ヴァレールとなった男
ヴァレール視点のお話です。
時間軸とか所々飛んでいるのでご注意下さい。
ニコという平民とフォルジュのご息女が駆け落ちという話をダラス様からお聞きした。いつも大したことはないと豪快に笑って一蹴するダラス様の見た事もない気迫に、ただ事ではない事を察知した。あの時から、俺があの屋敷に行く事は決定されていた。
ヴァレール・ディリュイド・ミラ・ルフト。男爵位を得てから貰った大層な名前。今では自然と反応する事ができるようになったが、それでも未だに違和感は拭えない。ダラス様に教育されなければ、ここまでの教養は身につかなかった事だろう。彼にはこれまで育ててもらった大きな恩がある。だから、フォルジュ邸に向かえという願いにすぐさま頷いた。
勿論それだけで返せるようなモノではないと分かっているが、多少なりとも頼ってくれた事が嬉しくもあった。
エリカお嬢様という方は公爵家のご息女で、ダラス様が前から教育係として手を焼いていた生徒だった。と、ダラス様のご令孫にあたるセス様が愚痴っている所を聞いた事がある。ダラス様から教育されてきたが、そのような女性が貴族にいるとは信じがたい事だった。平民ならばどこにでもいそうなお転婆娘だったのかもしれないが、今まで想像するようなご令嬢ではなかった事は確かだ。
だが、連行されて来たエリカお嬢様は、大変大人しい方だった。聞く限りだと、何かにつけて文句を言い、物を投げて当たり散らし、勉強などはしない性質の持ち主……そんなものとは無縁の存在のように見えた。
お風呂で寝ていたという事には驚いたものだが……そのせいで、部屋の中で気配を消して見張れという命を受けていた。仮にも男である俺にそれを命じるのはどうかと思ったが、エリカお嬢様はまだ子供であるので大丈夫なのだろう。
お嬢様は机に置かれていた本を繰り返し読み、読んでは書き物をし、真剣な表情で空を見る。
しばらくその様子を見ていると、ゆっくりとこちらに顔を向けて来たので驚く。あちらも僅かに驚いたようで、胸に手を当てて止まっている。今までこちらから動かない限り気付いた者など殆どいなかったのに、彼女は気付いた。
消え入る様な声で、俺を呼ぶ。どこか不安を含んだ声色に、こちらまで不安になった。俺は昔から人に恐れられる性質だったからだ。なので、あまり恐れられない範囲を保つ必要がある。最も、姿を見つけられた時点で手遅れかもしれないが。そんな自嘲をしながら、自己紹介をする。
しばらく間を置いた後、彼女は静かな声で告げる。
「私はエリカという人物ではありませんよ」
その言葉に驚いて顔をあげる。
すると、今まで面と向かって見ていなかった涼やかな顔がこちらを真っ直ぐ見据えていた。そんな風に静かに俺を見つめる女性は、今までにおらず、ドクリと心臓が妙な音を立てる。
彼女の言っている事は真実だと、すぐに理解した。聞いていたエリカお嬢様の姿とは遠くかけ離れた方だからだ。遠月の湖のように波紋すらも作らない感情のない顔。いつまでも見つめていたいと、しばらく見ていると、興味をなくしたように視線を逸らされる。
俺を恐れるでなく、恨むでなく、敵意もない。そんな女性に会った事なく、激しく動揺する。彼女は俺を恐れていないのだろうか。何か言う事はないのだろうか。破壊力があるとまで言われた俺が後ろにいると言うのに、平然と本を読んでいる。何を考えているのだろう。その静かな目には、もはや俺の事など微塵も残っていない。また見つめて欲しいような、恐ろしいような、不思議な気分だった。
