真相
カイナスは馬車にララウェルを乗せると、すぐ隣に乗り込んだ。
ララウェルは自分の身に起こった出来事がよく分からず、しばらく茫然としていたが、馬車が動き出すと、ようやく、頭が動き出した。
これからどこへ行くのか。
それが何を意味しているのか。
分かってはいたが、父王の話と、先ほどのカイナスの話とは真逆の展開に、ララウェルは戸惑った。
ずっと想いを寄せていたカイナスが、こうして自分のすぐ傍にいるということは嬉しかったが、不安の方が大きかった。
「クーラヴェルハイム公」
ララウェルはカイナスの真意を知りたくて、呼びかけた。
「そんな舌噛みそうな長ったらしい呼び方はよしてくれ。おらにはカイナスっつう名前があんだから、そっちの名で呼んでくれ」
聞いたこともない訛りの強いカイナスの言葉に、ララウェルは目を丸くした。
「姫様。帰るんなら今だよ。おら、姫様が思ってるような貴公子様じゃねぇ。ただの百姓だ。宮廷では猫被ってんだよ。おら、近いうち百姓に戻るんだ」
カイナスは、驚き戸惑うララウェルを気にもとめずにしゃべり続ける。
「毎日毎日、お天道様みて、田畑耕して……。土はいいぞぉ。土は人間と違って、嘘つかねぇ。正直者だ。手ぇかけただけ、ちゃんと応えてくれる。おらはなぁ、百姓が性に合ってんだ。王太后様がお迎えに来なさらなけりゃ、ずっと百姓してた」
カイナスはどこか遠くをみつめているような目をし、口元には懐かしむような笑みを浮かべている。
そんな一度も見たことのない表情のカイナスを、ララウェルはぽーっと眺めていた。
「姫様」
突然カイナスに瞳を覗き込まれ、ララウェルは真っ赤になって下を向いた。
「百姓の嫁になんかなりたかないだろ? 苦労知らずの姫様には無理だ。今ならまだ間に合う。まだ、おらの家には着いてねぇからよ」
ひどい訛りではあったが、カイナスの声は真っ直ぐに響き、いつものどこか淡々とした感情を感じさせない声とは全く違っていた。
「今すぐ、王宮へ引き返して、身体治して、姫様に相応しい立派なお方んとこに嫁ぐがいいよ」
優しさを含んだ声色には、ララウェルへの気づかいが満ちていて、ララウェルの心は揺れた。
カイナスがララウェルにこんなに真剣に話しかけてくれたことは、今まで一度もなかった。
カイナスはララウェルのことをじっと見つめてくれている。
訛りがきつく聞き取りにくかったが、その声は真っ直ぐに心地よい響きとなって、ララウェルの鼓膜を揺らす。
今、カイナスはララウェルのことだけを考えてくれている。
ララウェルはカイナスを独り占めにしている。
今だけは、カイナスはララウェルのものだ。
ララウェルの胸は喜びにうち震えたが、同時に深い悲しみに襲われてもいた。
カイナスがララウェルを王宮から連れ出したのは、ララウェルを妻にしてくれるつもりではなかったと知ったからだ。
ララウェルを諦めさせるためだった。
カイナスに抱えられて王宮の廊下を進む間、ララウェルは戸惑いながらも、幸福の中にいた。
この先もずっと、カイナスに身も心も委ねて生きていけるのだと信じていた。
でもそれは、ララウェルの勘違いだった。
カイナスはララウェルを説得するために連れ出したのだった。
離れたくない。
今、カイナスにいわれるままに王宮に戻ったら、二度とカイナスに手が届かなくなる。
それどころか、カイナスと言葉を交わすことができなくなるような気さえした。
「嫌です。わたくしは王宮へは帰りません」
ララウェルはカイナスの腕にしがみついた。
初めて会った日から、ララウェルはカイナスしか見えなかった。
一目惚れだった。
カイナスが王太后・レスティアーナのたっての願いで、リーラレイアと共に王宮に戻ってきたあの日、ララウェルは初めてカイナスに対面した。
カイナスの姿が目に入った瞬間、ララウェルは息が止まりそうになった。
まだ少年の面影を残していたカイナスは、危ういようでいながら、壮年のような落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
品のある優しい顔立ちは真っ黒に日焼けしていて、どこかちぐはぐな感じがした。
逞しいとはいっても、筋骨隆々の武官たちとはまったく違い、小柄でしなやかな体躯。
愁いを含んだ綺麗な深緑の瞳。
ララウェルは我を忘れて、その姿に魅入ってしまった。
はじめのうちはカイナスの姿を見ることができるだけで幸せだった。
