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  ばいばい、またね(3)

 貰われる日、母は私に勉強道具一式と、大切にしていた人形と本を小さなカバンに入れ、渡してくれた。


「服は?」

 と訪ねると、黙って首を振った。もう私には必要ないという事なのだろう。


 朝早くに置き、朝食を食べ、髪の毛を入念にとかした。肩ぐらいまで伸びた黒髪は相変わらずの癖っ毛だったが、さらさらになった。


「はいこれ、父さんと母さんからのプレゼント」

 そう言って、母は私の頭にピンをそっとつけた。小さな花が三つついている、小さなピン止めだった。花の真ん中はきらきらと光る宝石のような物が埋め込まれていた。


 高かっただろうに、と小さいながらに私は思い、ありがとうと言うので精いっぱいだった。これ以上何か言葉を発したとたん、泣いてしまいそうだったからだ。


 私が持っている服の中で一番きれいな白い服に着替え、赤い靴をはき、家族全員で家の前に出た。


 しばらくすると、黒い綺麗な車が現れた。その車は、狭くうす暗い路地の中で、異様な空気を放っていた。ぴかぴか光っているのが、なんだか滑稽に見えたのを覚えている。


 車の窓は真っ黒で塗りつぶされていた。中にだれがいるのかがよく分からない。運転手は見えたが、奥に座っている人はよく見えなかった。


 家の前に車が停まる。何人もの人が、なんだなんだと様子を見に来ていたが、しかし、誰も近寄ろうとはしない。人込みの中に友だちや知り合いがいたかもしれないけれど、私は周りを見渡すようなことはしなかった。


 ただじっと、きらきら光る車だけを見つめていた。


 エンジンの音が止み、一瞬の静寂が訪れた後、運転席のドアが開いた。背の低い老人が降りてくると、私たちに一礼をした。私たちは頭を下げた。


 運転手は車の後方に回ると、後ろのドアを開けた。その動きは洗練されていたが、私は運転手に気を取られるわけにはいかなかった。誰かが出てくる。きっと私の親となる人だろう。私はごくりと生唾を飲んだ。ひんやりとした感触が、のどから体の隅々に伝わり、思わずぶるっと小さく震えた。


 緊張した。心臓が高鳴った。少しだけ怖くて、それと同じぐらい楽しみでもあった。

 悲しみは無かった。

 もう覚悟はできていたのだ。


 かつん、とハイヒールの音がした。まず出てきたのは、背の高い女性だった。何歳かは分からない。二十代ではないだろう、三十代か、もしかしたら四十代かもしれない。肌は白く、化粧がきらきらと光っている。ブロンドの髪の毛が、後頭部でお団子にしてあり、きっちりとまとめてあった。焦げ茶色の目が私を捕えると、女性はにこりと小さく笑った。私も笑おうとしたが、うまくできなかった。


 次に車から降りてきたのは、小柄な男性だった。女性と並ぶと、大した背差はないように思えた。白髪が交じった黒い髪の毛に、灰色の目をしていた。優しそうな男性だった。この人が貰われる先の「お父さん」なら(きっとそうだけれど)いいのに、と思った。なんとなく恐い人がお父さんだったら嫌だなぁと思っていたので、内心ホッとしていた。


 男性は私を一瞬だけみると、すぐに父に歩み寄り、やぁだとか、いろいろありがとうだとか、大人の会話をしていた。母と女性も、何かを話していた。私はその様子を見なかった。泣きそうな母の声に、強がる父の声、不安と期待の交じった男性と女性の声だけで十分だ。


 まず真黒な車に目を通した後、ドアを閉めてその横で待機している運転手をじろりと見た。その視線に気がついたのか、運転手は私をちらりと見た。そしてにこりと微笑むと、小さく手を振って見せた。あ、いい人だなぁ。私は微笑み返した。今度はうまくいった気がした。