女性に話しかけるという行為は、俺にとっては禁忌になっていた。俺が女性に話しかければ、気絶したり、奇声を上げられたり、近くにいる男性の所まで逃げられてその男性に睨まれたり。女性は俺を恐れるものだと理解していたからだ。
なのに、俺は今話しかけてみたいと強く思う。この人ならば、どんな反応が返ってくるだろうかと。俺を見つけても、気絶もしない、奇声も上げない、逃げもしなかった。そんな女性と話してみたい。
じっと彼女を見つめていると、腕をさすっていた。寒いのだろうか……そう思い、毛布を肩にかける。一瞬逃げ出される恐怖を思い出してしまったが、なんとか肩にかける事に成功した。毛布を肩にかけた瞬間、ハッとしたように顔を上げてこちらを見て来た事に動揺する。恐れられるか、嫌われるか、逃げられるか、そう考えたのも杞憂だった。毛布と俺を交互に見た彼女は、真っ直ぐに俺に向き直り。
「ありがとうございます」
ただ一言、そう言った。人として当然の返事かもしれないそんな言葉も、俺にとっては貴重なものだった。心が震えて、見ていられなくて目を伏せる。ああ、この人はやはり俺を見ても恐れない人だ。それがどんなに得難いものか、この人に分かるだろうか。顔を真っ青や真っ赤にされて怯えられたり怒鳴り散らされたり、気絶されるような日々で、普通に返事を返されるというこの幸せが。
この人の護衛兼見張り役とされた事が、こんなにも感謝する事になるとは思ってもみなかった。
その日からダラス様のおかげでエリカお嬢様ではない事が判明し、影武者としてこの屋敷に住まう事となった。
異界の人間という事には驚いたが、それならば俺を見て恐れないのも理解出来た。彼女の世界には俺よりももっと恐ろしい存在がいたりするのだろうか。
ダラス様の前では大きく表情が緩む姿に、こちらまで表情が緩みそうになる。流石にダラス様はすごいと言わざるを得ない。頑なな彼女の心すらも簡単に溶かす事ができたのだから。俺ではあの表情を引き出す事は出来ない。貴重な女性の友人を笑わせる事も出来ない自分が情けなく思う。女性が何をすれば喜ぶのかも分からない。同性とならば多少何が好きか予想が付くが、女性は関わろうとすら思っていなかったので、想像も出来ない。
彼女に好かれているダラス様に助言を請うた時は、何故か大層驚かれて豪快に笑われた。
「やれやれ、セスも大変だなぁ」
などと呟いていたが、何故ここでご令孫が出て来るのか分からずに首を傾げる。
何が相手に好まれるかは、相手によるので、直接本人に聞けば良いと言われたが、それが簡単にできるならこんなに思い悩まない。貴重な異性の友人とどう接すればいいのか考えあぐねていると、とんでもない事実が付きつけられる。その友人は黒髪という無属性を示していながら、魔法が使えたのだ。ダラス様ですらエルリック様に秘密にするようにと言う程とんでもない存在である事は分かった。黒髪における魔法の使用は、それほど凄い事なのだ。確かに、俺にもその事実は重すぎる。
俺と普通に会話が可能だという彼女はやはり、ただものではなかった。俺と普通に接する事が出来るくらいだから、凄い人物なのだろうとは思っていたが……まさかダラス様でさえ重要人物と認識するような方だったとは。俺が気軽に友人と扱って良い人物ではないのではないだろうか。
カロリン・シゼツ・ナリッツが何故か何度も婚約を申し込んできているらしいという事は知っていた。恐らくは貴族にありがちな政略結婚の類だろうと考えられる。何故なら、女性は俺を恐れるからだ。彼女は好いているから上手く話せないのだと言っていたが、正直信じられない。彼女は特別な人間なのだ。俺の事を女性が好いているのならば、ルーク様のようになってもおかしくはないはず。女性に囲まれるどころか、速攻で逃げられるような人間、好かれている訳がない。