少女と呼べる年齢だったララウェルにとっては、それだけで充分だった。
カイナスの存在は、あっという間に宮中の女官たちの間でも噂になった。
血筋の尊さに加え、その端正な顔立ちに、女官だけでなく、貴族の令嬢たちも夢中になった。
しかし、女性たちに盛んにモーションをかけられても、カイナスは一切とりあう事は無かった。
かといって、冷たくあしらうわけではなく、スマートにかわす。
そこがまた女性たちを騒がせた。
カイナスはララウェルに対しては、他の女性たちとは少し違った気づかいを含んだ優しい扱いをしてくれていた。
それはララウェルが王女だからだ。
カイナスは国王の娘に対して敬意をはらっているだけだということは、ララウェルにはよく分かっていた。
分かっていたはいたが、自分がカイナスにとって、ちょっぴり特別な存在だということが嬉しくて、ララウェルはカイナスを見つけると、そばに駆け寄り、何やかやと話しかけた。
カイナスと話ができるというだけで、ララウェルは幸せだった。
しかし、成長するにつれ、ララウェルはカイナスに無邪気に話しかけることができなくなっていった。
カイナスの姿をみていたいのに、その姿がみえると、なぜだか気恥ずかしくなって隠れてしまう。
たまにばったり遭遇しても、恥ずかしくて、胸がいっぱいで、何も言うことができず、うつむいたまま、カイナスの言葉に頷くのが精一杯だった。
そんなララウェルに対して、カイナスはそれまでと全く同じ態度で接していた。
当たり障りのない言葉を2、3交わし、一礼をして立ち去ってしまう。
ララウェルの態度の変化など全く気にも留めていないようだった。
それは、カイナスがララウェルのことを特別に思っていないという意識の現れだと気がついたララウェルは、さらにカイナスに近寄ることができなくなっていった。
カイナスの姿を見ているだけで幸せだったのに、カイナスの姿を見ることが苦しくなっていった。
カイナスと言葉を交わす度に、虚しさと寂しさが増す。
それなのに、ララウェルはカイナスの姿を探さないではいられなかった。
眠れない夜が続き、ララウェルはとうとう床についてしまった。
横になり、じっと天井を見つめながらも、思い出すのはカイナスのことばかりだった。
目を閉じても、カイナスの姿が浮かぶ。
切なくて、苦しくて、悲しくて。
こんなに辛い思いをするのなら、いっそのこと死んでしまいたい。
ララウェルは日に日にやせ衰えていった。
心配した父王・シルヴェスに、何度もカイナスを思い切るように説得された。
しかし、説得されたぐらいで簡単に思い切れるようなものではなかった。
カイナスの身に起こった不幸や、今の微妙な立場を聞かされれば聞かされるほど、カイナスに惹かれていった。
あの愁いを含んだ静かな瞳も、落ち着いた雰囲気も、優しいのに、どこか人を寄せ付けないところも、辛い経験があるからこそだと知った。
ララウェルはカイナスの過去に思いを馳せては涙を流した。
思いあまったララウェルは、食事を摂るのを止めた。
このまま、静かに消えていくのが自分の運命なのかもしれない。
ララウェルは生きることを諦めた。
もうすぐそこに死の気配を感じた。
寝返りをうつことすら億劫になっきていた。
最期にもう一度だけ、カイナスの姿をみたい。
そんな風に思っていた矢先に、カイナスが現れた。
カイナスがなぜやってきたか、ララウェルにはわかっていた。
知らん顔する事もできたはずなのに、カイナスはわざわざララウェルの元に来てくれた。
それだけで満足だった。
カイナスの少しごつごつした手に包まれて、ララウェルはこのまま死んでしまいたいと思った。
でも、そんなことになったら、カイナスに辛い思いをさせてしまうに違いない。
カイナスがララウェルに特別な感情を持っていなくても、自分のせいで王女が死んでしまうことになったとしたら、平気でいられるはずはなかった。
そうでなくても、カイナスは辛い経験をしてきたのだ。
これ以上、カイナスに辛い思いをさせたくなかった。
だから、ララウェルはカイナスの目の前で食事をとった。
精一杯、ニッコリと笑った。
それが、今生の別れになるはずだった。
「姫様。おらの言ったこと、ちゃんと聞いてたか? おらのトコに来るってことは、百姓の嫁になるってことだよ?」
カイナスは少し困ったように首を傾げた。
