「碧き沈黙、暴かれる日」
沖縄の土の下には、語られなかった声が眠っている。
正義も追悼も掲げながら、沈黙を都合よく利用する者がいる。
元刑事・久高湊は“色”が視える呪いを抱え、老人ホーム職員・比嘉渚は父の死の真相を追う。
二人が手にした一つのハードディスクが、国家と巨悪の裏側を暴く引き金となる。
これは、沈黙を破るために傷だらけで走った者たちの物語だ。
『碧き沈黙の壕』後編
第十六章 殺しのライセンス
翌朝、台風は東シナ海へと抜け、嘘のように晴れ渡った空が広がっていた。
だが、その青さは湊たちの心を晴らすものではなく、むしろ逃亡者を容赦なく照らし出す残酷なサーチライトだった。
亀甲墓を出て、サトウキビ畑の農道を歩く。
泥にまみれた二人の姿は、農作業中の老人たちにはどう映るだろうか。
湊は防水バッグからスマートフォンを取り出し、電源を入れた。通知音が鳴り止まない。
ニュースアプリを開いた瞬間、湊の表情が凍りついた。
『速報:元警察官の男、強盗殺人未遂容疑で指名手配』
画面には、警察時代の湊の顔写真と、渚の顔写真が並べて表示されている。
『指名手配されたのは、住所不定・タクシー運転手の久高湊容疑者(45)。
久高容疑者は昨夜、本島南部の工事現場に侵入し、警備員数名に重軽傷を負わせた疑いが持たれている。
また、現場から逃走する際、同施設職員の比嘉渚さん(35)を拉致したと見られ——』
「……完全に、脚本が出来上がっているな」
湊は乾いた笑いを漏らし、画面を渚に見せた。
渚が息を呑む。
「私が……人質? 拉致?」
「ああ。俺は凶悪犯で、あんたは悲劇の被害者だ。これで警察は、俺を見つけ次第、問答無用で発砲できる。『人質の安全確保』という大義名分のもとに」
それは事実上の「殺しのライセンス」の発行だった。
大城は、警察組織内の太いパイプを使って、一夜にして湊を社会的に抹殺したのだ。
渚が唇を噛み締め、スマートフォンを奪い取るようにして画面を見つめる。
「私が……生きていて、真実を語れば、このシナリオは崩れます」 「いや、崩れない」
湊は冷徹に告げた。
「俺たちの言葉を誰が信じる? 警察は『ストックホルム症候群』だとか『洗脳』だとか言って、あんたの証言能力を否定するだろう。あるいは、保護という名目で隔離され、薬漬けにされて廃人にされるのがオチだ」
渚の顔から血の気が引いていく。
その碧い色が、恐怖で小刻みに震えているのが視えた。
だが、湊は彼女の肩を強く掴んだ。
「だから、勝つしかないんだ。奴らのシナリオをひっくり返すには、奴らが隠している『本物の脚本』——このハードディスクの中身を、衆人環視の中で突きつけるしかない」
渚は顔を上げ、湊を見た。
その瞳の奥に、再び強い光が宿る。
「……はい。もう、後戻りはできませんね」
「ああ。地獄の一丁目へようこそ」
湊は足を引きずりながら歩き出した。
右足の痺れが、鉛のような重さに変わっている。
だが、止まるわけにはいかない。
第十七章 廃工場の亡霊
検問を避け、獣道や用水路を伝って那覇市内へ入った頃には、日は高く昇り、アスファルトの照り返しが体力を削り取っていた。
湊が目指したのは、安里のアパートではない。
あそこはもう割れているだろう。
向かったのは、港湾地区の倉庫街。
廃業したタクシー会社の整備工場だった。
かつて湊が世話になった社長が、「好きに使っていい」と鍵を預けてくれた場所だ。
錆びついたシャッターをこじ開けると、オイルと埃、そして饐えた鉄の匂いが立ち込めていた。
広大なガレージの隅には、部品取り用の廃車が数台、墓標のように並んでいる。
「……ここなら、警察も大城の手の者も、すぐには嗅ぎつけられない」
湊はシャッターを下ろし、内側から施錠した。
暗闇が戻り、ようやく一息つく。
渚はその場にへたり込んだ。
極限の緊張と疲労が、糸が切れたように彼女を襲っていた。
湊は工場の奥にある事務所へ入り、埃を被ったソファに渚を座らせた。冷蔵庫は死んでいたが、水道からは錆混じりの水が出た。
「少し休め。俺はデータを洗う」
湊は、事務所のデスクにある旧式のデスクトップパソコンを起動した。
ネットには繋がっていないスタンドアローン機だが、データの解析には十分だ。
防水バッグからハードディスクを取り出し、ケーブルで接続する。 モニターの青白い光が、湊の無精髭の顔を照らし出す。
フォルダの中には、悪魔の帳簿があった。
『在庫管理表_2015-2023』
『特別会計_裏帳簿』
『協力者リスト(処理済含む)』
湊は震える手で『在庫管理表』を開いた。
画面を埋め尽くすエクセルのセル。
そこには、遺骨の発見場所、形状、推定年齢、そして——
『処分』
『保留』
『出荷』といった、物に対する扱いのようなステータスが記され
ていた。
「……ひどい」
いつの間にか背後に立っていた渚が、画面を見て絶句した。
「これ、全部……人の命なのに」
湊は無言でスクロールした。
数千件に及ぶデータ。
これだけの数の魂が、暗闇の中で弄ばれていたのだ。
