風邪引いた
はっと気付いた時には天蓋ベッドの上だった。
ここは……どこなのだろう。とりあえず状況把握を……と思ったが、体が重くて起き上がる事さえままならなかった。少し動かそうとするだけで体が悲鳴をあげたように軋む。
ん?え、何?
自分の額に手を当てて熱を測ってみるが、良く分からない。しかし、体は熱く、節々が痛み、頭がボウッとして目が霞んでいるので、恐らく風邪なんだろうなぁ、と考える。痛む体を叩き起こして、上半身を起きがらせて周りの状況を確認する事にしよう。
「ぅいてて……で、ここどこ?」
掠れてガラガラになった声はとても酷いモノだったが、気にせず周りを観察する。
白いふかふかのベッドは明らかに自分のものではない。そもそも自分の部屋にはベッドみたいなでかいものは入らない。ましてやこんなキングサイズなどもっての外だ。そして、レースカーテンで覆われているが、とても広い部屋だというのが分かった。
頭で疑問符が飛び交う。
良く分からないが、他人の家に、しかも相当金持ちの家に紛れ込んでしまったらしい。慰謝料や賠償を求められるのでは、と考えて背筋がブルリと震えた。あまり力の入らない足を操って、扉の方に歩き出す。
取りあえず土下座、話はそれからだ。そう考え、少しふらつきながらも扉の方に向かう。無駄に広い部屋である。こういう場合狭い部屋の方が有難く感じてしまう。ふらついた時の支えがないのだ。広すぎて。
ようやく扉に辿り着き、扉を開けようとした瞬間。丁度扉が開かれてバランスを崩してしまった。弱った体では自分を支える事も出来ない。
しかし、無様に床とキスする事はなかった。扉を開けた人物に支えられたからだ。支えられた、というか、一方的にもたれかかった。という方が合っているかもしれないが。
恐る恐る顔を上げると、黒い笑顔を張り付けた黒髪のイケメンがいた。
ふと、その顔に既視感を覚える。どこかで見たような、見なかったような。艶やかな黒髪に、眼鏡。その眼鏡の奥には釣り上がり気味の瞳がある。眼鏡のふちで見えにくくなっているが、目元に色っぽいほくろがある。端正な顔立ちは、相当なイケメンの分類されるため、私の人生とは5分すら交わらないような人種であると推測する事ができる。
なかなか動きだそうとしない頭で考えを巡らせ、ようやく思い出してカッと目を見開いた。
「夢じゃなかった!?」
思わず、素っ頓狂な声を上げてしまう。昨日の出来事はあまりにも現実離れしすぎていて、寝起きの、しかも熱を出した頭では思い出すのに時間がかかってしまった。
「チッ」
黒い執事様が舌打ちをした。笑顔なのがまた怖さを引き立たせてくれる。
「そんな熱で逃げ出そうとしても無駄です。大人しくなさってください」
ひょいとお姫様抱っこをされてベッドまで運ばれた。まさに乙女の夢が今、叶った。なんということだろう。力がないように見えるのにちゃんと女の子を抱き上げる力はもっているのか。圧倒的イケメン力である。その笑顔は嫌そうにひきつっているけれど。
自分にはこういう事は絶対にされないだろうと決めてかかっていたが、やっぱり憧れてはいたのだ。こんな恰好良い人に、お姫様抱っこされて優しくベッドに下ろされる経験が出来た。
それだけでももう私にとっては十分すぎるくらい幸せな出来事である。もう人生の運を使い切って死ぬかもしれない。
「ありがとう、ございます……」
ふかふかのベッドに下ろされて幸福に浸りながら礼を述べた。執事がどんな表情をしているか知る前に、意識はまた闇へと溶けていった。
次に目を覚ました時は、多少は体も楽になっていた。そして、自分の頬を抓って痛さを確かめる。
う~ん、痛い。やっぱり夢じゃないのか。
頬を抓らなくて頭はガンガンと痛むし体もピリピリしているのだが、なんとなく定番なのでやってしまった。無駄に被害を広げただけである。というか、何故顎までジンジンしているのだろうか。
ヒリヒリする顎をさすりながら、周りを見回すと、辺りは暗い。どれほど寝ていたのだろうか、まる1日くらいだろうか。
ふと横を見ると、机が置かれてあり、ガラスコップと水差しが置かれてあった。、その芸術品のように美しい水差しに思わず感嘆してしまう。
ガラスのコップもそうだけど……やはりこの世界はかなり技術が高い。
水差しをクルリと回して色んな角度から楽しんだ。取っ手を持って傾けると、水が出て来る。金持ちというのは恐ろしい。こんな芸術作品に実際に水を入れてしまうとは。
水を入れたコップを持ってそちらも眺める。これはむこうの世界と遜色ない程の出来栄えであった。歪みもないし、薄い。そのコップにそっと唇を寄せて水を流し込む。
