廃后
リーラレイアは、夫・エリオスのほつれた上着を直していた。
多くの侍女たちにかしずかれるリーラレイアであったが、夫と息子の着るものだけは、自らの手で仕立て、直すことを心がけていた。
リーアレイアは糸を鋏で切ると顔を上げた。
横では、8歳になる息子・カイナスが読書をしている。
カイナスは武術よりも勉学の方を好む子だった。
ヒマさえあれば、こうして読書をしている。
父であるエリオス王太子は弓の名手であるが、カイナスはそれを全く受け継いでいない。
リーラレイアはそんなカイナスを不甲斐ないと嘆いていたが、エリオスは「国を治めるには勉学が肝要。戦など武人にやらせておけばよいのだ」と、全く気にする様子はなかった。
平穏な日々はいつまで続くのだろうか。
リーラレイアは夢中で読みふけるカイナスの横顔を見つめながら、そんなことを思っていた。
慌ただしい足音をさせ、エリオスが現れた。
「母上が廃された」
エリオスはリーラレイアの顔を見るなり、そう言った。
エリオスの母・レスティアーナ王妃が王妃の位をはく奪されたのだ。
一番恐れていた事態に、リーラレイアは言葉を失った。
以前から、王宮内に不穏な空気が流れていた。
国王・タイナスは、一人の美女に心を奪われ、その美女の言いなりになっているという噂が、王宮の外にまで流れていた。
美女は、はじめのうちこそ王妃に恭順の意を示していたが、男児を産み、その子が成長するにつれ、次第に勝手気ままなふるまいをするようになっていた。
近ごろでは堂々と王妃をないがしろにしていた。
「妃よ。予てよりの打ち合わせ通り、カイナスをつれて落ちよ」
エリオスが深い緑色の瞳で、リーラレイアをじっと見つめながら言った。
リーラレイアはすぐに頷くことができなかった。
何度もエリオスと話し合っていたことだった。
美女が男児を産んだ時から、いつか何かが起こるということは予想していた。
何が起こりうるのか、さまざまな想定をし、どのように行動するのが一番良いのかを考え、じっくりと話し合っていた。
今、最悪のケースをたどりつつある。
すぐに行動をしなければならない。
じゅうぶん理解していたが、いざそうなってみると、事実を受け入れることが苦しかった。
「父上。私は父上のお側にいます」
カイナスは拳を握りしめ、立ち上がった。
「ならぬ」
エリオスの鋭い声に、カイナスは驚いたように目を丸くする。
みるみる血が上り、カイナスの顔が真っ赤になっていく。
「そなたは余の跡目を継ぐ者。生き延びねばならぬ」
エリオスはカイナスの瞳をじっと見据えながら言った。
カイナスは唇をギュッとかみしめる。
握った拳が微かに震えていた。
「妃よ。必ずやこの難局を乗り越え、そなたたちを迎えに行く」
エリオスはリーラレイアをじっと見つめた。
リーラレイアにはエリオスの真意を理解していた。
エリオスは覚悟を決めているのだ。
リーラレイアも覚悟をしなければならない。
「余に万が一のことがあったとしても……。わかっておるな? なにが起きても余の元に来てはならん。余が迎えに行くまでは」
エリオスの言葉に、リーラレイアは静かに頷いた。
これが今生の別れになるかもしれない。
リーラレイアはあふれ出る涙をとめることができなかった。
「リーラレイア。周囲が決めた縁だったが、余はそなたと夫婦になれたことを、神に感謝している」
エリオスの手が、リーラレイアの頬を優しく包みこむ。
リーラレイアは嗚咽をもこらえながら、エリオスの顔を目に焼き付けようと、じっと見つめた。
「そなたはカイナスという跡継ぎを生み、余に尽くしてくれた。立派な王妃となるために、日夜努力をしてくれていたことも、よく存じている」
優しく微笑むと、エリオスはリーラレイアを抱き寄せた。
「リーラレイア。そなたは余にとって、かけがえのない伴侶だ。王妃となるべく生きてきたそなたが、野に身を隠すことは、屈辱であろう。苦労をかけてしまうな」
リーラレイアは首を横にフルフルとふると、エリオスから離れた。
そして、静かに短剣を取り出すと、結い上げた髪の根元にあてる。
リーラレイアの豊かなブロンドの髪がばっさりと落ち、手におさまった。
「エリオス様。この身はお傍にいることができなくても、わたくしの心は、いつもあなたのお傍におります」
微笑みながら、自らの髪をエリオスに差し出す。
「リーラレイア。余もそなたのそばにいる」
エリオスはリーラレイアの髪を受け取り、しっかりと握りしめ、再びリーラレイアを抱き寄せると、優しく口づけをした。
「カイナス。よいか、妃を、母上をしっかりとお守りするのだ」
「はい」
エリオスは、目に涙をためながらも、しっかりと返事をするカイナスに優しく微笑むかけると、その頭を愛おしそうに撫で、リーラレイアに向かって背中をポンとおした。
「エリオス様。どうかご無事で」
リーラレイアはカイナスの手をとると、そう言って礼をした。
カイナスも礼をする。
「また会おうぞ」
エリオスはそう言うと爽やかに笑った。
リーラレイアとカイナスはそのまま宮殿を後にし、落ちていった。