それでも、好かれているからだと言った彼女の言葉を完全に嘘と断じる事もはばかられた。何故ならダラス様ですら重要視する人物、何か俺には分からないものが見えているのかもしれない。
彼女ともう少し話がしたいと思ったが、何故かルカ様に近寄ってはいけないと命じられた。友人に何故気軽に近づいてはいけないのか。そう感情がいっているが、理性では理解出来た。俺のような者が気軽に近づいていいような人ではないからだろう、と。
そうだと理解していながら、胸がチリチリと痛む。今までにいなかった貴重な異性の友人。普通に返事が返ってくる女性と話す事が出来ないと言う事が、こんなに胸が苦しくなるような事だとは思わなかった。
カロリン様が彼女の部屋に近づいた時、ほぼ無意識に前に出ていた。何故かカロリン様を近づける事がいけない事だと思ったからだ。それくらい、カロリン様には謎の気迫があった。けれど、俺が前に出た瞬間それは杞憂に終わる。カロリン様が奇声を上げて気絶されたからだ。
ああ、やはりという気持ちが強かった。普通の女性の反応はこうだ。カロリン様も、何も望んでここに来ている訳ではないだろう。父親から何か言われて、やむにやまれぬ事情があるのだ。俺に婚約を申し立てる利点があまり思い浮かばないが、戦力としてなら少しだけ自信がある。おそらくは戦を企てているからだとか、戦力の増強が狙いなのだろう。
貴重な異性の友人が、街に出かけると言う事になった。エルリック様の護衛として俺も同行するが、共に出かけられるという事に心が浮きたつのが分かる。少しでも話す事が出来る機会があるだろうか。
気軽に彼女の頭を撫でるエルリック様が羨ましい。俺もあのように気軽に触れてみたい。気軽に……自分が彼女に触れる事を想像すると、物凄く緊張する。今まで積極的に異性と接してきていなかったせいか。想像するだけで鼓動が速くなるのはどうしたものか。
サシャさんが事あるごとに護衛である事を自慢してくる。あからさまなその顔に少々むっとする。確かに俺は護衛を外されてしまったが、友人である事をやめたつもりはない。彼女に、人として好きだとも言われたんだ。彼女の方も俺を友人として見てくれているはず。
あの日好きだと言って貰った事を思い出すと、胸が締め付けられる。この感情はなんなのだろう。女性の友人が出来るとこうなるものなのか。だとすると、ルーク様など大変な想いをしていそうだ。女性の友人が多い方だからな。
エルリック様の護衛から帰ってくると、彼女が街で野蛮な人間に巻き込まれたと聞いた。サシャさんが守ったらしいが、それでも本人を見ないと安心出来ず、慌てて彼女の部屋へ足を進める。
軽い足取りで歩いている彼女を見つけてホッとしつつ、声をかけようか迷う。女性に声をかけるにあたって、何から言った方がいいのか。
迷っている間に彼女が扉を開けようとするので、取っ手を持ってそれを阻んだ。彼女はぼんやりしていたようで、俺の手に気付かないまま取っ手ごと俺の手を握る。ふわっとしていた。男の手とは明らかに違う柔らかな手。その感触を思い出そうとしていると、不思議そうにしている彼女が俺に用事はなんだと聞いてくる。何故か心臓が変な音を立てて言葉に詰まったが、なんとか返信をする。
無事である事を彼女の口から告げられて、ようやく安堵した。
ガン!