少しレモンの風味のする水で。塵や埃は入っていないし、無色透明で雑味もない。ろ過技術も発達しているようだ。しかし、飲み込むのに苦労した。喉が焼けるように痛いのだ。流石に風呂場で寝たのは不味かったようで。どれほど放置されていたのか分からないが、湯が冷めるまでは放置されていたんだろう。あの状況だ。発見されるのが遅れても仕方ない。
むしろ溺れ死ななかったのが僥倖だ。相当疲れていたらしいので、そのままご臨終する所である。顎を浴槽のふちに掛けてあった状態で良かった。あの状態だからこそ息は出来たのだ。
……あ、だから異常に顎も痛かったのか、納得。
顎に触れて頷く。原因はハッキリした。とはいえ、異世界で風邪というのは大丈夫なのだろうか?向こうにない病原体とかあったりするのではないだろうか?そして、肺炎なんてものになったら治療する技術はあるのだろうか?水差しの技術や、紙の質の高さから考えるに医療もそれなりに期待出来る。だが、風邪を引いている時というのはどうしようもなく不安感にかられるもので。誰も知り合いがいない。見た事もない土地で知らない人に間違われた状況で。
あー……死ぬのかな……。
そう思うと、ポロポロと涙が零れた。止める事は出来なかった。どうしようなく不安で、誰かに助けを求めたくて、不安を吐き出したくて。
しかし、向こうの世界でも、弱音を吐きだせるような人間がいなかった事に思い至った。向こうでは、妹ばかりが評価されて、自分なんて見向きもされない。私がどんな苦境に陥っていようが、気にする素振りも見せてくれない。まるで私という人間がこの世には存在していないと言われているようで。
そして、この世界でもまた私は私という人間として扱って貰えなかった。エリカという存在を擦り付けられた。私なんて存在していないと、異世界に来ても言われているようだった。
私って、なんなの?
泣いて、泣いて、泣き疲れて、眠った。
……
「ママ、見て見て!今日ね、100点取ったんだよ!」
「まぁ、いつも偉いわねぇ」
そう言って、母は愛おしそうに娘の頭を撫でる。頭を撫でられた可愛らしい娘は嬉しそうに頬を綻ばせる。娘は笑うだけで周りを明るくさせるような、そんな子供だった。
そんな仲睦まじい親子を、娘である私は遠くから見る事しかできない。1問だけ間違えて100点にはならなかった答案用紙を見せに行っても、比べられるだけだった。知ってる、母の冷たい目を。妹とは違う態度の母を。
妹の優等生ぶったその態度に私はどんどん醜い感情しか抱く事ができなくて。ますます自分が嫌になった。妹が我儘を言っても、みんな笑顔で受け入れて、私は少しの我儘も許されない。分かってる、妹が可愛いから、優秀だから、完璧だから。それに比べてられて私は。
「妹はあんなに優秀なのに」
「双子なのにどうしてあんなに似てないんだ」
「実は貰われて来た子だったりして」
そうやって、いつもいつも私は。
……
次に目が覚めたら頭痛は収まっていた。体はまだ気怠いが、痛い程でもない。喉も水を飲む程度なら問題なくなっていた。
外は明るくなっており、晴れやかだ。だが、心の中は暗澹としている。嫌な夢を見たから。流石に泣く事はもうしないけれど、良い気分はしない。
ガチャリと部屋に執事が入ってきた。黒い笑顔のイケメン執事様がカラカラとカートを押している。そのカートには皿とか水差しとかが乗っていた。ああいう便利グッズも充実しているらしい。もしかして車とかもあったりするのかもしれない。異世界で車というのは、なかなか微妙な気持ちにさせられるので、できればない方がいいなぁ、と思う。
「お目覚めですか。お嬢様」
ニッコリと黒い笑顔を張り付けて事務的に話しかけてくる執事様。私はそれに曖昧に笑って会釈しておいた。
そもそもお嬢様ではないのでどういう反応が正しいのか全く分からない。
だが、私の様子を気にした様子もなく執事はカートで作業を進めている。実に手際が良く、流石は執事だった。そういえばこの執事の名前も知らない。けれど、まぁいいかとも思う。私から彼を呼ぶ事もないだろう。だって彼らも私の名前を知らないのだから。
「どうぞ。エインの紅茶です。喉に宜しいですよ」
「あ、ありがとうございます」
私は差し出された紅茶を受け取って礼を述べる。その様子に執事は顔を一瞬顰めさせてが、すぐにいつもの黒い笑顔に戻った。暖かい紅茶は、体の芯も温めてくれるようで、とても美味しい。
エインと言ったか。味は生姜のようだ。砂糖も丁度いい甘さで入っている。ほう、と息をついていると、ベッド横の机にコトリと皿を置かれる。皿の上にはリンゴが乗ってあった。
え、いつの間に剥いたの?え?今剥いたの?
