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海のかなた、雨のおわり  作者: 水瀬さら
十七歳、夏
6/44

 家へ帰ると部屋の中は薄暗かった。いつも母がいるキッチンにも人影はなく、食事の支度をしている様子もない。

 私は誰もいないリビングで立ち止まった。窓辺に置かれた置物や写真たての中に、和奏にあげたスノードームが並んでいる。

「いらないってことね」

 ふっと小さく息を吐き、和奏の部屋を見る。その部屋だけは人の気配がした。私はドアをノックして声をかける。


「和奏」

 部屋の中には和奏がいた。ベッドの上で体を起こし、本を読んでいる。

「お母さんは?」

 私の声に顔を上げた和奏がつぶやいた。

「さあ、デートじゃない?」

「デート? お父さんと?」

 和奏がバカにしたように私に笑いかける。

「なわけないでしょ? ほーんとお姉ちゃんは何にも知らないんだから」

「な……」

 なんでそんなこと言われなくちゃならないの? ぎゅっと右手を握りしめた私に和奏が続ける。


「お母さんだって女なの。好きだったお父さんに相手にされなくなったら、寂しくて他の男の人を好きになっちゃったりするんじゃないの?」

「何言ってるの? 意味わかんない」

「お姉ちゃん、本当に気づいてなかったの? お父さんとお母さんの関係が、もう冷めちゃってること」

 気づいていなかったわけではない。いや、気づかないふりをしていただけ。

 家族のことに興味を持たず、ほとんど家にいない父。病弱な妹に付きっきりで、家のことをおろそかにする母。

 すれ違いの生活が、二人の間に亀裂を生んでいたことは、私だって気づいていた。

「お姉ちゃん、もっと現実に目を向けたほうがいいんじゃない? 蒼太くんとキスして浮かれてないでさ」

「和奏っ、なんでそんなこと……」

「あ、やっぱりしたんだ。ほんとお姉ちゃんって単純」

「いい加減にして!」

 思わず声を上げた私の耳に、ドアの向こうから母の声が聞こえた。


「和奏ちゃん? いるの?」

 部屋の中をのぞきこんだ母が私を見る。

「あら、琴音もいたの」

「お母さん……どこに行ってたの?」

 いつもは着ないようなワンピースを着ている母からは、甘い女の匂いがした。普段香水なんて、つける人じゃないのに。

「ああ、学生時代の友達と、隣町でランチしてきたのよ。遅くなってごめんね。今夕食の支度するから」

 母がそう言って背中を向ける。いつも一つに結んでいた髪を下ろし、軽くパーマもかかっている。美容院へも行ったのだろうか。

「お母さん……友達って、誰?」

 私の声に母が振り向く。そして私の顔を無表情のままじっと見つめた後、笑顔になってこう答えた。

「友達は友達よ。琴音の知らない人」

 母の足音が遠ざかって行く。呆然と立ち尽くす私の後ろで、和奏がくすくすと笑っていた。


 *


 気づけば一学期が終わっていた。夏休みに入ってからずっと、晴れて暑い日が続いている。

 私は変わらず学校へ通い、蒸し暑い部室でトランペットを吹いていた。

 もうすぐ夏のコンクールがある。余計なことを考えている暇はない。

 そんなことを思いながら何気なく窓の外を見下ろしたら、校庭を駆け抜ける蒼太の姿が見えた。



「琴音っ!」

 誰もいない堤防の上に腰かけ、ぼんやりと海を眺めていた私に、遠くから声がかかった。

 振り返ると、蒼太がこちらに向かって走ってくるのが見える。

 夏の日差しの中、蒼太の着ている白い制服のシャツがやけに眩しい。

「ごめん。遅くなって」

「ううん。私もちょっと前に来たとこ」

 学校からの坂道を下り海沿いに少し歩くと、立ち入り禁止の広い空き地があった。だらんと垂れたロープを乗り越え、その先にある堤防まで来れば、同じ学校の生徒に会うこともない。

 午後の練習がない日は、ここで待ち合わせをして、私は蒼太と二人でお昼を食べるようになっていた。

 私が蒼太の分のお弁当も作って。

「あー、疲れたー。腹減ったー」

 私の隣に座ってそんなことをぼやく蒼太は、子どもみたいでなんだかかわいい。

「ご飯、食べる?」

「うん」

 どこまでも青く広がる海を見ながら、蒼太と一緒にお昼を食べる。

 たったそれだけのことなのに、嫌なことを全部忘れられるってすごい。


 お弁当を食べたあとも、二人でずっとそこに座っていた。

 ぽつりぽつりと会話をして、顔を見合わせて笑い合う。

 ずっとこうやっていられたらいい。何も多くは望まないから。ただおだやかに、毎日蒼太と一緒に過ごせたらそれだけでいい。


 ふと重なった手と手が絡まり合う。前を向いたまま小さく深呼吸した私に、蒼太がそっとキスをする。

「ずっと一緒にいたい」

 私から唇を離した蒼太がそう言って、熱く熱のこもった体を抱きしめる。ぎゅっと強く、苦しいくらいに。

「蒼太……」

 名前を呼んだ私の唇をふさぐように、蒼太がもう一度キスをした。

 さっきとは違う、深く舌を絡められる激しいキスに、気が遠くなっていく。

「蒼太……蒼太……」

 うわ言のようにその名前を繰り返す私を、蒼太は壊れるほどきつく抱きしめた。

 それはまるで、何かに怯えているかのように。私たちが離れ離れになることを、予感していたかのように。

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