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  歪んだ世界(3)

 次の日、母は朝早くに帰宅した。

 父のどなる声と、母の甲高い叫び声で目が覚めた。どうしたのだろうと上半身を起こすと、すでに兄と姉も目を覚ましていた。同じように上半身を起こし、不安そうに耳を傾けている。小さな家だったため、会話は鮮明に聞こえてきた。


「仕事だったって言ってるじゃない!」

「子供たちを不安にさせてまで、仕事をするんじゃぁない! 電話の一本でもいれたらどうだ!」

「忙しかったのよ、悪かったって……もう疲れてるから、寝させて!」

「おい! ちょっと待て」


 勢いよく、ベッドルームの扉が開いた。私たちは寝たふりをする間もなく、その場に硬直した。母は私たちをじろりと睨みつけると、ふんと不満そうに鼻を鳴らし、彼女のベッドめがけて鞄を投げた。ベッドルームには、母と父のベッドと、私たち三人用のベッドのふたつがあるだけだった。


私たちは身を寄せ合い、恐怖と不安に震えた。父と母が喧嘩をするのは珍しかった。あんな風にどなり合うまで声を荒げた喧嘩は初めてだったかもしれない。母が帰ってこなかったのも初めてのことだったため、初めてづくしでどうしていいのか分からなかった。


父はごめんよ、と呟くと私たちをリビングまで移動させた。

 ベッドルームとリビングと、シャワールーム。私たちの家はその三部屋だけだった。


 リビングに行くと、父は机を隅に寄せ、ベッドルームから私たちの毛布を持ってきた。


「ごめんな。もう少し寝ててもいいから、ここで寝なさい。母さんは疲れているから、あそこでゆっくり寝かせてあげようね」


 何かある。

 私たちは確かに、それを感じ取っていた。

 あんなに力なく笑う父の姿を、初めて見たのもその日だった。



「ごめんなさい」

 その日の晩、母は帰ってくるなり、私たちに頭を下げた。

 今思えば、子供に向けてするには仰々しすぎるほど、正式な謝罪だったと思う。子供たちにもごまかすことなく、自分の反省を母は態度で示した。


「お母さんね、昨日どうしても抜けられない仕事があって、働いているところに泊まらせてもらったの。連絡する暇もなくてね。ごめんね」

「大丈夫だよ」

「いいよ。次は連絡してね」


 姉はにこりと笑って、兄は少ししょげた様子で、母にそう言った。

 私は何も言えなかった。


 母親が嘘をついているのが、まざまざと分かってしまったからだ。

 母のついた嘘は、なにもそれが初めてだったわけではない。しかし今までの嘘は、夜に外に出ると泥棒にさらわれますよといった「しつけ」の嘘か、夢は絶対に叶うのよと言った子供に希望を持たせる優しい嘘だった。


 しかし今回の嘘は、明らかに後悔がつきまとっている嘘だった。

 加えて、後悔はしているものの、嘘をつくことにためらいはなかった。


 あくまで彼女は、「連絡をしていなかった」ということに後悔しているのだ。

 私にはそれが直感的に理解できた。

 解ってしまった。


「トイレ」

 即座に席を立ち、トイレへと駆け込んだ。走った。短い距離だったが、全力で走った。母と兄、姉は、私が涙を隠すためにトイレに駆け込んだと後で言い訳をしたのを信じた。麗華、いきなり人前で泣いてもいいのよ、と母は笑って私に言った。


実際はもちろんそんな理由でトイレに駆け込んだわけではない。

 私はトイレに鍵を閉めると、その場に座り込んだ。深呼吸をし、鼓動を落ち着かせようとする。涙は気が付いたら流れていた。


 そうか。

 あんなふうに、悪びれもせずに嘘をつくことができるんだ。


 現状を受け止めようとしていた。

 そうか。

 親が子供に、あんな風に嘘をつくことも、できるんだ。


 受け止めなければ、と五歳の私は必死に自分に言い聞かせていた。そういうものなのだ、そういうものなのだ、と。


 兄と姉は、そういうものだと解っているから、あんな対応ができるのだとも、思っていた。兄と姉が母の嘘に気がついていない、という発想は、私の頭の中にはまだ存在しなかった。


 自分に必死に言い聞かせた。受け止めなければ、受け止めなければ。涙は止まらなかった。


 五歳の時、親は何か、正しさの手本のような気がしていた。それは、私だけではないのではないだろうか。親は何もかもの手本であり、正しさであり、知識の根源だった。


 例えば父の仕事仲間が家に来た時に、平気で嘘をついているのは見たことがあった。その時も多少はショックだったけれど、そうか、大人はあぁやって平然と嘘がつけるんだ、と尊敬に似た気持ちも同時に感じていた。奇妙な経験だった。


 しかし、今回は違う。

 自分の母親が、同じように平然と嘘をついてのけたのだ。


「あぁ……」

 どうしよう。怖い。どうしよう。

 すがりつくものが無くなった私は、初めて本気で神に祈った。


 神ではなかったかもしれないが、とにかく、何か大きな力に向かって、手を組んだ。

 もう二度とあんな姿は見たくありません。

 どうかどうか、もうこれっきりにしてください、と。



 しかしその願いは叶わなかった。


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