4 研究室の中心で、愛を叫ぶ
「お父様と結婚する人なの」
その言葉を聞いたとたん、クマさんの足はピタッと止まった。
折悪しく三人は、田中助教授ことフジコちゃんの研究室の前まで戻ってきていた。
そしてそのとき、研究室のドアがパッと開いて件の山村教授とフジコちゃんがでてきた。
その上、背後からは能天気な足音が駆けてきていた。
「お父様」ありすが驚く。
「ありす、どうしてここに?」山村教授も驚いた顔をする。
「あ、どこにいってたのよ、ちょうどよかった!」フジコちゃんがクマさんに言う。
クマさんは回れ右をして、無言で立ち去ろうとする。
「クマセンセ、まだいてたんですね、ちょうどよかった、さしいれで~す。」イケメン桐原が足音と同じく、カルイ調子でクマさんに声をかける。
そして麗香は、あちゃぁ、一番間の悪いときに全員揃ってしまったわね、と一人冷静に考えていたのであった。
***
とりあえず全員フジコちゃんの研究室に入ることになった。
戻りかけていたクマさんも、しばらく立ち止まっていたが、やがて部屋にのっそり入ってきた。
フジコちゃんは超スリムなジーンズに、胸に「I ♡ NY」と真っ赤なハートマーク付きのTシャツ、そして今さっきクマさんから取り上げたちょっと汚れた白衣を着ている。
皆の視線が集まっているのを感じてか、ちょっとスーツが汚れちゃったのよ、しかたないでしょ、とそっぽを向いた。
「ありす、みるくはみつかったのだね。よかった。指輪も無事かい?」
保護者らしくありすに声をかけたのは、エジプト考古学を研究している山村教授である。
彼はダンディで物腰も柔らかい大人の男である。
しかし、実はクマさんのゼミ生の間ではハンプティ山村と呼ばれている。
以前ゼミ室で見ていたテレビに山村教授が出演していて、その血色のいい艶々した顔に、テレビ局のライトが神々しく輝いていたことがあったからだ。
やっぱりハンプティ・ダンプティはいましたね、と麗香は期待を込めてクマさんを見つめたのだが、クマさんはいつも通りの顔で黙っているだけであった。
「ええ、お父様、大豆畑までこちらの麗香さんと・・・クマ先生に連れていっていただいたの。」
「ありす、石川助教授だ。失礼なことを言ってはいけないよ。」
「はい、もうしわけありません。ありがとうございました。」
少し悔しそうなありすが、クマさんと麗香に頭を下げる。
普段ならクマさんの鋭い一言が入りそうなものだが、今回はなにもなかった。
「私からもお礼を申し上げます。娘が世話になり申し訳ありませんでした。」
との山村教授の紳士的な言葉にも、クマさんは軽くうなずくだけであった。
「先生方も堅苦しい挨拶は抜きにして、ひなあられ、いっぱいもらってきたんです。みんなで食べましょう。」
と空気を読めない少し残念なイケメン桐原クンが、無駄に大きな声を張り上げる。
フジコセンセの研究室ではあるが、勝手を知っているクマさんにお茶を淹れてもらい、桐原と麗香が皆にお茶を出した。
桐原はいそいそとひなあられを取り出している。
「ありすちゃんよかったね、ウサギみつかって。」
桐原が声をかけると、途端に、ありすはとろけそうな笑顔で答える。
「ええ、ありがとうございます。桐原さんに教えていただけなければ、もう二度とみるくに会えないところでした。
是非お礼させてください。」
それはないでしょう、ありすちゃん。
桐原クンは「フジコセンセの研究室で見たよ」って言っただけじゃないの?!
お礼するようなことじゃないでしょ。
お礼するならむしろクマさんとこの私なのでは?
それに桐原クンに話しかけないでよ。
ああ、こんな嫉妬はしたくないよぉ、桐原クン。
と麗香の心のなかは沸騰寸前であった。
「おお、そうなのかい。それはいけない。是非ともお礼をしなくては。
こうして研究室をお借りしているのも申し訳ないし、フジコ先生も是非ご一緒に。」
だから、どうしてそうなるんですか、お礼をされるのはクマセンセとこの私!
と麗香は声を張り上げたかったが、クマさんは相変わらず表情の読み取れない顔で黙っているだけであった。
しかし、その言葉にありすが反応した。
「お父様がいらっしゃる前がよかったのですけれど、しかたないわ。」
といって、ありすはフジコちゃんの方に向き直った。
「貴女が田中先生ですね。私、山村ありすです。」
フジコちゃんはまだどこか不機嫌な口調で答える。
「田中藤子です。」
その顔をじっと見ていたありすだが、
「お父様、この方で本当によろしいの?」
といきなり父親に呼び掛けた。フジコちゃんから視線は外さないまま。
うわ、きた~、警戒警報発令中、総員避難せよ!
麗香の心のなかは突風が吹いているようだった。
「なんのことだね?」
あくまでもダンディ路線で山村教授が聞き返す。
この方扱いされたフジコちゃんは、キツい光をありすに投げ掛ける。
その視線をものともせず、ありすはいい募る。
「だってこの方、お美しいけど、お洋服のセンスはイマイチですもの。
ありす、せっかく新しいお母様にこの指輪を差し上げようと思ってきましたのに、なんだかがっかりです。」
洋服をバカにされたフジコちゃんは、反論しようと口を開いた瞬間、その後に続く衝撃の発言に対するショックでなにも言うことができなくなり、口を開けたり閉じたりパクパクさせていた。
百面相を見ているようで、麗香は、いつものおしゃべり雀メンバー、「クマセンセとフジコセンセを生暖かく見守る会(略してKFN)」と自分達では呼んでいる、がここにいればと少々残念でさえあった。
KFNで報告するためにもよく見ておかなければ。
使命感に燃えた麗香が、クマさんをそっと見やると、いつも通りの表情で座り続けているだけであった。
なんか、クマさん慣れてる?
麗香はひとりごちた。
「ありす、この方はまだお前のお母様ではないよ。
お願いしているんだが、まだお返事をいただけていないんだ。
そんな失礼なことを言ってはいけない。
フジコ先生はいつもはとてもお美しいのだよ。
お前もいるし、ちょうどいい、皆さんにも聞いていただこう。」
そう言ってハンプティ山村はフジコちゃんに向き直った。
「フジコ先生、私は貴女の人生のヒーローになりたいのです。
私と結婚してくださいませんか。」