「どんなことでもいたします。お傍においてください」
ララウェルはカイナスを見上げるようにして懇願した。
本当のカイナスに触れてしまったララウェルは、もう自分を抑えることができなくなっていた。
どんなことをしてもカイナスのそばに留まりたかった。
ララウェルはカイナスが絵に描いたような貴公子だから好きなのではない。
確かに、初めて会ったときは、カイナスの容姿に見とれた。
でも、ララウェルがカイナスに惹かれたのは、その容姿でも立ち居振る舞いでもない。
ララウェルはカイナスの中に潜む何かに惹かれたのだ。
今だからわかる。
その何かとは、今目の前にいるカイナス。
クーラヴェルハイム公よりも人間的で、情愛にあふれた百姓のカイナス。
カイナスのそばに居たい。
そばにいて、その優しさに触れていたい。
ララウエルは思いを込めて、カイナスをじっと見つめた。
「ホントにいいんか? おらの家に入ったら、二度と王宮へ戻ることはなんねぇ。王様から頂戴した嫁っこを、王宮に戻すってことがなにを意味するんか、姫様にもわかるだろ?」
カイナスはララウェルの瞳を覗き込んだ。
一旦嫁したララウェルが王宮に戻るということは、国王とクーラヴェルハイム公の間にひびが入るということだ。
当人同士の間では円満解決だとしても、世間はそうはみなさない。
現王家と、かつて本筋だったクーラヴェルハイム公家が不仲だとなれば、シルヴェス王の立場に影響を及ぼす。
両家の間に対立はなかったとしても、周囲がそう思い込めば、状勢は変わっていく。
せっかく落ち着いた国内に、また不穏な空気が流れはじめる危険性があった。
王族や貴族の婚姻とは、家同士の婚姻だ。
本来は個人的な感情に左右されるようなものではない。
「後悔いたしません。お傍においていただけるのなら、どんなことでもいたします。侍女扱いでも……」
ララウェルはカイナスに取りすがった。
離れるなんてできない。
カイナスのそばにいられるなら、それだけでいい。
どんな形でもいい。
妻だと思ってもらえなくてもいい。
下女としてでもかまわない。
離れることの辛さに比べたら、他の事は我慢できる。
離れるくらいなら、今この場で、カイナスの腕の中で死んでしまいたい。
「侍女だなんてとんでもねぇ」
カイナスは驚いたように言うと、ララウェルの手に、自らの手を重ねた。
「おら、そんないい加減なことはしねぇ。姫様をちゃんと正妃にするし、大事にする。けど、おらは百姓だ。いつか必ず百姓に戻る。そん時はついて来てくれるかい?」
カイナスはララウェルの瞳を真っ直ぐ見つめながら、静かな声で尋ねた。
「はい」
ララウェルは、カイナスをじっと見つめながらコクリと頷いた。
「そか。なら、お前さんを、おらの家に連れてくよ。帰りたいって泣いても、絶対帰さない」
カイナスはそう言うと、ララウェルを力強く抱き寄せた。
ララウェルは喜びに震えながら、身をゆだねる。
カイナスに優しく髪を撫でられ、ララウェルはうっとりと目を閉じた。
しばらくの間、カイナスは何も言わずにララウェルの髪を撫でつづけていた。
「ララ」
不意に、吐息まじりの声がララウェルの耳朶をうった。
「おら、お前さんのこと、心底好きになっちまったみてぇだ」
しみじみと呟くカイナスにララウェルは思わず顔を上げた。
カイナスは熱を含んだまなざしで、ララウェルににっこりと笑いかける。
ララウエルは胸がいっぱいで何も言えず、真っ赤になりながら微笑み返すのが精一杯だった。
「可愛いなぁ」
カイナスは顔をとろけさせながら、ララウェルの顎に手をやり、指先で軽く撫でた。
ぴくりと反応するララウェルに、悪戯っぽくくすりと笑いかけると、ふと真剣な顔になって覗き込む。
「ララ。泣いているんか?」
カイナスはララウェルの目尻に浮かんだ涙を指ですくい取った。
恥ずかしくなって下をむこうとしたララウェルだったが、カイナスに顎をつかまれ、固定されてしまった。
カイナスはニヤリと笑うと、顔を近づけてきた。
ララウェルは反射的に瞼を閉じる。
ふたりの唇がそっと触れ合った。
「ララは柔らけぇなぁ」
カイナスはうっとりと呟く。
ララウェルは目を開け、そんなカイナスを、とろんと潤んだ瞳で見あげた。
カイナスは吸い込まれるように見つめ返し、ふわっと微笑むと、またララウェルに口づけをした。
ふたりは馬車が停まるまで何度も唇を重ねあわせた。