第1話:死神の計算尺
降り止まない雨が、世界を灰色に塗り潰していた。
足元は粘つく泥沼だ。腐った根と錆びた鉄、そして排泄物が混ざり合った塹壕特有の悪臭が、鼻腔にこびりついて離れない。
「くそっ、またジャムりやがった!」
隣で若い兵士が、泥まみれになった小銃を叩きながら悲鳴を上げた。恐怖で指が震えているのが分かる。無理もない。ここは帝国の最前線、通称「鉄の墓場」だ。
頭上を、共和国軍の砲弾が唸りを上げて飛び交っている。着弾のたびに地面が揺れ、泥水が跳ね、誰かの手足が空を舞う。
「中尉!敵の歩兵が前進してきます!距離四〇〇、その数およそ二個中隊!」
軍曹の怒鳴り声にも、俺――ディートリヒ・フォン・ベルツは、濡れた前髪をかき上げることすらしなかった。ただ、愛銃である魔導小銃のボルトを操作し、薬室の状態を確認する。
錆びつきかけた撃針。すり減った魔力伝導管。帝国の疲弊しきった懐事情が透けて見えるような代物だ。だが、今はこいつだけが頼りだった。
「騒ぐな。聞こえている」
俺は低く呟き、泥壁に背中を預けたまま、傍らに控える小柄な影に声をかけた。
「カテリーナ。データは」
「――風速、北北西へ三・二。湿度八九パーセント。気温は低下傾向」
抑揚のない、無機質な声が返ってくる。カテリーナ少尉。俺の副官であり、専属の観測手だ。少女のような華奢な体には不釣り合いな、巨大な観測用魔導機材を背負っている。銀色の髪は雨に濡れ、肌に張り付いていたが、彼女の瞳はカメラのレンズのように冷たく澄んでいた。
「敵魔導将校の魔力反応を捕捉。座標、ヒトフタ・マルヨン。防壁展開中」
「了解」
俺はゆっくりと立ち上がり、塹壕の縁から銃口だけを覗かせた。照準器の中、雨のカーテンの向こうに、共和国軍のカーキ色の軍服が蠢いているのが見える。数で言えば圧倒的だ。まともに撃ち合えば、我が小隊など数分で轢き潰されるだろう。
だからこそ、俺は「点」を穿つ。
右目に魔力を集中させる。視界に青白いグリッド線が浮かび上がった。距離、風、重力、そして弾丸に込める魔力の燃焼率。全ての要素が数値となって脳内を駆け巡る。
――弾道演算、開始。
(敵指揮官は防壁の中。通常弾では弾かれる)
俺は懐から、一発の弾丸を取り出した。配給されたばかりの、質の悪い触媒弾だ。不純物が多く、そのまま撃てば暴発しかねない粗悪品。
だが、俺の術式ならば制御できる。
「術式装填。圧縮率、限界突破」
指先から魔力を流し込む。本来なら拡散するはずのエネルギーを、無理やり弾頭の一点へと押し込める。銃身が悲鳴を上げ、高熱を帯びるのが分かった。
照準の中央、敵部隊の後方で指揮を執る男の眉間を捉える。相手も魔導師だ。こちらの殺気に気づき、慌てて防御障壁を厚くしようとしたのが見えた。
遅い。
俺は息を吐き、心臓の鼓動と鼓動の間に、引き金を引いた。
――ドンッ!!
発砲音と同時に、衝撃が肩を殴る。放たれた弾丸は、雨粒を蒸発させながら一直線に空を裂いた。敵の展開していた青白い障壁が、ガラス細工のように粉々に砕け散る。
直後、指揮官の頭部がザクロのように弾け飛んだ。
「……着弾確認。敵指揮系統、沈黙」
カテリーナが淡々と告げる。指揮官を失った敵部隊は、急な事態に足並みを乱し、前進が止まった。
「よし、今のうちに後退だ!第二防衛線まで下がるぞ!」
俺が命令を下すと、部下たちは我先にと泥の中を這いずり始めた。その最中、先ほどの若い新兵が、信じられないものを見る目で俺を見上げてくる。
「ち、中尉……!すごい……あんな距離から一撃で……!でも、なんで続けて撃たないんですか!?あんたの腕なら、敵の歩兵だって――」
「馬鹿者」
俺は冷たく言い放ち、熱を持った銃身を濡れた布で拭った。
「あの弾が一発いくらするか知っているか?俺たちの給料の三ヶ月分だ」
「え……」
「帝国にはもう、無駄弾をばら撒く金も資源もない。俺たちが撃っていいのは、確実に殺す価値のある敵だけだ」
呆気にとられる新兵を置き去りに、俺は背を向けた。カテリーナが無言で俺の背後に続く。
英雄的な勝利などない。これは、ただの収支計算だ。俺たちが生き延びるための、冷たくてシビアな、泥濘の算術に過ぎない。




