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海のかなた、雨のおわり  作者: 水瀬さら
十年後、冬
14/44

 聞こえるはずのない波の音が聞こえてくる。

 雨上がりの夜明けの空。私は扉を開けて外へ出る。

 鼻につく潮の香り。やわらかな砂の感触。どこまでも果てしなく続く広い海。

 それは昨日のことのようにはっきりと蘇るのに、あの笑顔だけがどうしても思い出せない。

 波打ち際に座る彼の背中。声をかけたいのに声が出ない。

 決して振り向いてはくれないその人の笑顔が、私はとても好きだったはずなのに。


 ***


 目を開けると、部屋の中はうっすらと明るかった。夜が明けたのだ。

 一晩中続いていた雨音も、今はもう聞こえない。

 寝なれないベッドで寝返りを打つと、隣で寝息を立てている男の顔が見えた。

 ――幸せそうな顔して寝てる……。

 起こさないように静かにベッドを降り、細長い窓をほんの少し開く。

 吹き込んだ風は冷たく、いつの間にか秋もずいぶん深まったのだと気がつく。

 高いビルに囲まれた朝のホテル街。潮の香りも波の音もない無機質な街。

 私がこの街で一人暮らしを始めてから、もう五年が経つ。


「琴音?」

 ふいに名前を呼ばれて振り向いた。ベッドの中で寝ぼけたような顔をした彼が、私のことを見ている。

「どうかした?」

「別に何も」

 そう言って私は彼に微笑みかける。作り笑顔を作るのは昔から得意だ。

 そんな私を見て、彼はあきれたように笑う。

「嘘つけ。泣きそうな顔してる」

 そしてベッドをポンポンと叩いて私を呼んだ。

「こっちおいで。あっためてやるよ?」

「なにそれ」

 ふっと笑って、それでも私は彼の元へ行く。

 ベッドの上に座ると、彼が私に毛布をかぶせ、その上から包み込むように抱きしめた。

 私の作る嘘の笑顔は、この人には通用しないのだ。



「いらっしゃいませぇ」

 商店街の片隅にある小さな弁当屋。手作りが売りのこの店が私の職場だ。

「すみません。いつものください」

 私の前に立つ男が言う。

「はい。スタミナ焼き肉弁当ですね。少々お待ちください」

 営業スマイルで私が答えると、ちらりと周りを確認してから、男が私にささやいてきた。

「琴音。昨日はよかった」

 私は黙ってレジを打つ。

「できれば今夜はお前の部屋で……」

「五百四十円になります」

 苦笑いしながら財布を取り出す彼は、同じ商店街にあるお米屋さんの息子で私の彼氏。

 広岡雄大ひろおかゆうだい。二十九歳。

 付き合ってもう三年になる一つ年上の彼は、年の割に子どもっぽいところがあって、頼りになるのかならないのか未だによくわからない。

 だけど時々するどく、私の心を見抜いたりするから、どうにも侮れないのだ。


 私が働き始める前から、雄大はこの店へお米の配達をしていた。

 そのうち顔見知りになり、言葉を交わすようになり、やがて雄大は配達以外にも店へ現れるようになった。自分の配達した米で作られた弁当を買いに。

 雄大が言うには私を落とすために、毎日せっせと通っていたそうだ。だけど付き合うようになった今でも、彼はほとんど毎日この店へ弁当を買いに来てくれる。

 実家暮らしの上、家族経営の店で働いているから、お母さんの作ってくれたお昼を、家族揃って食べるのが彼の家の日課。

 でも「二十四時間親と一緒で、いい加減息が詰まる」んだそうで、ここで買った弁当を公園で一人、のんびりと食べるのがいいのだと言う。

「サラダもつけといたから」

「え?」

「私のおごり。野菜もちゃんと取らなきゃダメだよ」

 出来上がった弁当にサラダもつけて雄大に渡す。雄大はふっと微笑んで、もう一度私の耳元でささやく。

「昨日の琴音、すっごくかわいかった」

「も、もう、ヘンなこと言うのやめて!」

「ヘンな想像してるのお前だろ?」

 雄大がおかしそうに笑って手を振る。私は小さく舌を出してから「ありがとうございましたー」と声を上げる。


「相変わらず仲がいいねぇ。二人とも」

 奥で揚げ物をしているこの店の女主人、咲田さんが言った。

「そんなことないです」

「いつ結婚するの? おばちゃん早く孫を見たいわぁ」

「孫って……気が早すぎですよ」

 私の言葉に咲田さんが笑う。

 私はこの咲田さんに、実の母親以上にお世話になっていた。

 父を亡くして一人東京へ出てきた私に、誰よりも親切にしてくれた人。

 私が住むアパートの大家さんで、私がこの店で働くことを勧めてくれた人。

 私は彼女のおかげで、見知らぬ街でたった一人でも生きてこられた。


 店先に立ち、真昼の空を見上げる。ビルに囲まれた狭い空は、どこかくすんで見える。

 商店街のざわめきを聞きながら、私はふっと耳をすました。

 けれど懐かしい波の音はやっぱり聞こえるはずもなく……私はまた前を向いていつもの仕事を続けた。

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