執事は果物ナイフを丁寧に拭いて片づけている所だった。ちょっと紅茶に意識を向けている間に剥いていたらしい。早業である。驚いて執事をじっとみていたら凄く嫌そうな顔をされた。
この執事はエリカ様がお嫌いらしい。しかし仕事なので仕方なくやっているのだろう。嫌々やっているのだろうが、仕事は完璧である。リンゴはウサギちゃんカットにされていて、綺麗に盛り付けられている。
その不機嫌な顔でこれを剥いたのかと思うと微笑ましい気分になる。
「もう逃げ出そうなんて馬鹿な事はなさらないで頂きたいものです。そして、今回のような当てつけがましい行為もやめて頂きたい」
執事は冷たい声で言い放つ。その冷たさが私にも浸透してくるようで、悲しかった。
当てつけ、か。
私にはそんなつもりは全くなかった。完全に不注意である。エリカという人物というのは、当てつけで風邪を引いたりするような人物なのだろうか。エリカさまの事を言われているのに、面と向かって言われると、私の方が虚しい気分になった。
「それでは、失礼致します」
それだけ言って、執事は部屋から出ていく。ガチャリと外側から鍵を掛けられる無情な音が響いた。
私はまたどうしようもなく泣きたくなった。自分も好きでこんな所に居るわけではないのだ。彼らが勝手に間違えて連れ込んだのだ。意味の分からない、太陽と月のようなモノが2つ昇る異世界で。
普通の幸せが欲しいと願っていたのに。こんな事望んでいなかったのに。どうしてあんな事を言われなければならないのだろうか?
バチンと思い切り自分の両頬を叩いた。
ダメダメ。病気だと妙に弱気になるんだ。
ヒリヒリとする頬を撫でながら気合を入れなおす。あれくらいの事は普段から慣れているではないか。何を今さら。あれか、イケメンだからハートに響いちゃったか。そうか、イケメンの罵倒に弱かったのか。なるほど。
私は、私の出来る事をする。最終的には日本に帰ることが目標。せっかく良い高校に入れたのだ。無為にはしたくない。出来るだけ早く戻らないと取り返しがつかなくなってしまう。そう、何もかも取り返しがきかなくなる。変な事を考える前に帰れる方法を探そう。
その為にはまず、この世界の事を知らなければどうしようもない。
勉強部屋の机に乗っている本から読んでみる事にして、3冊適当に手に取ってベッドに戻った。その内の『世界の歴史』という本から読んでみる事にする。
『世界は7つの神々により形造られた。水の神・火の神・土の神・風の神・時空の神・光の神・魂の神。人間は皆等しく平等で大陸で仲睦まじく過ごしていた。だが、魂の神が黒く染まり、世界に暗雲が立ち込める。魂の神が穢れた事により、人間の魂もまた穢れる事となった。人々は醜く争いあい、戦争を起こした。やがてもっとも災厄とされる魔王が誕生したのである』
「……うん?」
私は一旦本を閉じて背表紙を見直した。背表紙には『世界の歴史』と書かれている。あまりに壮大なファンタジーストーリー展開だったのでちょっと疑ってしまった。
ま、まぁ。そういう神々の神話的な事はどこの世界にもあるしね。続きを読んでみよう。
『魔王が誕生し、大陸が大きく割れた。そして人々から言語を奪い、その姿までも変質させてしまった。大陸は3つに分かれ、そして人々もまた大きく分かれてしまった。言語が伝わらず、容姿も大きく変わってしまった隔たりはどうする事も出来ず、人々の溝は深くなるばかりだった。協力し、自愛に満ちた人間の面影は微塵も残さなくなった彼らは、自らの領土を広める為に侵略を繰り返した。戦いを繰り返された土地は疲弊し、痩せて、食料が不足していった。戦争の最中、人々は飢餓に喘いだ。
その危機から世界を救ったのは光の神と時空の神である。光を有する存在を光の神が見つけ、時空の神が異界から呼びおこした。
それが勇者』
「……うん」
私はもう一度背表紙を見る。相も変わらず『世界の歴史』と書いてある。私は目頭を揉んでから再び本に目を落とす。
『勇者の力は凄まじかった。かの魔王を打ち滅ぼしたのだ。しかし、それによってかなりの力を消耗してしまった勇者は、魂の神を完全に浄化させることは出来なかった。そして、人々は濁った魂と、光の魂の両方を兼ね備えた存在となった。光の魂を尊いと思う人間は善行に努め、濁った魂が光に照らされなかった人間は悪行を尽くした。これが現在の人間となりうる魂である』
あ、もうすぐ神話終わる?
