3 無情な現実(1)
新しい私の住居は、元いた家から車で三十分ほどの位置にあった。車で走って三十分とは、だいたいどれくらいの距離なのか。そのころの私は考えもしなかったし、考えても分からなかっただろう。
車の中で、相手は自己紹介をするかしら、なんて偉そうなことを考えていたのだが、実際それどころではなかった。
生まれて初めて、車に三十分も乗った。
結果、車に酔ってしまい、私は話すこともままならないまま、眉間にしわを寄せ、早く着け早く着けと念じることしかできなかった。
車についていた時計で、三十分ほどの道のりだと分かったが、それが無ければ三時間にも四時間にも感じられるほどの、長い苦痛の時間だった。
夫妻は、そんな私のことを察してくれたのか、最小限の自己紹介しかしなかった。
家を離れて、すぐに、男性がまず「レイカ・ツキカゲだね」と私の名前を確認した。そのころはまだ酔っていなかったので、はいと返事をした。彼は満足げに笑っていた。
そこで、そう言えば貰われる家の名前すら知らないことに気がついた。私が養子先のことについて触れたがらなかったので、二週間前、両親が彼らの決断を私に告げてから、両親とは何の話もしていなかった。せめて名前ぐらいは聞いておくんだったな、と後悔する。
「レイカ、って呼んでもいいかしら?」
そう訊いてきたのは、女性の方だった。二人とも、やっぱり「麗華」のイントネーションが違うなと思いつつ、私はもちろんですと笑顔で答えた。そういえば、さっきの名字のイントネーションも違った。よくあることなので、気にも留めなかっただけだ。
私の名前のイントネーションが違う事は、よくあることだった。
もともと移住してきた両親が、移住する前に住んでいた国の言葉でつけた名前だ。その名前は、今住んでいるところでは珍しく、本来「レ」にアクセントがくるものの、大体が「イ」にアクセントをつけられていた。
別に私はそれで構わなかったが、母と父、兄に姉だけはちゃんとしたイントネーションで呼んでくれていたので、もうそう呼んでくれる人もいないのかなと思うと、少しさみしかった。
「私はメリチェル。メリチェル・リンダ・ロカソラーノよ。メリィって呼んで頂戴」
「はい、メリィさん」
精いっぱいの笑顔を浮かべてみたが、どうだろうか。
メリィさんは、よかったと安心したように笑った。よしよし、とりあえず笑顔でいこうと私は心に決めた。
「レイカ、ミドルネームは?」
「ありません。私の両親がもといた国に、ミドルネームという制度は無かったので」
あらそうなのね、とメリィさんは言った。そんなに驚かれなかったことが、私にとっては驚きだった。今までの環境では、名前に名字と珍しく、ミドルネームをつけない国とはどんなものか、とよく聞かれたからだ。この人は、きっといろんな人と友人なんだろう、と私は考えた。
「夫の名前はアルド・ティアゴ・ロカソラーノ。あなた、自分で紹介しなさいな」
メリィさんは、呆れたように言った。いつも自己紹介をしないのかな、と思ったが、メリィさんが「この人、恥ずかしがってるのよ」と言ったので、なるほどと一瞬思った。
しかし、本当に恥ずかしがっているのか。
私は、アルドさんの表情を盗み見、多分違うのだろうな、と思った。
恥ずかしがっているというよりかは、どうすればいいのか分からず戸惑っているのだ。
「アルドさん、よろしくお願いします」
私は彼に積極的に話しかけた。あぁ、と彼は微笑むだけだった。
本当は、彼らがどんな人なのかを早く知りたかったが、ちょうどこのぐらいで、私の三半規管は混乱し始めた。
吐き気と戦いながら、三十分後、新しい家に到着した。
それは、後になって言えば、超豪邸という訳ではないが、裕福な人にとっては普通の大きさの屋敷、という感じの家だった(実際私は今、その家より数段大きな屋敷に住んでいるが、それはもう少し後の話だ)。
しかし、七歳の私にとって、その家は豪邸だった。こんな家がこの世にあるのかと、仰天したのを覚えている。
屋敷の前で車はゆっくりと停止した。さぁ降りて、とメリィさんに言われ、ゆっくりと車から降り、目の前の屋敷を見上げた。
シンプルな屋敷だった。白い壁に深い赤の屋根。入口の扉が真ん中にどんとあり、一階と二階にそれぞれ窓がある。扉を真ん中にして、対照的に二つずつ、上下合わせて計八個の窓が見えた。どれもばらばらの形で、大小様々だった。ベランダの付いているものといないものがあった。
奥行きはどれぐらいか分からなかった。いったい部屋がいくつあるのだろう、と私は懸命に想像した。
屋敷の前には、綺麗な芝が広がっており、大きな木が何本も植えてあった。
屋敷をぐるりと囲むように、高い壁があった。その色は、屋敷の壁よりも少し押さえ目の白だった。そして真ん中には大きな門があり、その横に警護室がひっそりと存在していた。
その中に人がいるのだろう、よく見えなかったが、中で誰かが動いた気がした。
ぎぎ、と大きな門がゆっくりと内側に開いた。なんだか面倒くさそうに動くな、と感じた覚えがある。ゆっくりゆっくり、その門は開いた。門にきびきびと動かれても、それはそれで妙な話だが。
「さぁ、行きましょうか」
メリィさんに背中を押され、私は進んだ。
新しい生活が待ってるんだ。
不安でいっぱいだった。心が躍ればよかったのに、そんな感情は一切生まれなかった。ただひたすら、不安で私の脳内は埋め尽くされた。