そして、『協力者リスト』を開いた時、渚が悲鳴のような声を上げた。
「……お父さん」
リストの中ほどに、『比嘉洋介:処理済み(海難事故偽装)』という記述があった。
渚はその場に泣き崩れた。
湊は彼女の背中に手を置くことしかできなかった。
かける言葉などない。
ただ、怒りの炎だけが、胸の奥で静かに、しかし激しく燃え上がっていた。
雨の密会
那覇の街に夜の帳が下りる頃、湊は整備工場の片隅で、一台の使い捨て携帯電話を握りしめていた。
指名手配犯となった今、自分のスマホは使えない。
電源を入れた瞬間に位置情報を拾われるからだ。
迷いはあった。
だが、明日の決戦を成功させるには、どうしても「内部」の情報が必要だった。
湊は記憶の中にある番号——かつての相棒、佐久間警部補の直通携帯——をプッシュした。
コール三回。
相手が出た。無言だ。
「……俺だ」
湊が短く告げると、電話の向こうで息を呑む気配がした。
『……馬鹿野郎。生きてたのか』
佐久間の声は低く、震えていた。
怒りと、安堵と、焦燥が混じり合った声。
「ああ。だが、時間はあまりない」
『お前、自分が今どういう状況か分かってるのか。県警全署に特捜本部が立った。お前は「凶悪な武装テロリスト」扱いだ。見つけ次第、射殺許可が出てもおかしくないレベルだぞ』
「だろうな。……佐久間、一つ頼みがある」
『自首しろ。今なら俺が迎えに行く。絶対に手荒な真似はさせない』 「できない。まだ終わってないんだ」
湊は整備工場の湿った空気を吸い込んだ。
「明日の起工式。会場の警備配置図が欲しい。特に、SPと機動隊の配置、そして『死角』がどこか」
長い沈黙が流れた。
電話の向こうで、ライターの火を点ける音がした。
佐久間がタバコを吸う時の癖だ。
『……お前、本気で国と喧嘩する気か』
「国じゃない。国を食い物にしている寄生虫とだ」
再び沈黙。
紫煙を吐き出す音が聞こえる。
『……一時間後だ。泊大橋の下、北岸の橋脚。誰にも見られるな』
通話が切れた。
湊は携帯電話を折り、ゴミ箱へ投げ捨てた。
夜の泊大橋の下は、波の音と車の走行音が反響する無機質な空間だった。
湊が柱の影に立つと、一台の覆面パトカーが音もなく近づき、パッシングした。
助手席の窓が開く。
佐久間だった。
三年ぶりの再会。
白髪が増え、眉間の皺が深くなっている。
その顔には、組織の中で摩耗しきった男の疲れが滲んでいた。 だが、その目だけは死んでいなかった。
「……乗れとは言わん。これを」
佐久間は窓から封筒を差し出した。
「明日の警備計画書のコピーだ。大城の私兵である民間警備会社(PMC)の配置も書き込んでおいた。
奴ら、警察の指揮系統を無視して動く気だ」
湊は封筒を受け取った。
ずしりと重い。
「恩に着る。……バレたら、お前の首が飛ぶぞ」
「構わんさ。どうせ、腐りきった組織だ」
佐久間は自嘲気味に笑った。
「三年前……お前が辞めたあの事件。俺は、お前を止める側だった。『組織に従え』『上を信じろ』と。……だが、間違っていたのは俺の方だった」
佐久間はハンドルを強く握りしめた。
「お前が正しかったんだ、湊。俺たちが守るべきだったのは、警察のメンツじゃなく、被害者の無念だったはずだ」
湊は、佐久間の肩から立ち上る「色」を見た。
かつては灰色に濁っていた彼の葛藤の色が、今は微かに、だが確かに「青く」澄み始めている。
それは、覚悟を決めた男の色だ。
「佐久間。明日の現場、お前も配置につくのか」
「ああ。現場指揮官の補佐だ。……だが、俺は俺の判断で動く」 佐久間は湊を睨みつけた。
「湊。死ぬなよ。お前が死んだら、誰が俺の査問委員会で証言してくれるんだ」
「善処する」
湊は短く答え、闇の中へと消えた。
背後で、佐久間の車が走り去る音がした。
一人ではない。
かつての相棒が、背中を押してくれている。
その実感が、湊の冷え切った心に熱い火を灯した。
第十八章 巨悪の系譜
データの解析を進めるにつれ、事態は沖縄県内だけの問題ではないことが明らかになってきた。
大城剛史は、単なる地方の悪徳政治家ではなかった。
彼は、本土と沖縄を繋ぐ「パイプ役」であり、同時に
「集金装置」の管理者だったのだ。
裏帳簿の金の流れを追うと、ある一つの名前に辿り着く。 『内閣府特命担当大臣 郷田隆之』
明日の起工式に来賓として招かれている大物政治家だ。
遺骨収集事業の補助金、リゾート開発の助成金、基地周辺対策費。それらの巨額予算の一部が、大城を経由して郷田の政治団体へキ
ックバックされていた。
「……構図が見えた」
湊は乾いた唇を舐めた。
「大城は、遺骨を利用して工事をコントロールし、裏金を捻出し
ていた。そして郷田は、その金で自民党内での地位を固め、見返りとして沖縄への予算配分を増やし続けてきた」
これは、沖縄振興という美名の下に行われた、国家ぐるみの死体
損壊と横領だ。
「そんな……国が、こんなことを?」
渚が信じられないという顔で呟く。
