹にとっては厄介な居候とはいえ、やはり多少は心配だったのだろう。
――だが、ただ一つ問題があるとすれば。
「――気にいらない。疎ましい。虫唾が走る。おい、どうにかならないのかアレは」
日が照り付ける昼の屋上で、珍しく学校に着いてきたベルがそう言って不満そうに顔を顰めた。その鋭い目線は、中庭で談笑しているアザレアに向けられている。
そんなベルを見つめながら、鶫は相槌を打つように呟いた。
「……あー、まあベル様にとってはそうかもなぁ」
特に本人に確認したわけではないが、恐らくアザレアはベルの嫌いなキリスト教徒なのかもしれない。食事の際に十字を切る動作をしていたので、ほぼそれで確定だろう。
別に鶫は宗教自体に思うところはないが、色々と因縁があるベルにとっては、末端の信徒すらも憎しみの対象なのかもしれない。けれどベルが嫌がる気持ちは分かるが、これに関しては鶫がどうこうできる問題ではない。
そもそも、一生徒である鶫が同じ生徒をどうにかできるはずもないのだ。ベルもそれは分かっているだろうが、とにかく文句を言わなければ気が済まなかったのだろう。
「俺がどうにかできる事でもないしなぁ。ベル様は基本的に学校には来ないんだし、見て見ぬふりをしてもらうしか方法はないんだけど……」
ベルとアザレアではそもそも生活圏が違うので、二人が接触する機会はほとんど無い。そもそもアザレア――普通の人間が結界の外で神を知覚するケースはほとんど無いらしいので、ベルが気にしなければそれで済む話なのだ。
……まあ、嫌いなモノほど気になるというし、愚痴を言うくらいは仕方ないのだろう。
「チッ、使えん奴め。――我はもう帰る。言うまでもないことだが、アレには警戒しておけ。奴の信徒に碌な奴はいないのだからな」
「……うん、気を付けるよ」
ベルは大きな舌打ちをすると、空気に溶けるようにその場から消えてしまった。……よほどこの場に居たくなかったのだろう。ベルの宗教嫌いも筋金入りだ。
鶫は大きなため息を吐きながら、屋上のフェンスに寄りかかって中庭を眺めた。アザレアは相変わらず、クラスメイトの何人かと一緒に楽しそうに話をしている。
「別に悪い奴には見えないんだけど。ベル様も心配性だな」
鶫がそう呟くと、視線を感じたのか、アザレアが上を見上げた。ぱちりと、鮮やかな緑色の目が鶫を見る。
アザレアは一瞬だけ驚いた顔をしたものの、すぐに微笑んで鶫に向かって小さく手をふった。そんなアザレアの姿を見て、鶫も苦笑いをしながら手を振り返し、バツが悪そうにフェンスから離れた。
ベルから散々不平不満を聞いていたせいか、少しだけ顔を合わせづらかったのだ。
「やっぱりベル様には少し我慢してもらうしかないか。――それにしても行貴の奴、本当に徹底して彼に近づこうとしないな。いつもだったら嬉々としてちょっかいを出す様な奴なのに」
――今は特に目立った行動を起こしていないが、ああ見えて行貴という人間は、敵と判断した者にはかなり攻撃的だ。アザレアが芽吹の親戚である以上、行貴が好意的になることはないだろう。
それに加え、最近の行貴は何かに警戒しているようにも見える。いつも飄々としている行貴にしては、珍しい行動だ。
鶫は雲一つない青空を見上げ、ぽつりと呟くように言った。
「……何だか嫌な予感がする」
◆ ◆ ◆
鶫が不安そうに空を見上げている一方で、中庭にいるアザレアは鶫が視界から消えた後も、ジッと鶫がいた場所を観察していた。
――七瀬鶫。アザレアの遠縁である芽吹恵が、この学校で最も頼りになると太鼓判を押した人物だ。
アザレア自身、問題を起さない様に気を付けてはいたが、こんなにも早く学校に溶け込むことが出来たのは、七瀬の助力も大きかった様に思う。多少投げやりなところはあるが、それでも頼りになる人物なのは確かだ。