 姉と兄とは話をしなかった。彼らも何も言わなかった。今日まで、毎晩毎晩いろいろな話をした。また会おうと約束した。一生の別れではない。絶対にまた会おうと、誓い合っていた。別れを悲しむのではなく、次の出会いを楽しみにしようと、自分に言い聞かせていた。二人もそう思っていただろう。


「では、行きましょうか」


 女性は私ににこりと笑いかけた。私に話しかけた記念すべき一言目が、「では」から始まるものになるとは、予想外だった。私は、自己紹介はきっと時間がかかるから、家に向かってからか、その途中でするのだろうと予測した。ではければ、初めましての挨拶も無しに「では」だなんて、ちょっと不躾だ。


 子供だからってなめんなよ、と思った記憶がある。私は一瞬だけぎろりと女性を睨みつけると、すぐに表情を和らげ、笑いはできなかったものの、おとなしい表情で「はい」と頷いた。女性はちょっとびっくりしたかもしれないが、知ったことはない。


 男性は私の返事を聞くと、車に乗り込んでしまった、女性は私を待っているそぶりを見せたので、どうやら私が男性と女性の間に乗らなければならないらしい。


「ばいばい、またね」


 私は、兄と姉に抱きついた。兄は唇を噛みしめ、必死に涙をこらえているようだった。

「元気で」

 と、兄は言った。泣くまいと私も同じように唇を噛みしめ、「またね」と返事をした。うん、と兄は頷いた。


 姉は、泣くことを我慢できなかったようだ。潤んだ目が、私を捕える。

「絶対会おう」

 姉に、力強く言った。姉は何度も何度も頷いた。泣き声を出すまいと、必死になっていたのだろう、返事はなかったが、それでも姉の気持ちは十分に伝わった。ぎゅっと、力強く抱きしめる。絶対にまた会えると、自分を何度も言い聞かせた。


 次は母に抱きついた。母は、寂しそうな、苦しそうな表情で私を見つめた。

 互いに何も言わなかった。何か言ってしまうと、そのまま壊れてしまいそうだった。


「また会いに来るね」

 なんとか、その言葉だけを絞り出した。「えぇ」と母は微笑んだ。いつもの優しい微笑みだった。


 最後に、父に抱きついた。父は大きな体で、つぶれてしまうのではないかというほど私を抱きしめた。


「元気でな」

「うん」

 離れ際に、私は小さく「またね」と言った。父は頷き、私の頭を何度も撫でた。


 家族の姿をもう一度見ようとはしなかった。絶対に泣いてしまうし、彼らの辛そうな顔を見たくない。決心が鈍るのもいやだ。


 私は女性の顔を見上げた。さぁ、と彼女は車の中へ私を招いた。おとなしく、車の中に入った。なんだか妙なにおいがしたが、車の中も、外と同じようにぴかぴかだった。中にいた男性が、にこりと私に微笑んだ。私は礼を返すだけだった。表情はきっとこわばっていただろう。今にも泣きだしてしまいそうだった。


 私が座ると、すぐに女性も入ってきた。バタンと、車のドアが閉まる音がした。

 閉鎖された空間に、胃がひっくりかえるような妙な感覚に襲われた。もう後戻りはできないと、その音が告げていたようだった。


 運転手も席に着き、エンジンのかかる音がした。

 私は顔をあげた。先ほどの決意はどこに消えたのか、やはり最後に家族の姿を見ておきたいと言う気持ちが勝ってしまった。


 皆泣いていた。父は必死に、その涙をふき、隠していた。母は涙を流しながらも、笑顔を崩しはしなかった。兄と姉は手を繋ぎ、繋いでいない方の手を高々と上げ、何度も手を振っていた。


 皆、何も言葉を口にしてはいなかった。私はそれを、皆の覚悟の表れだと受け止め、うんと頷くと、小さく手を振った。


 タイミングを見計らったように、車が発進した。私は前を向いた。姉の叫ぶ声が後ろから聞こえた気がしたが、振り向かなかった。


 こうして私は、金持ちの家に貰われた。


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