「国益の前では、個人の尊厳など無に等しい。それが奴らの論理だ」
湊の視界が、ぐらりと歪んだ。
モニターの文字が滲み、赤と紫のノイズが視界を埋め尽くす。 ——限界か。
徹夜の逃走、ガマでの霊障、そしてこの膨大な悪意のデータ。
脳の血管が悲鳴を上げている。
頭の中で、何かがプツリと切れる音がした。
「久高さん!」
湊は椅子から転げ落ち、冷たいコンクリートの床に倒れ込んだ。 遠くで渚の呼ぶ声が聞こえる。
だが、意識は急速に暗闇へと吸い込まれていった
第十九章 魂の絆
目が覚めると、柔らかい感触があった。
工場の床に敷かれた毛布の上で、湊は横になっていた。
額には冷たいタオルが乗せられている。
薄暗い工場の中に、夕日が差し込んでいた。
どれくらい眠っていたのだろう。
「……気がつきましたか」
枕元に、渚が座っていた。
心配そうに湊の顔を覗き込んでいる。
彼女の手が、湊の手を握っていた。
温かい。
湊は体を起こそうとしたが、右半身に力が入らない。
鉛のように重い。
「……すまない。情けないところを見せた」
「いいえ。……かなり無理をさせてしまいました」
渚は湊の汗を拭いながら、静かに言った。
「久高さん。もう十分です。データは私が預かります。あなたはここで休んでいてください」
湊は首を振った。
「一人で行く気か? 無理だ。会場は要塞化している。あんた一人じゃ、入口にも辿り着けない」
「でも、これ以上あなたが傷つくのを見ていられません!」
渚の声が涙で潤む。
「あなたは無関係だったはずです。ただの運転手だった。なのに、どうしてここまで……」
湊は、渚の瞳を見つめた。
そこには、深い碧色の光があった。
絶望の中でも決して消えない、祈りのような光。
湊は、自分の呪われた血筋と、過去の傷を語り始めた。
刑事時代、直感を無視して相棒を死なせたこと。
それ以来、色が視える自分を呪い、世界から逃げてきたこと。
「俺は、死に場所を探していたのかもしれない。……だが、あんたに会って、変わった」
湊は、麻痺の残る右手を持ち上げ、渚の頬に触れた。
「あんたの『碧』が、俺を生かしてくれたんだ。この色は、俺が見てきたどんな色よりも美しい」
渚の瞳から涙が溢れ、湊の指を濡らした。
「……私もです。あなたがいなければ、私は父の死の真相を知ることもなく、ただ泣いていただけでした」
彼女は湊の手に自分の手を重ね、強く握りしめた。
「最後まで、一緒にいてください。それが、私の願いです」
その言葉が、壊れかけた湊の心臓を再び強く鼓動させた。
死ぬのは怖くない。
だが、この人を一人にして死ぬことだけは、何としても避けたかった。
「……ああ。行こう。地獄の底まで、共犯者として」
二人の間に流れる空気は、恋愛という甘い言葉では括れない、もっと根源的な魂の結合だった。
第二十章 決戦前夜
日は落ち、夜が来た。
決戦前夜だ。
湊は痛む体を引きずり、工場の奥から一台の車を引っ張り出した。 埃を被っているが、かつてここの整備士が趣味で改造していた車
両だ。
夜の整備工場は、深い静寂に包まれていた。
遠くで船の汽笛が鳴る。
その音が、世界から切り離された二人の孤独を際立たせた。
湊は改造車の整備を終え、油で汚れた手をウエスで拭っていた。 渚が、温かい缶コーヒーを二つ持って近づいてくる。
「……少し、休みませんか」
二人は廃車のボンネットに腰掛け、並んでコーヒーを開けた。 湯気が立ち上る。
「ねえ、久高さん」
渚が夜空を見上げながら、独り言のように言った。
「私、父のこと、何も知らなかったんです。仕事人間で、厳しくて……。母が死んだ時も、涙一つ見せなかった。だから、冷たい人だと思っていました」
彼女の声が少し震える。
「でも、あの手帳を見て……分かりました。父はずっと、一人で戦っていたんですね。誰にも言わずに、誰かを守ろうとして……」
湊は横目で渚を見た。
彼女の全身から立ち上る色は、今は「碧」ではなかった。
夜明け前の空のような、淡く、優しい「藤色」。
それは、愛惜と後悔、そして許しの色だ。
「……俺もだ」 湊はポツリと言った。
「俺も、何も知ろうとしなかった。自分の『目』が見せる汚い色に怯えて、耳を塞いで生きてきた」
湊は自分の右掌を見つめた。
「刑事を辞めた時、俺は人間であることを辞めたつもりだった。他人なんて、どうせ裏切る。嘘をつく。欲望の塊だ。……そう思っていた」
湊は視線を渚に向けた。
「だけど、あんたは違った」
渚が湊を見る。二人の視線が絡み合う。
その瞬間、奇妙なことが起きた。
湊の視界から、常にまとわりついていた「色」が、すうっと消えたのだ。
渚の藤色も、工場の澱んだ灰色も、自分の焦燥の赤も。
すべてが消え、ただ、ありのままの「比嘉渚」という女性の姿だけが、鮮明に浮かび上がった。
彼女のまつ毛の震え。
唇の乾燥。瞳の奥にある、揺るぎない意志。
それらが、色彩というフィルターを通さず、ダイレクトに湊の胸を打つ。
「……色が、消えた」
湊は呆然と呟いた。
「え?」