という音がしてそちらに顔を向けると、ルカ様が明らかに不機嫌な様子で立っていた。しまった、とすぐに思う。なぜならルカ様は彼女に近づくなと提案してきた人だからだ。命令違反に言い訳を出来る訳もなく、軽く目を伏せてその場から立ち去る。
……ルカ様の接近に気付かない程、俺は彼女に夢中になっていたらしい。誰もいない所で立ち止まり、息を吐き出す。それから、彼女に触れられた手を見つめてみる。
もっと触れていたい。
ハッとしてその考えを振り払う。女性に軽々しく触れる様なものではない。
その場から慌てて歩き出し、甘い痛みが走る胸を1度強く叩いた。
彼女に神獣が懐いてきた。前代未聞の事だ。
神獣は自由を重んじる。ましてや、契約の話など神話や物語の中だけでしかない。それが、今目の前で起こっている。目の前で伝説が誕生したと言っても過言ではないだろう。これはダラス様に真っ先にお伝えしなければならない案件だろう、とエルリック様に進言した。雇い主に進言するなど、不敬にもほどがあるが、エルリック様は御心が広くてすぐに了承してくれた。
エルリック様は優し過ぎる所がダメな所だとダラス様がおっしゃっていたのだが、確かに優しいと感じる事が出来る。何も理由を聞かずに了承するなど、中々ある事ではない。それか、エルリック様もダラス様の事を信頼しているのだろう。いや、その両方か。
神獣様の名はシャーロット。勿論契約の時に使用する名ではない事は分かった。一般的に私用する名前だろう。偽名という訳ではない、神獣の中ではそれを使い分けるのが普通だから。契約に使用する名だけは、契約相手にしか呼ばせない。なので、自己紹介の時はその名前を省く。
シャーロット様は、本気で彼女と契約する気でいたようだ。話し合ったダラス様が、それを諦めさせたという話もまた驚く。神獣様に進言するのもそうだが、納得させられるだけの理由を上げられたのも凄い。やはりダラス様はすごいお人だ。
「貴様!あぶない男だな!私をあんな目にあわせおってからに!しかも私の大切な方にも色目を使いおって!」
「……!」
信じられない言葉を浴びせられた。色目?誰に……?シャーロット様の大切な方と言えば契約相手として見ていた彼女の事しか考えられない。それに、俺がずっと見ている相手も彼女しかいない。
神獣様は、俺が彼女に色目を使っているとおっしゃった。あまりに突拍子もなく、驚いて固まる。
「なんだ?……ふむ?貴様自覚していないのか?お前は今、魅力的なメスに惚れたオスのようにしか見えないが?あれだけ盛大に自分のものだと自己主張しておきながら気づいておらんとは驚きだ。どうだ?胸に手を当ててみろ、あの人の事を考えて体温や脈の速度があがったら相手に欲情している証拠だ。他の者に触れられると苛立ったり、無意識で触りたいと思うのも含まれる事があるが、どうだ?」
「……」
神獣様の言う所に思い当たる節が多すぎて何も言葉が出てこない。
「まぁ、恥ずかしがることはない。あれだけ魅力的な魔力をまとっているのだ。誰しも高い純度の魔力に触れれば愛おしくもなろう。中でも彼女はとびきり優秀だと言える!50年となかなかに短い年月しか生きてはいないが、彼女はとびきり凄い。どれだけすごいかというと、私の母上よりも純度で言えば上だ!どうだ?凄いだろう?あの髪の色は人間として間違っているのだろうと思うだろうが、それは人間の常識の大いなる間違いだ!あれは全ての魔力を混ぜた上で黒く染まった素晴らしい魔術師!いささか人間という枠に入れてよいか考え兼ねる程の高純度の魔術は稀代稀なる存在であるからして!彼女の偉大さをもっと理解し、丁重に扱うべきである!」
神獣様にそこまで言わせるほどの存在。
思わず目をそちらに向けると、彼女と目が合って慌てて背ける。勢いよく振り向いたせいで、機嫌よく話をしているシャーロット様の顔面に自分の髪が当たった。思い切り睨まれたが、今はそれどころではなかった。
彼女があまりに遠い存在である事が分かって、そんな彼女に低俗な想いまで寄せて、それでも目が合った事に喜んでしまう自らの情けなさが。もう本当にどうしようもなかった。
これが恋なのか。最初からあきらめるしかないと分かっているような恋をするなど愚か者のする事だ。異性との恋など無縁と思っていた俺は、そう思っていた。だがまさに今、諦めるしかない恋をしてしまった。
この恋の諦め方を、俺は知らない。




