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海のかなた、雨のおわり  作者: 水瀬さら
春、そして再び夏
36/44

 次の日は今にも雨が降りそうな曇り空だった。

 私は泊まらせてもらっている紗香の家を出て、以前住んでいた住宅街を歩いた。

 父が亡くなって売りに出したあの家は、今は年老いた夫婦が二人で暮らしているという。

 父と住んでいた頃、荒れ放題だった庭には草花が植えられ、ささやかだけど美しい花が、昨日の雨粒を抱えて咲いていた。

 建物も古くはなっていたが、大切に使ってくれているのがわかる。

 それを見た私の胸がじんわりと熱くなった。

 嫌なことも多かったあの家だけど、家族四人、幸せだった日がなかったわけではない。

 私は家に背を向けて、ゆっくりと歩き出す。

 いつも自転車で駆け抜けた住宅街を抜けると、やがて潮の匂いがかすかに漂い始めた。


 学校帰りに通った海沿いの道は、十年前より少しだけ変わっていた。

 新しい店が何軒か建ち並び、海を見下ろせる丘の途中に、紗香が言っていた老人ホームができている。

 けれど夏休みによく行った広い空き地と堤防は、昔のまま変わっていなかった。


 一人で歩く私の耳に波の音が聞こえた。海の色はどんよりとした曇り空を映し、少し波を立てながら、どこまでも果てしなく続いている。

 父と二人で暮らしていた頃、私は一人でよく、この堤防に座っていた。

 海の彼方をにらむように見つめて、どうやったらこの町から出ていけるか、ただそれだけを考えていた。

 結局父が亡くなるまで、私はこの狭い町から逃れることはできなかったのだけれど。


 歩道の向こうから人影が見えた。私は前を向いたまま歩き続ける。

 車椅子に乗ったお年寄り、それを押す男の人。

 紗香の言った通りだった。

 すれ違う寸前に、私に気づいた彼が驚いた表情を見せる。

「蒼太……」

 すれ違いざまにその腕をつかんだ。

「あの堤防で待ってる。蒼太が来るまで」

 そっと手を離し歩き続ける。

 後ろは振り向かなかった。鼻をかすめる潮の香りに、どうにかなってしまいそうだった。



 堤防に座って海を見る。曇ったままの空からは、今にも雨粒が落ちてきそうだ。

 私はバッグを開け、中から小さなスノードームを取り出した。

 ゆっくりとそれを振ると、ガラスの中で雪がキラキラと舞い落ちるのが見える。

 二人で顔を寄せ合って、季節外れだねと笑ったあの頃がよみがえる。

「……それ、和奏にあげたやつ?」

 後ろを振り向くと、そこに蒼太が立っていた。

 東京にいた頃よりも髪が短くなって少し日焼けした蒼太は、校庭を駆け抜けていたあの頃を思い出させる。

「ううん、あれは私が割っちゃって、同じものを和奏が買ってきたの。わざわざ私に突き返すために」

 誰にでもなくふっと笑う。

「その労力を他のことに使えばいいのにね。ほんとバカなんだから、あの子」

 じっと私を見ていた蒼太が、堤防の上にあがり、私の隣に座った。


「なんで俺がここにいるってわかった?」

 前を向いたまま、右側の耳で蒼太の声を聞く。

「なんとなくだよ……だって蒼太、何も私に教えてくれないんだもの」

 蒼太が黙って海を見る。きっと蒼太は見つけて欲しくなかったのだろう。もう二度と私には会わないつもりだったのかもしれない。

「蒼太。私、彼と別れたの」

「え……」

「だから私が蒼太に会いに来てもいいんでしょう?」

 蒼太の視線が私に移る。私たちの視線が、今日初めてぶつかった。


「和奏もなんとか元気にやってるよ。始めの頃は泣きわめいて大変だったけど」

 蒼太に頼り切っていた和奏。その支えがなくなって倒れてしまうのかと心配したけれど、今では自分の足で歩き始めている。

 結局は、私が手助けなどしなくても。

「蒼太は……和奏のためを思っていなくなったんだよね?」

 蒼太が私から視線をそらしてうつむいた。

「和奏と私のためを思って……私たちの前からいなくなったんでしょう?」

 私はそう思っていた。私と和奏が分かり合うためには、自分がいないほうがいいと考えたのだろうと。

「だけどね、何も言わないで出て行くなんてひどいよ。私はまだ、蒼太に何も伝えてないのに。だから会いに来たの。帰れって言っても、私蒼太に言いたいこと言うまで帰らないからね」

 蒼太がゆっくりと顔を上げる。

「俺に……言いたいことって、何?」

 蒼太の顔をじっと見つめる。校庭の隅の桜の木の下で、蒼太が私に言ってくれた言葉を思い出す。

「好きなの。私まだ……蒼太のこと」

 振り絞るように伝えた私の声を、蒼太は黙って聞いていた。

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