「あんたといる時だけ……俺の世界は静かになる。ノイズが消えるんだ」
それは、湊にとって救いそのものだった。
この女性のそばにいれば、俺は「普通の人間」に戻れる。
呪われたユタの血ではなく、ただの男として、息ができる。
渚は驚いたように目を見開き、やがて、花が綻ぶように優しく微笑んだ。
「……なら、ずっとそばにいます。あなたが、静かな世界で眠れるようになるまで」
彼女の手が、湊の手に重なる。
油の匂いと、微かな潮の香り。
言葉はもういらなかった。この静寂こそが、二人にとっての愛の告白だった。
外見は普通の個人タクシーだが、エンジンはスポーツカー並みにチューンナップされ、足回りも強化されている。
「こいつなら、警備の包囲網を突破できる」
湊はボンネットを開け、オイルとプラグをチェックした。
手についた黒い油の匂いが、不思議と心地よい。
生きて、戦うための準備をしている実感がある。
渚は事務所で、データの編集作業を行っていた。
膨大な証拠の中から、最もインパクトのある映像と文書を選び出し、一本のプレゼンテーション動画にまとめる。
彼女の指先はもう震えていなかった。
「プランはこうだ」
湊は整備の手を休め、渚に作戦を伝えた。
「式典の最中、大城がスピーチをする時間は十分間。この間に、会場の大型スクリーンをジャックする」
渚が頷く。
「私は、会場の音響室へ向かいます。父の遺品のIDカードが生きていれば、裏口のセキュリティを突破できるはずです」
「俺は囮になる。正面ゲートにこのタクシーで突っ込んで、警備を引きつける。その隙に、あんたは中へ入れ」
「そんな……死ぬ気ですか?」
渚の声が強張る。
警備員だけではない。
県警の機動隊も配備されているはずだ。
特攻に等しい。
湊はニヤリと笑ってみせた。
痩せこけた頬に、かつての刑事の精悍さが戻っていた。
「死なないさ。俺には『視える』からな。殺意の弾道も、逃げ道の色も、全部な」
それは強がりだったが、嘘ではなかった。
渚を守るためなら、死神の鎌さえ見切ってみせる。
夜が更けていく。
工場の窓から見える月は、血のように赤かった。
二人は言葉少なに、最後の準備を進めた。
互いの呼吸を感じ、存在を確かめ合いながら。
湊の視界には、渚の碧い色が、夜明け前の空のように澄み渡って見えた。
その光が、湊の視界を覆うノイズを静かに浄化していく。
明日は、決戦だ。
沖縄の沈黙を破るための、最初で最後の戦いが始まる。
第二十一章 突入
起工式の会場は、南国のリゾート地とは思えない異様な物々しさに包まれていた。
海を背に設営された紅白のメインステージ。
その周囲には、県警の制服警官だけでなく、大城が雇った民間警備会社の屈強な男たちが、黒い壁のように立ちはだかっている。
招待客のリストには、内閣府特命担当大臣の郷田を筆頭に、国会議員、建設業界のドン、地元財界の大物たちが名を連ねていた。
彼らは白いテントの下で、冷えたミネラルウォーターを飲みながら談笑している。
その足元に、無数の死者が眠っていることなど知る由もなく、あるいは知らぬふりをして。
午前十時。
式典開始のファンファーレが、湿った大気を震わせた。
会場から五百メートルほど離れた丘の上。
木立の影に隠したタクシーの運転席で、湊はアクセルを空吹かしした。
チューンナップされたエンジンが、獣のような咆哮を上げる。 ——行くぞ。
湊はアクセルを踏み込んだ。
タクシーがロケットのように加速し、バリケードを粉砕して会場内へとなだれ込む。
悲鳴。
怒号。
砂煙。
計画通り、警備の注意は全てこの派手な「特攻」に引きつけられた。
湊は車をスピンさせて停車し、発煙筒を投げた。
赤い煙が視界を遮る。
「テロだ! 確保しろ! 抵抗すれば撃て!」
指揮官の絶叫が響く。
湊は警棒を構え、車外へ飛び出した。
だが、想定外の事態が起きた。
大城が雇った民間警備会社(PMC)の傭兵たちが、警察の指示を待たずに独自の動きを見せたのだ。
彼らの一部が、正面の騒ぎを無視して、裏口——渚が向かった通用門——へと走り出したのだ。
——バレている!?
湊の脳裏に、黄土色の男の顔が浮かぶ。
奴なら、陽動を見抜いて裏をかくだろう。
「比嘉さん! 急げ! 奴らがそっちへ向かった!」
湊はインカムに叫びながら、自らも裏口へ走ろうとした。
だが、行く手を機動隊の壁が阻む。
——間に合わない。
渚が捕まる。証拠が揉み消される。
その時だった。
裏口へ向かおうとしていたPMCの傭兵たちの前に、一人の男が立ちはだかった。
スーツ姿の刑事。佐久間だ。
「どけ! 公務執行妨害だぞ!」
傭兵のリーダーが怒鳴る。
佐久間は警察手帳を掲げ、毅然と言い放った。
「県警捜査一課だ! このエリアは現在、県警が封鎖している。民間人の立ち入りは許可しない!」
「大城先生の指示だ! そこを通せ!」
「知らん! 現場の指揮権は警察にある!」
佐久間は一歩も引かなかった。
傭兵の一人が舌打ちをし、懐から特殊警棒を抜いて佐久間に殴りかかった。
——ガッ!
