表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
海のかなた、雨のおわり  作者: 水瀬さら
十年後、冬
23/44

10

「琴音……」

 私の名前を呼ぶ懐かしい声。額に触れる優しい手。

 私はこの感触を、ずっと前から欲しがっていた。

「琴音……ごめんね?」

 朦朧とする意識の中で、私は確かにその言葉を聞いた。


 目を開けると母の顔が見えた。

 お母さん……年取ったなぁ。無理もないか。あれから十年も経っているんだものね。

「琴音」

 母が額についた私の前髪をそっとかき上げる。

「覚えてる? あなた倒れたのよ。うちの前で」

 ああ、そうだったんだ。頭を打ったのだろうか? 少し痛い。

「こんなに熱があるのに無理して。水分取った方がいいわね。何か飲める?」

 私はベッドに横たわったまま小さくうなずく。

「持ってくるから。ちょっと待ってて」

「お母さん……」

 部屋を出ようとした母が振り返る。

 私は何を言おうとしていたのだろう。十年ぶりに会った、実の母に。

「……ごめんなさい」

「何言ってるの?」

 じっと私を見つめた母が、静かに背中を向ける。

「謝るのはこっちのほうよ」

 母の足音が遠ざかる。もう一度目を閉じたら、私はまた深い眠りについていた。



「気分はどう? お姉ちゃん」

 ベッドの上に起き上がっていた私に和奏が声をかける。

 どうやら私は和奏の家の前で倒れて、和奏のベッドに寝かされていたらしい。

「大丈夫。もう帰らなきゃ」

 布団から出ようとした私を和奏が止める。

「一人じゃ無理でしょ」

「大丈夫。一人で帰れる」

「蒼太くんに送ってもらえば?」

 顔を上げて和奏を見る。和奏がふっと口元をゆるませる。

「いい。一人で帰る」

「無理するとまた倒れるよ? お母さんもそう言って、さっき蒼太くんに連絡してた。きっともうすぐ帰ってくるよ」

 私は首を振って立ち上がる。

「いいの。一人で帰るから」

「もう、強情なんだから。こんな時くらい素直になれば?」

 そう言った和奏の声と一緒に、家の前に車の停まる音が聞こえた。

「ほら、帰ってきたよ、蒼太くん。お姉ちゃんのために、車飛ばして」

 私はじっと和奏を見つめる。和奏はそんな私に、いつものようにすれた笑顔を見せた。


 玄関を出る私を、母が見送ってくれた。私はそんな母に、振り返ることはできなかった。

 今度いつ会えるのかもわからないのに。

 すると私の背中に、母の声が聞こえた。

「琴音。これ、羽織って行きなさい」

 母が自分の着ていた上着を、私の背中からかけた。

「いらない。大丈夫」

「いいから。着て行きなさい」

 振り向かないまま小さくうなずき、私は玄関のドアを静かに閉めた。


 外はもう暗くなっていた。昼間はあたたかかったはずなのに、気温がぐんと下がり、北風が強く吹き付けている。

 庭を出ると蒼太が車の中で待っていた。

 立ち止まり躊躇う私に、蒼太は中から助手席のドアを開けて言った。

「乗って」

 母の上着を羽織ったまま、私は黙って車に乗り込む。蒼太は何も言わずに、ゆっくりと車を走らせる。

 窓の外を見た私の目に、部屋のカーテンをそっと閉める和奏の影が見えた。


 知らない道を蒼太の車で走る。十年前、蒼太のこぐ自転車に乗って、どこまでも走ったことを思い出す。

「寝ててもいいよ」

 ぼんやりと、フロントガラスの向こうを見つめていた私に蒼太が言う。

「家、だいたいわかるから」

「どうして?」

「和奏が教えてくれた」

 私は静かに運転席に座る蒼太を見る。すると蒼太が前を見たままつぶやいた。

「和奏……あの子、ちょっと変だろ?」

 蒼太の言葉に息を呑む。

「琴音の家も職場も、付き合ってる男がいることも……あの子は全部知ってる。調べてるんだよ、しつこく。それから俺のことも」

「蒼太のことも?」

「時々、あとつけられてるの、気づいてた」

 和奏が私を恨んで、私に執拗なほど執着しているのは知っていたけど。そんなストーカーまがいな行動を、蒼太にまでしていたなんて。

「あの夜、駅のロータリーで俺が琴音にしたことも……和奏は見てたんだろ?」

 赤信号で車が止まった。ほのかな灯りに照らされる蒼太の横顔を、私は黙って見つめる。

 何も口にしないまま、信号が変わった。静かに動き出す車の中、私たちはそれ以上一言も話さなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