アザレアの所属していた組織に跋扈する狸どもを相手にすることに比べれば、異国での学校生活など造作もないことだったが、それでも友好的な協力者がいるのといないのとでは難易度が全然違う。
七瀬のことを芽吹に見せられた写真で知った当初は、あのクルーズ船で出会った少女――葉隠桜に似ていることに驚いたが、纏う気配は全く異なっている。
葉隠桜の――あの夜の月を身に纏ったかのような、強烈な気配は忘れようもない。やや気になる点はあるが、別人であることは間違いないだろう。
――まずはこの国に溶け込み、情報を集めることが重要だ。
アザレアの目的――神の降臨の為には、様々な準備が必要になってくる。幸いにも遠縁である芽吹家は、この国の政府からも信頼が厚い存在だ。アザレアがその牙をひた隠し、猫を被っていれば、芽吹家を通して政府の内情に関わることもそう難しくはないだろう。異教徒を許容しなくてはいけない屈辱など、その為ならいくらでも我慢できる。
――だが、不安要素が無いわけではない。
遠縁である芽吹からは『天吏行貴に気を付けろ』と再三の注意を受けていた。あちらがあまりアザレアに関わって来ないので何とも言えないが、確かに天吏行貴という人間はあまりにも嫌な気配を纏っていた。
こちらの神経を逆なでするかのような、背徳と悪徳の混じった気配。世が世なら、悪魔憑きとして殺されていてもおかしくはない人間だろう。
悪しき気配を身に纏った人間はこの世に一定数は存在するが、そういった人間は大抵とんでもない悪事を行っている大罪人と相場が決まっている。だが、ただの学生である天吏がそんな重犯罪を犯しているとは俄かには考えにくい。
クラスメイトに探りを入れてみると、誰もが不機嫌そうに天吏の悪辣さを語ったが、アザレアとしてはそこまで気にするほどの悪党だとは思わなかった。
だが、聖職者としての勘がアイツは危険だと警鐘を鳴らす。……天吏については、別口で調査が必要かもしれない。
「なんだ、七瀬のやつ屋上にいたのか」
「あいつ、こんな暑い日になんでわざわざ日影が無い場所に行くんだよ……。馬鹿なのか?」
「七瀬って結構そういう所あるからなぁ。本人は絶対認めないだろうけど、変な所で不思議ちゃんなんだよ。そんなだから天吏と平気な顔で一緒にいられるんだろうな」
アザレアの隣にいたクラスメイト達が、そんな言葉を呟いた。
「七瀬君と天吏さんはそんなに仲がいいんですか?」
そうアザレアが問いかけると、クラスメイトは不満そうに顔を歪めた。
「……まあ、何の不満もなくアイツと付き合ってられるんだから、仲はいいんだろうよ」
「天吏にはあの千鳥ちゃんですら距離を置いてるのにな。ほんと変な奴」
「千鳥さんは、確か七瀬君のお姉さんでしたね。――政府で魔法少女をしているんでしたっけ?」
微笑みながらアザレアがそう言うと、クラスメイトは困った顔で話し始めた。
「あー、その件は一応公然の秘密みたいになってるんだ。あんまり外では言わない方がいいぞ。……前に少し騒動になったからな」
――前に、というのは恐らく以前に起こったという特殊魔獣――イレギュラーの事件のことだろう。こちらに来る前に多少は調べはしたが、魔獣に関してはまだ分からない事の方が多い。だが調べ物の際に分かった異端の神と魔獣の関係は、アザレアにとっても興味深い事柄だった。これからも研究は必要だろう。
「ふうん。――でも、千鳥さんとは一度話してみたいですね。七瀬君も言ってましたけど、とても優しい人みたいですし」
そう言いながら、アザレアは七瀬千鳥の姿を思い浮かべていた。黒くて長い綺麗な髪をした、愛らしい少女。――その周りから漂う、見知った濃密な夜の月の気配。
アザレアは自然と上がる口角をそっと手で押さえながら、目を細めた。
――どうやら、随分と面白い事情がありそうだ。