鈍い音が響く。
佐久間は腕で警棒を受け止め、苦痛に顔を歪めながらも、男の襟首を掴んで一本背負いで投げ飛ばした。
「公務執行妨害で現行犯逮捕する!」
佐久間の怒声が響く。
それを合図に、周囲にいた数名の刑事たちが——佐久間の部下たちが——一斉にPMCの男たちに飛びかかった。
「お前ら……!」
湊は走りながら、その光景を呆然と見た。
佐久間たちが、身を挺して「壁」となり、渚への道を死守してくれている。
乱闘の最中、佐久間と湊の目が合った。
佐久間の口元が動く。
『行け!』
声は聞こえなかったが、その意思は痛いほど伝わってきた。
湊は頷き、再び走り出した。
友が作ってくれた血路だ。
無駄にはできない。
音のない侵入と、背中の温もり
佐久間たちの決死の足止めのおかげで、渚は奇跡的に誰にも見つからず、通用門を突破することができた。
背後で聞こえる怒号と、何かがぶつかり合う音。
それが、湊や、顔も知らない誰かが、自分のために戦ってくれている音だと分かり、渚は涙を堪えて廊下を走った。
IDカードをかざす。
——頼む、お父さん。道を開けて。
『ピッ』
無機質な電子音が鳴り、ロックが解除された。
システムは更新されていたが、旧職員のデータ領域までは消去されていなかったのだ。
あるいは、父を慕っていた元部下が、密かにIDを残してくれていたのかもしれない。
音響室へ飛び込む直前、渚は振り返った。
廊下の向こう、ガラス越しの中庭で、複数の男たちに組み敷かれている佐久間の姿が見えた。
彼は頭から血を流しながらも、まだ傭兵の足にしがみつき、前へ進ませまいとしていた。
——ありがとう。
渚は心の中で叫び、音響室のドアを閉めた。
ここからは、私の番だ。
震える指でUSBメモリを差し込み、エンターキーを叩く。
それは、命を懸けてバトンを繋いでくれた男たちへの、精一杯の応答だった
第二十二章 音のない侵入
手が震えて一度落としそうになったが、両手で握りしめて深呼吸をした。
スクリーンジャックのプログラムを起動する。
モニター上のプログレスバーが伸びていく。
40%……60%……。
ドン、ドン!
ドアが激しく叩かれた。
「おい! 開けろ! 中に誰かいるのか!」
警備員が戻ってきたのだ。
ドアノブがガチャガチャと回される。
90%……95%……。
ドアの蝶番がきしみ始める。
蹴破られるのも時間の問題だ。
——お願い、間に合って!
『完了』の文字が出た瞬間、渚はエンターキーを叩き込んだ。
「見て……これが、この島の実態よ!」
第二十三章 黄土色の決着
駐車場では、湊が車外に出て、警棒一本で数人の警備員を相手に立ち回っていた。
煙の中で、湊の「目」は冴え渡っていた。
襲いかかる相手の筋肉の収縮、重心の移動が、色の変化として事前に感知できる。
だが、多勢に無勢だ。
体力も限界に近い。
右足の感覚はもうない。
「そこまでだ、久高」
群衆が割れ、煙の向こうから一人の男が現れた。
あの黄土色の男——大城の懐刀である殺し屋だ。
ガマでの戦いで足を負傷しているはずだが、それを感じさせない安定した足取りで近づいてくる。
その目には、以前にも増してドス黒い、執着に近い殺意が宿っている。
男は右手に拳銃を構えていた。
サプレッサーは付いていない。
「まさか、ここまでやるとはな。だが、ここで射殺されれば、お前はただの通り魔だ。大臣を狙ったテロリストとして処理される」
湊は荒い息を吐きながら、男の銃口を見据えた。
死ぬことへの恐怖はない。
ただ、渚の作戦が成功するまでの時間を稼がなければならな
「……大城の犬が。飼い主の終わりを見届けてやれよ」
「減らず口を」
男の指に力が入る。
——視える。
男の人差し指にかかる力のベクトル。
トリガーを引き絞る筋肉の収縮。
殺意の波動が、弾丸が放たれる「未来」を先取りして、赤い軌道として空間に描画される。
黄土色が赤く弾けた瞬間、湊は右へ
——麻痺のある側へあえて身を沈めた。
パンッ!