『大陸は3つある。白の大陸。中央大陸。水の大陸。白の大陸は常に寒く、雪が白く覆い尽くす。ここに住まう者がロウス族・ノーム族である。
中央大陸は広い土地の為に様々な人種がいる。エルフ族、ドワーフ族、イフリート族、人族が住んでいる。水の大陸にはウンディーネ族・魔族……』
「……は?」
私は本を閉じて天を仰ぎ見る。美しい装飾を施した天蓋が見える。再度本の表紙を見る。『世界の歴史』と書かれてある。持ち込んだ別の2冊のタイトルも確認してみる。
『レーデンバーグ国歴史書』『魔法学基本書』と書かれている。
試しに『魔法学基本書』をパラパラとめくると、魔法の基礎知識や魔法の発動条件、魔力量、特性などなどが事細やかに記述されていた。他の本を確認したくなって、ベッドから降りて勉強部屋に向かう。中級魔法教本、見習い魔法教本、種族別歴史、ドワーフ族公用語・生物辞典……などなどがあった。
そういえば。エリカの兄が魔法云々言ってたような気がする。まさか本当に魔法の存在する世界だとは。それにしては、技術面は高い。魔法が発達すると科学技術っていうのは発達し難いと思ってたんだが。
しかし実際に魔法を目にしていない身としてはにわかに信じがたい。エルフやウンディーネなんかがいるというのも絵空事だ。妖精さんはいたけどね。
取りあえず生物辞典を開いてみる事にした。挿絵に、白黒ではあるがイラストが描いてあって実に分かりやすい。内容はファンタスティックだったが。
ゴブリン、ユニコーン、ドラゴン……うわぁ。思わず引いてしまった。とても王道なファンタジー図鑑だった。生態と、目撃情報、分布位置等が詳細に書かれてある。私はそっと本棚にそれらを戻した。
予想以上に異世界だ。比較的こういうものは好きな部類だが、あれは想像だから良いのであって、現実に目の前に突き付けられると怖くなってしまう。ドラゴンとかすぐに殺されてしまうだろう。物凄く怖い。どうしたものかと本棚の前で腕を組む。
取りあえず、今いる国はどこなのだろうか。話はそこからだ。
勉強机に無造作に置かれてある本に『レーデンバーグ国歴史書』や『レーデンバーグ国周辺生態』などがあったので、恐らくだが今いる国はレーデンバーグとやらではないだろうかとあたりを付けた。レーデンバーグは人族の国土で、世界地図で見ると右下あたりにある比較的大きい国だ。海と大きな川に面してもいる。立地としては大きな川がある為に防衛もしやすそうに見える。周辺国は人族の領地ばかりなので侵略の心配も比較的低い。地図の左の方に2つ国を隔てるとドワーフ族領地がある。
ドワーフ族と人族は良好な関係を築いているために領地は隣接していても争いはない。イフリート族は中立地帯を隔ててあるが、特に険悪な関係でもないようだ。
噛り付くように本を読んでいると、カタリと囚人用飯出し窓から音がした。いつの間にか夕方になっていたようで、部屋が少しだけ薄暗くなって来ていた。丁度ご飯の時間のようで、ご飯がきちんと用意されたようだ。
見たところ食事はパンに肉に野菜に煮込んだものとスープだった。これは、一体なんの肉なのだろうかと考える。
ゴブリンやサイクロプスなんて存在がいる世界に豚や牛は存在するのだろうか?マンドラゴラや食人植物がいる世界に普通の野菜は存在するのだろうか?骨の鳥もいるくらいだし……。
うん、考えたら負けだ。
考えだしたらキリがないので、私は考える事をやめた。