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聞こえるはずのない波の音が聞こえてくる。
雨上がりの夜明けの空。私は扉を開けて外へ出る。
鼻につく潮の香り。やわらかな砂の感触。どこまでも果てしなく続く広い海。
それは昨日のことのようにはっきりと蘇るのに、あの笑顔だけがどうしても思い出せない。
波打ち際に座る彼の背中。声をかけたいのに声が出ない。
決して振り向いてはくれないその人の笑顔が、私はとても好きだったはずなのに。
***
目を開けると、部屋の中はうっすらと明るかった。夜が明けたのだ。
一晩中続いていた雨音も、今はもう聞こえない。
寝なれないベッドで寝返りを打つと、隣で寝息を立てている男の顔が見えた。
――幸せそうな顔して寝てる……。
起こさないように静かにベッドを降り、細長い窓をほんの少し開く。
吹き込んだ風は冷たく、いつの間にか秋もずいぶん深まったのだと気がつく。
高いビルに囲まれた朝のホテル街。潮の香りも波の音もない無機質な街。
私がこの街で一人暮らしを始めてから、もう五年が経つ。
「琴音?」
ふいに名前を呼ばれて振り向いた。ベッドの中で寝ぼけたような顔をした彼が、私のことを見ている。
「どうかした?」
「別に何も」
そう言って私は彼に微笑みかける。作り笑顔を作るのは昔から得意だ。
そんな私を見て、彼はあきれたように笑う。
「嘘つけ。泣きそうな顔してる」
そしてベッドをポンポンと叩いて私を呼んだ。
「こっちおいで。あっためてやるよ?」
「なにそれ」
ふっと笑って、それでも私は彼の元へ行く。
ベッドの上に座ると、彼が私に毛布をかぶせ、その上から包み込むように抱きしめた。
私の作る嘘の笑顔は、この人には通用しないのだ。
「いらっしゃいませぇ」
商店街の片隅にある小さな弁当屋。手作りが売りのこの店が私の職場だ。
「すみません。いつものください」
私の前に立つ男が言う。
「はい。スタミナ焼き肉弁当ですね。少々お待ちください」
営業スマイルで私が答えると、ちらりと周りを確認してから、男が私にささやいてきた。
「琴音。昨日はよかった」
私は黙ってレジを打つ。
「できれば今夜はお前の部屋で……」
「五百四十円になります」
苦笑いしながら財布を取り出す彼は、同じ商店街にあるお米屋さんの息子で私の彼氏。
広岡雄大。二十九歳。
付き合ってもう三年になる一つ年上の彼は、年の割に子どもっぽいところがあって、頼りになるのかならないのか未だによくわからない。
だけど時々するどく、私の心を見抜いたりするから、どうにも侮れないのだ。
私が働き始める前から、雄大はこの店へお米の配達をしていた。
そのうち顔見知りになり、言葉を交わすようになり、やがて雄大は配達以外にも店へ現れるようになった。自分の配達した米で作られた弁当を買いに。
雄大が言うには私を落とすために、毎日せっせと通っていたそうだ。だけど付き合うようになった今でも、彼はほとんど毎日この店へ弁当を買いに来てくれる。
実家暮らしの上、家族経営の店で働いているから、お母さんの作ってくれたお昼を、家族揃って食べるのが彼の家の日課。
でも「二十四時間親と一緒で、いい加減息が詰まる」んだそうで、ここで買った弁当を公園で一人、のんびりと食べるのがいいのだと言う。
「サラダもつけといたから」
「え?」
「私のおごり。野菜もちゃんと取らなきゃダメだよ」
出来上がった弁当にサラダもつけて雄大に渡す。雄大はふっと微笑んで、もう一度私の耳元でささやく。
「昨日の琴音、すっごくかわいかった」
「も、もう、ヘンなこと言うのやめて!」
「ヘンな想像してるのお前だろ?」
雄大がおかしそうに笑って手を振る。私は小さく舌を出してから「ありがとうございましたー」と声を上げる。
「相変わらず仲がいいねぇ。二人とも」
奥で揚げ物をしているこの店の女主人、咲田さんが言った。
「そんなことないです」
「いつ結婚するの? おばちゃん早く孫を見たいわぁ」
「孫って……気が早すぎですよ」
私の言葉に咲田さんが笑う。
私はこの咲田さんに、実の母親以上にお世話になっていた。
父を亡くして一人東京へ出てきた私に、誰よりも親切にしてくれた人。
私が住むアパートの大家さんで、私がこの店で働くことを勧めてくれた人。
私は彼女のおかげで、見知らぬ街でたった一人でも生きてこられた。
店先に立ち、真昼の空を見上げる。ビルに囲まれた狭い空は、どこかくすんで見える。
商店街のざわめきを聞きながら、私はふっと耳をすました。
けれど懐かしい波の音はやっぱり聞こえるはずもなく……私はまた前を向いていつもの仕事を続けた。