乾いた破裂音。
湊の左肩を、熱い鉄の塊が掠めていった。
肉が焼ける匂い。
激痛。
だが、致命傷ではない。
湊は痛みを燃料に変えて踏み込んだ。
相手は銃を持っているという慢心がある。
そして、足を怪我している。
湊はポケットから鷲掴みにしていた砂利
——工場の敷地で拾っておいたもの
——を、男の顔面に全力で投げつけた。
「ぐっ!?」
男が目を瞑った一瞬の隙。
湊は男の懐に飛び込み、銃を持つ手首を掴んで捻り上げた。
ボキリ、という骨が砕ける感触。
銃がアスファルトに落ちる。
湊は男の顎に頭突きを見舞い、よろめいた所を足払いで転がした。 男が呻き声を上げて倒れる。
「終わりだ。お前の色は、もう見飽きた」
湊は男を地面に押さえつけ、腰のベルトから手錠を抜いてかけた。
元刑事の拘束術は、錆びついていなかった。
第二十四章 暴かれた二重帳簿
その時、会場の巨大スクリーンから、明るいファンファーレと「沖縄の未来」を謳うPR動画が消えた。
ザザッ、というノイズが走り、映像が切り替わる。
会場がどよめいた。
映し出されたのは、美しいリゾートホテルの完成予想図ではない。 手ぶれのある、薄暗い洞窟の映像。
山積みの木箱。
泥にまみれた作業着。
そして——
『Aランク:頭蓋(完全)』と書かれたコンテナの中身。
無数の頭蓋骨が、画面いっぱいに映し出された。
悲鳴が上がる。
嘔吐する者もいた。
『これは……』
スピーカーから、渚の震える、しかし凛とした声が流れた。
『これは、この会場の地下にある、第十九号壕の内部映像です』 壇上の大城剛史が椅子を蹴って立ち上がり、マイクに向かって
怒鳴った。
「映像を止めろ! 何をしている! 電源を切れ!」
だが、映像は止まらない。
画面には次々と決定的な証拠がスライドショーのように映し出された。
遺骨の二重管理帳簿。
補助金の不正流用ルートを示すフローチャート。
そして——
大城と、最前列に座る大臣の郷田が、料亭で密談している隠し撮り写真。
テーブルの上には札束の山。
これは、渚の父・洋介が、殺される直前に命がけで撮影し、クラウドに残していた切り札だ。
『この場所では、戦没者の遺骨がゴミのように選別され、隠蔽されています。工事を進めるために。裏金を作るために。私たちの祖父や祖母が、二度殺されているのです』
会場はパニックに陥った。
マスコミのカメラが一斉にスクリーンと、壇上の大城、そして顔面蒼白の郷田に向けられる。
フラッシュの嵐。
「嘘だ! これはフェイク映像だ! AIによる捏造だ! 陰謀だ!」
大城が叫ぶが、その狼狽ぶりこそが、何よりの自白だった。
大臣の郷田は、SPに囲まれ、裏口へ逃げようとしていた。
だが、出口には既にマスコミが殺到している。
第二十五章 崩れ落ちる砂の城
湊は拘束した男を放置し、よろめく足で会場へと走った。
渚がいる音響室へ向かわなければならない。
警備員たちがドアを破ろうとしているはずだ。
彼女を守れるのは俺しかいない。
会場内は混沌としていた。
逃げ惑う参加者、怒号を飛ばす関係者、シャッターを切り続ける記者たち。
湊は壇上の大城と目が合った。
かつて沖縄の経済を牛耳り、絶対的な権力者として君臨した男。 今の彼の全身からは、ドス黒い「恐怖」と、濁った「絶望」、そし
て全てを失った者の「虚無」の色が滲み出していた。 「大城!」 湊が大声で呼ぶと、大城はビクリと震え、亡霊を見るような目で湊を見た。
「貴様……久高か……!」
「終わったんだ。あんたの作った砂の城は、波にさらわれた。もう、誰も騙せない」
大城はへなへなと演台に崩れ落ちた。
その時、音響室の方角から、ガラスが割れる音と、渚の悲鳴が聞こえた。
——渚!
湊は血の気が引くのを感じ、痛む足を引きずって走った。
第二十六章 碧き盾
音響室のドアが破られ、数人の警備員がなだれ込んでいた。
渚はマイクにしがみつき、必死に抵抗していたが、屈強な男たちに取り押さえられ、床に組み敷かれている。
「離して! データはもう送信されたわ!」
「黙れアマ!」
そこへ、一人の男が現れた。
逃げ場を失い、錯乱した大臣の郷田だ。
彼はSPのホルスターから拳銃を奪い取り、震える手で構えていた。
その目は血走り、正気を失っている。
「お前のせいだ……お前のせいで、私の政治生命は……!」
郷田は銃口を渚に向けた。
「死ね! この売国奴が!」
湊が廊下の角を曲がったのは、その瞬間だった。
距離は十メートル。
間に合わない。
——視える。
郷田から放たれる、赤黒い、破滅的な殺意の線。
一直線に渚の心臓へと伸びている。
考える時間はなかった。
身体が勝手に動いていた。
湊は全力で床を蹴り、渚の前へと身を投げ出した。
ダァン!
乾いた破裂音が、狭い廊下に反響する。
湊の胸に、焼けるような衝撃が走った。
熱い鉄杭を打ち込まれたような激痛。
世界がスローモーションになる。
渚の叫ぶ顔。
郷田がSPに取り押さえられる光景。
天井の蛍光灯の白さ。
湊はその場に崩れ落ちた。
床に広がる赤い液体。
自分の血だ。
渚が駆け寄り、湊の体を抱き起こす。
「久高さん! 嫌……死なないで! 目を開けて!」
彼女の涙が、湊の頬に落ちる。
視界が急速に暗くなっていく。
ノイズが消え、音が遠のく。
だが、不思議と痛みはなかった。
最後に視えたのは、渚の全身から溢れる、悲しくも美しい「碧色」だった。
ああ、綺麗だ……。
この色を守れたのなら、俺の人生も、まんざら捨てたもんじゃなかった。
湊の意識は、そこでプツリと途切れた。
第二十七章 浄化の雨
事件は、日本中を揺るがす大スキャンダルとなった。
現職大臣による発砲事件、県議会議員による大規模な補助金詐欺、そして数千体に及ぶ遺骨遺棄・死体損壊。
ネットで拡散された証拠映像は、誰にも消すことができなかった。 警察庁から特別捜査本部が派遣され、県警内部の汚職警官たちも次々と摘発された。
大城建設の工事は即時中止となり、第十九号壕は国の管理下で正式な発掘調査が行われることになった。
連日、ガマから運び出された無数の遺骨。
それらが白い布に包まれ、太陽の下へと運び出されるニュース映像を、沖縄の人々は、そして日本中の人々が涙ながらに見守った。
長い、長い沈黙が終わったのだ。
事件から三日後。沖縄には季節外れの長雨が降っていた。
それは、島の汚れを洗い流すような、優しく、静かな浄化の雨だった。
その日の午後。一機の政府専用機が那覇空港に滑り込んだ。
タラップを降りたのは、日本憲政史上初となる女性総理大臣、
九条沙月だった。
保守本流を自認し、「鉄の女」とも呼ばれる彼女の表情は、能面のように蒼白く、しかし瞳だけは凄絶な決意に燃えていた。
SPが「危険すぎる」と制止するのを振り切り、彼女は防弾車ではなく、一般車両で県庁前広場へと向かった。
広場に到着した総理を待っていたのは、怒号と罵声の嵐だった。ペットボトルが飛び交う中、九条総理は演壇に立った。
彼女は集まった数万の群衆に対し、深く、長く頭を下げた。
一分、二分……
永遠にも思える沈黙の後、彼女は顔を上げた。
マイクを通したその声は、震えていなかった。
「……私は、恥じています」
第一声は、謝罪ではなかった。
自己の良心への問いかけだった。
「日本国の総理として、そして一人の日本人として。私たちは『英霊に感謝を』
『国のために散った方々に尊崇の念を』と口にしてきました。
しかし、その実態はどうだったか。
彼らが眠る土の上で、経済という名のダンスを踊り、あろうことかその御遺骨を、邪魔者として暗闇に押し込めていたのです」
広場が静まり返る。
「先ほど、現地を見てまいりました。あの暗い壕の中で、名もなき箱に詰められ、選別されていた骨たち。あれは、沖縄の過去ではありません。
あれこそが、今の日本の『心』の姿です
。腐り、忘れ去られ、金に換えられた、私たちの精神の腐敗そのものです」
九条総理は、自身の胸を拳で叩いた。
「保守とは何か。
国を守るとは何か。
それは領土を守ることでも、経済を守ることでもない。
国のために命を捧げた方々の『帰る場所』を守ることです。
それすらできずに、何が美しい国ですか!」
それは、身内である保守層、そして自分自身をも斬りつける言葉だった。
「私は、靖国神社への参拝を続けてまいりました。
それは、国のために尊い命を捧げた方々に哀悼の誠を捧げ、恒久平和を誓うことは、国のリーダーとして当然の責務だと信じているからです」
総理は一度言葉を切り、広場を見渡した。
そして、一段と声を張り上げた。
「しかし! 世界の一部には、まだその真意が伝わらない現実があります。
なぜか。それは私たちが、一番大切な足元の行動を疎かにしていたからです」
どよめきが広がる。
総理は涙を堪えるように天を仰ぎ、そして断言した。
「魂の抜け殻となった遺骨を泥の中に放置し、産業廃棄物のように扱いながら、どうして『英霊に感謝している』などと世界に向けて胸を張れるでしょうか。
そんな欺瞞があるから、私たちの祈りは世界に届かないのです!」 その言葉は、集まった人々の心臓を鷲掴みにした。
「私は決断します。全戦没者の遺骨が、最後の一柱まで、この沖縄の、硫黄島の、南洋の土から太陽の下へ戻されるその日まで——国は予算の上限を撤廃し、全力を挙げて収集にあたります」
息を呑む音。
それは事実上の、国家の威信をかけたプロジェクトの宣言だった。
「外交問題だからではありません。
誰かに言われたからでもない。
私たちが、胸を張って靖国の鳥居をくぐり、その祈りを世界に正々堂々と理解してもらうためにこそ
——まず、還すべきものを還さなければならないのです!」
九条総理の目から、一筋の涙が流れた。
「家族のもとへ、故郷の土へ。
名簿に名前を戻す。
すべての御霊が安息を得た時、初めて日本は、過去の呪縛を解き放ち、真の平和国家として世界に敬意を持たれる国になると確信しています」
演説が終わった時、拍手は起きなかった。
代わりに、すすり泣く声が波紋のように広がっていった。
怒りが、共有された悲しみへと変わり、そして「国がようやく自分たちの痛みを見てくれた」という安堵へと変わっていく。
アメリカ大統領からのメッセージも読み上げられた。
『——かつて敵として戦った兵士たち、そして巻き込まれた市民の尊厳が守られることに、アメリカ合衆国は深い敬意を表する。
日本政府の決断を支持し、共に永遠の安らぎを誓いたい』
テレビの画面越しにその光景を見ていた渚は、静かに目を閉じた。
——届きましたよ、東恩納さん。
あなたが命を懸けて運んだ小さな手帳が、国という巨大な船の舵を、確かに「あるべき方向」へと切らせたんです。
第二十八章 白い病室
消毒液の匂い。
電子機器の規則的な電子音。
湊が目を覚ましたのは、事件から一週間後のことだった。
弾丸は心臓をわずかに逸れ、肺を貫通していたが、迅速な搬送と手術により、奇跡的に一命を取り留めたという。
重いまぶたを開けると、白い天井が見えた。
「……気がつきましたか」
ベッドの脇に、渚が座っていた。
少し痩せたようだが、その瞳は穏やかだった。
彼女はパイプ椅子に座ったまま、眠ってしまったようだ。
湊が身じろぎすると、彼女ははっと目を開けた。
「久高さん!」
「比嘉……さん」
声が掠れる。
喉が渇いている。
「喋らないで。まだ安静が必要なんです」
渚は泣きそうな顔で笑い、湊の手を握った。
温かい。生身の人間の温もりだ。
湊は、自分の「目」の変化に気づいた。
以前のような、頭を締め付けるようなノイズがない。
人々の情念が強制的に流れ込んでくるあの不快な感覚が、嘘のように消えていた。
見えるのは、ただの白い天井と、窓から差し込む陽光。
そして、渚の笑顔。
色は、もう見えなかった。
彼女の感情を表す「碧」も、不安の「紫」も。
——消えたのか。
生死の境を彷徨ったことで、脳の回路が正常に戻ったのか。あるいは、全ての因縁を清算し、「役目」を終えた湊から、祖母が力を回収していったのか。
どちらでもよかった。
目の前にいる彼女の心の色は、もう見えなくても分かる気がしたからだ。
握り返してくる手の強さが、すべてを語っていた。
第二十九章 凪の海
半年後。
沖縄の海は、穏やかな凪に包まれていた。
湊はタクシー運転手に復帰していた。
足に少し後遺症が残ったが、リハビリを経て、運転には支障がないレベルまで回復した。
この日、湊は非番を取り、具志頭の海岸に来ていた。
あの断崖の近くに、新しく小さな慰霊碑が建立されていた。
『鎮魂の碑 ここに眠るすべての御霊へ』
碑の裏には、今回身元が判明し、家族のもとへ帰った人々の名前が刻まれている。
その中には、東恩納ヒサが探していた家族の名前もあった。
渚が隣に立つ。
彼女はもうジャージ姿ではない。
白いワンピースが海風に揺れている。
彼女もまた、老人ホームでの職務に戻り、新たな施設長として再建に取り組んでいた。
「父の遺骨も、ようやく母のお墓に入れました」
渚が静かに言った。
「そうか。……よかったな」
「はい。父も、きっと安心していると思います」
二人は並んで海を見た。
かつては黒い恐怖の色を放っていた海が、今はただ、穏やかなコバルトブルーに輝いている。
「久高さん、色は……もう見えないんですか?」
「ああ。今はただの冴えない中年男だ。嘘をつかれても気づかないかもしれない」
湊が笑うと、渚もくすりと笑った。
「見えなくても、大丈夫です。私が言葉で伝えますから。嬉しいことも、悲しいことも」
渚は湊の手を取り、指を絡ませた。
「……これからの人生、あなたの隣で、同じ景色を見ていきたいです。色がついているかどうかなんて関係なく」
それは、湊が長い孤独の果てにたどり着いた、最も確かな「真実」だった。
第三十章 エピローグ 碧き未来
海風が二人の間を吹き抜ける。
湊は渚の手を握り返した。
その掌の温もりが、湊の冷え切っていた心の奥底まで満たしていく。
刑事としての過去、ユタの血筋への呪縛、孤独な逃避行。
すべてが波に洗われ、サラサラとした砂になっていくようだった。 目の前には、どこまでも広がる碧い海と、空。
そこにはもう、隠すべき嘘も、沈黙の闇もない。
あるのは、ただ眩しいほどの光だけだ。
「……帰ろう、渚」
湊が初めて名前で呼ぶと、渚は花が綻ぶように微笑んだ。
「はい、湊さん」
二人は寄り添い、ゆっくりと歩き出した。
その背中を、沖縄の太陽が優しく照らしていた。
碧き沈黙の壕は、いまや永遠の眠りにつき、ただ風だけが真実を語り継いでいくのだろう。
(完)
あとがき
本書『碧き沈黙の壕』を手に取っていただき、誠にありがとうございます。
この物語はフィクションですが、その根底にある「戦没者遺骨収集」の現実は、今なお続く沖縄の重い課題です。
沖縄戦から八十年以上が経過した今も、沖縄の土の中には、約二千八百柱(※推計)もの遺骨が眠ったままだと言われています。
これらは単なる数字ではありません。
一人ひとりに名前があり、家族があり、未来があったはずの「命」です。
遺骨収集を行うボランティア「ガマフヤー」の方々は、ガマ(自然壕)に入りって、活動を続けておられます。
観光地として整備された沖縄の輝きとは対照的に、ガマの中は完全な闇と静寂に包まれています。
ヘッドライトの光の先に、風化した生活用品や、火炎放射の跡が残る岩肌を見たとき、そこにある時間が「過去」ではなく、生々しい「現在」として迫ってくる様子。
そして、土の中から小さな骨片が見つかったとき、私たちは言葉を失い、ただ手を合わせることしかできません。
ボランティアさんの言葉です。
しかし、現実は過酷です。
開発工事によるガマの破壊、土砂としての埋め立て利用、そして身元判明の難しさ。
経済発展と開発の波の中で、声なき声はあまりにも小さく、かき消されそうになっています。
「骨が泣いている」
本作で描いた「遺骨の不正管理」や「意図的な隠蔽」は、あくまでミステリーとしての架空の設定です。
しかし、私たちが無関心でいること、忘却してしまうことは、ある意味で「二度目の死」を与えることにならないでしょうか。
平和とは、単に戦争がない状態を指すのではないと思います。 過去の痛みを直視し、失われた命に対して誠実であり続けること。それができて初めて、私たちは未来へと足を踏み出せるのではないでしょうか。
すべての戦没者の御霊が、一日も早く故郷へ、家族のもとへ帰れる日が来ることを、心より祈っています。
そして、この物語が、あなたの心の中に小さな「灯」をともすきっかけになれば、著者としてこれ以上の喜びはありません。
二〇二五年 著者 城間 蒼志




